主よ、人の望みの喜びよ

   植松眞人

 


      一 

いまからお話しすることは、三十年も前にあったこと。すでにその女がどこにいるのかもわからず、実は名前さえもはっきりとはしないのです。私がその女と近しかったのはわずかに半年ほどだったでしょうか。
 まだ学生だった私は小さな古いアパートで一人暮らしをしていました。冬は雪に閉ざされてしまうような田舎町から都会へと移り住んだ私には、毎日が刺激的であると同時に、自分自身が変質してしまうのではないか、という恐れを感じていました。そのため、大学で講義を受けるときと、近くの喫茶店でウエイターのアルバイトをするとき以外は、ほとんどの時間をアパートの自室で過ごしていたようなありさまでした。
 そんなある日、女が隣の部屋へ越してきたのです。一人ではありませんでした。男と一緒です。女は三十代の始めでしょうか。しかし、長い髪で丸顔という容姿からとても若く見えました。決して美人ではありませんでしたが、小柄な体型で大人しそうな様子が可愛らしいと私は思いました。男は、女よりも少し年長に見えました。中肉中背で色白の優しそうな人でしたが、背広を着ているところを見たことがなく、どんな仕事をしている人なのかは分かりませんでした。また、この二人が夫婦者なのかどうかも私には判別がつきませんでした。ただ、べたべたと仲がいいといいますか、あの頃にしては珍しく、手をつないだり、時には腰に手を回したりしていました。けれど、結婚間もない夫婦のような仲の良さではなく、何か動物的な匂いを私は感じていました。しかし、その反動かもしれませんが、よく喧嘩をしていました。安アパートの壁など薄いものです。激しい口論は一言一句違わぬほどに聞き取れました。そして、喧嘩があった翌日には、必ず女は少し足を引きずっていたり、顔に痣を作っていたりしました。私は女のことが気の毒になりましたが、夜になれば互いを愛おしむ声が聞こえてきたりもするので、学生だった私は随分と気を揉んだりした覚えがあります。
 女が越してきて二月ばかりたった頃でしょうか。私がアルバイトをしている喫茶店に隣室の男がやってきました。ええ、一人でした。競馬新聞を手に店にやってくると、男は一生懸命に新聞に目を通していました。私が白いシャツに蝶ネクタイというウエイターの格好をしていたからでしょうか。男は私には気付いてはいなかったようです。注文したコーヒーにも口を付けず、男はずっと新聞を見ていましたが、後からいかにもだらしなさそうなチンピラ紛いの男がやってきました。あからさまに聞くわけにもいかなったのですが、どうやら、男はチンピラに借金を無心しているようでした。しばらく穏やかに話していましたが、チンピラが声を荒げると、男はいきなり小さな刃物を出し、テーブルの上に置いていた、チンピラの左手を刺したのです。刃物はチンピラの左手をしっかりとテーブルに固定してしまっていました。うかつに手を動かすと、傷を大きくしかねない状況でしたので、チンピラもただ驚愕の表情で男をにらみつけていました。しかし、男は何事もなかったかのように、薄ら笑いさえ浮かべて、コーヒー二杯分の代金をテーブルに上に置くと店を出ていきました。
 その夜、私はアパートの部屋で、じっと隣室の様子をうかがっていました。かすかな物音はします。おそらく女が一人で男を待っているのだと私は思いました。本を読もうにも勉強をしようにも、まったく手に着かず、私は昼間の出来事を思い返していたのです。その時には、ただただ目の前の出来事に驚くばかりで、それほど恐ろしくはなかったのですが、時間が経つほどに、隣室の男の不気味な薄ら笑いが増幅されて、恐怖が募ってきました。そして、女のほうはそんな男のことをちゃんと知っているのだろうか、という疑問も膨らみ始めたのです。平気で笑いながら人の手にナイフを突き立てられる男だと、女は知っているのでしょうか。そんなことを考え始めると、日頃からの激しい喧嘩やその翌日の女の傷が思い出され、きっと女は知っているのだと私は考え至りました。すると、今度はそれを知りながら男と暮らし、暴力を甘んじて受け入れている女こそが恐ろしい存在なのではないかという妄想が始まり、私は混乱し始めました。
 少し大きな物音が隣室から響き、私は思わず壁際から僅かに退きました。しかし、男が帰ってきた気配はしませんでした。そして、しばらくすると、窓を閉める音がし、次に蛍光灯のスイッチを引っ張る音がして、古い引き戸が開けられました。どうやら、女が部屋を出るようでした。私は無意識に自分の部屋の明かりを消し、真っ暗にしてから、カーテンを引き、その隙間から自分の部屋に面した路地を見ていました。アパートの入り口に人の気配がして、女が現れました。もっとよく見ようと身を乗り出した時、女が不意に立ち止まりました。私は見つかったのかと身を強張らせたのですが、どうやら、女は自分の部屋の窓のあたりを見ていたようです。しばらくの間、女は自分の部屋の方をじっと見ていました。薄い白いワンピースを女は着ていました。初秋のまだ生温かさを残した風にスカートが吹かれるたびに、女の白い足が私の目に焼き付きました。やがて女は再び歩き出し、私の視界から消えたのです。その夜、女は帰ってきませんでした。帰ってきたとしても、夜明け過ぎ。なぜ分かるのかと言えば、私は夜明けまでまんじりともせずに、女の帰りを待っていたからです。
 私が再び女を見かけるようになったのは三、四日経ってからのことでした。女は髪を短くしていました。かなりぞんざいに刈られた髪は、大人しそうな印象を一変させ、とても快活でボーイッシュな印象を強くしていました。丸顔だと思った輪郭は意外にも卵形で、女を恐らく年齢よりもかなり若く見せていました。
 男は出ていったきり、戻った気配はありませんでした。隣室からは女が暮らす物音だけが聞こえ、話し声はまったく聞かれなくなっていました。女の部屋と私の部屋を隔てている壁は薄く、しかも、女はその壁際に寝床をのべている様子で、夜遅くなってからの物音はよりはっきりと聞こえてくるのです。寝る前に女は本を読んでいる。私がそう思ったのは、女の部屋の明かりを消す音、蛍光灯のひもを引っ張る音がする直前にいつも、ぱたん、と厚い本を閉じるような音が聞こえる気がしたからです。そう確信した夜から、私は女が何を読んでいるのかが気になって仕方がなくなりました。
 まだ学生だった私にとって、ついこの前まで一緒に暮らしていた男がいなくなり、独り身になった女の気持ちは計りがたく、知らず知らず、女のことを考えながら一日を終えるという毎日を過ごすようになっていました。同時に、女のことを考える時間が長くなるに従って、私は女との接点を求めるようになりました。そして、ある日曜日の深夜、女の部屋の前に一冊の本をそっと置いたのです。それは当時、私が好んで読んでいた太宰治の「女学生」で、前日に読み終わったばかりのものでした。なぜ、そんなことをしたのか。いまならはっきりと分かりますが、その時、私は女を欲していたのだと思います。肉体的にも、精神的にも、女と触れ合いたいと私は考えていました。自分の読んだ小説を女の前に差し出すという行為は、私の肉体の一部を差し出すに等しい行為に思えました。いえ、それは当時の感覚です。いま思い返すと、ただただ浅ましい卑怯者の行為だったように思います。それでも私は女との接点を一冊の本に託したのです。
 翌朝、私はいつもよりも早く目を覚まし、這うように布団を抜け出すと、そっと部屋の引き戸を開けました。女の部屋の前に置いた私の太宰の本は無くなっていました。私は女の部屋と私の部屋を隔てている壁に耳を当て、様子をうかがいました。しかし、女の気配はなく、私はしばらく耳を押しつけていましたが、やがて諦め、再び布団の中に入りました。
 しかし、布団に入っても私は寝付くことが出来ず、女が私の本を読んでいる様子を思い浮かべました。そうすると、私の中を血が巡り、まだ夏までは遠いというのに、私の身体は汗ばむのでした。
 毎日、女が私の本を何処まで読み進めたのかを考えていました。そして、自分で同じ太宰の本をもう一冊買ってきて、女になったつもりで毎晩読み進めました。あんなに面白いと思った小説が、女が読んでいる姿を思いながら読むと、まったく私の心には刺さらず、もしかしたら、この小説を面白いと思った私自身を見下げているのではないだろうかと疑心暗鬼になったりもしました。それでも、私はなんとか小説を読み進めました。時々、女の様子を壁越しに確かめながら、そうやって私は数日を過ごしたのです。
 明日の夜には読み終えるだろうというところまで読み進めた夜。私は女の声を聴きました。女は確かに何かを言ったのですが、それがなんと言っているのかは分かりませんでした。なんと言ったのか、誰に言ったのか、もしかしたら、男が戻ってきたのだろうか。そんなことを考えている間に、私は眠りに落ちました。
 次の日の朝、私は喫茶店のアルバイトに行くため、自分の部屋の引き戸を開けました。いつものように、女の部屋の方を見ると、廊下には本が置いてありました。私が置いた本でした。私は辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、そっとその本を手に取り、自分の部屋に引き返しました。
 私は本の表紙を嗅ぎ、女の匂いを探しました。錯覚かもしれません。ですが、確かに女の匂いがしたような気がしました。私は表紙に接吻してみました。まるで実際に女と口づけているような気持ちになりました。私は本の表紙を丁寧に軽く軽く撫でまわし、ページをゆっくりと繰りました。一枚一枚の紙の間から、女の姿が見えたような気がして、愚かだと思われるかも知れませんが、私はそれまでに生きてきた中でもっとも至福の時を過ごしたのです。
 喫茶店で働いている間も、私は女のことを考え続けていました。もしかしたら、女はもうあの男のことなど忘れているのかもしれない。本を届けた見知らぬ誰かに気持ちを寄せているのかもしれない。何の確信もないまま、私はそんなことまで考えてしまっていました。
 アルバイトを終え、大学での授業が終わると、私は急ぐ必要もないのに急いで部屋へ帰りました。まだ陽は高く、私の部屋は私の体臭をはらんでむっとするような熱気を抱えていました。私は入り口と窓を開け放ち、部屋に風を通しながら、本を探しました。もう、次の本は決めていました。三島由紀夫の「岬にての物語」でした。大作と呼ばれる作品だと女に下心を見透かされるのではないか、という浅ましい考えが浮かび、私は「岬にての物語」を選びました。
 夜が来るまでの間、私はその小説を読み返して過ごしました。しかし、改めて読んでみると、これを女の部屋の前に置くことで、女がそれ以降、本を受け取ることを拒むのではないかという恐れを抱きました。美しい男女が岬へと身を躍らせるという物語が、なぜか女を刺激するのではないかと思ったのです。しかし、迷ったあげく、私はその小説を女の部屋の前に置きました。
 三島の本を置いてからも私の迷いは続き、何度か布団の上に起きあがり、置く本を変えようかとも思いました。しかし、結局私はそのまま明け方になって眠りに落ちたのです。
