逢瀬までの。

 植松眞人

 

やっとやっと逢えたのです


 真冬とは思えぬほど暑い陽ざしが宿の窓から肌を押さえつけていました。動けないのか、動きたくないのか。それさえもわからぬまま、わたしはただ身体に残る男の体臭を感じながら追憶することもせず、小さな窓を、陽ざしを見返すように見つめていました。
 逢いたい逢いたいと願い続けてきたのに、逢っている最中も逢いたくて、あなたに抱かれている最中も逢いたいと思い続けてしまったわたしには、いま目の前にいるあなたが、幽霊のように思え、そして、あなたがわたしと同じように、逢いたい逢いたいと思い続けていることを知ったとき、わたしたちは一人なのだと知らされたのです。
 だから、あなたが立ち去った後のわたしは立ち上がろうともせず、あなたが覆い被さっていたときと同じ場所に同じ形をして、こうしてじっとしています。あなたがまた逢いに来てくれて、わたしと一つになるまでは決してわたしはここを動くことができないのかも知れません。
 それでも、逢いたかったあなたが、再び、逢いたいあなたになってしまったことを嘆き悲しむ心はなく、ここにあるのは、逢いたい、という心だけ。もしかすると、わたしにとって必要なのは、逢いたいあなたなのではなくて、逢いたい、という気持ちだったのかも知れません。
 あなたとわたしは一人のはずなのに、逢いたいという気持ちで一人のはずなのに、逢いたいという気持ちでばらばらに壊されてゆくようです。
 何度も何度もお逢いして、わたしの身体に触れることの無かったあなたが、今日、わたしの身体に触れ、匂いを残して行ったことが、わたしには悔やまれ、そして、わたしに匂いを残したあなたに、わたしの匂いが残っていないことをわたしは知っているのです。

 

降りしきる雨の中を駆けたかったのです

 

