identity


1


『生きるか死ぬか…どちらかだ』

───わたしは最後の一太刀を振り下ろした。
刃は肩口から肩甲骨の辺りまで肉を引き裂き、
血の飛沫を撒き散らす。
周りの土は一瞬にして紅く染まった。
相手の戦士は叫ぶ声も無く、暗い瞳に失意と絶望の光を湛えたまま、
地面へと崩れ落ちて行く。

途端に巻き起こる民衆の歓声と拍手。
皇帝が手を振り上げ、満面の笑みを浮かべて叫んだ。

「ユリウスに勝者の酒を!」

わたしは皇帝の側近が運んでくる杯に
なみなみと注がれた酒を、一気に飲み干した。

再び巻き起こる熱狂的な歓声。
そしてファンファーレ。

わたしは血みどろの剣を皇帝に向かって掲げた後、
一礼してからバトルフィールドを去った。

戦士控え室でロリカ(鎧)を脱ぎ、服を着替えた後、
廊下で待っている主人の所へ行く。
我が主人はこれでもかと言う程、満面の笑みだった。
お世辞にも綺麗とは言えない服に、品性の欠片も無い物腰。
頭の方は服と裏腹に、綺麗に禿げ上がっている。

「よくやったなユリウス!これで六勝目だぞ」

ガハハと笑いながら肩をバンバンと叩いてくる。
わたしも口元を無理やり引き上げながら答えた。

「わたしは、生きる為にはどんな事でもする」

「相変わらず悪どい奴だ!良いぞ!ガハハ!
おっと、分け前をやらなきゃいかんな」

主人は金の入った袋から三枚の銀貨を取り出すと、
わたしの手に無理やり握らせた。

「後四勝すれば使う機会もあるさ。
さあ、馬車に戻れ」

ここはローマのコロッセオ。
わたしは『剣奴』、闘う為に飼われている奴隷の一種だ。
そして今、わたしに銀貨をくれたのはわたしを飼っている男。
名前はギュンターと言う。

わたしは物心付いた時には両親が居なかった。
そんな孤児のわたしは実に悲惨な人生を送って来た。
売られ、買われ、売られては買われ…、
そして行き着いたのがこのギュンターの懐。

コロッセオに初めて立った時、
相手はわたしと大して歳の変わらない青年だった。
わたしはまだ少年の面影さえある相手を
容赦無く叩き斬った。
理由は簡単だ。

殺らなきゃこっちが殺られる。

『二人入って出るのは一人』

それがルール。
時には猛獣と闘わされる事や、タッグで闘う特殊な場合もあったが、
わたしは『生きたい』という一心でここまで勝利を収めて来た。
そして剣奴にはもう一つ、ルールがある。
それは十勝を収めた者は自由の身になれる、というものだ。
勝利するごとにもらえる賞金を手に、『フリーマン』(自由人)となることが出来る。
そうなれば、もう闘わなくて済むのだ。
今やそれがわたしのたった一つの希望だ。

馬車に戻ると、仲間の剣奴達が嬉しそうな顔で待っていた。
同じ陣営の味方同士だから、その友情は自然と固くなる。
時には共に闘わされる事もある大切な仲間達。

「敵はどんな奴だった?」

「あの悪人面だと多分罪人だな、
エモノはやたらデカイのを使ってたが、楽勝だった」

「さすがユリウスだ。これなら十勝も夢じゃないかもな」

「あぁ…」

わたしには目的があった。
それは『幸せになる』こと。
子供じみた願いだし、大の大人がこんな夢を持ってるなんて
恥ずかしくて到底言えたものではないが、
わたし自身は真剣だ。

はっきり言って、わたしは不幸だと思う。
今となっては世間のちょっとしたスターだが、
決してなりたくてなった訳でも無い。
わたしは本当は…もっと一般的な生活を送りたいのだ。
小さな家に住んで、暖かい家族を持ち、
子供の頭を撫でながら毎日を静かに過ごしたい。
…そんなことを毎日の中で考えるようになった。

それが、あと四勝で叶えることが出来る。
たった四勝だ。きっと勝利の女神はわたしに微笑む。

ギュンターの屋敷に着くと、
暗い地下室へと連れて行かれ、
すぐにわたしの手には手錠がかけられた。
仲間達の手にも同じ物。
理由は簡単だ、逃げないようにする為だ。

そもそも肩口には奴隷の烙印が押されているので
逃げた所でまともな生活など送れるものではないが、
それでも他の剣奴達は脱走者が後を絶たないらしい。

ギュンターは割りと奴隷に対する差別がキツくないので、
ここで逃げるものはそうは居ないが。

「よくやったなユリウス、明日も予定が入ってるから
飯を食ってよく休め。他の奴らもユリウスのおかげで
闘わずに済んでるんだ。よく感謝しとけよ!」

すぐに仲間の剣奴達が悪態面で返答した。

「わかってらぁ!」

だが、その顔には笑顔が映っている。
わたしは手を拘束されながらも、
器用にスプーンを使って食事を済ませた。
そしてその場でゴロリと雑魚寝する。
寝室はここだ。

寝っ転がったわたしの身体に、
そっと毛布がかけられた。
そして、額に暖かなものが押し当てられる感触がする。

数秒前に閉じた目をすぐに開けて見た。
そこには一人の女の顔がある。

「今日は特別よ」

それはギュンターの召使(と言っても奴隷の一人だが)の
パルミラだった。彼女はわたしがここにやって来る前から
ギュンターに仕えている古株奴隷の一人で、
わたしや仲間の剣奴の身辺を世話してくれている。

「ありがとう」

わたしは再び目を閉じた…。


2


<二人入って出るのは一人!>

<二人入って出るのは一人!>

<二人入って出るのは一人!>

テンションが最高状態の民衆。
わたしはいつもの長剣を握り締め、相手が出て来るのを待った。
遠くに見える鉄格子が開き、中から出て来たのは…天使?
白い羽根を高らかに広げ、手に白いハスタ(長槍)を持った美しい天使。
顔つきは男とも女とも覚束無い。

わたしは滴り落ちる汗を拭い、その目を睨み付けた。
天使は羽根を一度だけ羽ばつかせ、そのままこちらへ突進して来た。
白い槍は真っ直ぐにわたしの心臓を狙っている。

すぐに構えを取ろうとするが、
足が地に根を張ったように全く動かない。
違う、地から根が出て、わたしの足をガッチリと掴んでいる。
その場で身悶えるわたしの心臓へ、やがて白い槍が盾をも貫き突き刺さり、
白は赤になり、視界は赤になり、天使の目は真紅になり…。

「…!!」

そこで目が覚めた。
天井からはチェーンが剥き出しの無骨なシャンデリアがぶら下がっている。
よりにもよって天使の夢を見てしまうとは。
わたしは自分を恥じた。

「よぉユリウス、俺が来る前に起きてるとは珍しいな」

「…ギュンター」

地下室でも綺麗に禿げ上がった頭が、
燭台の明かりではっきりと分かる。

「ちゃんと朝飯食っておけよ。今日が今生の別れになるかもしれんからな」

ギュンターはわたしが戦う日、必ずこう言う。
わたしだけではない、仲間の剣奴も同じだ。
そして、この言葉が真実になった者も数え切れない程いる。

暫くして、パルミラが食事を鈍色のトレーに載せて持って来た。

「ちゃんと食べるのよ」

全く、ガキじゃないんだからそのくらい分かってる。
しかしパルミラの彫刻のような美しい顔はわたしに力を与えてくれる。

食事を摂り終えると、わたしは外の馬車へ向かった。

「…今日はわたし一人か?」

先に乗っているギュンターに尋ねる。

「ああ、そうだ…。正直に言おうユリウス、お前は今日でサヨナラかもしれん」

「…何だと?」

ギュンターから不穏な台詞が出たので、
思わずわたしは彼を睨みつけてしまった。

「まぁ、まぁ、そう怖い顔するな。いいか、よく聞け。
今日の戦斗相手は一体誰だと思う?」

「…もったいぶらずに言ってくれ」

「わかった、わかったからそう怖い顔するなって。
ビビるなよ…今日の相手は…ゴリアテだ」

「ゴリアテ…!?」

確か、現在九連勝中の剣奴の一人だ。
一度だけだが、ギュンターと肩を並べて奴が闘うのを見たことがある。
まず、目を見張るのはその巨体。
身長はゆうに2メートルを超えていて、丸で歩くチャリオットのようだった。
その背中にはいくつもの武器が入った籠を背負っていて、
そいつで対戦相手を料理してから無残に殺すという、血も涙も無い男だ。

「あいつと当たったのか!?」

「あぁ…しかも、向こうは後一勝で『フリーマン』だ。
今日はどんな手を使ってでも勝つ気で来るだろう」

わたしは狼狽の表情を隠せなかった。
まさかあんな化け物と当たってしまうなんて。
ギュンターの貧乏クジにもほとほと気が滅入ったが、
こちらは戦斗を拒否することも出来ない立場だ。
馬車はもう動き出していた。

「…とりあえずこの手錠をはずしてくれ」

「あぁ、待ってろ」

ギュンターはポケットからいくつもの鍵がかかった環を取り出し、
手馴れた手つきで一個の鍵を探し当てると、わたしの手錠をはずした。

「変な気は起こすなよ、その烙印を消さなきゃどこへ逃げても同じだ」

「逃げたりはしない。…少し話しかけないでくれ」

「わかった」

わたしは目を瞑った。
馬車の加速とシンクロして、今からでも走馬灯が走るような気分だった。
しかし落ち着いて考えてみると、わたしは今まで6人の人間を屠って来た。
そうだ、6人も倒したんだ。今更どんな奴が現れたって大丈夫だ。
例え相手が10人だか100人殺していようが、それは運が良かっただけさ。
そう自分に言い聞かせた。

だが、再び目を開くと、ちらちらとあの反則的な巨体のゴリアテが
雄たけびを上げている姿が目に浮かんだ。

…馬車はすぐにコロッセオに到着した。

わたしはギュンターと二人、玄関口の兵士に軽く挨拶をしてから、
戦士控え室へ向かった。

そこにはわたしのロリカとグラディウス、それにスクトゥム(盾)が用意されている。
武具の点検は怠ってはならない。相手が相手なだけに。

「…待て」

ギュンターがいつになく神妙な面持ちで、
グラディウスの素振りをするわたしに声をかけた。

「今日はこれを持ってけ、俺が昔使ってた奴だ」

そう言ってギュンターが控え室の一角から引っ張り出してきたのは、
わたしのスクトゥムより軽くて硬度がある、金属製の盾、ソマテマスだった。

「…良いのか?普通の兵士が使う奴より上等なのじゃないか」

「あぁ、俺にゃどうせ必要無い。昔はよくこいつに助けられたもんだ…、
今度はお前の心臓を悪魔の一撃から守ってくれるだろう」

わたしは黙って盾を受け取った。

「さあ、行って来い、もし死んでも、お前は俺の記憶に残る」

「…縁起でもないこと言うな…わたしは、死なない」

ギュンターがゆっくりと扉の滑車を回す。
鉄格子がギギギと湿った音を立て、上へせり上がって行った。
途端に眩しい光が瞼を刺し、血と金に飢えた民衆の狂騒が聞こえる。

<二人入って出るのは一人!>

<二人入って出るのは一人!>

<二人入って出るのは一人!>

はるか100メートル程先に見える場所には、
わたしと同じように鉄格子の向こうからゆっくりと姿を現す人影があった。
遠目に見てもはっきりと分かるその巨大な人影…。
まるで古のミノタウロスのような風貌。