 次の日、私は昼近くになってから目を覚ましました。そして、すぐに入り口を静かに明け、女の部屋の前を見ました。三島の本はまだそこに置いてありました。私はやはり本を取り替えようと思い立ち、部屋から這い出すと、そっと本を手に取り、自分の部屋へと戻りました。そして、その本を手にしたまま、次の本を選んでいたのですが、小さな紙片が手に当たることに気付きました。本の間に紙切れが挟まれていたのです。抜き取ってみると、そこには明らかに女のものだと思われる文字で、「この小説はだいぶ前に読みました」と書かれていたのです。私は自分の身体が震えるのを感じました。それは、書かれている言葉以上に、他の本を貸してください、という意味が含まれているのだと私は勝手に解釈していたからだと思います。まだ、女が部屋にいるかどうかを壁に耳を押しつけて探りながら、私は何度も何度もその紙切れを読み返しました。昨日、女から返された本から漂ってきた匂いと同じ匂いがしました。私が女の文字に陶酔していると、女の部屋から物音がしました。私は動きを止め、目を閉じ、女の部屋の音に集中したのです。女は部屋にいて、誰かと話しているようでした。それが誰なのかは分かりませんでしたが、私はきっとあの男が帰ってきたのだと思いました。確かなことは分かるはずもありませんでしたが、きっとそうに違いないと私には思えました。
 やがて隣室の入り口が開けられ、人の出入りが感じ取られました。私はカーテンの隙間から外を覗き見ました。男が金を数えながら私のすぐ目の前を歩いていきました。私は再び、壁に耳を押し当て、様子をうかがいました。女のかすかな泣き声が聞こえました。低く、長く続くうめき声のような泣き声でした。その声は壁などやすやすと通り抜け、私に届けられたもののような気がしました。私は女の声を大切に大切に味わうように聞きました。
 私はまた女の部屋の前に本を置きました。三冊目に私が選んだのは泉鏡花の「天守物語」でした。この小説を選びながら、私は自分を卑劣だと感じました。自らを主人公になぞらえ、心清らかな勇者のように女に思ってもらいたい、そんな歪んだ心を私は感じていました。しかし、自分の心が歪むほどに私は身勝手に女との絆を求めていました。もしも、女が拒むならそれでも仕方はない。私は一人気持ちを高ぶらせ、そんなふうに思っていたのです。
 次の日、私は大学で講義を受けた後、喫茶店で仕事をしていました。それほど流行っている喫茶店でもなかったので、暇な時には奥のテーブルに座り、読書に耽ってもマスターは何も言いませんでした。
 その日も常連客が一人、コーヒー一杯で粘っているだけでした。マスターは煙草をくゆらせながらジャズに耳を傾け、時折、常連客の話し相手をしていました。私も一番奥のテーブルに座り本を読んでいました。女の部屋の前に置いたものと同じ泉鏡花の「天守物語」でした。「女学生」と同じように、学校帰りに神田の古書街で同じ本を手に入れ、読み返していたのです。
 女も今頃、同じ本を読んでいるかもしれない。そう考えていたからでしょうか。私は思いの他、泉鏡花の文章に深く没頭していたため、人影が私の真横にあることにしばらく気付かずにいたのです。
 それは隣室の女でした。女は私が読んでいる「天守物語」をじっと見ていました。私は文字通り心臓が口から出てしまうのではないか、と思うほどに驚き、実際に椅子を倒さんばかりに立ち上がりました。女は私の驚きようをみて笑っていました。私は出来る限り冷静を装って、いらっしゃいませ、と言ったつもりでしたが、おそらく言葉にはなっていなかったのでしょう。女はさらに笑いを大きくし、吹き出してしまいました。私は恥ずかしさに顔が火照り、それを悟られないように冷水を取りに素早くカウンターの中に入りました。女は私が座っていたテーブルにつくと、手に持っていた本を置きました。私の「天守物語」でした。しかも、テーブルの上には私がさっきまで読んでいた「天守物語」が置かれたままになっており、女は二冊の「天守物語」をきれいに並べて置いて眺め始めました。女がどんな顔をしてその二冊を見ているのか、私の位置からはわかりませんでした。
 私はカウンターの中で、自分の軽率さを呪いました。どうして、隣室の前に本を置いてみたのだろうか。どうして、同じ本を不用意に部屋の外で読んでいたのだろうか。どうして、女が入ってくることに気付かなかったのだろうか。したことのすべてが間違っていたような気がして、私は途方に暮れていました。そして、いま私の目の前にいる女が、私の思っていた以上に大人で、私自身は私が思っていた以上に子供だったという事実を突きつけられたように思えたのです。
 私の様子を見かねたマスターが私の替わりに注文を取り、コーヒーを淹れ、女に差し出していました。私はどうしていいのかわからないまま、女の方を見ないようにしながら、カウンターの中で、じっとしていました。
 再び、店内に静けさが戻りました。ジャズだけが低く流れ、常連客もマスターも、そして、女も自分の場所にすっぽりと収まっているかのように、空気を少しも振るわせずにそこにいました。そんな静けさの中で、私だけが私の中に大きな心音を響かせていました。しかし、その心音も少しずつ少しずつ静かになり始めた時、女が静寂を破りました。女は私を見ました。私は抗うことが出来ずに、女の視線を受け止めました。女は少し微笑みました。私もぎこちなく笑いました。いえ、きっと笑顔になっていなかったと思います。そんな私の顔を見ても、女は平静でした。そして、女は立ち上がり、二冊の「天守物語」を手に取り、私の方へ歩いてきました。私はじっと女を見つめたままでした。女は私に聞きました。「いま読み終わったんだけど、もう一冊あるなら、これもらってもいい」と。女は私がその本を置いたのだということを疑う様子もなく、まるで友だち同士が本の貸し借りをしているかのようでした。私は声を出せず、ただうなづいていました。さっきまでの後悔はきれいに消えていました。私も女と同じように、まるで以前からの友人のように感じていたのです。
 女が出ていった後、カウンターに一冊の「天守物語」が残されました。
 アルバイトが終わってからも、私はしばらくの間、部屋に帰る気持ちになれませんでした。おそらく、女はこれまで本を置いていたのが私だったということを、喫茶店で直感したのだと思います。しかし、直感したからと言って、あれだけ確信に満ちた態度に出ることなど、私だったら出来なかったに違い有りません。そこに、女の強さを私は感じ取っていました。私よりは明らかに年上でありながら可愛いとさえ思わせる容姿には、私の計り知れない強さが潜んでいたのですから。
 それでも、自分の部屋に帰らないわけにはいけません。私は出来る限り物音を立てないように自室へ戻りました。
 夜も更け、世間がしんと寝静まった頃、女の部屋から物音がしました。私はいつものように、壁に耳を付けました。コツコツという音が聞こえました。コツコツ、コツコツ、と壁がなりました。女が壁を軽く指で叩いているのだと思いました。コツコツ、コツコツと規則正しく壁がなりました。私は昼間の喫茶店でのように、自分の心音が高まっていくのを感じました。コツコツ、コツコツ。女はいったいどうして、そんなことをしているのでしょう。私は思い切って、コツコツと壁を叩いてみました。女の動きが止まりました。壁の向こうとこちらで息を潜めた二匹の動物がいました。もう一度、私はコツコツと壁を叩いてみました。すると、今度は女の側から、それに応えるようにコツコツと壁がなりました。さっきと微妙に位置がずれていました。私は女の指が当たったであろう場所を探りながら壁を叩きました。すると、またさっきとは微妙にずれた位置で、女の側から壁が叩かれました。少しずつ、私たちは壁を隔てながら、相手の位置を探り、ゆっくりと入り口に近づいていきました。どのくらいの時間、私たちはそうしていたでしょうか。恐らく、とても短い時間だったに違いありません。何しろ、私のアパートはどの部屋も六畳一間ほどしかなかったはずですから。気がついたときには、もう入り口のすぐ脇の壁を私たちは叩き合っていました。そして、閉じられた入り口の向こうで、女の部屋の引き戸が開けられる音がしました。私もその音に導かれるように自室の引き戸を開けました。と、同時に女は私の部屋へ滑り込んできました。
「電気、消して」と女は言いました。
 関西の訛だと思いました。私は蛍光灯からだらしなく垂れ下がった紐を引き、明かりを消しました。背を向けていた私を女は後ろから抱きすくめました。私は身体を硬直させました。女はそんな私を長い時間、ずっと身動きもせずに抱いていました。私は男でありながら、身じろぎも出来ないでいることを情けなく思っていました。女が望んでいるなら、振り返り、女を力強く抱き返し、唇を奪うことくらい、どうして出来ないのだろうと思っていました。しかし、それまで一度も女性と付き合ったこともなく、ましてや肉体関係を持ったこともない私は何処までも無力でした。
 どのくらい時間が経ったのでしょうか。女の私を抱いていた力が抜けました。ふっと軽くなりました。
「あんた、学生やろ。インテリさんなんやろ」と女は言いました。
 私はそれには答えられず、答える替わりにとにかく女を振り返ろうとしました。女はまた私を抱いている腕に力を込め、それを押しとどめました。そして、私の耳元で、抱いてくれるか、と聞きました。女は私の答えなど待たずに、私の背後から私の耳を触り、片方の手で私の胸を触りました。
「声出したらアカンで、もうすぐ、あの人帰ってくるから」
 女はそう言うと、私を座らせ、服を脱がせ始めました。私は放心したまま、女の動きに集中していました。私の性器はすでに大きくはち切れんばかりになっていましたが、女はそれに気付くと嬉しそうに笑いました。「元気やなあ。なんぼインテリでも、ここは一緒やなあ。ほんまに元気や」と、私の股間に手を伸ばし、性器を押しつけるようにまさぐりました。それだけで、私は果てました。小さく唸ると、女は驚いた様子でしたが、優しく私を寝かし、着ていたものをすべて脱がせると、精液に汚れた私の性器を口に含み、きれいに拭き取るように舌を這わせました。「若いうちはな、一回くらい出しても、ちんちんが小さならへん。ほら、また大きなってきたやろ」と女は私の性器から口を離して言いました。私は女を直視する事ができず、天井の木目を見つめていました。しかし、女も私との性的な動きに身を任せている風ではなく、どこか醒めた目で見ているのではないかと私には思われました。私を扇情しているというよりも、むしろ自分自身を敢えて多情に見せようとしていると私は感じたのです。
 女は私の上で大きく激しく揺れ、私は波にのまれるかのようにその動きに付き合い、互いに上り詰めました。いったん、二人の呼吸がひとつになると、達するまでの時間は僅かだったと思います。私の上で込み上げる吐息を抑えられずにいる女を、私はそっと見つめました。女は目を閉じたまま、私の胸元に頬を付け静かに動悸が収まるのを待っているかのようでした。そんな女を見ているうちに、私は哀しみを覚えました。ほとんど見ず知らずの隣人である私を相手に、火照る身体をぶつけなければならなかった女がとても不憫に思えたのです。そして、私はふいに劣情を催しました。女と私の身体の間に手を滑り込ませると、自分の性器を握り、再び、女の股間へと突き立てたのです。不思議なことに二度も達していたのにも関わらず、私の性器はしっかりとしていました。眠りかけていた女は腰をびくんと震わせるとうっすらと目を開け、自分から私の性器を包むように尻を押しつけてきました。
「あそこがひりひりするわ。けど、抜かんといて、ゆるゆる動かして」
 そう女は言いました。
 私たちは何度も何度も身体を寄せ合い、突き放し、寄せては返す波のような性交を続け、やがて、知らぬ間に眠ってしまいました。
 大きな物音に、私たちは同時に目覚めました。「帰ってきた」と女は囁き、私の上にしがみついてきました。私は耳を澄ませ、隣の部屋に男の動きを感じました。女は私の口に手を押し当てて、声が出せないようにしていました。そして、唇を薄く開いたまま、うちな、チンピラみたいな男が好きやねん、と呟きました。女と二人で声を潜め、隣室の物音に耳を澄ませていると、男の立てる物音よりも女の吐息がはっきりと耳に届きました。女は唇で私の唇を押さえ、声がもれないようにしながら、わずかに腰を波打たせていました。