 わたしは雨が降るとあなたを思い出していました。小雨ならぼんやりと、激しい雨ならばはっきりとあなたの姿を思い浮かべることができました。それはまるで、雨が紗のかかった幕のようになり、幻灯の光で浮かび上がるかのような気持ちでした。
 それでもあなたは、いつも幻灯の光でしかなく、手を伸ばせば届くのに、手を伸ばすことさえ許してはくれない存在として現れるのです。だからわたしは雨の中を駆けたいと思っていました。部屋の窓から見ている雨は一枚の幕だけれど、その中を駆け抜ければ、雨はわたしを包み、もしかしたら、あなたがわたしを包んでくれるかも知れない、うっすらと自分を冷笑しながらも半ば本気で思いこんでいたのです。
 でもわたしは、いつも雨を見つめていました。その中を駆けることはせず、部屋の中から自分は濡れずに、あなたを探そうとしていました。あなたがわたしに、ここにいろと言ったのです。いいえ、ここにいろ、とあなたは言わなかったかも知れません。ただ、あなたがわたしを抱いた後、わたしがあなたをわたしの一部なのだと思いこんだとたんに、あなたは身繕いをして、果てて寝込んでいるわたしを置いてゆきました。果てる少し前に、わたしはあなたの中にいて、あなたはわたしの中にいました。ふたりで一人を生きていました。でも、目覚めるとわたしは一人でした。一人でふたりを生きようとしていました。
 それから雨は、わたしの心を映すようになりました。わたしの心のあなたを映すようになってしまいました。わたしはあなたを映す雨を憎み、愛おしみ、慈しみました。けれど、いくら憎んでも、愛おしんでも、慈しんでも、あなたの視線は雨粒の描く真っ直ぐな線と線の間に見え隠れして、たとえ見えたとしても、きっとわたしの目を見てはいないと知っていたのです。あなたはわたしの様子を見ているだけで、決してわたしを見てはいなかった。
 だからわたしは、雨の中を駆けたかったのです。どんなに濡れても、どんなに身体が冷えても、道行く人がそっと含み笑いをしていても、わたしは雨の中を駆けたいと思っていたのです。あなたはわたしが決して雨の中を駆けることをせず、そっと窓から雨を眺めているだけの女だということを知っていたのでしょうか。
 あなたがわたしのことなら、何でも見通していたように感じてしまうほど、わたしはあなたを生きていました。でも、あなたを知っていたのかと言われると、困惑するばかり。あなたを生きていた実感はあっても、あなたを理解していたかどうかは、今となっては曖昧な輪郭しかわたしに与えず、ふたりで一人を生きていた頃から、少しずつわたし一人がふたりを生きるようになったという変化しか覚えてはいないのです。少しずつ形を変えていく関係がわたしには興味深く、楽しく、いずれその関係からあなたが抜け落ちていくことなど、想像もせずにいました。
 また、雨です。しとしと降る雨がゆっくりとあなたを映し出し始めました。わたしはじっと雨を眺めています。雨が強くなるにつれて、あなたははっきりと雨の中に姿形を映し出しました。わたしは雨の中のあなたに微笑んでもらいたくて、ただただ微笑んでもらいたくて、今日もじっと雨の中のあなたを見つめています。でも、今日も雨の中のあなたは、きっとわたしを見つめてはくれないのでしょう。やっぱり今日も、肝心なあなたの視線は、雨粒の線にかき消されてしまうのでしょう。そう思うと、わたしの心にまで雨粒の線が刻み込まれていくようで、雨音のざわめきが身体のなかで数を増して、誰の声も聞こえないほどになってしまうのです。
 雨音のように堂々巡りをするわたしの目の前にあなたがふいに現れました。ちゃんとわたしを見て、ちゃんとわたしに微笑んでいるあなたが現れました。それは雨で出来た紗の幕に映ったあなたではなく、紗の幕を掻き分けながらこちらへ歩んでくるあなたでした。にわかにあなたが現れたことを信じられず、また、あなたが現れることを事前に察することの出来なかった自分が哀れで、わたしの顔はきっとゆがんでいたのでしょう。あなたは驚き、わたしを抱きしめてくれたのです。わたしの髪を撫でながら、あなたが微笑んでいることをしっかりと目を閉じながらわたしは感じていました。あなたの温かさにわたしは溺れ、身体があなたの形にあわせて柔らかく柔らかくなっていきました。
 少し、わたしはあなたの腕のなかで眠ったのかもしれません。気がつくと私は雨の中にいました。激しく降り続く雨の中で佇んでいました。わたしはあなたを追って、雨の中をここまで駆けてきたのでしょうか。冷たいはずの雨がわたしを包んで、あなたに抱かれているときと同じくらいに熱く、わたしはまたあなたの熱さを身体に刻まれたような気持ちになり、切なくて切なくて、やがてこの熱さが冷えてゆき、生来のわたしが持っていた熱までも奪ってゆくことが手に取れるようにわかり、悔しくて悔しくて泣きました。でも、その涙さえ、雨は流し去り、また次の涙を誘いだすのです。
 そして、なによりもわたしは、雨の中を駆けていることさえ覚えてはいませんでした。雨の中を駆けなければ、あの部屋を出て、ここまで来ることは出来なかったはずなのに、わたしは何一つ覚えてはいなかった。あんなにも雨の中を駆けることに恋いこがれていたのに、またしてもあなたは、わたしの時間をもてあそび、わたしの時間を切り刻んで、自由につなぎ合わせてゆくのです。

 

 

優しく憎んでゆくわたしの指

 