…ゴリアテだ。


『ゴリアテ』 

出自:剣奴 年齢:28歳 武器:様々な凶器 
趣味:武器収集 殺傷人数:9人


「両者中央へ!」

この闘いの唯一の審判であり、開催者である皇帝が声を張る。
わたしとゴリアテは距離5メートル程のところまで、ゆっくりと歩いた。

「ムムンンン〜〜〜…、お、お前が最後の、相手か」

…近くに来るとよく分かる…、はっきり言って、でかい。
半端じゃない。本当に人間かとすら思う。
わたしは今からこんな相手と殺し合いをしなければならないのか。

そう思うと、自らの表情がどんどん曇って行くのが分かった。

相手は背中に背負っている例の籠へ手を突っ込み、
スピア(槍)を一本取り出した。
このスピアもまた、でかい。わたしの身長を超えていそうだ。
一体こんなものどこで手に入れたんだと考えていると、
皇帝の声が遠くに聞こえた。

「始め!」

瞬間、真っ白い閃光がわたしの頬を掠める。

ビュオッ!!

いや、閃光はわたしの顔面を正確に狙っていた。
わたしは咄嗟の判断でそれをかわしていたのだ。
閃光はスピアの切っ先だった。

「な、なかなか、やるな、か、かわすとは」

ゴリアテはスピアをスローな動作で持ち直し、
じりじりと距離を縮めて来る。
次こそは確実にわたしを仕留める為だ。

「くっ…!」

ようやくそこでわたしは構えを取った。
合図と同時に攻撃して来るとは、噂通り血も涙も、オマケに礼儀も無い。

「来い!」

ギュンターから譲られたソマテマスが、とても心強かった。
スクトゥムでは盾ごと串刺しにされ兼ねない。
わたしは相手の動きをよく見ながらゆっくりと横に歩く。
敵の側面、もしくは背後を突けば確実に勝利だ。
だが、相手も当然わたしと逆方向に横歩きする。

しばらく睨みあう時間が続いた。

そして、横歩きを続けてお互いがお互いの位置に立つ頃…。

「ムンッッハァァッ!」

ついに相手が動いた。
大きく振りかぶってスピアを、さっきと同じように真っ直ぐに突き出してくる。
切っ先はすぐに閃光へと変貌した。

「この…!」

わたしは強引にそれを盾で防いだ。
左手に重い衝撃が伝わる。
だが、防戦一方では死ぬのを待っているようなものだ。

「だっ!」

「ずおっ!」

渾身のグラディウスの一撃を、スピアで防ぎ返すゴリアテ。
そのまま一気に数発叩き込む。
わたしとゴリアテは激しい打ち合いになった。

ガキンッ!ガキンッ!

8合か9合打ち合った所で、敵に小さな隙が出来た。
腰に横薙ぎを入れると見せかけて、手に持つスピアへ斬り返しを放つ。

ガッキィィィン…。

スピアは弾き飛ばされ、ヒュンヒュンと音を立てながら遥か遠い位置へ転がり落ちる。
チャンスだ。そう思った瞬間、目の前にゴリアテの腕があった。

「ぶふっ…!」

一瞬の判断で、奴はわたしの顔面にラリアートをかましたのだ。
鼻血を垂らしながら血に伏せるわたし。
頭に数刻の間霧がかかるが、すぐに立ち上がると、
そこにはもう次の武器を取り出す奴が居た。

「も、もう、お、終わらせてやる」

そう言いながら構えるのは、これまた、
とてつもなく巨大なクレイモアー(両手剣)。
一体どうすればあんなでかい剣を振り回せると言うのだ。

わたしは戦慄を感じながらも構えを取り直した。

「い、行くぞ」

奴はクレイモアーを真っ直ぐに振り上げ、わたしの脳天へ叩き下ろす。
…長い。剣が剣な故に、リーチも半端ではない。
わたしは横っ飛びしてそれをかわした。

ズ、ズン…。

地面にめりこむクレイモアー。
ゴリアテは小さく舌打ちをした。

「す、すばしっこい、や、奴だ」

そして次の一撃を放つべく、
再びゆっくりと振り上げると、わたしの前まで近づいてくる。
この距離ではこっちが攻めた瞬間、真っ二つにされる…!
守るか攻めるかしばし葛藤する間も無く、奴は鉄塊を気合と共に振り下ろした。

「ぬおぉぉぉ!!」

危ない!
反射的に横へ飛び込みながら前転をしてかわした。
…そして同じように反射的に、いや本能的に剣の切っ先を相手へ向け、
そのまま体当たりするようにダッシュする。

「む、むぅお!!」

やはりそうだ。剣の余りの重さに、こいつは攻撃をはずした時、
次の一撃を準備するまで隙がある!

「でやぁぁっ!」

ブシュ!

わたしのグラディウスは深く、深く、相手の肋骨の隙間へ突き刺さった。
同時に噴出す鮮血。あぁ、こいつにも赤い血が流れていたのか、と思った。

「ぐおぉぉぉぉ!!」

苦悶の表情を浮かべ、激痛に喘ぎながら、それでもなお巨剣を握って離さないゴリアテ。
だが、やがて全身からふっと力が抜けたように、その場にどうと倒れた。

昨日と同じように巻き起こる歓声。
そして賭けをはずした者の溜息。
今日の闘いは後者の方が圧倒的に多く聞こえた。

「ユリウスの七勝を祝う酒を!」

皇帝がサッと手を振り上げる。
すぐに酒は持ってこられたが、
わたしはゴリアテの身体から剣を引き抜くのに手間取っていた…。

…暫くして。
その後、わたしはギュンターから「お前を舐めていた」と、
嬉々とした表情での謝罪を受け、疲れた身体を癒すべく、彼の屋敷へと戻っていた。

屋敷では仲間達が総勢で出迎えてくれた。
ゴリアテを倒したことで、仲間達も奴と戦う事が無くなったのが嬉しいんだろう。
みんなニコニコとしながらわたしに向かって、

「お前ならやれると思ってた」

「すごい、凄すぎる」

等と次々と労いの言葉をかける。
わたしは一抹の不快さも感じたが、
今日、ここにこうして生きていることを、心底神に感謝した。

ギュンターとパルミラがいつもより豪勢な食事と、
昨日と同じように数枚の銀貨を持ってやって来る。

「今日は特別だ、感謝して食えよ」

わたしは今になって猛烈な空腹を感じ、
たっぷりと腹ごしらえをしてから、暖かな毛布に包まって眠った。

今日は生きることが出来たが、明日は一体どうなるか分からないのだ…。


3


朝、目覚めて、わたしは焦った。
いつものように一階のトイレに行き、何気なく窓を覗いたのだが、
なんと太陽がすっかり真上まで昇っている。
いつも寝過ごすのがわたしの慣習だが、それでも誰かが起こしに来るはずなのに、
これは一体どうしたことなんだ。

わたしは急ぎトイレから出て、順番を待っていた剣奴仲間に話を聞こうと思った。

「どうしました、そんなに急いで。詰まらせたんですか?」

冗談まじりに聞いて来るのはマルクティウス。
剣奴の中でも一番交流の深い男だ。

「教えてくれマルクティウス、何で今日は決斗が無いんだ?」

マルクティウスは顎に手を当て、筋肉質なその容貌に似合わない仕草で考え込むが、
とりあえず用を足すまで待ってくれと告げると、個室に入ってすぐに出てきた。

「ふう、出す物出してからじゃないと頭が働かないんでね」

「ギュンターは何をしてるんだ?奴も寝坊か?」

「ふぅむ…、確かにおかしいですね。僕はお呼びがかかることが滅多に無いから
普段と同じなんですが…君は今日、8戦目のはずですよね?」

「ああ…そうだ」

確か、話では10勝するまで連日決斗だったはずだ。

「あそこにパルミラが居る。彼女に話を聞いてみましょう」

わたしとマルクティウスは、馬小屋から馬を連れ出しているパルミラに
話を聞こうと、近寄った。

「パルミラ」

「あっ、ユリウス…それにマルクティウス!」

パルミラはなんだか焦った表情をしていた。
呼び止めても、馬を連れて歩くのを止めないので、
仕方なくわたしとマルクティウスは一緒に歩きながら話をしだした。

「ギュンターさんはどこに行ったんですか?」

「大変なのよ!ギュンター様が…、皇帝に捕まったの!」

「何だって!?」

わたしは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていただろう。
マルクティウスも同じようだった。

「捕まった?何故!?」

パルミラの話を要約するとこうだ。
ギュンターは朝一番、皇帝の所へ武具の受領に向かった。
八勝した戦士を保有する主は皇帝から褒美を授かる決まり事だったからだ。
しかし、受領は滞り無く終わった物の、帰路に着く所で、
運悪く城に毎日掲げられる皇帝の旗を踏みつけてしまった。
足元を見ていなかったからだ。
ギュンターはその場で捕まり、城に禁固されているという事だ。

「困りましたね…ギュンターが居なくなれば僕達はどうなるんでしょうか」

パルミラは馬を馬車に取り付けた。
よほど焦っているのか、いつもより手際が悪い。

「あたしはこれから皇帝様の所へ談判しに行くの!」

「だ、談判?危ないぞパルミラ、もし皇帝の逆鱗に触れたら…」

「でも、このままじゃあたし達飢え死にしてしまうわ」

「仕方がありません、我々も同行しましょう、ユリウス」

わたしはマルクティウスの提案に賛成し、
パルミラと三人、皇帝の城に向かった。

皇帝の城はとてつもなく大きな建物だ。
天然の要塞、とでも言うべきか、
地形がうまく生かされた場所に建っている。

「止まれ!何者だ!」

門の所に立っている衛兵に当然の如く呼び止められる。
受け答えはパルミラがした。

「ギュンター様のことで、皇帝様とお話がしたいんです」

衛兵はパルミラを舐めるように見ながら、
フンと鼻を鳴らして喋る。

「皇帝は忙しい、とっとと帰れ」

パルミラは懐から数枚の硬貨を取り出し、衛兵に見せた。

「これでお願い出来ませんか?」

衛兵は満悦の表情で即返答する。

「フッ、いいだろう。その代わり、城に入るのはお前一人だ。
他の者は外で待っていてもらおう」

パルミラはわたしとマルクティウスに「大丈夫だから」と小さな声で告げると、
馬車を降り、先導する衛兵について行った。
それから何十分かの時間が流れる。
居た堪れなくなったわたしは、沈黙を破ってマルクティウスに問いかけた。

