ingrain    ―御浄化帰己回転無想―


私の名前は三千院益次郎。
東京の一角に居を構える、身寄りの無い寂しい老人だ。

…もう今年で91歳になる。

まだ痴呆症にはかかっていないが、頭はすっかり禿げ上がり、
体中にガタが来てて、ヘルパーさんが居なければトイレも一人で行けない。
年金で毎日細々と暮らす…死を待つだけの身。

家族は居ない。
32の時、一人の女性と結婚したが、
彼女はとうに先立ってしまい、子の一人も授からなかった。
近所の友達は日曜日の朝にゲートボールなんぞやっているが、
寝たきりの私はそんな体力も無い。

私はすっかり黄ばんだ布団の中でぼうっと天井を見上げ、
今までの人生を回想していた。

…私は、私の人生の中で、やりたい事を何もしていない。
いや、『何も出来なかった』という表現の方が正しいだろうか。
夢、希望、生きる意味…。全てが虚しい。

若い頃は国の為に戦争へ駆り出され、
運だけで帰国した後は、親の後を継いで八百屋なんぞやっていた。
毎日、野菜を売って…気が付いたら70歳。
その頃、身体の調子が悪いので医者に行ったら、
やたら長い病名を4つか5つくらい挙げられて、
今のような生活を強いられる結果となった。

ああ…この世の全てが煩わしい。
何故人間は死ななければならないのだろうか。
何故幸福とは平等で無いのだろうか。
何故私だけがこんな想いをせねばならないのか。
見上げる天井は、私の歳と同じくらいシミの数がある。
再び目を瞑ろうとした時、スッと障子が開いた。
「おじいちゃん、ご飯ですよ」

ヘルパーの芳田順子さんだ。
いつも私の世話をしてくれているが、やたら高い給金を取る。
今年で確か50になる彼女は、どのような人生を目的としているんだろう。

「益田さん、ワシのような人生は歩んじゃいかんよ」

「は?何言ってるんですかおじいちゃんたら。はい、どうぞ」

そう言って益田さんが出してくれた食事は、
いつものお粥にカステラ。
お粥は今食べて、残りのカステラは益田さんがいない時に
勝手な時間に食うのが暗黙の了解だ。

「それと、今日はこれも買って来たんですよ」

ガサガサと近所のコンビニ袋を開き、
彼女が手に取り出した物は『おいしい牛乳』と書かれたパックだった。

「カルシウムを取ると、健康に良いんですよ」

「ありがとう、ワシ、牛乳好きでの」

別に言うほど好きではないが、
とりあえずそう言って置く。

「じゃあ私は用事がありますので今日はこれで。
御通じはそこにおまるがありますからね」

「はいはい、ありがとう」

そう言って芳田さんはとっとと帰って行った。
お粥を食べる為にスプーンを手に取る。
もう箸を使いこなす事も出来ない指なのだ。
ズズッと冷めたお粥を啜ると、なんだか涙が出てきた。
なんてみすぼらしいんだろう。
そしてこんな私が死んでも、きっと誰も涙すまい。
私はこのまま老衰して、運命に逆らえず死んで行くのだ。

…死ぬ。

…そう、死ぬのだ。

こうしている間にも、突然心臓が止まって死ぬかもしれない。
今の私じゃ近所の車がクラクションを鳴らしただけでそうなりそうだ。

止め処なく溢れる涙もそのままに、
傍らのパックを見た。

『牛乳のおいしさそのままに。成分無調整3・6牛乳』

パックの口を開けるのも難儀だが、喉がカラカラに乾いている。
私は今にも剥がれそうな爪でカリカリと擦るようにパックを開いた。
すると、途端にモクモクと薄紫色の煙がパックの中から溢れ出した。

一瞬、何が起こったのか訳が分からなかった。
バルサンの薬品が牛乳に入っていたのかと思った。
だが、それこそ訳が分からない。

煙はあっというまに視界を遮る。
すっかり部屋は真っ白になってしまった。

「ゴホ、ゴホ!」

いけない、このままでは酸素濃度が薄くなって、
窒息してしまうかもしれない。
だが、ガリガリに痩せ細った私の足は、麻痺したかのように動かない。

「だ、誰か、助け…益田さん…」
そこまで言ってハッと気が付いた。
ひょっとしたらこれはあのヘルパーが仕掛けた罠なんじゃないのか?
私を巧妙に殺して、相続者のいない財産を奪う為の…。
そうなると、今頃彼女は私の筆跡を真似て遺書を書いているはずだ。
そして、この煙は恐らく塩素系ガス…。

