新世界交響曲

植松眞人・作

 オレは遠くへ行きたい、と考えていた。誰にも邪魔されることなく、退屈なくらいの自由がある場所へ行きたいと考えていた。こんな思春期の子供のようなことを考えていたからといって、あの頃のオレが思春期の子供だったわけじゃない。あの頃、オレはもう三十に手が届いていたし、子供もいた。かといって、オレは家庭を煩わしく思っていたわけじゃない。子供は毎日風呂に入れてやっていたし、女房とも同じ布団で寝ていた。毎日セックスをしていたわけじゃないが、確かに愛していた。しかしだ、オレは遠くに行こうと考えた。

 オレはどうも周期的に遠くに行きたくなるらしい。この前の時は、確か三年前だ。その時はまだ二十代だったから、オレは何も考えずに旅に出た。会社の中でも責任のある仕事はしていなかったし、何よりもオレは我慢することが嫌いだ。我慢を強いられるくらいなら、仕事を辞めてしまっただろう。

 そんなふうにオレは社会的な帰属意識には欠けている。しかし、オレが遠くに行きたいと考えていたのには、原因があった。

 オレは映画を作っていた。映画といってもビデオで制作されるせこいC級作品だ。毎回必ず女の裸が全体の八割をしめるビデオ作品。つまり、アダルトビデオだ。別に自分の仕事を卑下するつもりはないが、かといって、オレはこの仕事に誇りを持っている、と公言するほど馬鹿でもなかった。友人と仕事の話はなるべくしないようにしていたが、どうしても仕方のないときは企業PRビデオという事でごまかした。オレはふた月に一本の割合で量産されるそのビデオ作品の制作を任されていた。任されていたというと大変そうに聞こえるかもしれないが、そうでもない。出演者も制作スタッフも毎回ほとんど同じだ。

ロケをする場所も同じ。ストーリーも同じ。ただ、新しいセックス描写だけを考えればいい。オレはそのくだらない仕事が好きだった。ギャラも悪くなかったし、女と遊ぶことも出来た。正直に言うと、オレはビデオに出た全部の女と寝た。全部が好みの女ではなかったが、一応すべての女に声をかけた。断られたことはなかった。アダルトにでる女の子は明るい。何の屈託もない。オレは初めこの仕事を与えてくれた神様に感謝した。でも半年もしないうちにオレは恐くなったのだ。女の子たちは絶対に屈伏しない。仕事でも嫌なことはしない。演出家は大きな声を張り上げて、変態行為を望む。もともと変態の好きな子は笑いながらやる。やらない子は演出家を哀れむような目で見て、絶対にやらない。いくら口説いても一緒だ。そんな女の子たちを毎日見ているとオレの脳みそは爆発寸前になった。

 オレがアダルトの仕事に恐怖を抱きはじめたころ、里奈があらわれた。里奈は美しかった。肌は透き通るように白く、プロポーションは完璧だった。現場にいたみんなが息を飲んだ。撮影が始まると、里奈は現場を圧倒し始めた。演出家が何かを要求しても里奈は表情を変えなかった。初日に演出家が、きみ、アナルやってみてくれる、といったときも里奈はうなずくだけだった。オレたちはびびった。いちばんびびっていたのは演出家だ。教育映画からアダルトに流れてきたという高野という演出家は、うなずく里奈を見てびびってしまったのだ。もちろん、これまでにもアナルセックスのシーンを撮影したことはあった。しかし、それはすったもんだの末にやっとお願いして、可能になったものばかりだ。オレは高野が、アナル、というたびにヴィトンのバッグやゴルティエのスーツを女の子にプレゼントしなければならなかった。だが、里奈は嫌がるでもなく、かといって喜ぶでもなく、要求されることを次々とこなしたのだ。里奈は自分を見せる天才だった。どの角度からフェラチオをすれば男が喜ぶか、カメラにどう納まるかを天才的な感性で選びとった。男優は里奈にすべてをリードされ、高野はOKを出すのを忘れ、オレを初めとする現場のスタッフは勃起した。撮影が終わった夜、オレは里奈を誘ったが、断られた。

 撮影が終わった翌日、オレは高野と酒を飲んだ。

 お前、里奈ちゃんと寝たのか、と高野は聞く。いやね、お前が誰と寝ようとボクには関係ないけどさ、ちょっと気になってね。

 高野がそんなこと聞くの初めてだな、正直に言うとさ、オレ振られたんだ。オレがそう言うと、高野は嬉しそうな顔をして笑った。

 ボク、安心したよ。だってそうだろう。里奈ちゃん、ぜったいおかしいもん。あれはボクたちと違う種類の人間だと思うんだ。で、その里奈ちゃんとお前が寝たとしたら、お前ってすごい奴ってことじゃない。オレには高野の言うことが分かるような気がした。もし高野が里奈と寝ていたとしたら、オレは高野を尊敬していたかもしれない。そうか、寝てないのか、安心した。そういって、高野は水割りをおかわりした。