 まだ、あなたの身体の匂いを知る前に、ふたりで桜を見に行ったことがありました。大きな桜の樹の下で、あなたは花を見上げていました。わたしも同じように花を見ようとするのですが、花よりも先にあなたの横顔ばかりが気にかかり、それは、わたしがあなたに恋い焦がれていることをわたしの心がわたし自身に触れ回っているようで恥ずかしく、すぐに下を向いてしまいました。するとあなたは、わたしが疲れてしまったのだと思い、すぐにわたしに気遣いの言葉をかけながら、顔を覗き込むような仕草をしたのでした。わたしは赤くなった顔を見られるのが嫌で、顔を背けたのですが、おそらくあの時に、わたしのうなじを見たあなたは、わたしを抱こうと決めていたのではないでしょうか。あの時、はらはらと舞った桜の花びらがわたしのうなじに落ち、わたしはそこだけが燃えるように熱く感じられたのでした。あなたはわたしのうなじに落ちた花びらを見つめ、その奥にあるわたしの肌を見つめていました。その視線が花びらを焼き尽くしてしまうのではないかとわたしには感じられ、それでも、うなじの花びらを振り払うことさえできずにいたのです。もしも、わたしが振り?, 払おうとしたところで、花びらはわたしの肌から離れることはなかったでしょう。あの時、わたしの肌はあなたの視線のせいか、それとも春めいた陽気のせいなのか、じんわりと汗ばんでいたからです。
 あの日、あなたとわかれてから、わたしは湯船の中でゆっくりと身体を拭いました。けれど、あの花びらは肌から離れず、わたしの身体の一部となり、いつしか薄い桃色をした小さな小さな痣になりました。
 桜の痣の話をあなたにしたことはなかったけれど、あなたがわたしに匂いを残した日、あなたはわたしの桜の痣にゆっくりと触れ、静かに舌を這わせ、そこに気を込めているかのようでした。
? @あなたが去ったあの冬の日に、わたしはそっと、うなじの痣に触れてみました。それは一緒に桜をみた春の日のように熱く熱く、そこを芯にして、身体全体が火照り始めわたしは身を揺らしては、あなたの匂いを思い出してみたのです。すると、わたしの肌に舞い落ちた桜の花びらをわたしの痣にしてしまったのがあなたではなかったか、とわたしは考え始めました。確かな証があったわけではなく、ただただあなたがわたしに痣をつけたのだという心象だけが浮かんでは消え浮かんでは消え、わたしの中であなたはまるで錬金術師のように振る舞っているのでした。
 うなじを撫でながら、痣を指の腹で探し、ほのかな熱さでそれを知り、指の腹でわたしは痣を押さえつけてみました。痣はまた少し熱さを取り戻し、わたしの指の腹を温めるのですが、暖まったと同時にわたしの指はあなたへの憎しみと愛おしさで動けなくなりました。
 わたしはあなたを憎みながら愛おしさでこたえ、あなたを愛おしみながら憎しみで刺そうとしていました。

 

 

逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい、
と、わたしは何万回も言いました

 

 あなたがわたしに匂いを残してちょうど半年が経ちました。わたしに桜の痣ができてから一年が経ちました。まもなく、あなたは帰ってくるはずです。雨の中のあなたもわたしには見えなくなり、でも、あなたの匂いだけはいっこうに衰える気配を見せず、わたしはずっとこの部屋にいました。
 何人もの男がこの部屋を訪れました。何人もの男とわたしは肌を重ねました。いくら男がわたしの肌に匂いを残そうとしても、あなたが最後に匂い立つのです。男の匂いをさせている女に、男は興味は持っても、最後まで引き受けようとはしません。
 すでに逢いたいという気持ちも掠れ果て、逢いたいという言葉だけがわたしを宙づりにしていました。わたしはあなたの匂いで、この部屋をいっぱいにし、あなたの帰ってくるのを待っています。あなたがいなくなってから、わたしは手鏡を見ることさえなく、時折たずねてくる男たちの吐き出す言葉だけで、わたしを確かめていました。
 もうわたしは骸になっているのでしょうか。横たわったまま動くことのないわたしの身体を数名の男たちがぞんざいに運び出していきました。それでも、わたしはこの部屋にいて、あなたを待っています。逢いたいという気持ちもあなたの匂いも関係なく、わたしはただあなたを待っています。
 骸となり、心しかなくなったときに、初めてわたしはただあなたを待つようになりました。声も聞こえない。匂いも感じられない。桜色をしていた小さな痣も今はもうありません。そうなって初めて、わたしはただただあなたを待っているということに、心穏やかになっているのです。心穏やかにわたしはずっとあなたに、言い続けました。逢いたいというかわりに、こう言い続けました。

わたしをたすけて。

                             (了)