     二


 喫茶店の給料が出た月末。私は、同じ大学に籍を置く友人と女を買いに出かけました。
 男が戻ってきて以来、女が私の部屋に来ることはありませんでした。私といえば、女との情交を忘れることができず、毎晩、女が部屋に忍び込んでくるのではないかと隣室の物音に聞き耳を立てて過ごしていたのです。しかし、さすがに女も男を置いて私の部屋に忍んで来ることはありませんでした。時に、男と女が重なりあう気配や、かつて自分の間近で聞いた女のうめき声が聞こえ、私は自分を失っていたのです。女が私の部屋に忍んできた日から一週間が過ぎていました。
 渡辺は無類の女好きで、郷里の京都では中学時代から女郎屋通いをしていたと豪語するような男で、デリカシーがなく、しかし、それゆえに愛すべき友人でした。女を買いに行こうと誘ったのは渡辺です。さすがに女好きだけあって、私の憔悴ぶりに女が絡んでいることを察したのではないでしょうか。結婚を約束した女性が郷里にはいるとのことでしたが、結婚と女遊びは別だと女郎屋に通い、女学生に色目を使い、すれ違う女性にも常に声をかけながら、渡辺は学生生活を謳歌していました。
 私はそんな渡辺を羨望していました。が、そんな羨望を感じさせまいと、これまでずっと彼に軽蔑のまなざしを送り、時にははっきりとその素行を揶揄したりもしていました。渡辺は私の言葉など意にも介さず、自分のやりたいようにやってきたのです。知り合った頃に、女郎屋に誘われたことがありましたが、私が断ると、二度と誘うことはありませんでした。ただ、あの店の誰某は情の入った顔が堪らないだの、あの店の誰某の声は演技だなどとさながら、カストリ雑誌の編集者のような口調で、私に話して聞かせるのでした。
 渡辺が私を女郎屋に誘った時、私は迷うことなく同意しました。アルバイトのお金が入ったばかりでしたし、なによりも、他の女を抱くことで隣室の女を待ちわびるだけの毎日に訣別したいと考えたからでした。
 私たちは吉原へと向かいました。その当時でも売春防止法は施行されていましたので、今から思えば、吉原と言えどもすでに女郎屋というかつての隠微さはなかったのではないかと思います。しかし、私はそれまで女を買うための場所を経験していなかったので、はっきりとしたことは言えません。とは言え、今のような開けっ広げな雰囲気でもなく、どこか後ろめたい、底知れぬ物悲し気な空気は残っていました。
「僕の馴染みの店があるんやけど、そこでええか」
 渡辺の言葉に私はうなずきました。あちらこちらで、明らかにその筋の者と分かる男たちが立ちすくんで、決して視線をあわせることなく、しかし、私たちの動きを正確に把握しているように思いました。私は渡辺について狭い路地を歩きました。鋪装されていない道に足を取られそうになり、私がふいによろめいた瞬間に、先ほどまでじっと立ちすくんでいた男たちが、ぴくりと指先を震わせたのがわかりました。
 渡辺は路地の奥まった場所にある店に入ってゆき、あがりかまちに座っている年嵩の女と小さな声で話していました。話している間、年嵩の女は私をちらちらと盗み見しながら、時折、少し小馬鹿にしたような表情で笑いました。渡辺に手招きされ、私も年嵩の女の前に行きました。女は私には声をかけず、ただ二階を指差しました。私たちは靴を脱ぎ、二階へ向かいました。二階は意外に広く、廊下の両側に三つずつ部屋がありました。廊下のいちばん奥の両側の部屋のふすまが開けられており、私と渡辺は向い合せの部屋へと入りました。部屋に入る時に、私は渡辺を振り返りましたが、渡辺はこちらを見ることはなく、ただ、両の手を後ろにまわし、右手の中指を左手で包み込んで、出したり入れたりしながら部屋の中へと消えてゆきました。
 誰もいないと思っていた部屋の中に、下着一枚の女がいました。部屋に入ると、女は小さな掠れた声で、ふすま閉めてちょうだい、と言い、私は言われた通りにしました。ふすまを閉めてしまうと、部屋は薄暗く、女の表情さえほとんど見えないほどでした。私としては、女の顔を見る余裕などなかったので、その方が都合よく思えました。私が立ちすくんでいると、女は邪魔臭そうに布団の上で膝を立て、手を伸ばして私の腕を掴んで引っ張りました。私はそのまま女の上に倒れ込んでしまったのです。
 薄暗がりの中で、女は鼻を突くような香水の匂いをさせながら、私の衣服を脱がせにかかりました。私はじっと天井を見上げていました。
「お兄さん、緊張してるの」
 そう女に言われましたが、私は不思議に緊張などしていませんでした。目の前にいる女よりも、隣室の女を思いだしてしまい、それが私を興奮させていました。女は早く仕事を終えたいという気持ちからか、私の衣服を脱がしている間も、ずっと片方の手で私の股間を撫で回し続けていました。女は、私の性器が大きくなっていることに満足したのか、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、と囁きました。その声は、私の中で少しずつ大きくなり、重なり合いました。気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ…。私は目を閉じて隣室の女の顔を思い出していました。私の上に乗って、腰を震わせているところを思い出していました。いま、私の性器を弄び、耳元で囁いている香水くさい女のことなど、すっかり忘れて、私は隣室の女との情交をなぞりました。そして、それが最後に達する場面になったとき、隣室の男の声が聞こえたのです。私は反射的に身体を起こし、手を振り回しました。ふと我に返った時、私の横に、香水くさい女が倒れていました。私は夢を見ていたかのように、どうしてそうなったのか、しばらくの間、理解できませんでした。そうです、私が手を振り回したときに、女の顔を打ってしまったのです。女はわずかに鼻から血を流していましたが、意識がないわけではありませんでした。ふいに、女も身体を起こすと、自嘲気味に微笑みました。
「やくざ紛いの客に殴られたことはあるけど、お兄さんみたいな学生さんに殴られたのは初めてよ」と女は言いました。私は事態を飲み込み、慌てて正座すると土下座をして謝りました。女は鼻を押さえながら、笑い出しました。そこのちり紙とってよ、と言うと、それを器用に長細くちぎり、鼻の穴に詰めました。その姿がとても間抜けに見え、私も少し笑いました。
「お兄さん、笑ってる場合じゃないわよ。普通なら、怖い人たちが私の一声でやってきて、あんたなんか連れて行かれちゃうんだからね」と脅す風ではなく言いました。私は少し緊張して、もう一度土下座しました。
「もう、いいわよ。それよりお兄さん。あんた誰か他の人のこと考えてたでしょ」
 私は首を横に振りました。
「わかるわよ。いいわね、若いうちはいろいろあって。私だっていろいろあったけどさ。もう無いわね。きっと無いわ」
 そう話すと、女はしばらく黙り込みました。はっきりとはしない、橙色の灯りの中で、女は急に歳をとったかのようでした。いつの間にか女は下着もつけない姿になっていましたが、それがまるで、私の母のように映りました。長い年月の間に、女の中に貯まった澱のような疲れが肌を這い回っているかのように、私には見えました。
 私は女を見つめていました。女は自分の腹を見ていました。そして、ふいに顔を上げると、若さを強調するかのような微笑みを浮かべ、こっちにいらっしゃい、と言いました。私は言われるままに女の前に正座し直しました。女は座ったまま、足を大きく開き、性器を露わにしました。そして、女の薄幸を象徴するかのような薄い陰毛を人差し指でかき分けると、ある部分を撫で回しながら、女はここが弱いのよ、とつぶやきました。それからここ、と指をさらに押し入れ、第二関節くらいまで入れるとかき回すように動かしました。この辺りをぐりぐり触ると、頭がぐるぐる回っちゃうのよ、敏感だからさ、相手の顔見ながら、ゆっくりゆっくりさわるの、そうすれば、どこが一番良いのかだんだんわかってくるから。そこまで、言うと、女は自分で自分の性器を触り、少しずつ息を荒くしていました。お兄さん、ちょっとチンチン見せてよ、と言うので、私はすでに大きくなっていた性器を掌にのせ、女に見せました。女は笑い出し、自分の性器に触れるのをやめました。
「ごめん。だって、男って分かりやすいんだもの」
 女はそう言うと、私の性器に触れ、後ろを向きました。犬のように四つんばいになると、女は尻を突き出しました。さっきまで自分で触っていた性器がぬらぬらと濡れていました。
「お兄さん、せっかくだから入れていきなよ。好きな女のことでも思い出しながらさ。こうすれば私の顔が見えなくて思い出しやすいだろ。お兄さんの好きな女の名前を呼びながらでいいからさ」
 女は、そんなことを言いながら、私に尻を向け、ゆっくりと左右に動かしました。私が女の名前を知らないと告げると、再び少し笑い、またすぐ黙りました。そして、ちょっと沈んだ声で、お兄さんも辛いわね、と言いました。

 