 オレが遠くに行きたいと思ったのは、たぶん里奈のせいだ。別に里奈に振られてショックを受けたわけじゃない。おそらく勃起のせいだ。オレはこれまでにどんなハードな絡みの撮影を見ても勃起したことがなかった。仕事だと割り切っていたからだ。だから、厭らしいくらいの絡みが眼の前で繰り広げられても勃起しなかった。しかも、オレが勃起したのは里奈の下半身を見たときではない。カットの声がかかり、里奈がため息をつきながら、オレを見たのだ。その濡れた瞳にオレは勃起した。オレは考えた。どうして、オレは里奈の瞳に勃起したのだろう。いくら考えても答えは出なかった。

 一カ月後、次の作品の撮影に入った。オレはもう一度、里奈を使おうと思っていたのだが、まったく連絡が取れなかった。あきらめたオレは、街で引っかけた女を出演させることにした。酒に酔った勢いでオレがビデオに出させてやると約束してしまったのだ。女の胸は貧しかった。小さくて垂れているだけじゃない。ろくなセックスを想像させない胸だった。高野がオレの耳元で囁いた。こいつひどいよ。ブスだしさ、胸ないしさ、どうする。どうするったって、時間ないんだからなんとかしてよ。仕方ないねえ、それじゃあ、ハードなアナルでも行きますか。最近、高野はスタッフから、アナルの高野と呼ばれている。高野は女の方へ行って、アナルの交渉を始めた。オレは離れて見ている。女が泣きだした。そんな下品なこと、私できません。そう言って、女は泣きながらオレを見た。オレは驚いた。オレは勃起したのだ。たぶん、目の前の女に勃起したわけじゃない。女の泣いている瞳を見て、里奈の瞳を思い出したのだ。オレは里奈に惚れてしまったのかもしれない、そう思った。少なくとも里奈の瞳の虜になっていたのだと思う。他のスタッフにばれないようにオレは現場を抜け出した。

 オレは事務所に電話を入れ、熱があるから現場を離れると嘘をついた。電話を切ったあとオレはすぐに里奈の事務所に電話を入れた。はい、アーバンプロですが、と女の声。里奈の声だった。

 待ち合わせの時間よりも早く、オレはついた。もう里奈は来ていた。

 この間はお世話になりましたと里奈。里奈はこうして喫茶店に座っているとまったく普通の女の子だ。次の日電話したんだけど、とオレ。うちの事務所はいい加減だから、私が電話番するくらいだもん、と里奈は笑う。あのさ、旅行にいかない、オレはそう口走っていた。里奈は驚いている。当たり前だ。誘っている本人がいちばんびっくりしているんだ。でも、学校があるし。里奈ちゃん、学生なの?高校二年生。え、それじゃあ、十七才?里奈は元気よくうなずく。オレは、驚いて声が出なかった。十七でアダルトに出る女はいくらでもいる。しかし、里奈はどう見ても十七には見えなかった。あのさ、ご両親は知ってるの?この前の撮影のこと。里奈はオレの顔を見ていたが、下を向いて笑い出した。何だか、お父さんみたい。今度はオレが恥ずかしくなって下を向いた。でも、行きたいなあ、里奈は窓の外を見ながら囁いた。オレは驚いて、顔をあげた。ほ、ほんと、行こうよ、行かなきゃ後悔するよ、きっと。何を後悔するのか分からないが、オレは必死に里奈を説得した。結局、一週間後に返事をもらうということになり、オレは里奈を家まで送ることにした。

 里奈の家は郊外の新興住宅街にあった。真新しい家ばかりが整然と並んでいる。広い通りから、車を右折させようとすると里奈が制した。

 ここでいいです、車で帰ってきたりすると母が心配しますから。

 オレはとても悪いことをしている子供のように素直にしたがった。里奈は車を降りるときにオレにこう言った。

 お仕事頑張ってくださいね。

 次の日からオレは別人のように生まれ変わった。里奈の言うとおり、仕事に命をかけたのだ。仕事を頑張らないと、里奈がいい返事をくれないような気がした。オレはどこからか里奈が見ているような気がしたのだ。オレは懸命に働いた。いつもなら見逃してやる演出ミスも、オレは見逃さなかった。高野は怪訝な顔をした。どうしたんだ、なんかおかしいよ。おかしかない、オレはいい作品を作りたいんだ。オレがそう言うと高野は首をひねりながら仕事を続けた。

 オレは毎日ジョギングをするようになった。身体を動かしていないと里奈を思い出すからだ。本当は身体を動かしていても思い出すのだが、それでも少しはマシだった。高校生の頃に読んだ月刊明星のヤングのセックス講座が正しかったことを今になって初めて理解した。ジョギングを始めた頃は息が止まるかと思うくらい苦しかったが、今では平気だ。雨が降っても、風が吹いてもオレは走る。走るコースは決まっていない。行き当たりばったりだ。オレは決まったコースを走るのが嫌いだ。ときどき、ジョギングの途中で犬に会うことがある。オレは犬は嫌いではないが恐い。たぶん、子供の頃に近所の犬に石を投げて噛まれたことがあるからだろう。その犬は大きな犬ではなかったが獰猛だった。オレの足を咬んだまま離そうとしなかった。オレの足は半分くらいちぎれかけていた。十五針も縫ってやっとオレの足はオレに戻ってきたのだ。オレは十五の縫い跡を見るたびに犬への復讐を誓ったが、オレの足が治って、歩けるようになる前に、その犬は車にはねられて死んだ。オレは自分が手をくだす前に犬が死んでしまったことでコンプレックスを抱いた。あれ以来、オレは犬が恐い。オレにとって、得体の知れない生き物となってしまったのだと思う。

