自動車の名前

   植松眞人



 朝っぱらからデートだデートだ。うれしくも何ともない。付き合いだして三ヵ月もすりゃ、うれしさなんて消えていく。かといって、何の予定もない土曜日に、じっと部屋にいるのも嫌なので、それまでずっと無視し続けたケイからの電話に出てみたりする。ケイだって、携帯がつながらないってブーたれてたわけだから、俺が出るとうれしそうな声を返してくる。ああ、この声が俺を鬱陶しい気持ちにさせるんだよな。その上、翌日の約束までしてしまう。俺にしてみりゃ嫌々約束してるわけだから、断られたら断られたでいいんだろうけど、そうはいかない。ケイの方に用事があったりすると、俺は異様にしつこく、その用事の相手や約束の場所を問いただす。ああ、これはこれで鬱陶しい。もう、あわなくてもいいと思いながら、他の相手がいないからって、ケイを呼び出そうとして、時には焼き餅まで焼いている自分がどうしようもなく鬱陶しい。しかも、昨日のように、ケイがうれしそうな声を出して、ドライブしましょうよ、なんて提案されるとさらに鬱陶しい。部屋を出たくない。ケイが部屋にやってきて、メシ作ってもらって、ちょっとエッチなことすりゃ、俺はもうそれで充分。夜には帰ってもらって、一人でゲームでもしてる方が、俺は好きなんだ。ツレの中には、面と向かって女にそれを言っちゃうやつもいるんだけど、俺には無理だ。普段はモラルの欠片もないようなことを考えているくせに、面と向かうとついつい情にほだされたり、自分をよく見せようとして、適当な相づちを打ち、適当な約束をしてしまう。
 いまどき、こんなボロアパートがあるのかっていうくらい古いアパートに俺は住んでいるのだが、このアパートには駐車場もない。駐車場はここから歩いて十分のところにある砂利が敷いてある空き地だ。どうみたって空き地なのに、すぐ近くにあるちゃんと舗装した駐車場と同じ三万二千円もしやがる。契約の時に、駐車場のオーナーに、もう少し下がりませんか、って聞いたら、オーナーのじいさんは、嫌なら他に待ってる人がいるから、なんて言いやがる。三台ある駐車スペースの内、埋まっているのは二台だけ。待ってる人がいるなんて言いながら、ずっと一台分空いてるのはどういうわけだ。といっても、他の駐車場はどこもいっぱいなので、ここで我慢するしかない。オーナーのじいさんは駐車場の隣に住んでいて、自分の土地の一部分を駐車場にして、日銭を稼いでいるって感じだ。空いている一台分のスペースは、じいさんの孫たちのお遊びスペースになっていて、危ないったらない。一度、幼稚園児くらいの女の子が俺のハッチバックの陰に隠れていて、危うくひきかけた。じいさんに何とかしてくれ、と言っても、わかった、としか言わず、結局元の木阿弥だ。
 ケイとの待ち合わせは朝の十時。なんで休日だっていうのに朝っぱらからデートの約束なんてしたんだよ、俺は。馬鹿だ馬鹿だ。ああ、寝ていたい。エアコンがんがんに効かせてパンツいっちょで昼過ぎまで寝てたいよ。ま、自分でしちまった約束だけどね。いつでも俺はそうだ。一度約束してからが腰が重い。約束した自分を呪ってやろうかと思うほど、他人事のように思えてしまう。特に、こんなに暑い日は、外に出ていることだけで苛々してしまう。
 駐車場から砂利を踏む音が聞こえてくる。きっと、オーナーの孫どもが駐車場で遊んでいるに違いない。一度、俺のハッチバックのボンネットの上に砂利を置いて遊んでいたのを見つけて、三歳くらいの男の子の方の頭を緩くゲンコツしてやったことがある。あの時、ふと隣のオーナーのじいさんの家を見上げると、じいさん、窓からこっち見てたんだよな。危ない危ない。こんな駐車場でも出ていってくれって言われたら他に行くとこないからな。