      三

 何か尋常でない寒さを感じ、私は目を覚ましました。部屋の窓を開けてみると、うっすらと路地に雪が積もっていました。時折、寒くなったり、温かくなったりする日々の中で、季節は確実に歩みを進め、私が気づかない内にすっかりと冬になっていたようです。
 隣室の女が私の部屋を訪ねてきたのはまだ秋の早い内のことでしたから、かれこれ三ヵ月は過ぎてしまったことになります。その間、隣の部屋からは女の気配がしたりしなかったり。最初のうちは、女の気配を感じただけで、壁に寄り添い、目を閉じ、耳を澄ませていましたが、あれ以来、女との直接的なつながりはありませんでした。しかし、私の中で女が消え去ることはなく、むしろ、より大きな場所を占めるようになっていました。もちろん、私自身は女を忘れるための努力は重ねたつもりでした。吉原へ行って以来、渡辺は頻繁に私を誘うようになりましたが、私も懐具合の許す限り、それに付き合いました。しかし、商売女を抱けば抱くほど、私は自分が大人になり切れていない存在なのだということを突きつけられ、隣室の女にとって自分などその場の遊びだったのだと諭されているようでした。
 私はもう一度、窓の外を眺めてみました。すると、雪で覆われた路地に一つの足跡を見つけたのです。その足跡は私の部屋の外を横切り、隣の女の部屋の外にまで来て、そのまま引き返していました。私は以前に喫茶店で隣室の男がナイフを突き立てたあのチンピラではないかと思いました。あの一件以来、男と女が小さく言い争っていたり、多少の暴力があったりしたことは、気配で察していましたが、ナイフを突き立てられた男本人が絡んでくるような大騒ぎはありませんでした。
 私はあの日感じた背中に氷を這わされたような感覚を再び味わいました。私はこのことを女に知らせなくてはならないと思いました。男がどうなろうと構いませんでした。ただ、女が巻き添えにならないように、とそれだけを願いました。しかし、どうしていいのか分からず、私は初めて女が部屋に来た日のように、薄い壁を叩いてみました。コツ、コツ、コツ、と叩いてみました。返事はありませんでした。私は諦めずに、もう一度、さっきよりも少し強めに叩いてみました。
 コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。
 いきなり、私の部屋の戸が開けられました。
 隣室の男でした。私は壁に耳を付けたままの姿で、呆然としたまま私の部屋の戸口に立っている男を見つめていました。
「なんやねん、兄ちゃん。ゴツゴツ、ゴツゴツ鬱陶しい音させて。なんぞ、用事か?」
 そんな風に話す男は荒い言葉とは違い、いたって穏和な表情でした。あの日、喫茶店でチンピラの手をナイフで刺し通した男にはとても見えませんでした。しかし、いくら穏和な表情をしているとはいっても、私は男のあの冷徹な目を忘れることはできませんでした。この男は、笑いながら人を傷つけることの出来る男なのだ、という脅えが私を黙らせていました。男は私の返事を待つかのように、同じように黙ったまま戸口に立っていました。
 ようやく私が居住まいを正したのと、男が私の部屋に入ってきたのは同時でした。私が詫びの言葉を思い切って口にしようとしたその瞬間、男は私の部屋に入り、戸口を閉めたのです。私の口から出かかっていた言葉は、再び腹の奥の方へと戻ってしまいました。私は正座した足を崩し、部屋の奥へと倒れ込みました。男はそんな私を見て薄い笑いを浮かべながら、ゆっくりと私のすぐ隣にきて、どっかりとあぐらをかいたのです。私は隣室との壁と男に挟まれるようにして倒れ込んでいました。男は、私越しに薄い漆喰の壁をじっと見ていました。そして、自分の部屋がまるで壁が透けてみているかのように、何がどこにあるのか、指を指しながら説明し始めたのです。
「あそこに小さなテレビが置いてある。その隣に古い整理ダンスがある。そんで、こっちの方にはワシの仕事道具が紙袋に入れて置いてある。あ、そうや、テレビと整理ダンスの間にこれまた小さなラジオがあるわ。布団は出しっぱなしや。なにしろ、このアパートの押入は湿気てるからなあ。兄ちゃんも出しっぱなしやろ。そらそうや。湿気た布団で寝れるかいや。湿気るんやったら女のあそこで湿気んとな」
 そこまで言うと、男は不意に立ち上がり、おおきにお邪魔さんでした、と言い残して出ていきました。
 私は、壁を見ました。そこに、男が説明した通りの情景が見えたような気がしました。まるで隣の部屋が、水族館の水槽のように見えたのです。私がその情景に目を見張っていると、戸口が開き、男が入ってきました。そして、テレビと整理ダンスの前に立ち、先ほどの薄い笑いを浮かべながら、私をにらみつけたのです。もちろん、実際にはそこに壁がありますから、私の想像に過ぎないとおっしゃるなら、そうかもしれません。でも、あのとき、確かに、男は隣の部屋に戻ってから、私の方をにらみつけていたはずです。私にはわかったのです。きっとそうに違いありません。後日、男が私と女との関係を知っていたのだと知らされる前から、私は男からの底知れぬ恐ろしさを感じていました。

 

     四


 男がふいに私の部屋を訪れてきた日の夜、私は渡辺の部屋にいました。何か、とてつもなく恐ろしいことが始まるのではないか。そんな気持が私を支配し、自分の部屋でじっとしていることが出来なくなってしまったのです。
 私が訊ねた時、渡辺は嫌な顔一つ見せずに、にこやかに私を部屋に上げてくれました。私はてっきり渡辺が好都合にも暇を持て余していたのだと思いました。しかし、実際には、すでに部屋には布団が敷かれてあり、女がそこに横になっていました。私は気後れして、部屋を辞そうとしたのですが、女がいることなどお構いなく、渡辺は私を強引に部屋へとあげました。
 どう見ても、渡辺と女はさっきまで情を交わしていたに違いなく、部屋の中には、二人の体臭が満ちていました。私は隣室の女と過ごした時間を思い、あの時、私の部屋にもきっと、こんな匂いが立ち込めていたのかと、どうにも居心地の悪さを感じていました。しかし、そんな私の戸惑いを渡辺は面白がっているらしく、我慢しきれないという様子で声に出して笑い出しました。
「お前は、どうも女を特別なもんとして見てるようやなあ。世の中、男と女しかおらんのだから、あんまり硬く考えるなよ」
 そう渡辺は言いました。しかし、私は自分が女のことを特別な目で見ているという意識も、硬く考えているというつもりもありませんでした。ただ、そう見えたのだとしたら、自然にそうなっていただけのことなのです。自分で、どう考えよう、こう思おうなどという余裕は、あの頃の私にはありませんでした。それでも、渡辺の言うことには私も思い当たる節があり、私は渡辺の言葉に赤面してしまっていたのでした。そんな私を見て、渡辺はさすがに悪いと思ったのか、酒を買ってくる、と言い部屋を出ていきました。
 渡辺は引き戸も閉めずに出ていってしまいました。冷たい風がそこから強く吹き込んできました。私は女と二人きりで残されたことに改めて気づき、何も話せず、ただ戸口から吹き込む風にぼんやりとしていたのです。女は布団に横になりました。女は薄い掛け布団の下で裸でした。向こうを向いたままでしたが、冷たい風に堪りかねたのか、こちらを向いて、ねえ、閉めてちょうだい、と言いました。その声色に聞き覚えがあり、私ははっとしました。私が吉原で抱いた女でした。
「お兄さん、久しぶりだね」
 女はまるで旧くからの知り合いのように、私に声をかけました。そして、身体に掛けていた薄い布を肩にかけ直し、上体を起こすと、あの吉原の女郎部屋にいた時と同じような商売じみた笑みを浮かべました。なに驚いてんのよ、と女は私に言いましたが、私は心底驚いていたので、その女の言葉がよく理解できませんでした。しかし、女は私に構わず言葉をつなげました。
「不思議よね。私は渡辺さんより、お兄さんの方が好きなんだけどさ。渡辺さんは私のことを良いって言うんだよ。どうしてって私が聞いたらさ、なんて答えたと思う。私がくたびれてるからだって。失礼しちゃうわよねえ」
 女は大きな声で笑いました。私も女のあっけらかんとした笑いにつられて、笑ってしまいましたが、本心では、学生の分際である渡辺が商売女を囲ったりできるのか、とても疑問に思っていました。
 ちょうど、酒瓶を抱えた渡辺が帰ってきました。なに笑ろてんねん、と渡辺が聞くと、女は私の心を見透かしたように、なんで渡辺さんが女郎の身請けができるんだって、驚いてんのよ、と笑ったままで言いました。すると渡辺は笑みを消し去り、中腰になって私の顔の真ん前に自分の顔を突き出して、こう言ったのです。
「僕はなあ。こいつ、ミユキいうんやけどな、ミユキを身請けしたわけやあらへん。お前があの日、部屋から出てきた時に見かけて、えらい気に入ってしもてな。あれから通い詰めや。それで、昨日、さろて来たんや」
 さろて来た、という渡辺の言葉を私は幾度も頭の中で転がせました。そして、それが文字通り、ミユキという女を女郎屋からさらって来たのだと理解するまでに、しばらく時間がかかりました。私がことを理解し、驚いて二人の顔を交互に見ていると、まずミユキが笑い、次いで渡辺が笑いました。
「こいつ、くたびれてるやろ。そこが堪らんのや。くたびれてるくせに色っぽい。そんな女、そう簡単には見つからんで」
 確かにミユキは渡辺が言うように、くたびれていました。私が女郎屋で肩を落とすミユキを見て、自分の母を思いだしてしまったように、ミユキはくたびれていました。それは、肌の張りが衰え始めている、という見た目の問題と同時に、何か生きる目的を見失っているというような、気持の問題があるように私には思われました。そして、同じく渡辺の言うように、ミユキには得も言われぬ色気がありました。もともと整った顔立ちのミユキが人生を重ねる中で、年輪のように心の中に取り込んできた優しさや憎しみや哀しみのようなものが、微妙に彼女のバランスを狂わせ、それが隙の多い男好きする肢体を作り上げているような気がしました。
「とりあえず、しばらくは前とおんなじように、あの店に通って、僕は関係ない、いう顔しとかなあかんわけや。それで、好きでもない女を抱かなあかん。辛いなあ、ほんま辛い。けど、辛いのは僕だけやないで。ミユキもしばらくの間は、ずっとこの部屋にこもっとかなあかんからなあ」
 渡辺がそう言うと、ミユキは、あんたは辛くないでしょうに、と笑いました。
 私たちは、その夜、遅くまで酒を飲み語りました。そのほとんどは、渡辺の素行の悪さをあげつらうもので、ミユキもまるで他人事のように、知っている限りの悪さをあげ、渡辺をいじめては楽しんでいました。言われている本人も、満更でもない様子で、ほらな、くたびれた女はこういうとこがさばけててええんや、などと繰り返していました。私たちの話は、女のこと、性交のあれこれ、日本という国のこと、そして、世界情勢にまで広がり、広がるほどに私たちは無責任になり、いつの間にか私は自分を失い、眠ってしまいました。
 気付いた時には、私は布団に寝かされていました。暗い中で目を凝らしていると、私の隣にはミユキがいました。ミユキも私と同じように横になっており、顔はこちらを向いていました。私は寝ぼけ眼で、しばらくミユキを見ていましたが、ミユキは眠ってはいないようでした。しっかりと目を閉じていましたが、まぶたに必要以上の力が入っていることで、眠っていないのだと気がつきました。
 私はいつまでも、ぼんやりとミユキを見つめていました。やがて、ミユキの身体がゆっくりと揺れ、口元が薄く開き、湿った息が漏れました。どうやら、ミユキの背後から情を交わしているようでした。ミユキがついたてのようになり、私の位置からは渡辺は見えませんでしたが、ミユキの肩をしっかりと押さえているのは間違いなく、渡辺の手でした。渡辺が深く突き立てたのでしょうか。ミユキが少し大きな声を出し、目を開きました。そして、私はミユキと目を合わせてしまったのです。ミユキは渡辺を尻で受け止めながら、私をじっと見つめました。私はしばらくじっとしていましたが、ミユキに手を伸ばしました。自分でも不思議なのですが、自然に手が伸び、ミユキの乳房を掴んでいたのです。ミユキの目が笑いました。そして、なぜか安心したように、再び目を閉じ、さっきよりももう少し大きな声で喘ぎながら、私の手の上から、自分の手を添えて、乳房を揉みしだくようにしたのです。
 やがて、渡辺は果てると、酒の酔いが回ったのか、そのまま鼾をかいて、ミユキの背中で眠ってしまいました。するとミユキは、自分の手で、自分の性器に触れ、自慰を始めました。さすがに、自分の身体を正確に把握しているのでしょう。ミユキはほんの僅かの間に登り詰め、私の見ている前で達しました。ミユキの息がかかるほどの距離でその行為を見ていた私は、ああ、この女のこの顔は、この女の親兄弟でさえ見たことがないのだなあ、と思っていました。
「ミユキさんは、いつも男とした後に自分でするのか」
 私がそう聞くと、ミユキは、男とやって満足したことはないね、と答えました。
「いったことないのよね。なんでかなあ。心を許してるつもりなんだけどね。身体は気を許してないのかもね。いままで何十人、何百人としたけど、本当にいったことがないのよ」 そう言うと、ミユキは私の性器をぐっと握りました。
「遠慮してると女は逃げるよ、お兄さん。私がお兄さんのこと好きなのはね、遠慮の固まりみたいなとこ。でもね、女が弱いのは渡辺みたいに遠慮のない男なんだよ」
 そういうと、女は私の見ているのも気にせず、いや、おそらく私が見ているからこそ、眠ってしまっている渡辺の上にまたがり、渡辺のしなびた性器をしごくと、無理矢理に自分の股間に滑り込ませるのでした。
 次の日、目を覚ますとすでに渡辺はいませんでした。ミユキは長袖のシャツと少し長めのスカートをはいて、部屋の隅にある小さな台所に立っていました。私が目覚めたのを知ると、インスタントのコーヒーとトーストを用意してくれたのでした。前日から酒しか飲んでいなかった私は、とても空腹で、飛びつくようにトーストを口に入れました。バターが溶け、染み込んだトーストは、私にここしばらく忘れていた穏やかな気持を思い出させてくれました。そんな私に、ミユキはもう一枚食べる?と聞き、トーストが口にいっぱいで話せない私を笑いながら、台所へと立ち、トースターに食パンを放り込みました。その時になって、私はミユキが洋服姿であることに気づき、初めて下着か裸以外の彼女を見たことで、これまで以上の色香を感じました。
「なに見てんのよ」
 と、ミユキは私の視線に気付いて笑いました。私は、その微笑みに誘われるように、立ち上がり、ふらふらとミユキのところまで行き、流しに彼女を押さえつけて、抱こうとしました。するとミユキはあまり抵抗するふうではなく、しかし、かといって抱きついてくるわけでもなく、ぼんやりとしていました。その力の抜け具合に、私が手を弛めた時、ミユキは、お兄さんに抱かれても構わないわよ、と冗談めかして言いました。
「だって、私もお兄さんのこと好きだから、入れてほしいわよ。入れれば誰だって気持いいからさ。だけど、条件があるのよ。まず、渡辺さんにばれないこと。渡辺さんはさばけた遊び人だけどさ、弱みは握られたくないからね。それから、お兄さんが、本当に好きな女を、もう一回、ちゃんと抱いてから、っていうのはどうかしら」
 渡辺のことはよく分かる気がしました。しかし、二つの目の条件は、私には腑に落ちないもので、私のそんな思いがきっとそのまま顔に出ていたのでしょう。女はそのまま続けました。
「お兄さんはまだ女の身体に興味津々なのよ。だから、させてくれそうな女なら、すぐその気になっちゃうの。私としたいって思ってるのも、そのせいなのよ。だけど、お兄さんには、本当に抱きたい、名前も知らない女がいるじゃない。だからさ、その女をちゃんと自分のものにしてから、私としてよ。そしたら、きっとものすごく気持ちいいんじゃないかと思うんだ」
 ミユキは笑って私を見つめました。私は今この女は濡れているのだと、そのことを考えていました。私の目の前で濡れている女に、どう答えればいいのだろう、どんな顔をすればいいのだろう、と私は困惑しました。その時、トースターから焼き上がったトーストが飛び出しました。