「大丈夫かな」

「それは神のみぞが知る所ですね…、しかし何しろあの皇帝ですから…」

皇帝の名前はネロ。
暴君…と口に出せば即処刑されてしまうが、
あの馬鹿っぷりは誰しもが胃を痛くしていた。

更に数分が経過した。
すると、先ほどの衛兵が一枚の書面を持ち、ふんぞり返って出て来る。

「お前達、ギュンターの剣奴…お前はユリウスだな?」

「ああ、そうだ」

衛兵は書面を大きく開いて、見せ付けるようにしながら言った。

「光栄に思え、お前達はこれから、皇帝直属の剣奴だ」

「何!!?」

わたしとマルクティウスは衛兵から書面をひったくって読んだ。
そこには、ギュンターから皇帝へわたし達の『保有権』が移った事が書かれている。

「パ、パルミラはどうなった?」

衛兵は馬車の御者席に乗り込み、馬に容赦無く鞭を打った。

「知らない方が良い。今からコロッセオに向かうぞ、
ユリウス、お前は予定通り、8回目の決斗を行ってもらう」

「教えろ!パルミラは…ギュンターは!」

「黙らないと痛い目を見てもらうぞ」

衛兵は傍らにスピアを持っている。
そう、今のわたし達二人は丸腰なのだ。
大体、ここで衛兵に無理強いをしたら、反逆と捉えられ兼ねない。

わたしとマルクティウスはお互いの沈痛な面持ちを見ないようにしながら、
ひた走る馬車から見える路面を見つめていた…。

…コロッセオの控え室には、いつものようにわたしのロリカとグラディウス、
それにギュンターのソマテマスが用意してある。

「とっとと着替えろ」

衛兵が見ている中、わたしは手早く鎧姿に着替えた。
一分の猶予も与えられず、鉄格子がガラガラと開く。

遥か向こうには、一人の男が立っていた。
さすがに昨日の相手よりは小さい。

「両者前へ!」

皇帝の声を聞いて、思わずそちらを見上げた。
なんと皇帝の傍らに、美しいドレス姿のパルミラが立っている。
だがその顔は暗く、今にも泣き出しそうな表情だ。

「まさか、相手は…」

歩を進める対戦相手とわたし。
近づくにつれ、その容姿がはっきりと目に映る。

「…よお」

相手はギュンターだった。
普段の姿からは想像も出来ないくらい凛々しい鎧姿に身を包んでいる。
わたしは驚愕の眼差しで彼を、主人を見つめる。

「…何故」

「ドジ踏んじまってな…。普段なら処刑されるところだが、
皇帝のお遊びで、こうなっちまった訳さ」

既に諦めきった表情のギュンターは、汗一つ掻いていない。
皇帝の声が、昨日よりもっと遠くに響いた。

「始め!」

ギュンターは一応の構えを取る。
わたしもそれに習った。
決斗が始まり、取り仕切る衛兵が周りに居なくなったので、
ギュンターはいつもの大声で話し始める。
多少の声量ならどうせ観客の声に消されてしまうからだ。

「パルミラは気の毒だった。
あいつは皇帝の後宮に入れられるそうだ。
お前と他の剣奴とか召使は、皇帝の物になる」

「そんな勝手な…」

「仕方が無い。俺が悪いんだ…。
お前も俺の為に良く闘ってくれた。
あの皇帝んところで生き延びるのは難しいだろうが、
頑張ってやってくれよ…」

ギュンターはそこまで言い終えると、溜息を大きくつき、
わたしの目を見据えながら言った。

「さぁ…殺れ」


『ギュンター・メルトン』 

出自:奴隷商人 年齢:52歳 武器:グラディウス
趣味:畑仕事 殺傷人数:0人


「何…だって?」

彼の口から突拍子も無い台詞が飛び出す。
わたしはその言葉の意味を理解することに一瞬躊躇した。

「俺を殺せ…コロッセオのルール、忘れちゃいねぇだろ」

「む………無理だ!わたしには出来ない!」

痛いほどルールは理解している。
『二人入って出るのは一人』…それが唯一であり全て。
だが、わたしの前に居る人はわたしを拾ってくれた、
いわば父なのだ。
だが、そんな考えを見透かしたようにギュンターは一喝する。

「殺れ!お前が殺るんだ!俺が生き残った所で
十勝なんて出来るわけがない!それに…パルミラは!」

「駄目だ!わたしには…わたしには!」

「ちっ…馬鹿が!」

ギュンターは雄たけびを上げながら剣を振り上げ、
わたしの所へ突っ込んでくる。
そして頭上から一気に剣撃を加えて…。

「あっ」

───次の瞬間、わたしの剣は反射的に彼の腹部を貫いていた。
今までの戦いの感覚がそうさせたのだ。
満足そうな顔で血を吐くギュンター。
わたしは急いで彼の腹から剣を抜いた。
瞬間、更にドクドクと流れ出す血、血、血。

「へ…へっ、や、やっぱりお前は戦士だな…。
これで…いい…」

「ギュン…ター」

わたしの涙と裏腹に観衆はブーイングをする。

<早いぞ!もっとちゃんとやれ!>

<なんだ、雑魚じゃねえか!>

一方、皇帝の観覧席では、
衛兵と皇帝がこんな会話をしていた。

「早い勝負でしたね」

「あぁ。今日は勝利の酒は必要無いな、
見ろあのユリウスの泣き方を。丸でお菓子を買ってもらえない幼子のようだ。
さぁ、帰るぞ、パルミラ、お前は今日からわたしの後宮に入るのだ。
たっぷりと可愛がってやろう」

パルミラもユリウスと同じように、
熱い涙を溢していた。

「フン、そんなにギュンターが良かったのか。
まぁ良い、そのうち余の方が良いという事がわかるだろう」

パルミラは皇帝の顔を睨みつけながら言う。

「誰がッ…」

その言葉を聞いた衛兵がパルミラの頬を叩く。
もんどり打って倒れるパルミラ。
泣き声は更に悲痛なものになった。
だが、パルミラを叩いた衛兵もまた、皇帝によって制された。

「よせ、こいつはもう余の物だぞ」

「ハッ…申し訳ありません」

「馬車の支度をしろ、ユリウスは我が城に幽閉して置け。
勿論武器は取り上げておくのだぞ」

「ハッ!」

皇帝は泣きじゃくるパルミラを強引に立たせ、
コロッセオの中央に佇むユリウスを尻目に観覧席から去っていった…。


4


「くそ…くそ…ッ!!」

わたしは城の一室で、壁を殴り続けていた。
わたしはギュンターを殺してしまった…。
わたしはあの皇帝の掌に堕ちたのだ。
わたしは…そしてわたしは…!

やがて、部屋の扉を開き、
兵士が二人、眠そうな顔をして入って来た。
恐らく、城内を巡回している兵士だ。

「おい、静かにしろ」

わたしの気持ちなど露も知らない彼らは、
槍をわたしに向けながら言う。
もしその切っ先がわたしの喉を突いてくれたなら、
どんなに楽になれることか。

「くそっ…!殺せ…殺せッ!」

兵士達は暴れるわたしを見て、お互い顔を合わせながら首を傾げると、
槍の柄尻でわたしの腹部を突いた。

「がはっ!」

わたしはうっすらと意識を失いそうになる。

「訳の分からん事言ってないで、とっとと寝ろ」

去って行く兵士達。
わたしは、薄れ行く意識を自然の流れに任せ、
乾いた涙を拭いもせずに、深い眠りに身を委ねた。
きっと悪い夢なんだ…そう信じて。

───突然冷たい物が顔にかかる。

「うわっ!」

見ると、兵士の一人が水の滴るバケツを持って、
わたしの頭の所に立っていた。

「起きろ、コロッセオに行くぞ」

馬車の中、異様に早く感じる時の流れにわたしは不満を持つ。
ギュンターは死んだ…パルミラもわたしも、皇帝のものになった…。
だが時は無常に進んで行く。
わたしは今日も闘わなければならないのか…。

コロッセオでは皇帝が直々に出迎えた。

「やあ、ユリウス、元気そうで何よりだ。
お前の闘いっぷりには余も感心している。
十勝目指して頑張るのだ」

わたしはそんな皇帝と目も合わせられなかった。
奴はフフンと含み笑いをし、更にこちらへ近づいて囁くように言う。

「もし『フリーマン』になれたら褒美にパルミラをやらんでもないぞ」

「…ッ!!」

思わず拳を皇帝の顔に飛ばす。
だが、周りの衛兵がすぐに槍をわたしの喉元に突きつけた。
それ以上動けないわたしは、高笑いしながら観覧席に消える皇帝の後姿を、
怒りの表情で見つめるしかなかった…。

───「両者前へ!」

いつものように皇帝の声が、憎き声がコロッセオに響き渡る。
わたしはせめてこの怒りを、相手にぶつけようと中央へ歩み寄る。
相手は…何と、女性だった。一瞬、パルミラの顔がフィードバックする。

「お、女…?」

コロッセオに女が立つのはそう珍しい事ではない。
だが、実際立ち会う初めての女性に、わたしは戸惑いを隠せなかった。

「お前が…敵だな」

女性はその美しい顔に似合わない男台詞を吐く。
だが、長いハスタを携えるその姿は、丸で北欧の戦乙女のようだ。
パルミラと同じように、今度は三日前の夢に出てきた天使とダブって見える。
観衆も思いがけない駒の出現にザワザワと騒ぎ出す。

<お…女だぞ>

<なんて上玉だ>

<あんな奴に闘えるのか?>

観衆を制するように皇帝が席から立ち、
大声を上げる。

「民よ、見た目に騙されてはいけない!
今日のユリウスが決斗を行うのは…、あの悪名高いチュレルだ!」

<チュレル!?>

<あの気違い殺人鬼の!?>

チュレル・グレイス。聞いたことはある。
確かローマの街で自らの恋人を殺し、逮捕しようとした兵士を何十人も殺した殺人鬼だ。
まさか既に捕まり、皇帝の剣奴となっていたとは…。