 駐車場の入り口に立った時、まず、男の子が飛び出してきた。それについで女の子。今日は何の遊びをしてたのか知らないけど、いつもより逃げ足が早い。一応、駐車場では遊んではいけないと言われているらしく、誰かがやってくると、奴らは逃げていく。それにしても、今日は逃げ足が早かったな、と思っていたのだが、自分の車をみて、唖然とした。なんだこりゃ。俺の赤いハッチバックの助手席側のドアに、びっくりするくらい大きな字で「アケミ」と書いてあった。へたくそな字だ。あいつらに決まっている。しばらく、そのへたくそな字を見ながら、俺は呆然とたたずんでいた。次に、腸が煮えくりかえってきたのだが、ガキどもはもう逃げていない。オーナーのじいさんに文句を言おうと決めた。決めてはみたが、今から隣の家に行って、ことの次第を説明して、事後処理をどうするか話し合っていたら、ケイとの約束には絶対に遅れてしまう。約束するまではいい加減な俺だが、いったんした約束を違えるのは大嫌いだ。しかも、ケイは俺と待ち合わせをするときは、携帯電話の電源を絶対に切っている。もしかしたら、約束の場所にこないのではないか。もしそうなったら、携帯電話で事情を説明されて約束を反故にされるのではないか、と考えてしまうのだそうだ。一度もそんなことはしたことがないのに、ケイは初めてあったときから、ずっとそう言って、携帯電話の電源を切っていた。今だって、絶対に切っている。とにかく、今は車の落書きを気にせずケイとの約束を果たし、明日にでも、オーナーのじいさんと話せばいいだろう。孫の名前が書いてあり、これだけ下手な字なら、シラを切ることもできないはずだ。
 そう思うと少し気持ちが落ち着いてきて、俺はもう一度、「アケミ」と書かれた落書きを見た。おそらく、その辺に落ちていた石で書いたのだろう。細いヨタヨタとした線が、ドア一面に広がっている。赤い塗装が剥げて、白い粉を吹きながら「アケミ」と書いてあるのは、なんとも間抜けで、これで街を走るのかと思うと我ながら恥ずかしくなる。しかも、今日は若いカップルが山ほど集まる横浜だ。指さされて笑われても、今日は何も言い返すことができずに、うっすら苦笑いをするしかないだろう。
 アケミって誰よ、がケイの最初の一声だ。そりゃそうだよ。久しぶりにデートだって張り切って、俺の迎えを待ってたわけだからな。それが、やってきた車には「アケミ」って名前が書かれてる。しかも、思いっきり下手くそな字で。俺が事情を説明すると、ケイは、せっかくのデートなのにカッコ悪いわね、と笑った。ここがケイのいいとこなんだよな。カッコ悪いと言いながら、嫌な顔をするんじゃなくて、笑ってしまう。俺は思うんだけど、ケイってホントに育ちが良いって言うか、品のある奴なんだよ。品があるんだけど、なんていうか、いまいち、ガツンとこない。物足りないって言うんだろうか、一緒にいると、そんなに俺に頼り切っていていいのか、なんて説教したくなる奴なんだよ。
 案の定、ちょっと信号待ちをしてると、周りの車に乗ってる奴らが、俺の車を指さして笑ってる。助手席側のドアに落書きがあるから、俺がそいつらを見るときには、間にケイを挟んでる感じになるんだよな。隣の車の奴らが笑ってると、ケイも一緒になって笑ってるから、笑うんじゃねえよ、なんて怒鳴り返すこともできずに、知らんぷりを決め込むしかなくなる。こんな、辛いドライブは初めてだ。
 目的地は中華ランチのうまい店なんだけど、横浜って言っても、中華街とかそういうところじゃない。かなり町はずれの場所にあって知らない人が見たら、ただの大衆食堂じゃないかと思うはずだ。その通り、中華料理の専門店ではなく、オムライスがあったり、ミートスパゲッティがあったりする、なんでもありのまさに大衆食堂だ。そこの中華ランチだけがやたらとうまい。特に肉団子が絶品だ。表面がカリカリとしていて、中には肉汁がたっぷりと入っている。妙なあんかけにはなっていなくて、純粋に肉団子だけを楽しめる肉団子なのだ。俺はこの肉団子を食べるためだけに、何度この店に通っただろう。
 初めてこの店に俺を連れてきたのは、前の会社の先輩だ。二人でこのあたりを営業車で走っている時に、うまい肉団子食べるか、と言って、この店に連れてこられた。汚い店だなあ、と俺は思ったが、肉団子のうまさは本物だった。これ以上の肉団子を俺は食べたことがない。俺はその先輩には内緒で、一週間連続でこの店に通い詰めた。毎日食っても、飽きることがなく、通えば通うほど、うまさが身にしみてくる。食べ物を食べて、これほどはまってしまうのは、初めてのことだったので、俺は正直、自分がそんな風になることに驚いてしまった。