 

    五

 私は再び、アルバイトをしている喫茶店と、造りの甘い自室と、すでに失望を感じ始めていた大学を行き来する日々を送り始めました。渡辺の部屋にはミユキがいることで行き辛く、自分の部屋は隣室の女の気配を感じることが辛く、結局私はアルバイトに精を出し、熱心でもないくせに大学の講堂などで長い時間を過ごすようになっていたのです。
 喫茶店でのアルバイトも半年以上が経過しており、私はマスターから店を任されるようになっていました。任されるといっても留守番程度ですが、マスターがパチンコに行ったり、近所の顔なじみの店に世間話をしに行っている間は、私がコーヒーを入れ、かけるレコードを選んでいました。
 その日も、マスターは朝の客が引けた頃から、パチンコへ行きました。私は一人でカウンターの中で客を待っていました。私はこの時間が好きでした。トーストとゆで卵が付いたモーニングセットを求める客たちが引けた後の静かな時間が好きでした。食事らしいものは、トーストくらいしかない店でしたから、昼時も遅くなってからしか客は来ず、総じて暇でしたが、それでもまるっきり客がいなくなる時間は、この朝の時間くらいのものでした。コーヒーの香りが醸し出す少し重い空気が、私の中に入り込み、その分だけ、私がこの店と一つになっているような気がしたのです。それでも、この時間にマスターも客もいない、本当に一人になれることはあまりなく、その日、私は自分のために淹れたコーヒーをゆっくりと味わいながら、私の空間を楽しんでいました。そこに、隣の部屋の男と女が現れたのです。
 最初、私はごく普通に、いらっしゃいませ、と声を掛け、お冷やを用意し、二人が座ったテーブルへ近づいていきました。その時、男が顔を上げ、にやりと笑って見せたのです。私は唐突な出来事に驚き、水の入ったグラスを落としてしまいました。大きな音と共にグラスは砕け散り、水が床を濡らしました。私が呆然としていると、女は素早く立ち上がり、飛び散っていたグラスの欠片をお盆の上に集め始めました。相変わらず、男はにやりと笑いながら私を見つめ続けており、私は足がすくんでいました。私の足下でグラスの破片を集め続ける女と、私を見つめている男。その間に立って、私は身動き一つ出来ずにいたのです。それでも、自分の店の後かたづけを女にさせていることは、私にも気詰まりで、声を掛けようとするのですが声が出ません。なんとか、声を出そうと思っている時、女の方が、痛っ、と小さく叫びました。女はグラスの破片で指を切ってしまったのです。私は女の指から流れる赤い血を見て、さらに声も出ず、動くことも出来なくなってしまいました。背中を冷たい汗が流れ、私を見つめているであろう男を見ることさえできなかったのです。しかし、男は動きました。席を立つと、私の足下へしゃがみ込み、女の指を掴んで流れ出る血を見ていました。女の右手の人差し指の腹が切れていました。男が女の手を掲げたことで、血は指の腹から付け根へと流れていました。やがて、男は女の手を掴んだまま、私を見ました。今度はにやりと笑うことはなく、ただただじっと私を見ていました。そして、ゆっくりと女の指を口に含んだのです。さっきまで笑みを浮かべていた男の口元には、女の血が微かに付いていました。男は、女の指をくわえたまま、私を見つめ続けました。私は自分の足下でしゃがみこんだまま、男と女を見下ろす格好で時間を過ごしました。男は、女の指をゆっくりと口元から出し、今度は指で舐め始めました。その間も、視線は私から放さないままでした。指の血は、男の唾液と混ざり、小さな赤い気泡をつくりながら、女の手首へと流れていきました。女は目を閉じたまま、時折、痛みに顔をしかめ、男はそんな女の顔を横目で見ながら、指を舐め続けました。私はどうかしていたのだと思います。ふいに、男と女の間に割って入り、男が舐め続けていた女の手を取ったのです。私は女をかばうようにして、男と対峙していました。
 それをきっかけに、男は立ち上がりました。私よりも上背のある男に、今度は見下ろされる形になり、私は自分がとった行動がどういう結果を招くことになるのか、怯えました。私はそれまで、殴り合う喧嘩などほとんどしたことがありませんでした。しかし、この女のために殴られるのなら、それはそれで仕方がないことだと思われました。この男と喧嘩をして勝てると思ったわけでは決してありません。ただ、この男は私を殺したりはしないだろうという確信だけはあったのです。殴られ、運が悪ければ骨折させられる程度で終わると私は思いました。
 男は私をじっと見つめたままでした。女は私の背後で息を殺したままでした。私は男を見つめることも出来ず、視線を男の胸元あたりに漂わせていました。その時、ふいに男が言いました。
「兄ちゃん、この女の身体、好きか?」
 どう答えていいのか分からず、私は男の目を見ました。男の目は笑っていました。この店で、チンピラ風の男の手を刺した時と同じように笑っていました。
「好きなんやろ。もっと抱きたいやろ。わしはもうええねん。飽きた。おめこもやりたいだけやってしもた。そらもう飽きるほどやった。月のもんがある日でも、おめこ舐めたった。兄ちゃん、こいつ抱くんやったら、おめこから血が流れようがなにしようが、毎日抱いたってや。そうせんとなあ、わしが切ないんや。こいつが誰にも抱かれんと、ひとりで寝とると思うとなあ」
 そう言うと、男は私に腕をかけ、抱き寄せました。ものすごい力でした。抵抗する間もなく、私は男に抱きすくめられました。そして、男は私の唇に自分の唇を重ね、明いている手で私の頬を掴み、無理矢理に口を開けさせました。私の口が開くと、男は苦い味のする舌を滑り込ませ、私の舌に絡めました。女の血の味でした。男は、私の舌に女の血を思う存分擦り付けると、私を女の方へ突きました。私は女と共によろけ、テーブルに倒れ込みました。そんな私たちに、おおきにお邪魔さんでした、と声を掛けると男は店を出ていきました。
 マスターが帰ってきた頃には、すでに割れたグラスもすっかり片づけられ、女もいなくなっていました。男が出ていった後、私たちは呆然としていましたが、私が声を掛けようとすると、女は一言も発しないまま出ていってしまいました。マスターに気付かれないよう、後かたづけをしましたが、どうしても店の中に血の匂いが残っているような気がして、私は新しいコーヒーを淹れました。そのコーヒーを一口飲んだ時、私の口の中にはコーヒーの酸味ではなく、女の血の味が広がりました。