 ジョギングの途中でオレが出会う犬は日本犬がほとんどだ。オレは日本犬が好きだ。恐いが好きだ。恐いという感情と好きという感情は見事に共存する。つまり、オレは犬に屈伏しているのだ。オレの嫌いな犬は座敷犬だ。ヨークシャテリアなんて奴は見ているだけで吐き気がしてくる。人間の生活様式のなかでしか生きることを許されていない動物は醜い。オレは醜い動物が嫌いだ。朝のジョギングの途中で日本犬に会うと、オレは敬意を表しながら道を譲ることにしている。恐がりながら道を譲ると犬は吠えてくるが、敬意を表しながらだと、犬は吠えない。これはオレが子供の頃から守ってきた鉄則だ。

 撮影でくたくたになった翌日。雨が降っていたがオレは迷わずにジョギングするために家を出た。ジョギングを始めてからしばらくは女房はオレの行動を不審がった。しかし、根拠のある不審ではない。ただ、根気のないオレが何かを続けていることが解せないのだ。もしかすると、そんな不審がいちばん根の深いものかもしれない。女房が目を覚ましていることは知っていたが、オレは気付かないふりをして、デサントのジョギングウェアに着替えた。女房の方はオレが気付いていることを知らない。寝返りを打ったり、軽い寝息をたてたりして、眠ったふりをしている。こんな何気ない無関心がオレたちを一緒に住まわせているわけだ。感謝しなくてはいけない。無関心に感謝だ。

 雨は思ったほどひどくなかったが、昨夜のうちにかなりの水溜まりが出来上がっている。オレは注意深く、水溜まりを避けながら、走る。最初は軽くだ。はじめっから飛ばすと、オレは決まって横腹が痛くなってしまう。オレは町内の児童公園を抜けて、国道へ出る。国道はまだ、交通渋滞も始まっていない。国道をしばらく走った後、再び、町内へとつづく路地へ入る。オレは国道から路地に右折する。こんな時間にこんな路地をうろうろしている奴がいる確率は万に一つだ。仮にいたとしても、そいつとぶつかる可能性は皆無だろう。オレは、全速力で、路地を曲がる。ところが、その万に一つ。そして、皆無のはずの可能性だ。オレは全速力のまま、何かにぶつかった。オレは飛ばされた。しかもかなりの距離だ。オレは路地の砂利の上に強く叩きつけられた。しばらく、何が起こったのか分からなかった。オレはゆっくりと目を開けた。眼の前は暗く閉ざされている。一瞬、目を開いているつもりで実は閉じたままなのではないかと疑った。しかし、オレは目を開けていたのだ。なんと、オレの目の前には犬がいた。しかも、それは、セントバーナードだ。いつもなら、慌てて逃げるところだが、咄嗟に何をしでかすのかわかったもんじゃない。オレはセントバーナードに巴投げを食らわしたのだ。どうやって、セントバーナードの巨体をつかまえたのか覚えていない。おそらく、セントバーナードの方でもオレにぶつかったダメージを残していたのだろう。オレに投げられたセントバーナードは見事に飛んだ。国道まで飛んで、運悪く走ってきた4トントラックにはねられた。オレは笑った。別にセントバーナードを征伐できてうれしかったわけではない。その証拠にオレは震えていたのだ。突然のショック。大きな犬の出現。オレは明らかに恐がっていた。その恐怖心がオレを笑わせたのだ。笑いはオレの身体の中から次々と沸き起こった。笑いながら、どうして笑っているのかが分からなかった。セントバーナードは鼓動路の真ん中に横たわっている。外見にはほとんど傷がなく、きれいな死に顔だ。もしかしたら、まだ、体温を残しているのかもしれない。死んでしまったセントバーナードは潤んだ目を開いたままでこっちを見ている。オレは里奈の目を思い出した。すると、オレの身体の中から、笑いのエネルギーが消えて、恐怖だけが残った。オレが笑いをやめてからもまだ、オレの笑い声は早朝の町にこだましている。その笑い声が透明な朝の空気に消され始めた頃、今度は女の泣き声が聞こえ始めた。女はセントバーナードの飼い主らしかった。年齢は四十歳前後だろうか。疲れた中年女の無惨さはまったくない。犬の散歩にジャージも着ていない。女はセントバーナードの早朝散歩に花柄のワンピースを着ているのだ。しかも、それがよく似合う。オレは泣き始めた女を見つめていた。女の泣き声は初めは小さくか細いものだったが、次第に大きくなり、やがて、さっきのオレの笑い声も霞むくらいの音量になった。大声コンテストの声量を計る機械があれば、きっと彼女は優勝しているはずだ。あまりの大きさに、近所の住人たちが起きだしてきた。それでも、みんな表に飛び出すような馬鹿な真似はしない。女の泣き声がするところにろくな事はないのだ。それくらいのことは、馬鹿でも三十年生きれば分かる。窓が小さく開いて、好奇心に満ちた目がオレたちを見ている。オレは窓から見られることによって、我に帰った。女を放り出して逃げようと考えたが、やめた。オレは変なところで律儀だ。子どもの頃も悪戯をして、黙っていればいいのに、自分から告白してしまうタイプだった。その頃は正義という言葉を信じていたが、今は信じていない。しかし、幼少のみぎりの癖はそう簡単に直るものではない。オレは小学生に戻ったような気分で女から、五メートルの所に立ち尽くしている。

