神楽坂奇譚

          植松眞人

   鬼の形相

 必要以上に穏和な顔をした初老の男が目の前に立ちはだかった。
「恐い話したろか」と声をかける初老の男を無視することができず、高橋は男の顔を見つめ返した。
「恐い話したろかって言うてんねん」
 初老の男は穏和な顔にさらに穏和な表情を重ねながら、高橋の返事を待たずに話し始めた。
「とにかく、恐いんや。その男が現れると、みんなが凍り付いてしまうんや。鬼みたいな形相でな、優しい声出して、えげつないことしよる。どんなけ、えげつないことするか、知りたいやろ。けど、それは言えんのや。そこまでは言えんことになってるんや、えらい悪いなあ」
 そこまで話すと、初老の男は、少し顔を強張らせた。
「あ…。あそこで、見てるわ。こっちを見てるわ。兄ちゃん、振り返ってみ。ほら、あの男がこっち見てるわ…」
 初老の男は、高橋の背後にある三階建ての家を見ながら、怯え始めた。高橋は振り返り、男の視線の先を探す。三階建ての古い家は、昔ながらの瓦屋根で、三階部分は屋根裏部屋のようになっているらしく、他の階に比べて、天井までの高さが不自然に狭く見えた。それぞれの階には、一つずつ窓があり、三階部分のには小さな窓があった。よく見ると、三階の小さな窓からこちらを見ている顔があった。初老の男が言うように、鬼みたいな形相には見えなかった。見えなかったが、鬼のような形相になることが瞬時にして予測される顔ではあった。三階の窓が小さいせいか、男の顔は窓ガラスいっぱいにこちらを見ていた。高橋は、初老の男を捜したが、すでに初老の男の姿はなかった。
 高橋は、窓からこちらを見ている男、すぐにでも鬼の形相をしそうな男が、すでにこの世の者ではないと感じていた。理由があったわけではないが、男の視線が、高橋にそのことを直感させた。生きている者であれば、この世のあれやこれやの出来事に、知らず知らず魂が動かされてしまう。窓からこちらを見ている男には、そんな魂の滲みが感じられなかった。ただ、高橋をじっと見つめ、何かを待ち望んでいることだけが感じられた。男が何を待ち望んでいるのかは分からなかったが、高橋は迂闊には逃げられないと悟っていた。もしも、高橋が踵を返せば、男は鬼となり、高橋を追ってくるだろう。そうなれば、もはや高橋に勝ち目はなかった。決して腕力に自信があるわけでも、知力に長けているわけでもない高橋が、鬼と争って勝てるはずはなかった。高橋が生き延びる術が残されているとすれば、鬼と争わないことしかない。高橋が動かなければ、鬼が動くことはない。鬼とはそういうものだと、なぜか高橋は知っていた。だから、高橋はそこから逃げることも、また、鬼に近づくこともできずに、立ちつくすのだった。足早に逃げ去った初老の男は、いつか戻ってくるだろう。事の顛末を初老の男は遠くでずっと考えあぐねているに違いない。そして、最後には誘惑に駆られて、再びここへやってくる。その時、どうすれば、初老の男に、鬼と目を合わしてやることができるのか。高橋はそれだけを考えて、そこに立ちつくしていた。  

  神楽坂を転がる

 神楽坂を上がり切り、小さな路地を右に折れると、古い木造の三階家がある。不思議な造りの家で、二階建ての家の屋根にちょこんと小さな箱が置かれているように見えた。私のマンションはその少し先にあるので、毎日、この古い三階家の前を通ることになる。いくら仕事が深夜に及んでも、この三階家の三階の部屋には、灯りが絶えたことがなかった。いつでも、何時でも裸電球を点したような薄赤い灯りが見えていた。さすがに昼間は中の灯りが窓に映ることはないが、恐らく、陽光が燦々と降り注いでいる間も、あの灯りは点いているはずだと私はにらんでいた。
 ある日、いつものように私は神楽坂を少し息を荒くしながら上がり、いつものように路地を右に入った。まだ、夜も宵の口で、周りの飲食店の灯りも煌々と点っていた。道行く人々も何食わぬ顔で笑いながら、話しながら歩いているのだが、私は決定的な違和感を感じていたのだった。あの三階屋の三階の部屋に灯りが点っていないのだ。一階にも二階にも灯りが点っているのに、三階だけが周囲の喧噪から考えても不自然なほどに闇に溶けている。どう見ても、私にはその家が二階家にしか見えなかったのである。しかも、三階が見えないことで、その家から受ける不思議な印象は払拭され、ごく普通の二階建て家屋に見えるのである。まるで、はなからこの家は二階建てであったような印象さえ受けてしまう。
 私は茫然自失としながらも、その家に近づき、無意識のうちに、一階部分の玄関脇にあるチャイムを押そうとしていた。すると、表情のない老人が、老人とは思えないような強い力で私の肩を掴んだ。 「あんたは、話すのか」と老人は私に言う。 「何を話すというんです。ただ、この家は三階建てだったんじゃないかと、私は心得ていたのですが」
 私が老人の力に驚きながら言うと、老人は表情のない顔に、無理矢理作ったような小さな口を再び開いて、何か話そうとしている。しかし、声にはならない。だが、言うな、という強い思いだけが、肩を掴む老人の手から伝わってくるのだった。 「いや、そんなつもりはないんですが。でも、不思議だとは思いませんか。だって…」
 私は肌を粟立たせながら、老人に事情を説明しようとした。すると、老人は小さな声で私に言った。 「あんたが見ていた三階の部屋のことだろう。あの三階があったことを、この家の者は、誰も知らないんだよ…」
 そう言い終わらない内に、老人はかき消え、光の霧が残った。光の霧は小さな雲のように漂っていたが、やがてさらに小さくまとまると、光の玉となって、神楽坂へ向かった。私は咄嗟に後を追い、光の玉を追いかけた。
 路地を走り、神楽坂へ出ると、光の玉は恐ろしいほどの速さで、神楽坂を転がるように流れていく。その時、私は、光の玉の色が、あの家の三階の窓に点っていた、あの灯りと同じように薄赤いことに気が付いた。

