くろいいぬ2





黒い犬が居ました。
「♪♪」
辺り一面が荒れた土地で、彼は、くわえた銀のハーモニカを吹いていました。
いつからくわえているのか、どうしてくわえているのか。
それすらも思い出せないくらい、彼は随分長い事、そうしていました。
「♪♪」
自分の言葉を失い、過去を失い、ひたすらに音を零して。
渇いた荒野に、彼は随分長い事、そうしていました。

「♪」
太陽がとても疲れた顔をしていた秋の午後。
黒い犬はいつものように音を零しながら、荒れた場所を散歩していました。
誰にも忘れられたような亀裂の入った土地に。
いつもは見ない白っぽい何かを、黒い犬は見付けました。
「♪♪」
薄汚れた布のようなそれは、どうやら生き物のようでした。
ぐったりして動かないそれを黒い犬が素通りしようとした時。
「・・・・な」
黒い犬は、聴いた事のない音に思わず立ち止まりました。
「♪」
「な・・・・」
音をした方を見ると、どうやらそれは白っぽい生き物から聴こえてくるようでした。
「♪♪」
黒い犬は、その白っぽい生き物を背中に乗せると、自分の家に連れて帰りました。
どうしたらあの音がもう1度聴けるか。
そればかりが黒い犬の中で膨れ上がっていきます。
家に着いて白っぽい生き物をおろすと、どうやらそれは白っぽい猫だと分かりました。
「♪」
とりあえず、前足で、白っぽい猫のお腹を押してみます。
「・・・・な」
「♪」
嬉しくなった黒い犬は、前足で、白っぽい猫のお腹や背中、喉を押しました。
「♪」
「な・・・」
押す場所によって、音の高さが微妙に変わりました。
「♪♪」
「・・・な」
黒い犬は、夢中になって白っぽい猫を押しました。
初めて聴く音に黒い犬はとてもとても、幸せな気分になれました。
これまで自分の中に無かった色の音。
自分の忘れていた大事なものさえ、浮かばれるような気がして。
黒い犬は、初めて、微笑みを浮かべていました。
もっと、もっと、もっと、この音を聴きたい。
もっと、もっと、もっと、もっと。
「♪」
「・・・・」「・・・・」「・・・・」
いきなり、何の音もしなくなりました。
「♪♪」
慌てた黒い犬は、力が弱いのかと、少し強めに押してみました。
「・・・・」
白っぽい猫の口から、音の代わりに、紅いものが出てきました。
「♪♪♪」
黒い犬は、どうしたらいいか途方にくれました。
あの音がもう出ない。
うなだれた黒い犬は、その場に座り込みました。
鉄の匂いのする、その白っぽい塊を見つめながら、黒い犬は、ふと。
くわえていた銀のハーモニカを置いて、その塊に口を付けてみます。
「・・・・」
それは、とても柔らかくて。
まだ暖かい、白っぽい塊は、とても甘く感じました。
「・・・・」
黒い犬は、気付くと必死にその白っぽい塊を舐めていました。
埃だらけだった白っぽい塊が、真っ白になっても。
その口元から溢れた紅いものさえも。
全部舐め尽くしてもなお、黒い犬は止めようとはしませんでした。
「・・・・」
もう何の音もしないのに。
もう、欲しい音は出ないのに。
それでも黒い犬は、ひたすら白い塊を舐め続けて。
朝も夜も無しに、眠る事も唱う事も忘れたように舐め続けて。
どれぐらいの、時が、経って。
「・・・・」
やがて、疲れてしまった黒い犬は、白い塊の隣に寄り添います。
すっかり固くなってしまった白い塊の冷たさがまるで雪のようで。
それが何よりも黒い犬を安心させました。
「・・・・」
心地良さに思わず目を閉じた黒い犬は、そこで初めて。
綺麗な、綺麗な、透明な涙を一つ、零しました。

渇いた荒野に転がる、銀色のハーモニカは埃だらけで。
それでも時々、風に吹かれて、錆び付いた音を零します。
「♪♪」
自分の言葉を失い、過去を失い、ひたすらに音を零して。
「♪♪」
そうして最期に涙を零した、あの黒い犬を想うかのように。


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