「ゴホ、ゴホ…」

段々咳が酷くなる。
なんということだ、これほど不幸な人生を送ってきて、
最後は最も信頼すべき人に殺されるなんて。
なんて、なんて私は不幸なのだ。
これじゃ全くのピエロではないか…。

もう煙で何も見えない。
一寸先は闇、ならぬ一寸先は白である。
体が段々軽くなったような感触に囚われていく。
そうか、これが死の体験なのか…。

もはや目を開いているのか閉じているのか分からないが、
一抹の光が私の元へと差し込んで来た。
これだけ神々しい光が出てくるとなると、どうやら天国へ行けるらしい。
そんな楽観的な考えをしている折、その光の中から一人の男が現れた。

「ワッハッハッハ…」

筋骨隆々の肌黒い男。
何故かパンツとマントだけ身につけ、後は全裸である。
ピカピカのアクセサリーをいくつも身につけ、
頭はチョンマゲのようなヘアースタイルの井出達で、
まったく恥ずかしがる素振りも無く仁王立ちをしている。

「な、なんじゃアンタは…」


恐る恐る尋ねて見る。
ひょっとすると死神って奴だろうか。
それにしては随分厳つい体格の死神だ。

「我輩は『3・6牛乳の魔人』である!
長き3000年に渡る封印を解いてくれて感謝するぞ!」

「…はい?」

何かのドッキリ番組だろうか。
大体3000年も昔にパック入りの牛乳がある訳が無い。

「ワシは死ぬんじゃないのか?」

しゃがれた声でおっかなびっくり聞いてみる。

「何を言う!まだ死ぬのは早いぞ、クソジイイ!
さぁ、封印を解いてくれたお礼に何でも願いを叶えよう。
ただし、一つだけだぞ!ワッハッハッハー!」

キツネに化かされたような気分だ。
今のテレビ番組はこんな老人を苛めて楽しむのか。
責任者が出てきたら杖で殴ってやろうと思った。

「帰ってくれ、ワシはもう老い先短いんじゃ」

煙のせいで殆ど聞き取れない程小さい声だったが、
その男は尚も続ける。
「老い先短い!?確かにそうだなジジイ!
では我輩のパワーでこうしてやろう!
ワッハッハァァァ!」

男は怪しいダンスをすると、
私の方へ向かって及び腰で顔を突き出し、目から緑色の光線を発した。

シュゴォォォォオオオオオ…!!

「ぎゃ、ぎゃぁぁ!!」

体中に激痛が走る。
やっぱりこいつは死神だ。
私はその場であたふたと光線を浴びながら悶絶した。

「望みは叶えた!ではsee you again!ワッハッハ!」

男は苦しむ私を置いて、
霧のようにその場から消えた。
それと同時に、辺りを包む青紫色の煙も、
どこかへ吸い込まれるように晴れていく。

…次に目を覚ました瞬間、私の視界にあったのは
いくつものシミがある天井。

「夢、じゃったんか…?」

机の上に置かれた時計を見ると、
ちょうど時計の針は十二時を指していた。
だが、それと同時にある物を見つけた。

…蓋の開いた牛乳パックだ。

「夢じゃないのか…?」
無意識的にその牛乳パックを掴む。
上下に振ってみるが、中身は一滴も残っていない。

夢じゃないとするならば、さっきの男は一体?
私の願いを叶えたと言っていたが、一体何を叶えたと言うのだ?
益田さんはどこでこれを買って来たんだろうか。
明日来たら聞いてみよう。