「その通り、私がチュレル。悪魔に身を売った女だ」

チュレルは涼しい顔で言う。

コロッセオには剣奴の他に、こうした罪人も闘わされることがある。
もし、十勝出来たなら、それは『神の試練』を乗り越えたと受け取られ、
普通の剣奴と同じように『フリーマン』になれるのだ。

「私は負けるわけには行かん…」

チュレルはハスタを構えた。


『チュレル・グレイス』 

出自:罪人 年齢:21歳 武器:ハスタ
趣味:野良猫を可愛がる 殺傷人数:64人


「ではいいな…始め!」

丸で蜘蛛の子を散らすように逃げる衛兵達。
彼らも巻き添えは食いたくないのだろう。
皇帝はいつものように足を組んで観覧席に座っている。

「わたしは…誰が相手だろうと容赦しない」

ギュンターの…今となっては遺品となったソマテマスに軽くキスをし、
わたしはグラディウスを構えた。

「それは私も同じ事…、あの皇帝に復讐するまではな」

「…何?」

意外な言葉が飛び出したので、わたしは一瞬隙を見せてしまった。
そこを逃さずチュレルが槍を突き出して来る。

「がッ!」

槍はわたしの腕を掠った。
赤い線が浮かび上がるわたしの腕は、思わず武器を取り落としそうになる。
こいつは…強い。さすが殺人を繰り返していただけはある。
女と思って甘く見ていると…殺られる。
だが、わたしはさっきの言葉がどうにも気にかかった。

「皇帝に復讐?どういうことだ!」

「喋ってる暇があるのか?」

舐められていると受け取ったのか、
チュレルはニ、三度、槍を突き出す。
わたしは盾でそれを受け止めながら、なおも言葉を続けた。

「わたしも皇帝に復讐したい一人だ!」

チュレルは思わず攻撃の手を止めた。
隙を見せないようにしながら、瞬き一つせず言葉を紡ぐ。

「ほう、それは面白い…お前は何をされた?」

「父を…殺された」

「そうか…私は…恋人を殺された!」

言いながら再び槍を横薙ぎに振り回す。
凄まじい威圧感だ。

「皇帝に人生を壊された者は大勢居る!
私とお前もその一人だ…どっちが復讐するかは、神が決めるッ!」

「くっ!」

どうやら闘うしか道は無いようだ。
観衆の一人が『二人入って出るのは一人』と狂ったように叫んでいる。
わたしは、この悲しい女の人生に終止符を打つべく、剣の柄を強く握り締めた。

「よかろう!」

反撃に出る。
まずは脳天を狙って一撃、右に避けた相手に切り返し、
更にかわす彼女に蹴りを入れる。
この連撃は、最後の一撃がうまく決まった。

「ぐはっ!」

一瞬よろめくチュレル。
そこへすかさず鋭い突きを入れる。
だが、彼女は砂埃を上げて姿を消した。

「跳んだ!?」

槍を振り上げ、怒声を放ちながら一撃を振り下ろすチュレル。
わたしは素早く盾でそれを防いだ。
防ぐと同時に、槍をはじき返す。

「くっ、なかなかやる…」

白い鎧に身を包んだ女は、ニヤリと口元を持ち上げる。
こんな状況でも笑っていられるとは…。
わたしは修羅場を踏んだ数の違いを感じた。

「だが、これには耐えられるかな?」

チュレルは器用に槍を回転させ始める。
遠心力を付けた一撃で、盾ごとわたしを貫く気なのか。
だが、それほど強力な一撃なら隙も大きいはず…。

ヒュンヒュンヒュン…。

彼女の槍が空気を切り裂く音が響く。
観衆のいつのまにか黙り込み、息を呑んでその様子を眺めていた。
勝負は…一瞬。
彼女のブロンドの髪が、ユニコーンの尾のように翻り、
白い槍がゴリアテより鋭いスピードで突きかかって来た。

だが…これなら見切れる!

ソマテマスで槍を弾く。
左腕に強い衝撃が伝わり、盾の一部が欠片となって吹っ飛んだ。
すぐに体制を立て直そうとする奴の白い喉元へ、真っ直ぐに剣撃を突き返す。

しかし、そこでわたしの攻撃は終了した。

ハスタは投げ槍のように遠くへ飛んで行き、
後に残ったのはわたしと、剣を喉に当てられながら動けない敵だけ。
しばらくの沈黙の後、観衆が騒ぎ出した。

<殺せ!殺せ!>

<二人入って出るのは一人!>

<血を流せ!>

チュレルの汗がわたしのグラディウスに滴った。
やや上ずった声で観衆と同じ台詞を言う。

「こ…殺せ」

その言葉が、ギュンターの最期の記憶とかぶった。
何から何まで嫌な台詞を吐く女だ。

「………」

見兼ねた皇帝が手を振り上げて叫んだ。

「もはや勝負はあった!勝者ユリウスはフェミニストのようだ。
慈悲の心を持つ彼に勝利の酒を!」

その言葉で緊張の糸が切れたように、
チュレルは膝から地面へ崩れ落ちた。
わたしは彼女を殺さずに済んだ事を、今は憎き皇帝に感謝した。

チュレルは悲痛な面持ちで地面を一打する。

「くそッ…生き恥を晒さねばならんとは!」

わたしは涙さえ浮かべている彼女に、
そっと声をかけてやった。丸で自分に言い聞かせるように。

「生きていれば、良い事もある」

わたしは兵士の持ってくる酒を一気に飲み干し、
その場を後にした…。

───皇帝子飼いの監視下の下、
わたしは自室に戻り、
ギュンターの屋敷よりは豪勢な寝床に顔を埋めていた。
その心は一つ。
…皇帝への復讐。

今日のチュレルの言葉が頭の響く。

『あの皇帝に復讐するまではな』

ネロ皇帝…、まさかここまで酷い男だとは思わなかった。
自分を今の位置に据えた母を殺し、妻を追放するだけでは飽き足らず
孤島で殺害し、男と結婚する暴君。
まさしく噂通りの人間と言う訳だ。

あの皇帝は生かしておいてはならない。
神の鉄槌を下す時を待つのだ…。
その為には『フリーマン』となって、皇帝の監視下から離れなければ。
『フリーマン』になるには後、一勝を残すのみ。
どんな奴が相手でも必ず勝利を収めなければ。

死んだギュンターの為にも、そして今も救いを待つパルミラの為にも。

今は心を冷たく持つのだ。
いずれ燃え上がるであろう、その時を待ち望んで…。

わたしはそんな事を考えながら、深い眠りについて行った…。


5


───今日は水を打っかけられる事も無く目が覚めた。
いつもより調子が良い。
この体調ならば今日の闘いは万全な体勢で望めるだろう。
コロッセオに行くまで幾分か時間が余っていたので、
わたしは窓からローマの城下町を眺めることにした。
朝からせっせと働くローマの臣民達。
だが、その顔はどこか沈んだ感じがする。
そう言えば、先日皇帝がローマに火をつけて楽しんだと言う事件があった。
皇帝の言ではキリスト教徒が行ったという話だが…、
真相は今のわたしには分かるような気がする。
ともあれきっとそれのせいだろう。

ぼんやりと他人事のように考えていると、
やがて廊下からカツカツと音がして、扉が開いた。
そこには朝食を持った兵士が立っている。

「さっさと食え、食ったらコロッセオに行くのだ」

わたしは兵士がじっと見守る中、ろくな食事も取らず、
さっさと彼の先導でコロッセオに向かった。
ひょっとしたら早めの時間に闘えば、敵も寝ぼけているかもしれない。

控え室に行き、ロリカ・セグメンタータと今では戦友であるグラディウス、
そしてソマテマスを手に取る。

「ギュンター…、わたしを守ってくれ」

無機質な音を立てて上へせり上がる鉄格子。
いつものように狂騒するコロッセオの民。
そして…遥か先に待ち受ける敵。
今度の敵は遠くからでも何者か分かった。
黒い服に黒い帽子…、そして胸に煌く十字架。

…キリスト教徒だ。

キリスト教徒は皇帝によって激しく弾圧されている。
かつてこの場でパウロやペテロも処刑された。
どんな処刑方法だったかは…余りに残酷過ぎて思い出すのも痛々しい。

だが、それ以上に目を引いたのは観覧席に座る者だった。
いつものように皇帝では無く、一人の老人が座っている。

わたしが見止めるのとほぼ同時に老人は椅子から立ち上がり、
精一杯の声で叫んだ。

「皇帝は今日は城に居られる!今日は私、セネカが審判を行う!」

賢者セネカ、確か皇帝の師匠となった哲学者だ。
元老院よりも強大な権力を持ち、今は皇帝の後見者として落ち着いていると言う。
しかし…あの催し物が大好きな皇帝が城に居る?
一体何があったと言うのか。

そんな疑問が浮かんでは、消えた。

「両者前へ!」

年老いたセネカではなく、護衛の衛兵がその言葉を叫んだ。
わたしはゆっくりとコロッセオの中央へ歩を進める。
相手のキリスト教徒は意外にも、わたしと同じくらい身長があった。
さすがにあのゴリアテには負けるが。

「ユリウスの最後の相手はキリスト教徒だ!
邪心を信奉する哀れな者に、裁きの鉄槌を!」

だが、相手のキリスト教徒は眉一つ動かす事無く、
ペコリとお辞儀をした。

「初めマシテ、お手柔らかにお願いシマス」

やや訛りのあるその言葉。
わたしは拍子抜けな相手に思わずお辞儀を返してしまった。

「お名前、聞かせてクダサイ」

今からコロッセオで名前を聞かれた事は初めてだ。
『二人入って出るのは一人』…。
もし勝利を収めれば、どうせ敵の名前は過去の物になるのだから。
それでもわたしは答えた。

「ユリウスだ」

「オゥ、良い名前デス。ワタシはフランシスコ・ザビエルと言いマス」

ザビエルと名乗ったその男は、もう一度お辞儀をした。
それを苛立ったように見据える衛兵が、彼の尻を槍の柄尻で引っ叩く。

「ケッ、キリシタンめ」

びっくりして尻を摩るザビエル。

「では両者準備よろしいな…始め!」


『フランシスコ・ザビエル』 

出自:キリスト教徒 年齢:32歳 武器:メイス×2
趣味:布教 殺傷人数:108人


衛兵は昨日と打って変わって、
落ち着いた様子で我々の周りから離れた。
きっと相手が相手なだけにとばっちりを食らう心配が無いからだろう。

ザビエルはしどろもどろとした手つきで、武器を構えた。
腰から下げた二本のメイスをゆっくりとした動作でそれぞれ両手に握り締める。
一体あんな重い物をどうやって腰から二本も下げておくのか、不思議でならない。