 

   鬼のかんざし

 霧が立ちこめる坂道の途中で、呼び止める声を聞いたような気がした。それは、かすかではあるが、妙にはっきりとした女の声であった。高橋はその声の方を見た。小さな路地があるのだが、薄暗く人の姿は見えなかった。高橋は立ち止まり、躊躇しながら一歩、路地へと足を踏み入れた。するとまた、かすかな女の声がした。その声は、拾ってください、拾ってください、と繰り返していた。困った様子の声色なので、高橋は何か大切なものでも落としたのだろうともう一歩、二歩と路地へ踏みいった。しかし、路地には街灯もなく、夕暮れ時だというのに真っ暗で、近くにある居酒屋の厨房から漏れるわずかな光だけが頼りとなった。声の主は厨房の窓のすぐ下にいるらしく、酔客のざわめきに乗せるように、拾ってください、という声が高橋に届いた。何を落としたんですか、と高橋は尋ねてみたのだが、その問いに答えはなかった。ただただ、拾ってください、拾ってください、という声だけが聞こえる。高橋は何を探せばいいのかもわからないまま、足下を注意深く見渡した、すると、厨房の窓の下に、うっすらと光が差しており、その光の中に着物姿の女の足が見えた。紺色の絣の着物だということはわかったが、高橋のいる場所からは腰までは見えず、女がどんな顔をしているのかはわからなかった。ただ、声色から若い女には違いないと高橋は思ったが、あまり不躾に顔を探るのもどうかと思われ、高橋は黙って、女の落とし物を捜し続けた。その間も、女は一緒に探そうとはせず、拾ってください、拾ってください、と繰り返すだけだった。
 最初のうちは、高橋が探しているのを案じている気配だったが、次第に、拾ってください、という声がいらだちを含み始めた。他人のものを探してやっているのに、手伝いもせず苛立たれてはかなわない。高橋は手を止めると、女の足が見えている方に、いったいぜんたい何を落としたというのですか、と聞いてみた。しかし、女は、苛立った声で、拾ってください、拾ってください、と繰り返すだけだった。
 もしかすると、この女は私をからかっているのかも知れない、と思い、高橋は立ち上がると、その場を去ろうとした。すると、女は、拾ってください、拾わないと駄目です、と言うのだった。拾ってくださいならわかるが、拾わないと駄目だとはどういうことなのだろうか。高橋は立ち止まり、女を振り返った。すると、さっきまで、足下しか見えていなかった女をしっかりと見ることができた。おや、さきほどと光の加減は変わっていないのに、どうしてはっきりと見えるようになったのだろう、と高橋は不思議に思っていたのだが、すぐに不思議は解けた。光の加減が変わったのではなく、女そのものが、うっすらと光っていたのである。体の中から蛍光灯を点したように、女はわずかに光っていた。色白の美しい女だった。紺色の着物がよく似合い、つま先をきちんとそろえて立っていた。しかし、この世のものでないことは一目瞭然だった。高橋は一時も早く、女から離れなくてはと思い、その場を去ろうとしたのだが、金縛りにあったように動けずにいた。そして、女はゆっくり歩き始め、高橋のすぐ近くにまできた。高橋がひんやりとしたものを感じたそのとき、女はこう言うのだった、拾ってください、拾わないと、けりがつきませんよ、と。突然の言葉に、高橋は驚いて女の顔を見たのだが、それはすでに先ほどまでの美しい女ではなく、般若のように口の裂けた餓鬼であった。餓鬼は、拾ってください、と言いながら、高橋の足下を指さした。ほら、あそこにあるじゃありませんか、と指さす先には、臙脂色の古いかんざしがあった。あのかんざしが、あなたの死なんですから、ちゃんとあなたに拾っていただかないと困ります。餓鬼はそう言って、高橋の腕をぎゅっと握ると、無理矢理にかんざしを拾わせようとした。高橋はこのかんざしを拾ってしまっては自分が死ぬのだと言うことを悟り、必死で抗った。ごつごつとした餓鬼の手は、まるで流木のような堅さで高橋の腕に食い込んだ。小さな体のどこにそんな力あるのか、餓鬼は高橋の背中から覆い被さり、少しずつ高橋の腕をかんざしに近づけていく。拾ってください、拾ってください、拾ってください。餓鬼の声を聞きながら、高橋の手はついにかんざしにふれた。かんざしはほのかに温かく、なにもかもを諦めさせるに充分な至福へと高橋を導くのだった。ああ、これで俺は死んでしまうのだ、と高橋が思った瞬間、餓鬼は涙声で、ありがとう、ありがとう、と二度言い、高橋を残して消えた。