 女はもう十五分ほども泣き続けている。オレは女に声をかけようと決めた。声をかけ、犬を事故に遭わせてしまったことをわびて、穏便に事を運ぼうと決めたのだ。オレは女との距離を三メートルに縮めた。女は気がついていないようだ。オレはさらに距離を一メートルにまで縮めた。ここから声をかけるか、さらに近寄るか。オレは迷った。それがいけなかったのだ。迷っているオレの足に女は食らいついた。そして、こう言ったのだ。ようし、捕まえたぞ。オレは女を振り払おうとしたが、女はまったくひるまない。ものすごい力なのだ。オレはジョギングをしていた時の倍ぐらいの汗をかきながら、足を振り続けた。そして、諦めた。この女の力は尋常ではない。女はオレが諦めたことを感じとると、足を離し、その代わりに首根っこを捕まえた。オレは頭にまわる血が全部そこで止まってしまうのではないかと思った。女は自分の顔の真ん前にオレの顔を持ってきて、にっこりと笑った。そして、じっとオレを見た。オレは愕然とした。女の目は里奈の目とそっくりだったのだ。オレはその時すでに地面から浮かされていたのだが、その宙づりのままの姿勢で気絶した。

 かなりの時間がたったようだ。陽が高く昇っている。窓からの強い日差しにオレは目を覚ました。オレはベッドの上に寝かされている。広い部屋だ。天井がかなり高い。窓には白いレースのカーテンが揺れている。オレは起きあがろうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。オレは諦めて、もう一度ベッドに横たわった。その時、部屋のドアがノックされた。オレは返事をしようとしたが、声が出なかった。もう一度ノック。オレは、はい、と返事をしたつもりだったのだが、変なうめき声しか出なかった。ドアがゆっくりと開けられた。目が霞んで姿がよく見えない。部屋に入ってきた影は、オレの寝ているベッドの脇にまで来た。紅茶の香りがオレの鼻をつく。オレは紅茶よりもコーヒーが好きなのだが、なぜかその紅茶が飲みたくて仕方がない。かなり喉が乾いているようだ。紅茶がオレの目の前に運ばれた。オレはカップを受け取ると口をつけた。うまい。紅茶を飲んでうまいと思ったのは初めてだ。熱い紅茶がオレの身体を抜けていく。身体の中から次第にエネルギーが蓄えられていく感じだ。目の霞がとれ、ベッドの脇にいた影がだんだんとはっきりしてきた。

 里奈だった。里奈がオレのベッドの横に立っていたのだ。オレは驚いて身体を起こした。里奈はそんなオレを見て笑っている。どうして、君がここにいるんだ。オレがそうきくと、里奈はこう言った。あなたの足にしがみついた女の人がいるでしょ。あれ、私の母なの。それを聞いて、オレはもう一度、気を失いそうになった。確かにその女の目は里奈に似ていた。しかし、それはなんと言っていいのか、あのパニックのなかで遭遇した偶然であって欲しかったのだ。が、現にオレの目の前には里奈がいる。これが夢でなければ現実に違いなかった。里奈は混乱するオレを見て笑っている。オレは起こした身体をもう一度ベッドに寝かせて、頭の中を整理しようとした。オレはあの時に身体をひどくねじったようだ。考えようとすると、身体の節々が痛んだ。里奈は部屋の隅に置いてあるピアノの前に座って、弾きだした。新世界交響曲だった。オレは里奈が弾く新世界交響曲を聴きながら再び眠りに落ちた。