「二刀流か」

右手にメイス、左手にもメイス。
おおよそ慈悲の心を持つ神父とは思えない姿だ。

「一体何人くらいそのメイスで殺したんだ?」

「108人デス」

ひゃ…108人!?
並ではない。
一体どんな神がそんな殺戮を許してくれると言うのか。
わたしは目の前に居る柔らかい物腰の男に、壮絶な戦慄を覚えた。

「では、闘う前に聞かせて下サイ。貴方は何の為に闘うのデスカ?」

神父の口からいかにも神父らしい言葉が飛び出す。
懺悔でもさせる気なのだろうか。
わたしは頭の中をまとめてから答えた。

「死んだ者の為…虐げられている人の為、そしてそれら全て自分の為だ」

ザビエルは目を閉じ、体の前で十字を切ってから再び口を開く。

「この者に神の救いあらん事ヲ」

わたしは皮肉交じりに言葉を投げかけた。

「貴様の神に救ってもらう筋合いなど無い」

瞬間、ザビエルの姿が消える。

「えっ」

それと同時に、観衆のアッと言う声。
そして背後の強烈な殺気。

反射的に体を左へずらすと、わたしが立っていた場所に大穴が開いていた。
奴のメイスが叩きつけられた瞬間だ。

「馬鹿なッ…!」

「Go to heven!」

神父のメイスが横薙ぎに飛んでくる。
そう、右手のメイスをはずしても、奴は左手が残っているのだ。
思わず盾を正面に構えるわたし。

ガギィィィン

ゴリアテのクレイモアーのような衝撃が腕に伝わる。
わたしは素早く後ろに跳んで体勢を立て直した。
相手はそこでようやく一呼吸をついた。

「良い動体視力デス」

どうやらあのメイス、見かけより重量があるようだ。
一体何で造られているのか全く見当も付かない。
そんな物を二本も振り回す奴は一体…、何者だ。
今となっては最初の仄々とした雰囲気も消え、
敵の眼光は鋭い殺気を赤裸々に放っている。
まずい…このままでは殺られる。

なんたってここに出てくる人間は
こんな尋常じゃないのが揃っているんだ?
わたしは心の奥で心底疲れた面持ちになった。

「見切るんだ…敵の動きを」

消えたかと思うほど素早い動き。
だが、それにはかなりの瞬発力が必要なはずだ。
ともすれば、動く瞬間にサインが発せられる。
すなわち、地面を蹴る『音』だ…。

わたしとザビエルは再びお互いを睨んだまま不動となった。

「アナタには焦りが見えマスネ…」

「何だと?」

「そんなに急いでも得る物はありマセンヨ」

「くっ…知った風な口を!」

ビュオッ!

そう言い切った瞬間、奴は左手のメイスをこちらに投げつけて来た。

「投げる?!」

武器を投げるとは…何と言う度胸!

ズザザッ!

そして、例の『音』
奴はわたしの背後で、わたしの避けたメイスをキャッチした。

「嘘だろッ!?」

一発目の攻撃よりもっと速い動きだ。
そんな反則的な動きが人間に出来るものなのか!?

ザビエルはキャッチしたメイスと、もう一本の手に持っているメイスで
同時に、挟み込むようにわたしの腰の位置を攻撃して来る。
素早く跳躍するわたし。
同時に跳躍するザビエル。
わたし達は空中で対峙する格好となった。
観衆の声がフッと遠くなり、辺りは白い空間と化す。

「くたばれ!」

剣を振り下ろす。
だが、奴は身体を深く曲げそれをかわした。
そして一気に引き伸ばすと、さらに空中で跳躍を行う。

「!!」

「神の裁きヲォォォォォォオオ!」

来る!メイスの攻撃だ。
だが、わたしの剣は再び上へ振り上げることが出来ない。
時間がかかり過ぎる!残されたのは左腕しかない!

「くっ…この化け物がァァ!」

盾を、投げた。
本能的な行動だ。
フリスビーのように水平回転しながらザビエルの頭に命中する。

「ゴフッ…!!」

メイスは大きく軌道を逸れ、再びお互いが地面に着地する時に
残ったのは観衆の歓声だけだった。

<何て闘いだ!>

<見えなかったぞ全然!>

わたしは、頭を抑えて膝を折るザビエルにトドメを刺すべく、
グラディウスをすうっと振り上げた。
こんな化け物は生かしておいても世の為にならない。

「め…、召される時が来マシタカ…」

「終わりだ」

剣を真っ直ぐに振り下ろす。
だが、その瞬間、セネカの声が響いた。

「そこまで!そこまで!闘いは終わりだ!」

一瞬の事に躊躇したわたしは、結局ザビエルを殺す事が出来なかった。
気合を殺いでくれたセネカに、文句を付けるつもりで観覧席を見上げるが、
そこでは既にセネカが観覧席の奥の方へ姿を消して行く所だった。

「一体…どうしたと言うんだ?」

セネカが去った後の観覧席で、衛兵が代わりに叫ぶ。

「セネカ様は急用が入られた!今日の闘いはこれで終わりとする!」

例によって観衆から総ブーイングが来る。

<血を見せろ!>

<そんなの後にしろ!>

だが、衛兵もセネカの後を追って、観衆の怒声を尻目に去っていった。
そこで、ザビエルがポツリと言う。

「トドメを刺さないノデ?…ワタシは処刑されないのデスカ?」

わたしはすっかり闘いの高揚感も失墜してしまった。
今ではこの化け物神父にも興味が無い。

「知らん」

そう言いおいて、控え室へと戻って行った。

───控え室では、戦闘の予定がキャンセルされた為に
帰り支度をする剣奴や罪人で一杯になっていた。
そんな中、すっかり汗ばんだロリカを脱ぐ。
思えばこの鎧には、精神的な面でかなり助けになってもらった。
わたしが控え室に入ってすぐに、布袋と新品のグラディウス、
そして鉄棒を持った兵士がやって来た。

彼は冬に闘う者が暖を取る為に用意してある
暖炉に火を点け、鉄棒をくべた。
今の季節には少々暑い。

控え室に居る剣奴や罪人は一斉にそちらを見ている。
兵士はしっかり火が点いたか確認した後、静かに咳払いをしてから、
わたしの前に立った。

「剣奴ユリウス、お前は今日から『フリーマン』だ」

外野の目が、今度はわたしに向いた。
『フリーマン』になった者が珍しいのだろう。
あるいは羨望の目かもしれない。

「さっきのは一勝に入るのか?」

「あぁ、セネカ様のお達しだ。この布袋には少しの路銀が入っている。
こっちのグラディウスは試練を乗り越えた者に与えられる物だ。それと…」

兵士は突然鉄棒を暖炉から取り上げると、
わたしの腕に押し当てた。
剣奴の烙印が押されている所だ。

「ぐあぁッ…!」

ジュウウゥゥ…。

「我慢しろ」

再び鉄棒を持ち上げた時、烙印は新たな火傷で覆い隠されていた。
これでどこに行っても、身分の事でいちゃもんを付けられる事は無いと言う訳だ。

「じゃあな、せいぜい達者に生きろよ」

兵士はテーブルの上に布袋とグラディウスを置いて、控え室から出て行った。
コロッセオから草原に踏み出すわたし。
なんだか、長い刑期から開放された重罪人の気分だ。

だが、わたしはこれから、もっと重い罪を重ねるだろう。

「行くか…城へ」

誰も共に立つ者は居ない。
それでも、わたしは行かなければならない。
パルミラを…救わなければ。


6


城に着いたわたしは、ここまで届けてくれた親切な馬車の主に、
少しの金を払って城門へと歩み寄った。

「止まれ!ユリウスか?」

当然のように門番が声をかけて来る。
そいつは先日、パルミラを連れて行った衛兵だった。

「やあ、又会ったな。ところでわたしは『フリーマン』になったんだ。
その剣奴を見るような眼はやめてくれないか」

衛兵はわたしの腕の火傷を見て、少々態度を改める。

「む…そうか。では今日は皇帝の居城に何の用だ?」

わたしは極めて冷静な口調で回答した。

「今から皇帝を殺したいんだが…、彼はどこに居るかな?
多分この城に居ると思うんだが…」

「皇帝ならサロンに…えっ?」

「ありがとう」

わたしは新品のグラディウスで、彼の首を刎ねた。
さすが、皇帝からの下賜品なだけあって、よく斬れる。

「おいっ!」

続けざまにもう一人居る門番の首も刎ねた。
声を出されないようにする為だ。
刎ねた首からは、丸で噴水のように血が噴出し、
辺りを真っ赤に染めた。

それを見ていた階上の兵士が、角笛を力一杯吹く。

「敵襲だ!敵襲だ!」

門の奥の方からザワザワと声がする。
そして金属と金属の激しくぶつかり合う音。
詰め所に居た何人もの兵士が出てくるんだろう。
わたしは目を瞑り、血染めの剣にキスした。

「神よ…、正確迅速に」


───同時刻、マルクティウス。
彼は他の剣奴と共に、城の地下牢へ幽閉されていた。
だが、ドタバタと装備を固める牢番に対して、
不穏な雰囲気を感じ取った。

「もし、牢番さん、一体何があったんですか?」

松明で足元を照らしながら、それどころじゃないと言う風に
騒ぎ立てる牢番の中年男。

「敵襲だ!お前達、いざとなったら皇帝の為に闘ってくれ!」

どうやら彼は自分の剣の腕によほど自信が無いらしい。
マルクティウスは、その様子を見て、一瞬で悟った。
…ユリウスだ。

「分かりました、我ら一同、皇帝の為に粉骨砕身で戦います。
ですから、牢を開けてくれませんか?」

「何?牢を開けろだと…!?裏切らない保障はあるのか?」

ここに来て、いやに冷静な牢番だ。

「ええ、裏切った所で僕達は犬死するだけですし、
そんな馬鹿な考えを持つのはここに一人として居ませんよ。
さぁ、牢を開けて、我らに勝利の前酒を下さい」

牢番は少し落ち着きを取り戻したのか、
いつもの手馴れた手つきで牢の鍵を開くと、
近くのテーブルに置いてある酒を、マルクティウスに渡した。

「さぁ、装備を固めて来い、お前達の装備はコロッセオだが、
武器庫に行けば、何か代わりの適当な奴がある」

「はい、ありがとうございます」

マルクティウスは渡された酒を口に含み、
それを飲み干す事なく、牢番に向かって松明越しに吹きかけた。

「ぎゃぁぁぁ!!」

酒は牢番の持つ松明で引火し、火のシャワーとなって
彼の身体を一瞬で火に包み込む。

マルクティウスは燃え盛る男を尻目に、
何人も居る牢の剣奴達に力一杯叫んだ。

「皆!ユリウスを助けに行くぞ!」

しばらく考え込む者も居たが、
一人、また一人とマルクティウスの為に立ち上がる。

「行こう!!」


───その頃、チュレルは、
『フリーマン』になったユリウスの朗報を聞きながら、
コロッセオで闘いを繰り広げていた。

「そこっ!」

「ぐ…がはっ…」

チュレルの槍が、敵を正確にあの世へと送った。

「勝者、チュレル!酒を彼女に!」

叫んだのはセネカでもネロでも無く、元老院の一人だ。
チュレルはやっと4勝目を果たしたところで、
安堵の溜息をついていた。

そこへ観覧席に転がり込むようにやって来た兵士が、
無粋にも大声で叫ぶ。

「報告!ユリウスが単身、城を襲撃しています!」

元老院の老人は狼狽した。

「何ッ!?…こうしてはおれん、すぐに戻るぞ!」

警護の兵士までが、老人に続いて観覧席から去っていく。
それを見て、チュレルは思案した。

「ユリウス…遂に動いたのか…!
だが四面楚歌な状況でどうするつもりだ…!?
…皇帝を殺すのは私の役目だと言うに…」

皇帝側である元老院、衛兵、その他の兵士が
全て去ったのを確認すると、ガヤガヤと騒ぎ立てる
観衆に向かって、チュレルはバトルフィールドの中央で
両手を振り上げながら叫んだ。

