穂波さん・作
「俺の恋人は、あそこにいるから……」
困ったような笑みを浮かべて、彼は空を指差した。
あたしの手の中に、遊園地のチケットを押し付けて。
一見やさしいと錯覚しそうな瞳の奥に、あたしは自分と同じ匂いを嗅ぎとってしまった。
ただの、元気な男の子だと思っていた。
年上のお姉さんとして振舞うのは楽しかった。だから、それ以上に認識することは無かった、深く関わることは無いと思っていた。
けれど、その瞬間、三上智也はあたしの特別になった。
ブランケットは、二人分の熱気でむっとしていた。
肌がべとついて気持ち悪かった。シャワーを浴びておけば良かったと、今更ながら後悔する。
重たいまぶたをこじ開けると、カーテンの隙間から金色がこぼれていた。カナカナカナ、と虫の音が聞こえてくる。
ベッドサイドに置かれた時計は、6時を指している。
「もう、夕方か……」
おきなくっちゃな〜、とか頭の隅で考えたけど、面倒になって目だけあけた状態であたりを見渡す。
本棚と、机、椅子、CDラジカセ、物が少ないせいか結構整理されている室内で、ベッドの脇に散乱しているシャツやジーンズが妙に退廃的だった。
見なれつつある、他人の部屋。
クーラーはいつのまにか止まっていた。暑さの原因は、そこにもあったらしい。
手を伸ばしてぺたぺたと周囲を探るけれど、リモコンはなかなか見つからない。
小指が少し固い髪に触れて、あたしは動きを止めた。
ひとつ息を吸って吐いて、ゆっくりと髪を梳く。指先に全神経を集中して、その作業に専念する。
彼の顔を見ずにそうやっていると、まるで弟の頭をなでているようだった。
懐かしさで、胸が詰まる。
代償行為だとわかっていた、けれど罪悪感はわかない。
そんなもの、とっくの昔に摩滅している。
なぜなら―――――。
視界が急に反転した。目の前に、切りつけるような双眸。
年下の男の子、かわいい彼氏、友達に揶揄されたが、とんでもない!
そんな響きはどこにも転がっていない、手綱を緩めれば食われるのはあたしの方だった。
「…………どし、たの? 智也クン」
ぎりぎりのところで搾り出した一言に、彼の表情がふっと変化する。張り詰めた空気が弛緩し、あたしはようやくまともに息ができるようになる。
手首をつかまれ引っ張られた、と認識できたのは、その後のことだった。
「ああ、そっか……小夜美さん、おはよう」
彼が誰の手をつかんでいたのか、切りつけるような、命懸けの瞳で誰を見ていたのか、あたしは知っている。
あたしと彼は、似たもの同士だから。
いつまでも手に入らない幻にすがらないと、生きていけない。
所詮は、偽りの恋だ。
どれだけ身体を重ねても、同じ時間を過ごしても、前になんか進めない。
それを知っていたからあたしは彼に手を差し伸べたのだし、彼はあたしの手を取ったのだ。
だから、あたしは精一杯やさしげな微笑を浮かべる。
「うん、おはよう」
茜射す部屋で、三上智也もまた少しだけ目を細めた。
約束なんて当てにならない。
未来なんて保証できない。
真実はいらない、フェイクで構わない。
傷を舐めあうだけの関係でも、何も無いよりはましなはず。
あるいは、それすらも自分をだますための詭弁かもしれないけれど。
嘘でも欺瞞でもいい、今だけでいい、あたしは手に入れたぬくもりを抱きしめている。