 ゆったりとした旋律はオレの眠りの中にまで入り込み、オレは奇妙な夢を見た。夢の中でオレは、里奈のおふくろと話していた。里奈のおふくろは、オレの手を握っていて、オレは里奈のおふくろの尻を触っていた。欲情が二人を包み込んでいて、そんな二人を里奈が部屋の隅のピアノを弾きながら見ていた。オレは里奈が怒るんじゃないかと心配したが、里奈はオレに微笑んで、母をよろしく、と言った。オレは、ああ、オレは里奈のおふくろさんと一生暮らしていくんだなあ、と観念して里奈に微笑んだ。里奈のおふくろはオレを見て微笑んだ。里奈と里奈のおふくろの微笑みに挟まれて、オレは悲しいけれど幸せだった。きっと一般的な社会人の幸せはこんな所にあるんだろうな、と何の根拠もなくオレは思った。思ったとたんに夢だとわかった。オレが里奈のおふくろと幸せに一生暮らしていくはずがない。そんなのは地獄だ。オレは目を覚ました。新世界交響曲はまだ続いていた。オレは里奈のピアノのおかげでおかしな夢を見たのだ。オレは里奈にピアノを止めるように言った。しかし、ピアノを弾いていたのは里奈ではなかったのだ。ピアノを弾いていたのは里奈のおふくろだった。私のピアノ、気に入らない?里奈のおふくろはオレに聞いた。オレは起き上がって、いいえ、とだけ言った。里奈のおふくろはピアノを弾くのをやめ、オレの寝ているベッドの方に近寄ってきた。確かに里奈のおふくろは里奈によく似ている。特に目元がそっくりだ。つまり、あの濡れた瞳を里奈はおふくろから引き継いだのだ。里奈のおふくろは、勃起してるでしょ、と言った。オレは照れた。オレは年上の女の前では素直にすることに決めているので、ハイとこたえた。どうして、分かるんですか、オレが聞くと、里奈のおふくろは、全部里奈から聞いていると答えた。ということは里奈はオレが里奈の瞳を見て勃起していたことを知っていたのだ。そして、里奈のおふくろはオレの職業やオレの日々の言動を知っているのかもしれない。そんなことを想像しただけで、オレはさっきの二倍くらい照れた。あまりに照れすぎて、訳が分からなくなって、お母さんがあんまりきれいなので、などと喚いた。里奈のおふくろは、可愛い、と言うと、オレを抱きしめてキスをした。オレは里奈のおふくろに身を任していた。そして、耳元でこう言ったのだ。ねえ、里奈なんてやめてさ、私と一緒に旅行しようよ。オレは年上の女の前では素直にすることに決めているので、ハイ、と返事をした。里奈のおふくろは、嬉しい、と叫んでオレの勃起した性器を強く握った。

 里奈はまったく姿を見せなかった。ここにきてから二週間になる。オレはすっかり回復して、家のなかを自由に見て回れる。しかし、家を出たことは一度もなかった。逃げだそうと思えば、いつでも逃げだせたのだが、オレはもう一度里奈に会いたいと思っていた。だから逃げださなかった。オレは窓辺に立った。ジョギングの最中にあの事件に遭遇したわけだから、ここはオレのマンションからそう遠くはないはずだ。なのに、窓から見える風景に見覚えがない。ここは、どこだ、あなたはそう聞きたいんでしょ。オレの背後から、いきなり里奈のおふくろは言った。驚いて振り返ると、里奈のおふくろはきれいに着飾って、立っている。そろそろ会社にも連絡を入れないと、オレがそう言うと、里奈のおふくろは大きな声で笑った。もうあなたに仕事はないのよ。オレにはそれがどういう意味なのか、よくわからない。里奈のおふくろは続けた。つまり、あなたの会社はもうないの。オレは絶句した。どういうことなのか。オレは、呆然として窓際に立ち尽くした。里奈のおふくろはオレの肩に手を置いて、深いため息をつく。あのね、あなたの仕事は社会のクズなのよ。どうでもいいクズどもが見るための、どうでもいいAVなんて、どうでもいいの。だけど、そこに私の里奈が関わっていたというのは、私にとっては面白くないわけよ。だから、あなたの会社を買い取って、AVにはいっさい手を付けないことにしたの。買い取った?里奈のおふくろがあのビデオプロダクションを買い取った?オレはおそらく、生まれてから、いちばん間抜けな顔で里奈のおふくろを見ていたはずだ。里奈のおふくろは笑顔を急に曇らせたかと思うと、突然、眉間に皺を寄せて、オレに凄んだ。クズの仕事もできなくなったあなたはクズ以下なのよ。クズ以下ということは、奴隷と同じなの、分かる、私はあなたを金で買っているの、言うことを聞きなさい。年上の女には逆らわない事にしているオレだ。ハイと小さな声で答えた。

 その日の午後、オレはリムジンで連れ出された。連れ出されたと言っても、誰も付き添ってはいない。リムジンの運転手とオレだけだ。里奈のおふくろが誂えてくれたまっさらのタキシードを着込んでリムジンに乗り込むと、オレはずっとこんな風に生活してきたような錯覚をした。てっきり着飾った里奈のおふくろも同行するものだと思っていたのだが、彼女は嬉しそうに手を振っている。どこへ行くのか、オレが聞くと、里奈のおふくろは、お祭りよ、とだけ答えた。