 ケイをこの店に連れてきたのは最初のデートの時だった。とにかく、自分が好きになった子に、うまい肉団子を食わしてやりたくて、仕方がなかった。ケイもそのうまさに驚いたが、さすがに夜景のきれいなレストランにも惹かれるようで、連ちゃんというわけにはいかなかった。
 久しぶりに店にきて、二人で中華ランチを食べた。肉団子がなかった。えっ、と俺は小さく叫んでしまった。肉団子がなくて、どうして中華ランチなんだよ、と声に出して叫んでしまいそうだった。だけど、どこをどう探しても肉団子は見つからない。ケイを見ると、なんの違和感もなく中華ランチを食べ始めている。食べられるのか。お前はこの中華ランチを中華ランチとして認めるのか。少なくとも、この店の中華ランチとして認めるというのか。不思議なことに、俺の中の価値観が崩れた。中華ランチに肉団子がないというだけではなかった。肉団子のない中華ランチを食べているケイが許せなかった。一緒になって、肉団子の欠落を嘆き悲しみ、なんなら、店に抗議するくらいの思い入れを持っていて欲しかった。俺はそのくらいのつもりで、いつもこの店に来ていたのだ。
 ケイとはやっぱり終わりなんだろうな、と俺は肉団子で思った。思ったんだから仕方がない。何度も肉団子くらいのことで、女との別れを考えるなんてどうかしている、という逡巡があったのだった。それでも、やっぱり、肉団子のない中華ランチを平然と食べられるケイとは分かれなければならないんだろうな、と俺は考えた。決意した。
 呆然としたまま、俺は中華ランチに手をつけることなく店を後にした。ケイと別れようという決意よりも、あの肉団子はこれからも食べられないのだろうか、それとも、今日は何かの手違いで肉団子がなかったのだろうか、ということばかりを考えていた。だから、ケイが、アケミちゃんて、どんな子なの、と聞いてきた時にも、とっさに何のことだかわからなかったのだ。それでも、ケイの視線の先に、俺のハッチバックがあり、その助手席にある落書きを見ると、意味はすぐにわかった。可愛いって言えば可愛いけど、まだ四、五歳だからな、と俺はいい加減に答えた。自分の車だと思ったのかしら、とケイは返した。俺がよくわからない、という顔をしていると、ケイは続けた。
 ほら、子供って何にでも自分の名前を書いちゃうじゃない。私もそうだったの。自分のものにはなんでも名前を書いちゃって。いちど、大好きだったお父さんの鞄にまで、自分の名前を書いちゃって、すごく叱られちゃったのよ。もしかしたら、アケミちゃんは自分の家の隣にある、この赤い車が大好きだったのかもしれないわね。いつも、そばで遊んでいる間に、だんだん自分の車だと思うようになったのかもしれないって、思ったのよ。
 俺は、もう一度、助手席側のドアにある落書きを見た。妙な言い方かもしれないが、そこにある「アケミ」という文字に、俺は悪意を感じなかった。落書きしてやろうという乱雑さよりも、ケイが言うとおり、自分のものに大切に名前を書いた、という気がした。もちろん、字は下手なのだが、上手い下手を越えて、この車を愛おしむような気持ちが伝わってくるような気がした。そういえば以前、この車のフロントに小さな造花が飾られていたことがあった。俺はただいたずらだと思って砂利の上に、その造花を捨てたのだが、もしかしたら、あれもアケミちゃんの気持ちの表れだったのかもしれない。と今は思う。
 俺たちは再び自分たちのアパートを目指して車を走らせた。おかしなものだ。俺は途中何度も、アケミちゃんから車を借りて走っているような錯覚に捕らわれたのだった。信号待ちで隣に止まった車が、こちらを見るのも、まるでアケミちゃんのことをみんなが知っていて、アケミちゃんによろしくな、と合図を送っているように思えてきた。もちろん、ずっとそう思っているわけではないのだが、ふと、そんな気持ちになっている自分を感じてあわてて、アクセルをふかしたりした。