 

      六

 部屋に戻ると、隣の部屋から、戻った?と女の声が壁越しにしました。そして、しばらくすると、女は用意していた少ない荷物をすべて、私の部屋に運び込んできました。
「あいつが、ほとんどお金に換えてしもたから、なんにも残ってない。ほんまに私の服くらいしかないねん。隣の部屋見てみる? ほんまになんもないから」
 と言った通り、女は荷物をほとんど持ってきませんでした。しかし、私は隣の部屋を覗いてみる気にはなれません。女があの男と暮らしている部屋を見てしまったら、いくら荷物が運び出されていても、いくらこの部屋と同じ造りでも、きっといつまでも忘れられない風景となってしまいそうな気がしたからです。
「これから、どうするの」
 女は言いました。私はこの女と暮らそうと思っていました。この女のすべてを見て、この女のすべてを受け止めようと思っていました。私はまだまだ自分を子供だと思っていましたが、この女を受け止めることによって、大人になれる、という気持ちでいたのです。一緒に暮らそうと思ってる、と私が言うと、女は吹き出しました。
「一緒に暮らすことは、もう決まったことやん。だって、私とあんたがしてしもたことは、あいつにばれてんもん。そのせいでうちは、あいつに捨てられてんで。そら責任とってもらわんと」
 そう言うと、女は笑いました。
「あの男の人は、どうして、僕たちのことを知ったんですか」
 私が聞くと、うちが言うてしもてん、とあっさり答えました。
「あいつな、布団の中でしてるときに、ずっと話かけるんよ。他に好きな男はおるんか、他の男とおめこしたんか、いうてな。言いながら興奮しよるんや。うちかて興奮する。最初はな、ほんまのこと言うたらアカン思て興奮すんねんけどな。だんだん、ほんまのこと言いたなんねん。別にあいつに悪いと思てるわけやないねんで。ただ、もっと興奮したいと思た時に、ほんまのこと言うてしもたんや。堪忍してな」
「あの人は、いつから僕らのこと知ってたんですか」
「あんたとした、次の晩かなあ」
 私は気が遠くなるようでした。私が自分一人世界の外に置かれたような孤独を感じているとき、この女は隣の部屋で、私を戯れ言にして興奮していたというのです。私はあまりにも無防備な女に困惑しました。
 私が半ばあきれ顔で女を見ていると、女は服を脱ぎ始めました。
「うち、あんたとしたかってんで。あいつに、舐められてる時も、ずっとあんたに舐めてもらう方がええのにって思てたんや。けどな、それでも身体は勝手に興奮しよる。腰が勝手にくねくね動きよる。うち、隣の部屋から、あんたに、ごめんな、ごめんなって言いながらあいつとしてたんや」
 そう言うと、女は下着をすべて取り、私の目の前で足を大きく広げ、性器を露わにしました。
「あんたと、ここがひりひりするくらいまでしたときから、ずっとあんたのおチンチンが忘れられへんねん」
 私は女の性器をじっと見つめました。
「ほら、ここに入れてくれたやんか。あのとき、自分でもびっくりするくらい濡れてた。あんなに濡れたことないねん。おめこの奥の方のスイッチが入ってしもたみたいや」
 言いながら、女は性器を指で開いて見せました。私は顔を近づけて、もっと間近で女の性器を見ました。女の性器はぬらぬらと濡れていました。そして、私が見ている間にも、奥から少しずつ液体が滲み出て、周囲の陰毛を濡らし、性器そのものを濡らし、まるで、そこだけが生きている別の生物のように、ひくひくと動いていました。じっと見ていなければわからないほどの微かなその動きに、私は惹きつけられ、女の存在自体を忘れて、そこを見続けました。
 この女は、ここで生きているのだ、と私はそのとき思いました。性器というわけではなく、性器を中心とした、両足の付け根から下腹にかけての、ここで生きているのだ、と私は思ったのです。
 女は目を閉じて、自分の性器を思っていました。女の唇が小さく突き出されるタイミングで、性器から少し無数の泡を吹くんだ液体が流れ出ました。私は手を伸ばし、女の性器の入り口にある小さな突起に触れました。女の身体全体がビクンと震えました。あんた、どっかで勉強してきたな、と女は笑いました。女は私の中で、別の生き物になりました。大人とか子供とか、そういう次元を容易く飛び越え、女は私とは違う生き物になった、そんな気がしました。私は別の生き物とこれから暮らすのだ、という恐れを抱き、その瞬間、女の性器に触れていた指を引っ込めてしまいました。
 女が笑っていました。私を見て笑っていました。その笑い顔が私には恐ろしかったのです。いえ、たまたま私がそう思っただけで、女はいままでと同じように、私に笑いかけただけだったのだと思います。しかし、昨日まで、あの冷ややかな恐ろしさを宿した男と一緒に住んでいた女なのだと考えただけで、私には何か、女の背景に湿った重い空気が澱んでいるような気がしたのでした。
 その日から一週間、私たちは部屋にこもって暮らしました。一度、渡辺が訪ねて来ましたが、息をひそめてやり過ごしました。私たちはほとんど話もせず、ずっと身体を重ねていました。東京にしては珍しく、しんしんと雪の降る日があり、とても寒い一週間でした。凍えるような夜の闇の中で、私たちは互いをたぐり寄せるかのように身体を重ねていました。身体を重ねるたびに、この女が自分とは違う生き物なのだと実感し、同時に、自分もこの女から見れば違う生き物に感じられるのだと思うのです。しかし、そんな違和感も私が女とつながっている部分から、湯気が上がるほどに身体が火照っている時には、すっかり霧散してしまうのでした。
 初めて女と身体を重ねた夜、私は喜びに打ち震えました。何も考えず、自分のものを女に打ち込んだ時に、私は自分のものを覆う女の身体の温かさと柔らかさに歓喜したのです。しかし、その一週間、貪るように互いをたぐり寄せながら、私は女に雌としての強さを感じ、それに雄として応えようとしていました。私たちは一つでした。恐らく互いに感じている違和感を抱えながら、強く一つでした。
 私は女の泣き濡れる顔を見ながら、ミユキを思い出しました。決して男と交わっても、いくことを知らず、自らの指で慰めていたミユキを思い出したのです。目の前にいる女は、何度も何度もいくことのできる女でした。それに比べ、いくことのないミユキが私には不憫でした。不憫でありながら、やはり私はミユキとは身体が許し合うことがないのだと思いました。もしも、私がミユキと暮らし、このように、身体をたぐり寄せたとしても、きっとミユキはいくことはないでしょう。それだけに、いま身体を重ねている女が、私には愛おしかったのです。その頃の私には愛おしさを示す手段がありませんでした。自分のものを突き立てることしか手だてがなかったのです。だから私は何度も何度も女の中へと入っていきました。時に、ミユキを思い浮かべ、渡辺の声を思い出し、隣室の男の冷ややかな眼差しを思い浮かべながら、私は女を抱きました。隣室の男は、この女の身体に飽きたと言いましたが、私にはどうすれば飽きるのかと思えるほど、女の表情は無限に変化しました。少し角度を変えるだけで、少し強さを変えるだけで、女の表情は変化しました。
 これは今思えば、という話ですが、おそらく女は私を見てはいませんでした。こちらに視線を向けることはあっても、私が女を見るようには見ていませんでした。彼女が見ていたのは、たぶん、彼女自身だったのだと思います。

 