 リムジンで街を走って始めて、オレは自主軟禁されていた家の場所を把握した。オレは自分のマンションのすぐ裏手の豪邸にいたのだ。もちろん、マンションの裏に豪邸が建っているのは知っていたが、興味を持ったことはなかった。女房と子どもがいるはずのマンションの前にリムジンがさしかかる。しかし、オレは、不思議と女房に会いたいとは思わなかった。子どもの顔は少し思い出したが、女房の顔を思い出そうとすると、里奈の顔が浮かんできた。結局オレは女房を愛していなかったのかもしれない。そう思うと、涙が出てきた。オレはろくでもない人生を送ってきたのだという確信があった。死ぬ前の人間のように、オレの頭のなかには走馬燈のように人生が駆け巡った。長編映画を無理やり短編映画のように編集したオレの走馬燈のような人生は、間違っても千六百円の入場料には値しない。が、エンドマークが出る寸前に表れた里奈の濡れた瞳だけが輝いていた。オレの人生は里奈の濡れた瞳だ。オレは里奈に会いたかった。リムジンの中には黒人の運転手とオレしかいない。この運転手はオレが何を聞こうと、絶対に口を開かない。後ろの席から見ると、黒人の男はスティービーワンダーに似ていた。これだけうまく運転するのだから、盲目という事はないだろうが、徹底的に誰かに仕えている自負が背中から感じられた。スティービーが仕えているのは里奈のおふくろだろうか。それとも里奈のおやじだろうか。そんなことを考えている間に、リムジンは目的地に着いたようだ。どうやら、オレは海の近くに連れてこられたらしい。潮の匂いが、二週間も身体を動かしていないオレを刺激する。

 海辺の小さな別荘が目的地だった。別荘といってもいま流行のリゾートではない。海の家といったほうがいいような、古びた小さな別荘だった。スティービーは、別荘に入れと無言のまま顎をしゃくった。オレが別荘に向かい始めると、すぐにリムジンのエンジンがかかる音がした。振り向いたときにはリムジンはもう小さくなっていた。オレは他に目的もなく、別荘に向かうしかなかった。

 別荘の入り口の前に立つと、中から話し声がした。若い女の笑い声も聞こえる。オレはドアをノックした。すぐに答える声があり、ドアは開けられた。ドアを開けてくれたのが高野だった。待ってたよ、高野はそう言うと、オレを奥の部屋へ促す。そこには一緒にアダルトビデオを作っていたスタッフが全員揃っていた。オレは状況を把握することができなかったのだが、ここにいるオレ以外の人間はみんな笑っている。なんだ、これは、オレが聞くと、高野は、マダムが仕組んだんだ、と答える。マダムって誰だよ、オレが突っかかるように聞くと、高野が笑って制する。里奈のおふくろさんだよ。里奈のおふくろさんがお前の会社を買い取ったのは聞いてるだろ。

聞いてるけどさ、冗談じゃなかったのか?オレはまだ信じられない。高野はさっきよりも大きな声で笑うと、あのマダムに冗談が通じないことぐらい分かるだろう。ここにいるクズたちが、ただのばばあの言うことを聞くわけがないじゃないか。オレは興奮していた。オレひとりがはめられたんじゃないのかと疑ったのだ。しかし、違った。みんな、お前と同じように集められたんだよ。もちろん、人によって違う方法でだけど、カメラマンの武田なんてヤクザにロープで縛られてやってきたんだぜ。スクリプターの令子は筋肉マンのイタリアーノに引っかけられて、ここまで来たんだしな。ちょっと待ってくれ、オレたちをここに集めて、一体何を始めようって言うんだ。オレがそう聞くと、高野は黙った。それだけが分からんのだ。お前は何か聞いてるのか。オレは首を振った。車に乗せられる前に里奈のおふくろが祭りだって言ってたけどな。高野はそばにあったシャンパングラスを取ると、祭りか、と呟いた。

 オレたちは里奈のおふくろが何を企んでいるのかを知らされないまま、別荘にいた。日が沈み、風が涼しくなってきた頃、車のエンジン音が聞こえてきた。スティービーの運転するリムジンだ。マダムの到着だ、オレは大きな声を出して、みんなを黙らせた。話し込んでいたものは、会話を止め、酒を飲んでいたものはグラスを置いた。高野はオレの方を見るとにやりと笑った。ドアを開けたのはスティービーだった。里奈のおふくろはゆっくりとした足どりで現れた。里奈のおふくろは、まず、高野に合図をし、次にオレにウィンクした。みんなの視線の中を里奈のおふくろは満足そうな笑みを浮かべながら通り抜けて席に着いた。高野が里奈のおふくろにシャンパングラスを渡す。高野さん、ありがとう、と礼を言うと、里奈のおふくろは咳払いをした。

 

 皆さんに、集まって頂いたのは他でもありません。皆さんは、社会的に意義のないクズのような仕事に勢力を傾けてこられました。が、クズである以上、社会に認められることはありません。どんなに、優れた実力を持っていたとしても、クズはクズ。海のなかでも鰯のいる海域と鯛のいる海域は違います。鯛と勝負したければ、リスクを負ってでも鯛のいる海域に進まなければなりません。