「…ん?」

私はふと思った。
なんだかヤケに頭が冴えるな、と。
それに視界がはっきりしていて、体の調子も実に良い。

「これは…」

牛乳パックを掴んでいる手を見た。
なんと、皺一つ無い。
それどころか、いつもの私の黒々とした手と違い、
艶々とした美しい血色をしている。

まさか、と思った。
試しに腕を頭の後ろへ伸ばし、
一気に前へ振り下ろすと同時に上半身を持ち上げる。
なんと、起き上がれた。

次に布団から立ち上がってみた。
体のどこにも痛みは無い。
それどころか、寝たきり状態から立ち上がったと言う、
一種の爽快感さえある。

「まさか…」

私はバタバタと走り出した。
走るのなんて何十年ぶりだろう。
部屋を飛び出し、階段を駆け下り、
一階のタンスの所へ…。

そうだ、鏡はタンスの上にあったはずだ。

「…誰じゃこれは…」


鏡の中には、アルバムの写真が貼り付けられているようだった。
すなわち、若き頃の私が移っている。
手で顔を撫でてみた。鏡の中のアルバム写真も同じ動きをする。

「若返った…と言うのか!?」

髪はフサフサで小皺一つ無い。
視力もかなり回復しているようで、
これほど私の顔がくっきり見えるのは何年ぶりかと思った。

「お、おぉ…見える…」

私はよく現実を理解していた。
一般人ならばあまりのショックに気が動転するだろうが、
私は先ほどの出来事が夢ではなく、
本当に魔人の力によって若返ったのだという
実感をよく了承していた。

「凄い…凄いぞこれは!」

全身に漲る力を感じる。
この立体的なパワー、無意識的に冴える頭の回転!
一つ一つの動作が愉快で仕方が無い。
私は嬉しさの余り、靴を履くのも忘れて外に出た。

「素晴らしい!実に素晴らしいぞ!!」

その瞬間、外を歩いていた親子連れがこっちを見て言う。

「ねえ、あの人何言ってるの?」

「シッ、見ちゃ駄目よ」



私は無上な敗北感を感じながら自室へと戻った。
確かに今の自分の姿を省みると、
不恰好極まりない。

病院の患者が着るような青いパジャマに、
目からは汚い脂、垢が溜まった体。
ボウボウに伸びっ放しの顎髭。
老人特有の臭いがあるのが自分で分かる。
これではみっともなくて外に出られない。

私は服を脱ぎ捨て、風呂に入ることにした。
いつもなら芳田さんが助けてくれなきゃ溺れ死んでしまうだろうが、
今の私なら傍若無人に入る事が出来る。

「い〜い湯だな、マハハン♪」

しかしさすがにこれには時間がかかった。
何故って、体中の垢を取るのにまず1時間かかった。
そしてやっと生えた頭髪がまた散るんじゃないかと
恐る恐る洗うこと15分。
伸びに伸びた髭を剃るのに30分。

それと、風呂の中である事に気付いた。
髪が生えたは良いが、かなり長めに生えているのである。
というか、どんどん伸びている気がする。
ひょっとしたら今まで生えなかった分一気に生えているのかもしれない。
私は再び自室へ戻り、枕の下に置いてある財布をポケットに突っ込み、
近くの美容室という所へ行くことにした。

だが、病院の患者を連想するような服装では結局表に出られないので、
まず一階のクローゼットを開いて、適当に保管してある服を漁ってみた。
私の持っている服は全てクリーニング屋から持ち帰ったまま、
ビニールの袋に入っている。

しかし良い服がない。
若返った感性がものを言うのか、どれもオジサン臭い服しかない。
仕方が無いので、友達の葬式へ行く時に買った黒いスーツを着込むことにした。
私は消臭剤の香りが取れない袖に腕を通すと、
再び鏡の前でおかしな所は無いか確認してから、美容室へ向かった。

最近の若い層は男でもカッコ良くなりに、
ここへ来ると言う。
私もその流行に乗ってみる算段だ。

「すいませ〜ん」

「いらっしゃいませ、お名前は?」

「あ、えと、三千院じゃが、いや、ですが」

「初回の方ですね?ではこちらのアンケートに記入を…」

「はい」

たかが髪を切る為にこんな準備が必要らしい。
アンケート用紙には『髪質は?』とか『毎日ケアしてますか?』
等と書かれている。

やたら大げさな気がするが、
きっとこれもカッコ良くなる為に必要な儀式なんだろう。
私は適当に書いて、店員に渡した。

「では、こちらへどうぞ…、今日はどんな風にする?」
さっきまで敬語だった女の店員が突然タメ口になった。

「あ、いや…美容室って初めてなんで適当に…」

「えー、そうなの?じゃあお任せでいいのかな?」

「はい、頼みます」

「それにしても綺麗な髪だねぇ、赤ちゃんの毛みたい。
さっき生えたばっかみたいな」

「そ、そうですかね…ゴホゴホ」

「筋肉あるね〜、何かやってるの?」

「いや、別に…」

まさか昔戦争に行ってましたとは言えない。
美容師がてきぱきと作業をこなす中、
大きな鏡の中に私が映っている。

これが私…。
70年ほど昔の姿の私だ。
瑞々しい肌、緊張した筋肉。
私は思わずニヤリとしてしまった。

美容師と他愛無い話を続ける事一時間。
私はすっかり今風の若者に仕立て上げられていた。
まず、眉毛を少し弄って貰った。

髪はどんどん伸びてくるのでいっその事長髪にしてもらい、
ワックスだがポマードだがよくわからんものを塗られ、
髭は綺麗さっぱりに剃ってもらった。
ついでに爪まで切ってもらった。