      七


 女と暮らし始めてちょうど一週間たった日の朝でした。ずっと敷いたままだった湿気た布団の上で私が目覚めると女がいませんでした。それまで、ずっと冬の寒さの中で目が覚め、同じ布団の中で、裸でふれ合っている女の身体の温かさで、もう一度眠りに落ちる、という過ごし方をしていた私は、強い不安を感じました。しかし、女がこの部屋に持ち込んだ、小さな荷物はまだそのままでした。私は久しぶりに窓を開け、部屋の外を見ました。そこで私は薄く積もった雪の上に、いくつもの足跡を見ました。私はあの男が女を連れ出しに来たのだと思いました。私がまだ眠っている間に、男がやってきて、窓越しに声を掛けたのに違いありません。
 私は慌てて、部屋を飛び出し、女が向かっていったであろう方向へと駆け出しました。方角があっているのかどうか、私には解りませんでしたが、ただじっと部屋にいることが、私には出来なかったのです。私は駆けながら、私自身を探しているかのような錯覚に陥っていました。私と女はこの数日の間に、二人で一人になっていました。それが続きのない夢のようなものであっても、確実にそのような感覚に陥っていたのです。
 女はどうなのだろう、と私は思いました。私の考えたとおり、女があの男の誘いに応じて出ていったとしたら、女は何を感じているのだろう、と私は思いました。性器を中心とした下腹のあたりで生きている女なら、いとも簡単に相手の男をかえられるのだろうか。それとも、二人で一人になったと感じていた私自身がおかしいのだろうか。私は気も狂わんばかりに、朝方の街を駆け回りました。
 どのくらい駆け続けたのでしょうか。ふと気付くと、私はバス停にいました。小さな女の子を連れた老婆だけがバスを待っていました。私はその傍らに立ち、二人を眺めていました。女の子は、冬だというのに汗を流し、息を切らせている私を不思議そうな顔で見ていました。老婆は口元に笑みを浮かべながら、誰を見るわけでもなく、女の子の手を握っていました。
 バスが滑り込んできました。私はそのバスに乗りました。バスの中には数人の乗客がいましたが、後部には誰もいませんでした。老婆は女の子に手を引かれるように、一番後ろの長い座席に座りました。私はその前の二人がけの席に一人、身を沈めました。何処へ向かうバスなのかも分からないまま、私はバスの揺れに身を任せ、窓の外を見ないようにしていました。窓の外を見てしまえば、道行く女が、みんなあの女に見えるかも知れないと思ったからです。
 私は眠りました。バスの座席の下から立ち上ってくる、むっとするような暖気にぼんやりとしながら、私は眠りに落ち、夢を見たのです。私は夢の中で、後ろの席に座っている老婆と女の子の間に座っていました。老婆は私を飛び越えて、女の子に話しかけていました。どこにいくかねえ、と老婆は言いました。女の子は、おうち、と答えました。おうちかね、と老婆は言いました。おうちがいい、と女の子が言いました。私は老婆を見ました。老婆は隣の部屋の女でした。女の子は、ミユキでした。バスが一際大きく揺れると、私はやはり元の席で目覚めました。
 運転手に終点だと告げられ、私はバスから降りました。すでに、他の乗客は誰もいませんでした。
 私が部屋に戻ったのは、夕闇が迫り始めている頃でした。自分の部屋の窓をみると、灯りがともっていました。戸口に立つと中から話し声が聞こえました。渡辺とミユキでした。どうしたのかと聞くと、渡辺が、ばれてしもたんや、と言いました。
「おかしな話や。なんの前触れもないねんで。いきなり、女郎屋の使いやいう男が部屋に上がり込んできたんや」
 そう言えば、心なしかミユキが怯えているようでもありました。
「ミユキさんは見つからなかったのか」
「それがええタイミングやったんや。あんまり部屋にこもってるのも息苦しいやろ、いうて、近所の神社に散歩に行ってたんや。二人一緒やと目に付くと思て、ミユキ一人で行ってたんや。ほんま、危なかったで」
 そう言うと、渡辺は笑い始めました。
「よく笑っていられるわねえ。私はもう生きた心地がしないよ。どうせなら捕まって楽になった方が良かった気もするんだけどね」
 と、渡辺をなじるように言いました。
「アホ言え。捕まったら、お前のきれいな顔がだいなしや」
 その言葉に、くたびれた女なんて言ってたくせに、とミユキは言いましたが、渡辺の言葉に真実を感じたのか、大人しく引き下がりました。
「それにしても、これからどうするんだ」と私が言うと、渡辺は、それが問題やなあ、と腕組みをしました。どちらにしても、居場所のなくなった二人を放って置くことも出来ず、ここにしばらくいるように私は言いました。
 なんか、女の匂いがするなあ、と渡辺は私の部屋を見渡しました。私は隠す気持もありませんでしたが、あの女のことを話す気にもなれず、ただ、ぼんやりと煙草を吸っていました。しばらくすると、布団の上で、ごろごろしていたミユキが、女の荷物を見つけました。荷物と私とを交互に見ていましたが、やがて、追いかけなくていいの、とつぶやきました。私が返事をしないでいると、何事もなかったかのように再び、布団の上に横になりました。
 昨日まで、一緒にいた女が消え、渡辺とミユキが同じ部屋にいるという現実が私にはとても遠いものに思えました。私とは関係のない時間が流れ、私とは関係のない男と女が目の前にいる、という気持でした。ミユキはスカートをはいていましたが、あぐらをかいて座っているので、下着が丸見えになっていました。その下着を見た時、私は自分がかつて、女郎屋でミユキを抱いたことを思い出しました。しかし、それも嘘だったような気がしていました。仮に一度でも抱いた女なら、こうも無関心でいられるわけがないと思えるほどに、私は目の前の二人をぼんやりと眺めていたのです。
 さすがに疲れが溜まっていたのか、その夜、渡辺とミユキは早くから寝入ってしまいました。一枚きりしかない布団に二人を寝かし、私は自分の外套と渡辺の外套を重ねて、壁際でうずくまっていました。寝入ってしまった渡辺の顔は、まるで子供のようでした。ミユキはというと、口元に薄い皺をたたえ、目覚めている時よりも正直、老けて見えるのでした。私は、人は眠っている時にこそ、その年齢が現れるのではないかと、その時に思いました。そして、私は眠っているときに、どんな顔をしているのだろうと考え、次に、あの女はどんな顔をして眠っていたのだろうと考えました。不思議なもので、身体を交えている時の顔ばかりが浮かび、私には女の寝顔を思い出すことができませんでした。一日中、死に物狂いで追いかけていた女の寝顔さえ思い出せないことを、私は可笑しく思いました。おそらく、その時、私の顔は笑っていたはずです。
 そんなことをぼんやりと思い浮かべている時、私は壁に付けている背中に、微かな振動を感じました。私は小さく声を上げました。隣に誰かいるのです。男かもしれない、女かもしれない。いや、もしかしたら、二人そろって隣の部屋に戻ってきたのではないかと私は思いました。
 私の異変に気づいたのでしょうか。ミユキが薄く瞼を開き、こちらを見ました。彼女は、私の様子から、隣室と私との妙な関係を瞬時に察したようでした。そして、横になったまま私の方へと躙り寄り、喉を震わさないような小さな声で話し始めました。
 私はね、花街に身を落とす前に、連れ添おうと誓った人がいたのよ。名前を言えば、みんなが驚くんじゃないかしら。この辺りじゃかなり知られた大きな家だからね。最初はよかったのよ。向こうの親だって別に反対していたわけじゃないしね。
 ただ、私はいつか、その人が私の元を離れるんじゃないか、という確信があったの。理由はわからない。私はその人と、これ以上は無いというくらいの相性だったと思ってた。これはもう理屈じゃないのよ、なんだか恐ろしいくらいにその人のことが好きで、その人も私が怖くなるくらいに好きでいてくれた。そんな二人がずっと一緒にいられるわけがないと思ったの。
 あのね、お兄さん。好き同士で一緒になるのがいちばん幸せってよく言うでしょ。だけどね、それにも加減ってもんがあるのよ。どっちかが死ぬほど好きだって思ってて、片方が、そうでもないけど、そんなに言うならっていうのがちょうどいいの。
 とにかく、私とその人は、一時も離れたくないと思うほど好き同士でね。そうなると、嫉妬とかそういうのも関係ないの。相手が何をしてても好きなんだもの。その人、私と知り合う前に付き合っていた女がいたんだけどさ。そいつがしつこいのよ。その人が、どうしたもんかなあ、って私に言うから、私言ってやったのよ。抱いてやれば納得するなら、抱いてやればいいじゃないって。やけくそでもなんでもなかったの。本当にそうすればいいって思ってた。誰を抱こうが、その人が私から心変わりするなんて、これっぽっちも疑ってなかったから。
 その人は、私の言うとおりにしたわ。それでも、私は女に嫉妬することもなかったし、馬鹿正直なその人を憎らしいと思うこともなかった。私にとっては、その女はただの景色みたいなもんだったのよ。
 でね、ある日、その人が私に言ったの。お前も誰かに抱かれてみろって。いろんな奴とお前がしたって、俺はお前を平気で好きでいられるって。私ねえ、おかしいと思われるかもしれないけど、嬉しかったのよ。いろんな男に抱かれても、それでもお前が好きだって言ってもらえるなんて、これ以上の幸せはないって思ったの。
 私ね、その日のうちに今の商売に入ったのよ。ほんとよ。なんかね、その人と私は大丈夫なんだ、怖くなるくらいに好き同士でも、ずっと一緒にいられるんだってことを証明したかったのかもしれない。男に抱かれる商売をしても、本当にその人が平気で抱いてくれたら、それが証明できるようなそんな気がしたんだよ。
 そこまで話すと、ミユキは私を見つめたまま黙りました。私は何も言わずに、ミユキを見ていました。けれど、ミユキの話に驚きながらも私は妙に説得されるところがあったのです。ミユキが他の男に抱かれていても、その男がミユキを平気で抱くことができたなら、ミユキとその男は、ずっと幸せにいられたのに、と私も納得していたのです。
 私が娼妓になってひと月くらい経った頃に、その人が女郎屋に訪ねてきたのよ。私には待ちに待った日だった。やっと、その人に抱いてもらえる。私はね、この日のためにも他の男に抱かれる時に手を抜いちゃいけないと思ってたんだ。そんなことをしたら、こんなことをしている意味がないと思ってたんだね。だから、部屋にやってくる男をみんなに気を入れたんだ。けどね、お兄さんには前にも話したけどさ、いかないんだよ。そこだけは、どうしようもなかったね。どれだけ気を入れてもいかないんだもん。
 それでね、その人が訪ねてきた時に、私はやっとまたいけるって思ったんだよ。だけど、その人は私を抱けなかった。私たちは女郎部屋でお互い裸になって、布団の上に横になった。もう私のあそこは驚くほど濡れててね。それを見て、その人は小さく笑ったよ。笑いながら、そんなに待ち遠しかったのかって言ったの。私が、そうよ、早く抱いてってせがむと、その人は私を引き寄せて私の顔を舐め回したわ。たぶん、その人も、私のことを抱けると思っていたんでしょうね。でも、いざ、自分のものを入れようとすると、役に立たなかった。私は自分のあそこを濡らしながら、泣いたわ。けどね、その人が憎らしくはなかったの。なんとなく、なんとなくだけどね、その人が私を抱けないような気もしていたのよ。
 私ね、思ったの。ほら、磁石ってお互いに引き合うじゃない。でもね、それぞれがもの凄い力で引き付けあっちゃうと、その力に耐えられなくなって壊れちゃうんじゃないのかなって。
 ミユキはそこまで話すとまた黙りました。自分でも何を言いたいのかがわからない様子で、話したことを後悔している様子でもありました。誰かに相談したいことがあって、相談しているうちに、段々と、ああ、この相手にこんな相談をしても良かったのだろうかと逡巡している顔のようにも見えました。
 しかし、ミユキの話は私はとてもよくわかりました。そして、彼女がどうしてそんな話をしたのかも、なんとなくですが理解できたような気がしました。
 それから、私は誰としてもいかなくなったし、誰とも甘ったるい関係を持てなくなった。いつも疑っているし、いつも逃げだそうとしてる。今だってそうよ。その人を忘れられないわけじゃない。女はそのへん、うまくできてるのよ。きれいさっぱり忘れてる。そりゃ時には思い出すことはあるけどさ。それは、本当に思い出すっていうだけで、気も狂わんばかりに逢いたくなるってことじゃないからね。ただ、いつもあそこに男が入っていなきゃ気持ちが乱れるのよ。渡辺さんはね、私をくたびれた、終わった女として扱ってくれるのさ。それがどういうわけか、私には気持ちいいんだよ。
 ミユキが話し終わると同時に、また私の部屋はしんと静まりかえりました。そして、私は再び背中に微かな振動を感じました。
 私は立ち上がりました。そして、部屋の引き戸に手をかけると、ゆっくりと静かに戸を開きました。振り返ると、ミユキが暗がりの中で私に悲しげに微笑んでいました。

 