「民よ!今の言葉を聴いたか!」

途端に静かになる観衆達。

「我らが同志ユリウスは、あの神をも恐れぬ傲慢な皇帝に向かって、
遂に単身で戦いを挑んだ!」

観衆が、『傲慢な皇帝』の台詞に敏感に反応する。
そうだ、観衆とて、あの皇帝には既に我慢が限界だったのだ。

「彼をこのまま一人で行かせて良いのか!?」

観衆が一斉に叫んだ。

<良くない!!>

「我らも彼の助けとなろうとは思わないか!?」

<行こう!ユリウスを助けに!!>

「行こう!皇帝を粛清する時だ!!
我らには…神の加護がある!!」

そう言いながら、コロッセオに大きく聳え立つ
勝利の女神像を指差す。

<オォーッ!!>

「(私の弁士の才能も捨てたものじゃ無いな…、
ユリウス…私達が行くまで…死ぬなよ!)」


───ユリウスは城のエントランスで、
数十人の重装兵に囲まれて居た。
既に周りには、もっと多い数の死体が散乱している。
重装兵の一人が剣を構えながら言った。

「皇帝の城を穢すとは…不届き者め!」

「民を民と思わぬ皇帝など…!」

「何だと!」

重装兵が剣を振り下ろす。
だが、それをかわしたユリウスは、相手の首間接の、
少しの空洞を狙って剣を突き入れた。

「がぁぁ…ッ!」

その様子を見て一瞬たじろぐ周囲の兵。
彼らは合図を送ると、今度は同時に5人がかりで襲ってきた。

「人海戦術か!」

まず、先頭に出てきた二人を一合目で首を刎ね、腹を突き刺した。
そして、三人目が放つ横薙ぎの剣を跳んでかわし、そのまま脳天に一撃。
だが、4人目と5人目までは手が回らない。

「しまった…着地の瞬間にやられる!」

着地の瞬間には、態勢を立て直す動作に数コンマの隙がある。
そこを二人同時に攻撃されてはまずい。

そう思う間も無く足は地に着き、
想定通り二人の剣が心臓を狙って突き出される。
数秒早く後ろに跳んでかわすが、背後の死体につまづいて尻餅を付いてしまった。

「ぐはっ!」

重装兵の一人が、わたしの腹を踏みつけた。
もの凄い重量に、息が出来なくなる。

「ここまでだな…一人でよく頑張ったと褒めてやろう」

皮肉を言い置いて、足を置いたまま剣を振り上げる重装兵。
わたしは観念し、目を瞑った。

「やはり、一人で皇帝の軍勢に立ち向かう事など…」

だが、予想されるトドメの一撃は無かった。
それどころか、何秒待ってみても剣は振り下ろされる様子が無い。
腹に乗っていた重量がふっと消えた。

わたしは不審に思って、そっと目を開いた。

…そこには、黒衣の男が両手にメイスを構えて立っていた。
既に周りに居た他の兵士は、山積みになって倒れている。

「お、お前は…」

「諦めてはいけマセン、人間は、不可能に立ち向かう姿こそが美しいのデス」

「ザビエル!どうしてここに!?」

「城の襲撃を耳にしまシテ…、アナタだと判りました。
微力ながらワタシもお手伝いシマス」

微力…?とんでもない。
そう言えばこの男も惨殺されるキリスト教徒を見て、
皇帝に対して不満を募らせているはずだ。
こんな化け物のような奴が味方になってくれるとは…。

「ありがたい…千人の兵を得た気分だ!」

「昨日の敵は今日の友と言いマス、さぁ、行きまショウ」

わたしとザビエルは、尚も立ちはだかる敵兵を屠りながら、
皇帝の待つサロンへと急いだ。

踊り場を越え、渡り廊下を乗り越え、サロンの前に辿り着くと、
扉の中はしんとして声の一つも聞こえない。
わたしは不審に思って、そっと、しかし力強く扉を開いた。

中には10人の兵士、
そしてそれを率いる格好で一人の老剣士が立っている。

「お前がユリウスか…、よくここまで来たな。
だが、皇帝はここには居ない」

「どこへ…!?」

ザビエルがメイスを握りなおす。
わたしはそれを右手で制した。

「皇帝はどこへ行った!!」

「言うと思うのか、このワシが…知りたければ1対1で決斗せよ。
それがお前達のルールだったろう?」

ザビエルが仰々しい顔で忠告する。

「彼は皇帝親衛隊長…オットーネ。
ここはワタシが相手をしまショウ」

「ザビエル!?」

だが、既にザビエルは老剣士の間合いまで入っていた。
老剣士はいぶかしげな表情で尋ねる。

「この男が相手をするのか…?良いだろう。
反乱分子は一人たりとも生かしては帰さぬ!」

「ワタシはフランシスコ・ザビエル。
皇帝の残虐に鉄槌を下すベク、アナタと闘いマス」

オットーネと呼ばれた男は長剣を抜いた。
宝剣…と言ってもいいくらい豪華な装飾がついた剣だ。
だが、その血溝は汚い錆と、人間の脂で汚れきっていて、
長年の年季を感じ取れる。


『オットーネ・マイスター』 

出自:将軍 年齢:68歳 武器:グラディウス
趣味:乗馬 殺傷人数:351人


「気をつけろザビエル…」

わたしは剣を床に置いた。
“手を出すことはない”と言う意思表明だ。
周りの10人の兵士も、それに習って剣を床に置く。

重い沈黙が流れた…。
『始め』の合図が無い決斗だ。

やがて、老剣士が先に動いた。

「ハァッ!」

だが、あの程度の動きならば…。
ザビエルの眼が光った。
そして剣撃は虚しく宙を斬る。

「何…は、速い!」

やはり寄る年波には勝てぬものだろうか。
ザビエルが消えてから老剣士が周りを見渡すのが
物凄く滑稽に見えてしまう。
まぁ、あの動きを初めて見れば誰でもああなるだろうが。

…ザビエルは天井のシャンデリアに乗っていた。
見ている兵士は全員その事に気付いているが、
一人として助言はしない。…いや、出来ない。

「姿を見せよ!」

相も変わらずキョロキョロと辺りを見るオットーネ。
それは愚かな人間を象徴するかのような動作だった。
そして次の瞬間、二本のメイスが彼の頭を狭圧する。
グシャ、と心地よい音がして、部屋の中には
血と脳漿が飛び散った。
ザビエルの勝ちだ。

「殺すには惜しい相手デシタ」

よく言う、108人殺してる癖に…、いや、109人か。
兵士の一人が自分のマントを未だビクビクと痙攣するオットーネの遺体に覆いかける。
白いマントは赤く染まった。
同時に、ドドンと激しい音と震動がする。

<ワーッ!>

兵士もわたし達もサロンから出て、
城門の方を見下ろした。
そこでは、何千、何万と言う民衆が城になだれ込もうとしていた。
…ついにクーデターが起きたのだ。
あれだけの人数が居る所を見ると、
きっと色んな町の色んな人間が雪だるま式に反乱に呼応したのだろう。

<行け!皇帝を探せ!>

それらを先導している女性は…、

「チュレル!」

紛れも無くそれはチュレルだった。
城に依然として残る兵力を相手に、
必死の戦いっぷりを見せている。

兵士が呟いた。

「民草の反乱か…」

わたしは諦めた表情の兵士に向かって、諭すように問う。

「教えてくれ、皇帝はどこにいるんだ?」

兵士はわたしに目を合わせた。
まるで死んだ魚のような目をしている。
そっと口が開いた。

「あそこの尖塔の…最上階に居られます」

指を複数ある尖塔の一つに向けた。
わたしとザビエルはお互いうなづくと、
その尖塔目指してサロンを抜け出し、階段を駆け下りた。

「人間はこの世で唯一、愚かな存在なのか…」

…背後で兵士の声が聞こえたような気がした。

民衆によって破壊された城内をひたすら走る。
一階のエントランスを通過する時、チュレルを発見した。

「ユリウス!」

半ば嬉しそうに駆け寄って来る。
わたしと彼女はお互いの無事を確認し、抱擁した。
そしてそっと身体を離すと、今の状況を確認し合う。

「皇帝は見つかったか?」

「あぁ…あそこの尖塔に居る」

チュレルは後ろで指示を待つ民衆に声をかけようと振り向くが、
口を塞いでそれを制すユリウス。
チュレルは苛立ったようにユリウスを睨んだ。

「…何だ」

「民衆まで尖塔に連れて行ったら、
きっと重みで塔ごと崩れてしまう。
…ここはわたしに任せてくれないか」

チュレルは俯き、しばらく思案した後、
こう答えた。

「確かにそうだ…民には皇帝軍の相手をしてもらう事にしよう。
だが…私はお前と共に行くぞ」

「…分かった」

わたしとチュレル、そしてザビエルは、
エントランスから中庭を抜け、尖塔をひたすら目指した。
途中、数十人の兵士が未だ消えぬ戦意を持って襲い掛かるが、
わたし達三人の敵では無かった。

ザビエルのメイスが、チュレルの槍が、そしてわたしの剣が
次々と皇帝の軍勢を亡き者としていく。

尖塔の入り口に辿り着くと、扉は佇むように閉まっていた。
…きっと中から閂をかけてあるのだ。
ザビエルがメイスを数発叩きつけるが、
鉄製の扉は頑としてそれを跳ね除ける。
チュレルが焦ったように叫んだ。

「くそっ…もう少しだと言うのに…、
このままでは皇帝を逃がしてしまうかもしれないぞ!」

「三人で体当たりをしてミマショウ」

ザビエルの提案で、わたし達は息を揃えて扉にタックルした。
1回、2回…、だが扉はそれでも動く様子が無い。
何とか2階の窓へ侵入出来ないかと考えている時、
背後から中庭を抜けてやって来る者が居た。

「ユリウス!」

なんとそれはマルクティウスだった。
仲間の剣奴達も一緒に居る。
彼らは巨木を抱えていた。

「マルクティウス…無事だったのか!」

「ええ…僕達は大丈夫です。さぁ、一刻も早く皇帝の元へ!」

マルクティウスは手を振り上げた。
剣奴達への合図だ。
その合図で巨木を抱えた奴隷達は扉に突進する。

ズガァ!