美容室を出て、往来を意気揚々と歩いていると、
なんと私のヘルパーの芳田さんが向こうから歩いて来るではないか。
相手は私が私であると気付かないのを利用して、
ちょっと悪ふざけをしてみようと計画した。

「こんにちは!」

芳田さんは見知らぬ男に声をかけられて驚いている。

「は?あ…こんにちは」

「あなたの仕事先の三千院さんね…、
あなたをクビにするって言ってましたよ」

「え!?あ、あんたは誰なんですか?」

「さあね、フフフ」

私は颯爽とその場から去った。
後には頭の上に?マークを浮かべた芳田さんが居るだけだった。

ああ!なんて愉快なのだろう!
私は五体満足だ!何でも出来る、どんな事でも思いつくぞ!
例え若者が何をしていたとしても、私には同じことが出来る。
この快感、この充足感、この最強な肉体!
私は必死で叫びたい衝動をこらえながら、
再び路地を歩き始めた。
しかし、これから何をしようか?
やりたい事は山程ある。
しかしどれの優先順位を先にしたらいいか分からない。
しばらく足を止めて考えた末、とりあえず、
最近の若者が集まる『渋谷』へ行ってみようと思った。

「次の電車は渋谷・新宿方面行きです…」
電車に乗るなんて実に久しい。
最近じゃ救急車に乗る方が断然多かった。
窓から見える空は、私の心のように晴れ晴れと輝いている。
とりあえず貯めに貯めた貯金が何百万かあるので、
金の心配は全く無い。

これからこの金を使って数年は気ままに暮らして行こう。
人生を二度も体験出来るのだ。こんなに素晴らしい事は無い。

そんな事を考えている時、面白い物を見た。
一人の女性がしきりに困った表情を浮かべているのだ。
今まで気付かなかったが、周りの乗車客は
それを見て見ぬふりをしているようだ。

良く見ると、なんと後ろに立っているサラリーマン風の中年男が、
彼女のスカートの中に手を突っ込んでいるではないか。

「む…」

私は頭より先に体が動いた。
満員電車の中、人を掻き分けてその男に近づいていく。
中年男は私に気が付いたのか、サッとその手を引っ込めた。
だが、そんなことは問題としない。

「おい、今痴漢してただろう」

「は?何を言ってるんだ君は。意味が分からないよ」

「君こそ分からない事を言うんじゃない、私と警察へ来るんだ」

男は額にぶわっと汗を浮かべた。
折り良くその瞬間渋谷の駅に着いたので、
私は男の手を掴んで、強引に電車から引き降ろした。
そのまま駅の事務員が居る改札口へ連れて行こうとするが、
電車を降りた途端、男は突然その持っている鞄を私にぶっつけてきた。

「放せ!☆■∵ΘΦ無駄ァ!」

男は訳の分からない事を喚きながら、ひたすら暴れる。
きっと、明日の新聞の隅っこに載る自分を想像したんだろう。
私はやれやれという風に、男の顔面にパンチを食らわせた。
瞬間、鼻血を噴出しながら吹っ飛ぶ男。

「あばびょう」

しまった、少し力を入れすぎた。
腐っても元軍人である。

「ふん、警察へ行くのは勘弁してやろう」

私はホームに伸びてしまった男に、
少々申し訳無い気持ちでそう言ってから、駅の出口へと向かった。

すると、発券機の辺りで背後からけたたましい音を立てて
近づいてくる人物が居た。

「あの…ありがとうございます!」

よく見れば、さっき痴漢されていた女性だ。
よほど全力で私を追いかけて来たのか、
前かがみになってゼイゼイと肩で息をついている。

高いヒールの靴が視界に入った。
どうやらけたたましい音の犯人はこれらしい。

私は少し英雄になったような気持ちで応対した。

「いえ、当然の事をしたまでですよ」

少し格好つけ過ぎた気もするが、まぁ良い。
私は適当に話を切り上げて、さっさと駅から出る事にした。
それにしても、行き交う人々と肩をぶつけないようにするのが一苦労だ。
中にはわざと肩をぶつけようとしてくる者もいたが、
何かの新しい流行りなんだろうか?
生暖かい風の吹く駅階段を下り、開けた場所へ出た。
どうやら、中央口であるらしい。