       八

 私は自分の部屋を出て、隣の部屋の前に向かいました。それは、歩幅でおそらく二歩か三歩。その間に私はまるで瀕死の者のように、様々なことを考えました。私は部屋に男と女がいることを確信していました。確信していながら、私はその部屋の戸口を開こうとしていました。そして、その戸口を開いたら、もう後戻りはできないのだと思いました。
 それまで、私がしたことと言えば、隣室の前に自分の持っていた本を置いたことくらいでした。それ以降は、ずっと隣の女や男に合わせて踊っていたようなものだと思いました。しかし、ただ景色が変わるのを待っているのではなく、自分が違う景色の中へ歩いていかなければならないのだと、私は強く思っていました。目の前にある部屋の中には、荒涼とした世界が広がっているはずです。その荒涼とした世界の真ん中にあの男と女がいるのだと、私は思いました。そして、そこへ私も立とうとしたのです。
 私は隣の部屋の戸口に手を掛け、なんのためらいもなく戸を引きました。鍵のかかっていなかった戸は勢いよく開きました。
 何もないがらんとした部屋の真ん中で、男は片方の手で、軽々と女を抱えて立っていました。その姿は、私には魔物が生け贄を手に入れたように見えました。
「やっと来たなあ。待ってたんや」
 と男は言いました。女は男に抱えられながら、女は二つに折れ、手足をだらりとさせていました。
「なんや、賑やかな声がしてたから、今日はもう来えへんのかと思てたんや。よかったよかった」
 男はそう言うと、いつものように、にやりと笑い、女を抱えたまま、私の横をすり抜け、部屋を出ようとしました。その時、女がすっと手を伸ばし、私の腕を捕まえました。私は女に導かれ、男に引きずられました。
 部屋を出た男は、裸足のまま表に飛び出し、駆け足するくらいの速さで、身軽に町を走りました。私はひっくり返らないように、必死で男の速さに合わせて足を動かしました。とても、女を抱え、私を引きずっているとは思えない速さで、男は町中を移動しました。深夜の町は人も車もほとんどなく、しかも私たちはまるで音もなく移動を続けていました。おそらく、私たちに気付いたものは誰もいないはずです。
 音もなく町を行く三人の影は、ふいに大きな四つ角で動きを止めました。
 四つ角の真ん中で女を下に置き、女は私の腕を掴んだままでしたから、私も女に引きずられるように、道に倒れました。そんな私たちを男は見下ろしていました。男の背後には大きな月が出ていました。一瞬、私は月のまぶしさに目を奪われ、男を曖昧な輪郭としてしか捉えられなくなりました。何度も瞬きをして、男の姿を浮かび上がらせようとしたのですが、うまくいきませんでした。思い切って、目を閉じ、しばらくしてから目を開くと、巨大な月ばかりが目に焼き付き、そこには男の姿がありませんでした。その時、私は背中をきつく蹴り上げられました。男でした。男が知らぬ間に背後に回り、私の背中を蹴り上げたのでした。したたかに背中を蹴られた私は、息ができなくなり、四つ角の真ん中でのたうち回りました。男の笑い声がしました。「兄ちゃん。わしを刺してくれへんか」
 男は私にそう言って、ナイフを投げてよこしました。鞘のないナイフは私の目の前をくるくると回りながら、鼻先に軽く触れて止まりました。微かな痛みが走りました。自分の鼻先が傷つけられ、私は、ほのかに血の匂いをかぎました。そして、血の匂いをかいだことで、私は妙にはっきりと意識を持ち、まるで悪夢から目覚めたように、立ち上がりました。「兄ちゃん。早よわしを刺してくれ。どこでもええから刺してくれ。わしはなあ、ナンボ刺されても絶対に死なへん。あんたに刺されたくらいでは死なんのや。けどな、あんたが刺してくれたら、わしな、血ながしながら、こいつをもう一回抱きたいんや。そやから、早よ刺してくれ」
 男はそう言って泣き始めました。
「早よ刺してくれや。わしなあ、血で畳が汚れんのが我慢でけんのや。そやから、こんなとこまで来とんのやで。ほんま後生や」
 私はナイフを持ったまま男と対峙していました。女もいつの間にか立ち上がり、四つ角の真ん中に私たち三人の姿が月の光にはっきりと照らされていました。
 私の鼻先の傷からはわずかに血が流れていました。細い血の流れは口元へと辿り、私はそれを舌で舐めました。私は以前、喫茶店で舐めた女の血の味を思い出していました。鉄のような血の味を思い出しながら、私はナイフを男に向け、走りました。もしかしたら、私は男へと倒れ込んだのかもしれません。手応えがありました。人の皮膚を突き抜け、ナイフが肉に包まれていく感覚が手に伝わってきました。私はナイフを抜かず、手を放し、男から一歩、二歩と後ずさりました。ナイフは、男の脇腹にしっかりと刺さっており、男はそれを確かめると嬉しそうに笑って、私を見ました。女は男のすぐ横にたって、ナイフの刺さっているあたりをさすっていました。男はすでに魔物ではありませんでした。無表情に男の腹をさすっている女こそ、何かに憑かれたもののように見えました。
 私は女を連れて部屋に戻りました。自分の部屋ではなく、女と男が暮らしていた部屋に戻りました。
 女は部屋の真ん中に座り、自分の手に付いた男の血を見ながら、あの人、死んだわ、とつぶやきました。私もそう思いました。あれだけの血を流したのです。やがて、男はあの場所で息絶えることでしょう。
 私は女に聞かなければならないことがたくさんあると思いました。いま聞いておかなければ、聞けなくなることがたくさんあると感じていたのです。しかし、私には女に駆けるべき言葉がありませんでした。言葉を選ぼうにも私には言葉がなかったのです。これまで、私が話してきた言葉のすべてが無力に思えました。そして、言葉を持たない私は、宙を彷徨う塵のような存在に思えていたのです。私は女の手に付いた男の血を見ていました。血はすっかり乾いてはいましたが、鉄臭い匂いを立ち上らせ、私の鼻を突きました。また、私の意識が現実に手繰り寄せられました。
「うちなあ、嬉しかったんや。あんたが、あの人刺したやろ。ほんまに嬉しかったんや。あんたの部屋の窓からあの人が顔出して、ちょっと来い言うから付いていったんやけど、なんやあの人おかしなってたわ。もともとおかしな人やったけど、えらいことになってた。あの人、死にたかったんとちゃうかなあ。けど、うちにはあの人を死なせてあげられへんしなあ」
 私はぼんやりとした視線で話している女の手をとりました。血の付いた手は以前の女の手とは違ったもののように私には思えました。そして、女が話している言葉は私が聞きたい言葉ではありませんでした。私は気付きました。言葉を持たない私は、女から聞くべき言葉さえ持っていないのだと気付きました。
 私は女の手についた男の血を指でこすりました。乾いた血がこすれると、その下から、まだ乾ききらない血が表れました。その血をさらにこすり続けると、女の白い肌が表れました。それでも私はこすり続けました。肌は赤くなり、その赤は血の色だと私は思いました。身体を通わせることは血を通わせることだと私は思っていたのに、ほんの薄い白い皮膚の上からしか、私は女に触れていなかったのです。そう思うと私は狂おしい気持に襲われました。この女の掌の皮膚を破りたいという気持を抱いてしまったのです。
 そして、唐突にあの男とこの女の関係が見えたような気がしたのです。あの男もまた、この女と一つになりたかったのではないか。そう思えました。何度も何度も交わり、それでも女は下腹のあたりで生きており、決して男と情を通わすことはなかったのではないかと思いました。だから、月のものがある時にも、いや、月のものがある時だからこそ、よけいに女と交わろうとしたのかも知れません。
 女には男を生かすことも死なすこともできないのです。この女はただ男の身体を受け入れ、情を受け入れるだけで、決して自分の情をこちらへ滲ませることができないのだと私は思いました。それでも私は、声に出してしまいました。女に向かって、好きだ、と声に出してしまいました。
 女は笑いました。私の言葉に笑いました。私の陳腐な、なけなしの言葉を笑いました。私は女を殴りつけました。激しく身体のなかを駆けめぐった力が、私の腕を動かし、女を殴りつけました。私は自分の中に、あの男のようににやりと笑いながら女を殴る自分を見ました。女は畳の上に横たわりながら、こちらを見ていました。私はミユキを思い出しました。隣の部屋で恐らく、こちらの部屋の様子をうかがっているであろうミユキを思いながら、私は女を見ていました。誰と交わっても、決していくことのないミユキを思いながら、女を見ていました。そして、もしかしたら、私はミユキをいかせることができるのではないかと思ったのです。
 女は身体を起こして、私の頭を撫でました。
「うちな悲しいねん。うち、あんたのことも生かすことも死なすこともでけへんねん」
 女は悲しそうにそういうと、私を抱きすくめようとしました。私はその手をふりほどいて、立ち上がりました。

 

       九

 私はあの男のようになることを拒絶しました。この女のために薄い笑いを浮かべながら生きることに抗いました。本当であれば、女とともに落ちるところまで落ちるべきだったのかもしれません。しかし、私は落ちることを拒絶してしまいました。それから、私はずっと、そのことに負い目を感じて生きてきました。
 警察に自首をしました。自首をして、牢屋に入ることで、私は女から逃げたのです。そして、牢屋の中で私は、女から逃げられず、結局、私が殺してしまったあの男を哀れみました。そして、哀れみながらも、あの男が決して私が越えられないところに行ってしまったのだと感じていました。取り調べをされている時に、私はあの女と男の名前や生い立ちを聞かされました。しかし、それは私にとって意味のない話でしかありませんでした。女の名前や生い立ちが、ひどく禍々しいもののように聞こえました。私は悪魔の呪文さえ知らなければ、悪に引き込まれることがないとでもいうように、聞いたことを努めて忘れようとし、その努力の甲斐もあり、いまもって、何度も聞かされた女の名前さえ私は覚えていないのです。
 あれから三十年近く経ちました。その間、私は時々考えたのです。私はあの女を愛していたのだろうかと。そして、答えはいつも同じでした。私はあの女を愛していました。あの女の身体を愛していました。恐れながら愛していました。あの男のように、自分のすべてで受け入れてやらなければならない女だったのだと、いまの私は思います。けれど、あの頃の私は、あの男のように、自分を溶窯させながら、女と落ちていくことができなかったのです。もしも、私がすべてを捨てて女を受け入れていたなら、もしも、私の情を受け入れるだけで、自分の情を少しも滲ませないあの女を受け止めていれば、私は今の私ではなかったかもしれません。
 あの男を殺したことを後悔したことはありません。あの男は、あの時すでに死んでいたのです。女に殺されながら、息の根を止めてもらえずに苦しんでいたのです。私は女の代わりに男を刺したのでした。私は女を殺すこともできず、自分を殺すこともできないほどに女を愛していた男を楽にしてやったのだと感じていました。
 私はあの女の下腹をまっすぐに愛してやればよかったのだと思います。ただそれだけのことができなかった私は、あの女の愛し方を間違っていたのではないでしょうか。私は昨日、神田の古書街へ立ち寄り、天守物語を買いました。もう、読まないとは思いますが、私は天守物語だけは手元に置いておきたいと思ったのです。私の失敗は、女の下腹に物語を見ようとしたことかもしれません。
 これで、私とあの女との話はおしまいです。
 ところで、あなたは、昔この辺りに住んでいた、ミユキという女をご存じではありませんか。
                 (了)
二〇〇二年四月四日