 

   悲しき馬鹿

 まだ成人に達するまでには数年はあろうかと思われる若い男が三人。子供らしからぬ荒々しさと、大人らしからぬ無邪気さを撒き散らしながら坂道をあがっていく。
 幾分真面目そうに見える二人と、その二人を無謀な力で押さえつけていると見受けられる一人が、坂道が思いのほか急であることに文句を付けながら歩いている。
 高橋は煙草屋の軒先で煙草を買い、ついでのように一本くゆらせながら、若い男たちを見ていた。明らかに二人は一人と早く別れたがっていた。やがて、一つの横道に差し掛かると、二人が一人に言葉を告げた。その言葉は一人に有無を言わさぬ言葉だったらしく、一人は二人に小さく手を振りながら、明日もな、などと悔しさにまみれた顔色で別れを告げている。だが、二人は先ほどよりも少し足早になり、一人の言葉が聞こえぬかのような素振りで歩いていってしまった。
 生真面目と無邪気は、去っていった二人に色濃く反映された印象であったようで、残された一人には子供じみてはいるが充分に用心しなければならない凶暴さだけがほとばしっていた。高橋は三人の若い男の所作を煙草の肴にしていたわけだが、残された一人から目が離せなくなった。その男はさっきの二人とはもしかしたら何の面識もなく、ただつきまとっていただけなのではないかと思えてきたからだ。
 そんなことを考えながらも、高橋はまだ、少しゆとりのある心持ちで、これから会う女のことなどを思っていたりしたのだが、ふと邪悪な臭いが鼻を突き、持っていた煙草を取り落とした。我に返り、煙草を拾おうとしたのだが、高橋の手が伸びるより先に、真っ黒な革靴がその煙草を踏み消した。顔を上げると、先ほどの一人残された若い男だった。身なりこそ、先ほどと同じだが、顔つきは全く違っていた。先ほどは成人までには数年あろうかと思われた男だが、今では高橋と同じ壮年期を迎えた男の顔になっている。しかし、間違いなく先ほどの男ではあった。高橋の肌はざわざわと泡だった。自分一人だけがまだ厳しい残暑の中で薄い半透明な膜に包まれたように感じた。 「男か女かもわかんだろう」
 男は高橋の恐れを見透かしているかのように、そう囁いた。 「人かどうかもわかんしなあ」
 と、次に男が耳打ちした瞬間、高橋はこの男がこの世のものではないと確信した。
 いつの間にか男は身なりも白の開襟シャツから夏物のスーツに替わり、どことなく物腰も落ち着いた風になり、おそらく道行く人たちから見れば、高橋と男は仕事仲間にしか見えない出で立ちになっていた。 「さあ、行こうか」と男はつぶやくのだが、それはきっとこの世ではない場所だと高橋は確信した。
 それでも、高橋は抗おうとはしなかった。抗うことが無駄だと、高橋は知っていた。抗ったところで、この男は人知れず私をどこかに連れて行き、どうにかするに決まっている。 「お前は俺を死に神か何かだと思っているだろう」
 高橋は答えなかった。 「それなら、さっきの子供たちはどうやって、この俺から離れられたのか知りたいだろう」
 男はにやりと笑うと高橋の目を覗き込んだ。確かに、あの二人の若い男はどうやって、この男から離れることができたのだろうか。 「あいつらはな、俺に般若心経をとなえやがったんだ」
 男はそう言いながら笑った。穏やかで優しささえ感じる笑顔であった。 「お前も唱えたきゃ唱えりゃいいさ」
 優しい笑顔を保ったままそう言う男が恐ろしく、高橋は返事もせずに立ちすくんだ。 「ほら、俺はお前を連れて行こうとしているぞ。嫌ならあいつらのように般若心経を唱えるんだな」
 高橋は男の言葉に背中を押されるように小さな声で般若心経を唱えた。男はそれを聞きながら、次第に笑顔を納めてゆき、とても悲しそうな顔をして、そしてまたにやりと笑った。 「俺には般若心経なんて関係ないんだ。俺が死に神なら退散しているところかもしれんがな」
 高橋は般若心経を唱えるのをやめ、男を見つめた。 「何しろ、俺は物の怪だ。ただな、あいつらがあんまり馬鹿なんでこっちから愛想を尽かしただけなんだよ」
 そう言うが速いが、男は高橋を小脇に抱えると神楽坂を駆け上がり、毘沙門天の裏手へ消えた。
 今でも高橋の悔しがる啜り泣きと、般若心経を読む声が毘沙門天の裏手から聞こえるという。