 ケイは中華ランチ以来、ずっと黙っている。久しぶりのデートで、横浜まで来て、昼飯を食ったら、いきなり帰り道を急いでいる俺に怒っているのだろうか。時々、表情を盗み見しようとするのだが、窓の外を見ているので、表情まではわからない。俺が、コーヒーでも飲んでいこうかと言うと、小さく頷いた。
 まるでファミリーレストランかと思うほど殺風景な作りの、それでも「コーヒー専門店」という看板の出ていた喫茶店に入った。内装もまるでファミレスで、もしかしたら、つぶれたファミレスを買い取って、オープンさせた喫茶店なのかと俺は思った。それなのに、コーヒーは本当にうまくて、そのギャップが俺には哀しかった。
 喫茶店に入ってからもケイはあまり話さなかった。もしかしたら、肉団子のない中華ランチを俺が食べなかったことが、なにか心配させているのかもしれないと、さっき、サンドイッチを頼んで食べてみたが、さっぱり効果がなく、ケイは相変わらず無口だった。そんなケイがなんとなく切なくて、俺は何か話しかけなきゃと思ったとき、ケイの方から口を開いた。
 ねえ、別れようか、とケイ。え?と俺。だって、一緒にてもあんまり楽しくないんだもん、とケイ。
 俺は驚いた。ぶったまげた。俺の方から別れ話を切り出したいくらいの気持ちだったからだ。しかも、さらに驚いたのは、別れようかと言われた途端に、どうして? なんで別れるとか言うんだよ、いいじゃない、今のままで、俺なんか悪いことした、などと言い続けていることだ。
 おかしい。肉団子のない中華ランチを平気で食べるような女とは一緒にはいられないって、さっき決意したばかりじゃないか。あの決意は何だったんだ。頭の中にもう一人いる俺はそう言っているのだが、俺の口は勝手に別れないことをケイに懇願している。ああ、なんという人体の不思議。
 結局、俺はそれから一時間以上、ケイを説得し続けて、これからもっとケイと一緒にいる時間を作るから、とかなんとか言って話を納めた。話が収まると、ケイはトイレに立った。俺はため息を漏らした。あんなに、だらだらとした関係だったのに、どうして自分から必死になって説得して、別れることを阻止したんだろう。寂しいのか。俺は寂しいのか。それとも、本当は心の底からケイを愛しているのか。どうも、そうとは思えなかった。突き詰めていけば、ケイのことを好きなんだろうが、ケイを幸せにしてやりたい、という献身的な気持ちは俺にはなかった。ケイと一緒に幸せになっている自分も想像することができなかった。たぶん俺は、ケイが別れようと切り出した理由が納得できなかったんだと思う。一緒にいても楽しくない。そういう理由で別れる恋人たちは俺の周りにもたくさんいる。けれど、俺はそういう理由で別れるなら、最初から付き合うなよ、と思い続けていた。だって、男と女が付き合ったからって、楽しくて楽しくて仕方がない期間なんて、本当に短いはずだし、楽しくて仕方がない時期を過ぎてからが、本当の恋人になるようなきがしていたからだ。だからって、俺とケイが、その本当の恋人同士になれるかどうかは自信がない。自信がないが、そんな理由で別れるのはどうも腑に落ちなかった、ということなのだろう。よく考えると、俺とケイは二人で何かをしたことがない。お互いのために何かをしたことはあるが、二人で何かをしたことがないのだ。ケイが作った料理を食べる。俺がケイを旅行に連れて行く。ケイがくれたプレゼントを喜ぶ。俺がケイに指輪をはめてやる。互いに何かをもらったり、あげたりしているだけの関係だったのかもしれない。昔やっていたテニスを今でもやっていれば、二人でテニスコートに立ち、二人でゲームを楽しむことができたかもしれないが、今はもうテニスをする気持ちになれない。だとすると、二人で何かをするとなると、セックス以外になにもなかった。そんなことを考えていると、なんだか自分たちがとても寂しくて侘びしいカップルのように思えて、俺はなんだか泣きそうになった。
 ケイがトイレから戻ってくると、俺は立ち上がり、行こうかと促した。
 再び、車で走り出してからも、ケイは無口だった。しかし、今のケイは、さっきのケイとは違い、本当に疲れているようだった。さすがに、うまく収まったと言っても自分から別れ話を切り出してしまったのだから、疲れるのも当然だろう。寝てしまいそうなケイが、ちゃんと眠れるように、俺は丁寧に丁寧に運転した。