 話し続ける里奈のおふくろに、カメラマンの武田が野次を飛ばした。

 オレたちはそれで満足してんだから、オバサンに心配してもらわなくてもいいんだよ。

 里奈のおふくろは、武田を睨み付けると一喝した。

 卑怯者。

 里奈のおふくろが一言叫ぶと、武田は言葉を失った。確かに武田を含めて、オレたちは卑怯者かもしれない。しかし、里奈のおふくろにそう言われても、オレたちは不思議と腹が立たなかった。オレたちは逆に爽やかな気持ちになってしまったのだ。ここにいる十名近いスタッフたち全員が、まるで子供のような穏やかな笑顔で武田と里奈のおふくろを見守っている。

 ここにいる男たちは、みんな里奈を見て勃起したんでしょ。なら、自分の本当に撮りたい里奈を撮ってやってよ。里奈のおふくろはそういった。みんなが、その通りだと返事をした。里奈のおふくろは満足そうに笑った。その時、奥の部屋へと通じるドアが開けられた。そこには里奈が立っていた。里奈はにこやかに微笑むと、オレたちの前に進み出た。里奈ちゃん、可愛いよ、オレは里奈に声をかける。里奈はありがとうと言ったが、里奈のおふくろは制した。あんた、自分を何様だと思ってるの、あんたはまだ、クズなんだからね、いっぱしの男になるまで、里奈に直接口きかないで。オレは素直に謝った。里奈のおふくろは、里奈の後ろに立って、話を再開した。今日、皆さんに集まってもらったのは映画を撮るためよ。オレは驚いて、高野を見た。高野もこの件については聞いていなかったようだ。みんながざわついた。みんな落ち着いてよ。それ以外にあんた達クズにできることはないでしょう。そう言うと、里奈のおふくろはオレのそばに来た。あんた、里奈を撮りたいんでしょ、旅行に行こうなんて誘ってる場合じゃないのよ、あんたはね、いま撮らないと、明日も撮れない、いま撮らないと、一生クズのままなんだからね、何のために里奈があんたの前に表れたのか、考えてみなさい、里奈は神なのよ。よく考えると、支離滅裂のようだが、オレは何の疑いもなく、里奈のおふくろの言葉を受け入れた。今すぐに企画を考えなさい、スタッフは奥の部屋に集合、あんたと高野は、ここで企画を考えて、私に報告するの、いいわね。里奈と里奈のおふくろはスタッフたちと共に奥の部屋へと消えた。オレと高野は顔を見合わせて、笑った。企画って言ってもな、とオレ。何を撮りたいのかは決まってるよな、と高野。オレたちが撮りたいのは、里奈の濡れた瞳しかなかった。それ以外にフィルムに収めるべきものが有るとは思えなかった。オレは、里奈の瞳を撮る、と宣言した。高野はうなずいた。オレたちは、すぐに里奈たちを追って奥の部屋へ進んだ。スタッフたちはすぐに機材のチェックを始めていた。オレは、里奈のおふくろに企画とも呼べない企画の話をしようとしたが、里奈のおふくろは何も言わずにOKと指を丸めた。振り向くと、高野も指を丸めて笑っている。

オレは、カメラの武田の横に立った。武田は35ミリの撮影は初めてなので緊張する、と言って照れた。オレは、大丈夫だ、とだけ言った。里奈は部屋の角のソファでくつろいでいる。オレが近づくと里奈は立ち上がった。ねえ、私は何をすればいいですか、と里奈。何もしなくていいんだ、とオレ。でも、映画撮るんでしょ、監督が高野さんなら、アナルもあるかもしれないし、と里奈。オレは笑った。今日はオレが撮るんだ、それに商業映画じゃないから、ストーリーもいらない、本当に撮りたいものだけを撮る、とオレ。里奈は不思議そうな顔をして、うなずいた。オレは里奈をカメラの前に立たせた。里奈は演出がないとどうしていいのか分からない、という。演出はなしだ、とオレ。武田はカメラのフレームを合わせると、オレに合図を送る。オレは里奈の着ていたセーラー服の前をはだけ、肩を露出させる。里奈は何も言わずに従う。オレは武田にカメラを回すように指示を出す。照明の志村がレフを揺らしてしまう。いつものオレなら怒鳴るところだ。しかし、今のオレはレフが揺れて、里奈の頬に影が差しているのも悪くはないと思っている。オレは武田の後ろにまわりフレームを見せてもらう。フレームは里奈の両目を捉えていた。オレは武田と身体を入れ替え、レンズを握る。長い間、撮影の現場にいて、撮影をするのは初めての事だ。だが、オレは緊張していない。いくら画面が揺れても、いくらフレームが中途半端になっても里奈の瞳は輝きをなくすことはない。オレはズームバーに指をかけ、ゆっくりとズームインする。次第に里奈の瞳が大きくなり、やがて、左目がフレームから切れる。オレは右目をさらにズームアップする。里奈の瞳は濡れてはいない。まだ、高校生の真っ直ぐな意志だけを湛えている。オレはファインダーから目を離すと里奈の瞳を直接見つめた。里奈もオレを見ている。レンズを通さずに見る里奈の瞳はさらに美しい。オレは叫ぶ、里奈、オレはお前の瞳を撮っている、オレはお前の瞳を撮っているんだ。どうして、私の瞳を撮るの、里奈が聞く。オレは言葉に詰まるかと思ったが、知らぬ間に答えていた、きれいだからだ。その通りだった。きれいだからだ。それ以上に強い力がこの世の中にあるとは思えなかった。実際、どんな核兵器の前でも臆さない破天荒な連中でさえ、里奈の瞳の前には必ず跪くはずだ。オレは、里奈の瞳に出会えた事を神に感謝した。撮るべき対象が自分の前に存在していることに感謝した。もしかすると、里奈のおふくろが言ったように、里奈は本当に神かもしれなかった。神が生きていくための愛なら、少なくとも、今のオレには里奈が神だ。オレは里奈の瞳から一時も目を離さなかった。瞬きをするのも忘れて、オレは里奈の瞳を見つめ続けた。フィルムは回り続け、三〇〇フィートのマガジンはすでにフィルムの終了を予感させる音を立て始めている。里奈はフィルムの終わる予感に怯えた。フィルムに自分をまだ定着できていないことに怯えた。それはオレも同じだった。まだ、フィルムは里奈の濡れた瞳を定着してはいない。少し離れたところで見守っている高野も、オレの後ろでカメラをアシストしている武田も、スクリプトの令子も、そして、里奈のおふくろも同じだった。この部屋の全てのエネルギーは、里奈の瞳に向けて放射されていた。