「…こ、ここが渋谷か」
私は圧巻された。
まず、見上げる程巨大なビルやデパート。
何を売ってるか分からない店が陳列し、
そこを横行する若者の雑踏は耐えない。
中には数人、外人の顔も見える。

大きなビル群を、初めて実家から出てきた田舎者のように眺めていると、
交差点の中心にあるビルに、大きなテレビが映っているのが眼に入った。
どっから映しているかわからないが、
最近のアイドルグループの紹介をやっている。

パッと画面が移り変わって、大きな文字が映し出された。

『現在の時刻は12時15分です』

そういえば体を動かしたら腹が減った。
もう入れ歯の懸念も無い私は、こってりとした物でも食べようと考えた。
折り良く近くにいい店があった。
『マク怒鳴るゾ』である。
是非一度ハンバーガーを食べてみたかったのだ。

私は混雑するその店に足を踏み入れた。
自動ドアの小気味良い音と共に、冷房の爽やかな風が顔に当たる。

「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ〜」

にこやかな笑顔で応対してくれる店員。
誰にでもこんな笑顔が出来るように訓練されているんだろうか。
もしそうだとしたら、この店員は成績オール5だろう。

「ええと、ハンバーガーを…」

「はい、ワンオーダープリーズ〜!
お会計、65円になります〜」

「…は?」

結局、私は混みに混んでいる店内では座る事も出来ず、
テイクアウトしてから、適当な路肩に座り込んで食べていた。
…ハンバーガー10個を。

「10個も食って千円しないとはなぁ…」

暮らし易い世の中になっている物だ。
しかし勢いで買ってみた物の、
10個も食うと腹がおかしくなりそうなので、
5個食ったら残りは捨てた。
どうせ安いし良いだろう。
味はなかなかだったがな。

「…ふう」

腹ごしらえも済んだ所で、
私はどこへ行くのでも無く、再び歩き出した。
…そこへ。

「あ、さっきの人」

声のした方に目を向けてみると、
なんと駅で助けた女性がいるではないか。

「おや」

「さっきは本当に助かりました、ありがとう」

そう言いながら、立ち上がった私の所へ近寄ってくる。
私は若い女性とお喋りしてみるのも良いかなと考えた。
なにしろ、全てが歳を取った姿では出来ないことだ。

「実はさっき私に痴漢してた人…私の上司なんですよ」
「なんと」

それから私はその女性と喫茶店に入り、
詳しく話を聞いて驚いた。
彼女はある企業に勤めるOLなのだが、
入社してから私がさっき吹っ飛ばした上司に幾度となくセクハラを受け、
最近に至ってはその立場を利用し、痴漢に走るようになっていたのだと言う。

「けしからん男だ」

「でも、普段は普通の人なんです。
だけどそれが反って人の信頼を集めてるのがズル賢い所で…」

「憎まれっ子世に憚ると言うことだな」

子供の社会も大人の社会も大差無い物だ。
私は心の中で苦笑した。

「会社の方は平気なのかい?」

「いえ、駄目だと思います。
でも前から辞めようと思ってたし、これで良いんです」

もし私のした事で彼女が会社をクビになったら、
目も当てられない。
しかし彼女自身が良いと言うのなら、良いのだろう。

「この後どうするつもり?」

私のその質問に、彼女はニコッと笑った。
うーんと考えるような仕草をした後、
何故か照れ笑いを浮かべながらこう言った。
「もう会社行けなくなっちゃったし、付き合いますよ」