数十人の力が加えられたことによって、
扉はへこみ、蝶番の一個が弾け飛んだ。

「もう一発!それっ!」

扉から数メートル離れ、再び突撃する。
最後の一撃で扉はバタンと向こう側へ倒れた。

「よし…行くぞ!」

長い螺旋階段を駆け上がる。
さすがに疲労が限界を感じたが、そんな事は言ってられない。
立ち止まること無く、わたし達は尖塔の最上階に辿り着き、
そして、部屋の扉を蹴り飛ばす。

中で見たものは…、地獄だった。
チュレルが呟く。

「何だ、これは…」

血塗られた歯車、鉄製のベッド、
杭に縛られた全裸の男女、グツグツと煮える大鍋、そして血の海…。
マルクティウスもザビエルも、顔を顰めながら思わず口を覆う。
わたしは、杭に縛られた者の中に、見知った顔を見つけた。

「パ…パルミラ!?」

紛れも無く、それはパルミラだった。
一糸纏わぬ姿で、哀れに雁字搦めにされいる。
わたしは急ぎ駆け寄った。

だが、その瞬間マルクティウスが叫んだ。

「危ない!」

ドスッ!

一本の矢がわたしの左肩を貫いた。

「ぐっ…!?」

矢の飛んできた方向を見ると、そこには弓を構えて皇帝が立っていた。
あの皇帝が、わたしをこんな目に合わせた皇帝が立っている。
あの皇帝が、憎き皇帝が…。

「ユリ…ウス…」

その言葉で正気に返った。
パルミラが目を開いたのだ。
…彼女はまだ生きている!

急いで縄を断ち切り、ぐったりした身体を抱き抱えた。
とても冷たい。チュレルが上着を脱いで、パルミラに着せてやる。

「はぁ…ユリウス…はぁ…ごめんね…」

わたしは居た堪れなくなって彼女をギュッと抱きしめた。
目頭が熱くなり、頭の中が真っ白になる。

「もういい、少し休め…、後の始末はわたしがつける」

仲間の剣奴達は他の杭に縛られた人達を解放している。
…中には既に手遅れだった者もいるようだ。

チュレルは階上に居る皇帝を睨み、叫んだ。

「皇帝ッ!!」

皇帝は獣の皮を被りながら、
何事かブツブツと呟いていた。

わたしは我先にと皇帝の所へ行こうとするチュレルを抑えた。

「何をするっ!よもや今更止めはしまいっ!」

「…ここはわたしに任せてくれないか」

「何っ」

チュレルがこれまでにない怒りの形相でわたしを見る。
それはそうだ、きっとチュレルも皇帝に復讐したい気持ちは同じなのだ。
しかし、ここはわたしが闘わなければならない。

「二人入って出るのは、一人…」

「ここはコロッセオでは無いぞ!何を考えている?」

そうか、今分かった。
わたしは闘わなければならないのではない。
闘いたいんだ。
闘いそのものに心酔している自分が居る。
いつの間にか、闘いがわたしの生き甲斐に…。

ギュンターの顔が一瞬脳裏に浮かんだ。

…そんな馬鹿な、わたしはそんな人間ではない。
そうだ、わたしはもっと真っ当な人間だ…。

一人で問答を繰り返していると、突如皇帝の声が響いた。

「『フリーマン』であるユリウスよ!余はお前に決斗を挑むぞ!
男として、皇帝として、聖戦を行うのだ!」

「…良いだろう」

決斗する理由はどこにも無い。
既に敵は皇帝一人、こちらは多数。
1対1で闘う必要など、どこにも無い…それなのに。

「生きるか死ぬか…どちらかだ」


『皇帝ネロ』 

出自:皇帝 年齢:30歳 武器:カッツバルゲル
趣味:獣の真似 殺傷人数:12169人(間接的含む)


わたしは抜き身の剣を皇帝に向かって突きつけた。
もはや反逆の言い逃れは出来ない。
あの皇帝を殺らねば、わたしが殺られる。
その時、不意に背後から近づいてくる足音がした。

「二人入って、出るのは一人、か…」

振り返ると、そこには哲学者セネカが居た。
一つ、大きく咳払いをし、微かな日光の漏れる窓を指差す。

「ネロよ、もう止めるのだ。
あの窓から民衆の怒りの声が聞こえるであろう。
もはや帝室を守護するものは、誰もおらぬ。
ここでお主が何人殺したとて、罪の上塗りをするだけだ」

ネロはその言葉を聞いて、狂気じみた笑い声を上げた。

「何を言うのだセネカ!余は神の代行者であるぞ!
すなわち、余は神であるのだ!その余に逆らう事などあってはならないのだ!」

セネカもいささか激昂した様子を見せながら、怒声を上げる。

「馬鹿者!お主はただの人間だ!
皇帝という不幸な立場に生まれついただけのな!」

ネロの張り付いたような笑顔が消えた。
そのまま、ゆっくりと弓を構える。

「な、何をするネロ!」

「黙れ!」

ドシュッ…!

放たれた矢はセネカの胸を貫いた。
わたしのすぐ側で、膝から崩れ落ちるセネカ。

「ぐはっ…私は…間違っていた…」

おそらく急所に命中したのだろう。
セネカはそれだけ言うと、物言わぬ屍となった。

マルクティウスが叫んだ。

「くっ…皇帝ッ!」

それでも尚、わたしは彼を制す。

「よせ、わたしがやる」

「ユリウス…」

ネロは階段を一歩一歩噛み締めるように下りてきた。
そして、弓と矢筒を血の海の中に放り捨てる。

「さあ、余の力を見せてやろう」

チュレル、マルクティウス、ザビエル…、そしてパルミラ。
皇帝によって人生を狂わされた奇妙な仲間達が見守る中、
わたしと皇帝は対峙した。

部屋の中の蝋燭が静かに燃える。
やがて、鍋の中の大きな気泡が一つ、弾けた。

「ウリアアア!!」

ガキン!

真っ直ぐに剣を打ち据える皇帝。
どうやら剣の手ほどきは受けていたようだ。
だが、力はこちらの方が上だ。

「…はぁっ!」

剣を交差させたまま、一気に押し返す。
皇帝は一瞬体制を崩す形となった。

その隙を突いて素早く切り返す。
だが、皇帝は思いがけぬ行動に出た。

「ペッ!」

わたしの目をめがけて唾を吐きかけたのだ。
一瞬視界が閉ざされるわたしは、虚しく宙を斬った。
…しまった、やられる!
咄嗟に身を引いたが、同時に左腕に鋭い痛みを感じた。

「ぐっ…!」

剣を持ったまま、右腕で目を拭うと、そこには真新しい赤い線が出来ていた。
危ない、引かなければ腕を切断されていただろう。

チュレルが槍を構えた。

「卑怯な…、ユリウス!全員でかかって殺してしまおう!」

「やめろ!」

わたしは皇帝を殺さねばならない。
ギュンターの仇として…、何より自分の…。
? 自分の…何だ?

皇帝が笑いながら言う。

「卑怯だと?何でもありなのが貴様等のルールであろう?」

わたしは腹の底に燃え上がる怒りを感じ、
足元に溜まっている血を皇帝に蹴りかけた。

そのまま剣を真っ直ぐに構えて突進する。
剣は驚く皇帝の肩に突き刺さった。

「何ッ…!?」

「確かにそうだ、だがわたし達は…生きる為に闘って来た!
お前のように無意味な殺しはしない!」

皇帝はわたしの剣を振り払い、
滅茶苦茶に殺陣を繰り出す。

「馬鹿め!余こそは殺人も神は許すのだよ!」

盾が無くては防戦が不利だ。
こういう時は相手の隙をよく見るに限る。

横薙ぎ、脳天、突き…、そして再び切り返し。
ここだ。

ガキン!

切り返す一撃を流すように防ぎ、わたしも猛烈な反撃を開始した。
皇帝はどんどん後ろへ下がる格好となり、
やがて足が階段に当たる。

「ぬうっ!」

そのままこちらが下になるように階段の上へ皇帝を押し上げて行く。
だが、そこでまた、皇帝の卑怯な攻撃が始まった。
そこら中にある拷問具を投げつけて来たのだ。

チュレルもザビエルも玉のような汗を掻いて、不安な顔つきでこちらを見上げている。
やがて、拷問具の一つがわたしの顔に当たった。
その瞬間を逃さず、再び皇帝は剣を繰り出す。
わたしは身体を切りつけられながらも、迅速に反撃した。
矢の刺さったままの左腕が鋭い痛みを訴えるが、
そんなことは気にしてられない。

「浅い!」

わたしの反撃が来る事を予想していたのか、
皇帝は低い体勢で繰り出すわたしの一撃を避けつつ数歩後ろへ下がり、
何を思っているのか、手元にあるレバーを引いた。

ガシャン…ギゴゴゴゴゴゴゴ…。

途端、処刑道具の一つである歯車が動き出す。
人間を二つの歯車で押し潰すと言う、残酷な機械だ。
そして皇帝はそのまま歯車にぶら下がり、階段の下へジャンプする。

眼前に降り立った皇帝に、一瞬手を出そうか迷うマルクティウス達。
だが、皇帝は仲間が見ているだけなのを良いことに、
気を失っているパルミラに駆け寄り、剣を当てた。

わたしも急いで皇帝と同じよう、歯車づたいに下へジャンプする。
そしてニヤニヤと笑う皇帝に罵声を浴びせた。

「何をする!これはわたしとお前の1対1の決斗だぞ!それを穢す気か!?」

皇帝はフッと鼻で笑った。

「甘いなユリウス、余はグラディエーター(剣闘士)では無いのだよ」

チュレルとザビエル、それにマルクティウスの三人が皇帝を取り囲む。
しかし、皇帝は剣をさらにパルミラの首へ近づけて、それを一喝した。

「離れろ!」

三人は一斉にわたしの顔を見る。
わたしも、目で合図を送った。

(…言う通りにするんだ)