 その時、里奈の瞳が濡れた。ゆっくりと瞳が濡れた。至福の安らぎがこの部屋を包んだ。放射されていたエネルギーは浄化された。フィルムは巻き取られた。里奈は透明すぎて、見過ごしてしまいそうな涙を一筋流した。

 どの位の時間が経ったのだろうか。すでにフィルムの終了しているカメラは、まだ回り続けている。その音が次第に大きくなり、オレたちを現実に引き戻した。武田が少しだけ躊躇してカメラのシャッターを止めた。里奈のおふくろは、立ち上がって拍手をする。そして、里奈の肩に手をかけると耳元で何か囁いた。里奈は少し照れて、ありがとうと言った。ドアが開きスティービーが里奈のおふくろに会釈する。促されるように里奈のおふくろと里奈がドアの外へ出ていく。オレたちは二人に拍手をする。ゆっくりとした足どりで二人は部屋を出る。高野がオレを呼ぶ。ちょっと外の空気でも吸うか、と高野。オレはうなずく。

 外に出ると、遠くに走り去るスティービーの運転する車が小さく見えた。高野は煙草をオレにすすめてくれる。オレさ、もうフィルムの仕事をすることはないと思ってたよ、と高野は空を見上げながら言う。オレは高野の言葉に同意した。高野の言う仕事というのは商売の事じゃない。文字どおりフィルムに仕える事という意味だ。オレも三十を越えて、フィルムで何かを撮影できるとは思っていなかった。高野、どうして演出を任せてくれたんだ。オレが聞くと高野はお前の方が里奈ちゃんを好きだからな、とだけ言った。オレだって、里奈のことは何も分かっていない。里奈のおふくろのことも分からない。高野は何か知ってるのか。高野は首を振る。あのマダムが大企業の黒幕の夫人だということしか知らないんだ、と高野。大企業幹部の有閑マダムか、とオレ。でもね、大企業と言っても普通じゃないよ、何でもヨーロッパの財閥の末裔が絡んでいるらしい。財閥ってロスチャイルドじゃないだろうな。高野は笑って、そこまでは知らないよ、と呟く。どうする、もっと探って、マダムと里奈ちゃんのことを調べるか、と高野。今度はオレが首を振る。調べても仕方がないよ、里奈や里奈のおふくろさんとも、もう会わないだろうし、変な細工して、オレを軟禁することもないだろうしな。そうだな、高野は煙草を足元に棄て、靴底で揉み消す。高野、オレが撮ったのは映画とは呼べないかもしれない映画だけどさ、里奈が写っているだけで、オレには最高の映画だと思うんだ、どうして、里奈のおふくろがオレたちを選んだのか分からないけどさ、オレは満足だよ。高野はオレを見て笑ったが、笑った顔は少しだけ歪んでいた。高野はこれからどうする。マダムが買い取ったビデオプロダクションを借り受ける話がまとまってるんだ。もちろん、お前もそのメンバーに入ってるよ、と高野。オレは高野にもう一本煙草を貰う。オレはちょっと遠くに行くよ、後のことはそれから考える。オレがそう言うと高野は、それがいいかもな、と答えた。車が砂を巻き上げる音がして、武田のランドクルーザーが走ってくる。スタッフ全員が無理やり乗り込んでいるようだ。武田が運転席の窓を開けて、顔を見せる。二人とも、これからどうするんだ、武田の声が浜辺にこだまする。とりあえず、近くの駅まで送ってくれ、とオレが叫ぶと同時に高野がランドクルーザーに向かって走り出す。オレも高野の後を追う。武田がランドクルーザーのスピードを落とす。オレたちは後部ドアの小さなステップに飛び乗る。オレの新しい旅はこうして始まった。

(了)