…どうやら意味を勘違いされているようだ。
私はそういうつもりだったのでは無いのだが。

だが、若い女性とデート、これほど若さを感じることは無い。
私は結局、そのまま彼女と一日過ごす事になってしまった。

実際その後の時間は実に有意義かつ、楽しかった。
一緒に他愛の無いお喋りをしたり、コーヒーを飲んだり。
過去の私が過ごしたいと願って耐えなかった時間だった。

そして…夜になって、ホテルへ行った。

熱い夜だった。
最初は勝手が分からなくて困ったが、
それもすぐに思い出した。
私と名も知らぬ彼女は幾度と無く愛し合い、
そして…朝を迎えた。

「うーむ…」

ふと眼を覚ます。
シミだらけの天井ではない、綺麗に清掃された天井が視界に入る。

だが、無意識的に寝返りを打った私が見た物は、悪夢だった。
なんとベッドの中で隣に寝ていたのは、
あの『3・6牛乳の魔人』だったのである。

「やあ、ボクだよ!」

「………ぎゃあああぁぁぁ!!」

実際驚いた。
なんでこいつが、なんで寄りによってここにいるんだ。
私の頭の中は猛烈なスピードで覚醒していった。

「な、ななななな…」
「どうだったね、若い肉体は堪能してもらえたかね?」

その言葉で私はハッと我に返って、
反射的に自分の顔を撫でてみた。
すると、ゴツゴツとした頼りない感触が我が手に返って来る。

…老いている!

「ごほっ!」

大声を出したせいだろうか。
私は体中の血液が口元に集まってくる感覚に見舞われた。

「こ、これは一体…どういうことなのだ…」

「人間が若返るなんてある訳ないだろうジジイ!」

「な、なんだと…では昨日の経験は一体…」

「窓を開いて外を見てみろ」

私は魔人の言葉に従って、
ホテルの窓を開いてみた。
私の手は、再び若返っていた。

視覚が狂っているのか、さっきの顔の感触が狂っているのか、もう分からない。

窓を開くと、そこには美しい光景が広がっていた。
蝶や鳥が舞う花畑、そこに遊ぶ何匹もの小動物達。
私は振り返り、部屋にふんぞりかえる魔人に向かって
力一杯叫んだ。

「ここは一体どこなのだ!」

そうだ、ここはどこなのだ?
何でも望みを叶えてくれるのでは無かったのか?
こいつは一体何をしに再び現れたのだ?

魔人はふうっと溜息をついて、
子供を落ち着かせるような優しい口調で言った。

「天国だ」

天国?

「お前が昨日体験したのは『天国の体験』
人間ならば誰もが持つ叶い得ない願いを発現させた物なのだ。
我輩の言うことがわかるか?」

「では…私は…」

「そう、既に死んでいる。だが、幸い天国へ来れたのだ。
お前は昨日のような体験を永遠に出来る。
どうだ、素晴らしかろう!」

そんな…。
私はその場に崩れ落ちた。
もう死んでいただなんて…そんな馬鹿な事が…!?

「嘆くなジジイ!いや益次郎!
最初はみんな戸惑う物だ。
だが、この世界ではお前の好きな事が出来る!
きっと気に入ってもらえるだろう!」

「馬鹿を言え!」

私が好きに出来る世界…私の世界…。
では、ここで何を成そうとも無意味では無いか!
私は永遠に一人ぼっちなのか!?

「い、生き返してくれ!なんでもするから!
年老いた姿でも良い!」

私は魔人の足にすがって懇願した。
冗談じゃない、せっかく今までの無為な人生が開花したと思ったのに。
こんなことではどんな望みを叶えようとも、どんな経験をしようとも、
全て無駄だ。

…誰もいないのだから。

「それは出来んな!…おっと、我輩は次の仕事があるので
ここでさらばだ!ワッハッハー!!」

「ま、待て!」

…魔人は前と同じように、深い煙を出して消えた。
後にはホテルも残っていなかった。

美しい花畑に取り残された私は、
どこから現れたのか白いローブを羽織った女達に囲まれ、
花冠を被せられた。

やめろ、やめてくれ。
まだ私は…死にたくない!
花冠を、被せた女に思いっきり投げ返してやった。
気にすることは無い、どうせ全て私のイメージ、妄想なんだ。

「あああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」

私は居た堪れなくなって、頭を抱えるのと同時に大声を出した。
あたりの景色は私の声に呼応するように、一面砂嵐の吹きすさぶ砂漠になる。

…どのくらいの時間が経っただろうか。
私はある決意を胸に、そこから立ち上がった。

「私は…死んでいる…」

眼前には燦々と輝く太陽と、熱砂が広がっていた。
どんな事でも私の好きなように出来る世界。
私は、試しに一枚の鏡を創り出した。
その中には一人の女性、そう、昨晩愛し合ったはずの女性が映っている。

「天国だと?」

辺りの景色が私の心を映し出すように、
今度は凍土に変化する。

「良いだろう、それならば私にも考えがあるぞ…」

私は新たな決意を胸に、歩き出すのだった…。

「あの男、ふざけやがって…覚悟しろよ…」



END         


※この作品はワシがある冊子を発刊する際に執筆した物です。

三千院益次郎イメージ絵


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