 渋滞に巻き込まれている間、ケイはずっと眠っていた。その間、俺は窓を開けて煙草を吸いながら、ケイとのことを考え続けた。ケイと俺はこれからどう付き合っていけば良いんだろうか。二人の関係は、もっと良いものになっていくのだろうか。それとも、駄目になっていくのだろうか。たぶんこのままだと駄目になる。と俺は確信していた。確信はしていたが、どうすればいいのかはわからなかった。唯一、あのファミレスのような喫茶店でふと浮かんだ、一緒に何かをする、という考えがずっと頭にあった。
 俺は高校生の頃まで、ずっとテニスをしていた。テニスのゲームをしている間、俺はコートの中にたった一人だという気持ちに支配されていたような気がする。友達がいくら応援に来てくれても、ゲームをしている間は何も聞こえなかった。声そのものは聞こえているのだが、単なる雑音でしかなく、他の奴が言うような気持ちの後押しになんてなることはなかった。いつも、ボールを手に取り、サーブを打つ前にそれを掌で転がす癖があった。短い毛で覆われたボールが掌を転がす感覚の方が、俺の気持ちを押してくれた。
 俺はテニスボールを掌で転がすかのように、一緒に何かする、という考えを頭の中で転がした。その考えが、俺を後押ししてくれるかもしれない。もしかしたら、俺とケイを後押ししてくれるかもしれないと感じたのだった。
 一緒に何かする。一緒に何かする。ケイと一緒に何かする。ケイと一緒にセックス以外の何かをする。何かをする。一緒に何かをする。
 その時ふと、一緒に何かしよう、という声が聞こえた気がした。それはたぶん、アケミちゃんの声だ。一緒に何かして遊ぼうよ、とアケミちゃんが言った。聞こえたような気がしただけだとわかってはいたが、俺はなんとなく、ケイと一緒にアケミちゃんの顔を見なきゃ、と思ってしまった。もしかしたら、今はこの車の所有者になってしまったアケミちゃんの顔をケイと一緒に見て、何か話をしようと思ってしまったのだ。思ってしまったものは仕方がない。
 俺たちの車が駐車場へ戻ったのは、夕方、あたりがかなり薄暗くなってからだった。住宅街の真ん中にある駐車場には、いろんな家から、いろんな晩飯の匂いが流れ込んできて漂っていた。俺は車を所定の位置に止め、エンジンを切った。アケミちゃんがいる隣の家の窓を俺が見上げると、そこにアケミちゃんの姿があった。手でも振ってみようかな、と俺が思ったその時、先にケイが大きく手を振っていた。アケミちゃんはケイに手を振り返して笑っていた。先を越された俺は、車を降りて、手を振りあっているアケミちゃんとケイを眺めていた。ケイが何かアケミちゃんに言い、アケミちゃんがそれに答えた。しばらくすると、アケミちゃんがサンダルを引っかけて、あわててこっちに走ってきた。ケイはいつも、子供は苦手だ、と言っているのに、アケミちゃんには満面の笑みを浮かべている。
 走ってきたアケミちゃんをケイは両手を広げて受け止めた。そして、アケミちゃんの頭を撫でながらこういったのだった。
「車、ありがとね」
 アケミちゃんは笑顔で頷いて「うん、いつでも貸してあげるよ」と答えた。
 俺はそんな二人を見ていて、またアケミちゃんに車を借りて、ケイとドライブしようと思った。そして、いつか、アケミちゃんも一緒にこの車に乗せてあげて、ケイと三人でドライブしたいと思った。もし、オーナーのじいさんが、わしも一緒にと言ったら、ちょっと迷うだろうが、それはそれで良いとさえ思った。
 アケミちゃんはケイの耳元で何か囁き、ケイが笑い、そして、アケミちゃんは家の中に戻っていった。
 しばらく、アケミちゃんが戻って行った家の方を見ていたケイは、俺を振り返った。俺はケイに手を振ってみた。ケイも笑いながら俺に手を振った。近づいてきたケイに俺は聞いた。さっき、アケミちゃん、なんて言ったんだよって。
「アケミの車に、お姉ちゃんの名前も書いて良いよって」
 俺の名前はいつ書かせてくれるんだよ、と俺は笑った。