しぶしぶと離れていく三人を見届けてから、
わたしは皇帝に負けないくらいの怒声を張り上げる。

「どうするつもりだ!」

「剣を捨てろ」

一瞬戸惑ったが、現状を冷静に分析したわたしは足元に剣を置く。

「駄目だ、鍋の中に投げ入れろ」

その言葉を聞いて皇帝を睨みつける。
だが、その剣の切っ先には息も絶え絶えのパルミラが居るのだ。
わたしは大人しく、皇帝自身から賜ったグラディウスを、
皇帝の命令によって大鍋へ捨てた。
グツグツと煮える鍋は、まるで邪悪なドラゴンのように剣を呑み込んでしまった。

「次はどうしろと?」

「そこにある枷を自分の足にはめるのだ」

足元には、血の海の中に溺れるように、
一個の足枷が置かれていた。
両足を拘束出来るように二つの輪がかなり短い鎖で繋がっている。
鍵はどこにも見当たらない…。
わたしはその輪を自分の足に当て、力を入れた。

輪はガシャンと音がしてしっかりと締まる。
どうやら鍵が無くても自動的にロックされるタイプのようだ。

「フフフ、はめたな」

皇帝はわたしが無防備な状態になったとわかると、
パルミラの側から素早くわたしの所へ駆け寄った。
次はわたしを人質にして、チュレル達の攻撃を防ぐ為だ。

「貴様さえ殺せば全てが終わるであろう。
貴様を生かしておいたのは余の人生の最大の誤算だ」

皇帝はそれだけ言うと、わたしの腹を蹴り上げた。

「ふぐっ!」

それから何度もわたしの身体のあちこちを蹴ったり殴ったりする。

「貴様さえいなければ…この愚か者めがっ!」

「や、やめろッ!」

チュレルが叫んだ。
しかしその声はすでに皇帝には届かない。

「このボケナスがッ!剣奴の分際で余に逆らうなどと…ッ!死ねッ!死ぬのだッ!」

一撃蹴りや拳が飛んでくる度に、全身の傷から激痛が身体を伝う。
わたしは気を失いそうになった。

「はぁ、はぁ…これで全てを終わらせてやろう」

皇帝はわたしの身体を抱え上げると、
重そうに数歩歩いてから、真っ赤な布が張られた石板の上へわたしを乗せた。
石板はどういう原理なのか分からないが、ゆっくりとスライドしているようだ。
そしてその先に見えるのは…歯車。

そうか…奴はわたしにトドメを刺す気か。
気付くと真っ赤な布は、実は血で染められている事が分かった。
きっと今まで何人もの罪の無い人が、皇帝の余興で殺されていったんだろう。
そう考えると全身に怒りが漲るが、満身創意のわたしは動くことが出来ない。

ゴゴゴゴゴ…。

歯車は無機質に動く。
犠牲者を待つその歯が、しっかりとわたしを待ち受けていた。

「ヒヤハハハハ!!」

皇帝は笑い出した。
きっとわたしにトドメを刺せるのが嬉しいのだろう。
ひょっとしたらもう逃れられない自分の未来を知って、
自暴自棄になっているのかもしれない。

わたしは自分の生涯が、案外短かったと実感した。
全てを諦めかけていたその時…、その時だった。

ヒュンッ!

わたしの頭の上へ一本の剣が降り立ったのだ。
飛んで来た方向を見ると、それはマルクティウスの剣だった。

「使って下さい!」

皇帝は我に返り、すぐにまたパルミラを人質にとろうとするが、
パルミラはすでにチュレルによって安全な位置へ運ばれていた。

「くっ…この期に及んでまだ歯向かうか!」

皇帝は再び剣を構え、チュレルに向かって行く。
だが、そこに一瞬早くザビエルが立ちはだかった。

「むんっ!」

皇帝の腹部に向かってメイスを叩きつける。
皇帝はそれをモロに食らい、わたしの足元へ吹っ飛んだ。
その瞬間、何かがわたしを内部から突き上げた。
素早く皇帝の首へ腕を回し、渾身の力を込める。

「な、まだそんな力が…ググウッ!」

皇帝は背中に向けて剣をやぶれかぶれに振り回す。
その一撃が、わたしの腰に当たった。
一瞬力が緩むと、皇帝はわたしを石板の上から蹴り飛ばす。

「ぐああああっ!」

電気のように脳天へ直撃する激痛。
腰からはどくどくと血が流れ出している。

わたしはそれでも尚立ち上がり、石板から咄嗟の判断でマルクティウスの剣を拾うと、
皇帝に向かって叩き付けた。

ガキン!

だが、とうに力を使い果たしたわたしの腕では充分な威力が乗らず、
剣はあっさりと弾き飛ばされてしまう。
後にはカッツバルゲルを振り上げる皇帝と、無防備なわたしが残った。
まるで演説でもするように皇帝は言い放つ。

「やはりわたし自身が!貴様にトドメを刺すべきなのか!
ならばそうしてやろう、見るが良い!これが神の鉄槌…、
神は常に悪しき者を闇へと帰すのだ!!!」

何の躊躇も無く、膝を付くわたしの頭上へ剣は振り下ろされる。
だがしかし、その剣はわたしの頭から数センチの所で不意に止まった。

「な、何…ぐ、ぐっ!」

どんなに力を入れても切っ先は頭に触れることすらない。
それどころか、どんどん離れて行くではないか。

皇帝の背後を見ると、奴のマントが既に歯車に巻き取られていた。
そのせいで肩を固定され、剣はわたしにまで届かないのだ。

「な…うああああ!!」

初めて皇帝が恐怖の声を上げた。
歯車は無機質に廻り、やがて皇帝の下半身を捉える。
骨がバキバキと折れる嫌な音が響き渡った。

「ア”ァアアアアアアア!!あああああああ嗚呼嗚呼ぁあああああ亜ァァァアアア!?」

皇帝は地獄の断末魔を連想させる声ともならない声を上げる。
そして胸のあたりまで押し潰される所で、最後の台詞を吐いた。

「余は…余は皇帝なるぞッ!そうだろう!?そうだよね!?」

わたしは息も絶え絶えに言い放った。

「お前はさっきわたしを剣奴と言ったが…わたしは皇帝にも何にも縛られない」

「オボフリャアアアアアアアアア!!!」

やがて、何も聞こえなくなると、血や良く分からない物を吐き出す歯車だけが残った。
それでもわたしは最後に言葉を投げかけてやった。

「…わたしは『フリーマン』なんだ」

7

───その後、帝国の執権はネロの遠縁であるティツスという男に移った。
民衆が殺到した時、既にネロの姿は城のどこにも無かったと言う。
彼の消息についてはまことしやかな噂が流れたが、結局は『自害』という形で収まった。
そしてネロは結局、人類史上最悪の人間として歴史に汚名を残す事になる。

ヨハネの黙示録には『666の獣』が登場するが、
これはヘブライの数秘術的に解釈すると、
ネロの事を言い当てていると言われている…。

「ユリウスー!」

見ると、パルミラだ。
嬉しそうにスカートを靡かせながらわたしに駆け寄って来る。
彼女はギュンターの所で働いていた時と変わらないように、
バスケットへ一杯のリンゴを持って来た。

「久しぶりだな」

今日は民衆が蜂起した日から一年がちょうど経つ日。
わたしは、かつての仲間達と集まる約束を交わしていた。

「はぁはぁ…今の勤め先が忙しくてね、みんなはどこに?」

わたしは野原の先を指差した。
そこには、あの三人が仲良く談笑している。
剣奴…キリスト教徒…そして罪人。
世にも奇妙な取り合わせだ。

「お久しぶりデス、パルミラサン」

ザビエルは帽子を脱いで会釈した。

「みんな集まったな…元気そうで何よりだ」

そう言ったのはチュレルだ。
彼女は帝室が交代したことによって、
罪がうやむやになり、今では人目を忍んで暮らしている。
さっき聞いた話では、そろそろ恋人の眠る故郷へ戻るんだそうだ。

「さぁ飲みましょうユリウス、人から与えられる事のない本当の神の酒ですよ」

マルクティウスは昔の剣奴仲間と、今の皇帝の元で剣奴を続けていた。
現在九勝中で、あと一勝でわたしに追いつけると張り切っている。

「僕も『フリーマン』になった暁には、自由な生活を満喫したいですね」

パルミラは一人だけ酒を飲まないザビエルに声をかけた。
きっとこの破戒僧も、禁酒の誓いだけは守り続けているのだろう。

「ザビエルさんはこれからどうするんですか?」

ザビエルはふと遠い青空を見上げながら言葉を紡ぐ。

「ワタシは…この遠い空の向こうへ行ってミタイ」

そこにいる全員が、不思議な顔つきでザビエルを見た。
ザビエルはその視線に気付くと、ふっと苦笑した。

「ワタシはこの国から出て、もっと色んな世界を見て周りタイノデス。
例え今生でそれが出来なくトモ、きっとワタシの子孫がその夢を叶えてくれる事を願ってイマス」

「そうなんですか…」

パルミラはちょっと暗い顔つきになったが、
コロッと笑顔になるとバスケットの中のリンゴやらパンやらを取り出した。

「さぁ、食べて食べて!もう闘いは一年前に終わったんだから」

わたしはリンゴを一個受け取ると、そのままシャクリと齧った。
そしてその赤いリンゴを見て思う。

(闘いは終わった…か)

赤いリンゴが紅い血に見える…。

───それから更に数年の月日が経った。
わたしは再び『ここ』に居た。

<二人入って出るのは一人!>

<二人入って出るのは一人!>

自分でも奇妙な感情に戸惑った。
だが、もう覆い隠すことは出来ない。
頭の中でフッと、かつての皇帝と対峙した時の感情が蘇る。

自分を落ち着かせようと胸に手を当てると、コツンと硬い物が触れる感触が手を通して伝わった。
調べてみると、内ポケットには数枚の銀貨が入っている。
わたしはそれを無造作にそこら辺へバラ撒いた。

周りの剣奴達はギョッとした顔でその様子を見ている。
わたしは一笑した。

「わたしには必要無かった物だ…」

そう、わたしは気付いてしまった。
自分が一番生を実感出来る場所に。
命をかける先に見える、唯一絶対の快楽に。

(闘いたい…)

わたしは剣を握り締め、静かに咳払いをする。
鉄格子はゆっくりと…開いた。


※この作品はワシがとある冊子を発刊する際に執筆した物です。

ユリウスイメージ絵

チュレル・マルクティウス・パルミライメージ絵

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