memoy trace EX
cry for the moon

穂波さん・作

「戸締り、火の元には気をつけるんだよ?」

 電話を通して、聞きなれた声がする。
 たぶん、母さんはいつものように眉根を寄せて、きっちり結ばれた髪を心配そうになでつけながら話しているのだろう。
 受話器の向こうからは、ざわざわとした雰囲気が伝わってくる。どうやら法事の途中、抜け出してかけてきたらしい。母さんの実家は小さな田舎町で、親族が集まった夜は酒を飲みながら遅くまで話しこむのが慣習だと知っていた。片づけやら挨拶やらの応酬で、おそらく帰りは明日の夜になる。

「ついこの間、痴漢が出たって言う噂も聞いたし。あんたも女の子なんだから、気をつけなきゃだめだよ。うちにはもう……」

 何か言いかけ、母さんは不意に言葉を閉ざした。
 ――ウチニハモウ。
 くるくると指に巻きつけていた電話のコードを戻しながら、あたしは苦笑する。その先に続く言葉を知っていたけれど、聞かなかったフリをした。

「大丈夫よ、あたしだって来年には大学生なんだから」

「そう……だね。明日には帰るからね。お土産楽しみにしておいで」

「うん、晩御飯つくって待ってるわ」

 じゃあね、と受話器を置いた。チン、とかすかな音が響いて消える。
 その途端に、部屋の静けさが際立つ。雨が降っているためかもしれない、レースのカーテン越しに見える外は薄暗くて、夕方なのに日が暮れた後みたいだった。
 しん、とした空気が部屋に満ちている。それが自分の中にまで浸透しないように、あたしはひとり大きく伸びをした。
 夕食はひとりだし、簡単にパスタで済まそうかな、と考える。
 冷蔵庫を確認すると、タマネギが切れていた。トマトソースにタマネギが入っていないのは致命的な気がする。別のものにしようかとも思ったけれど、ひとり分のお米を炊くのも、ひとり分のおかずを作るのも、まだ慣れていない。
 ゴボウの入ったハンバーグ、豚肉と大根の煮付け、鮭とほうれん草のクリームシチュー、シイタケとホタテの炊き込み御飯、ネギを多めに入れた豆腐の味噌汁。
 母が仕事に出ているため、料理はあたしの担当になっていた。毎日四人前作っていたその半分を、ひとりが消化していた。

『腹減ったぁ……』

 テーブルに突っ伏すようにしてこっちを見上げるあの瞳は、もう、ない。
 何度注意しても直らなかった、食器をカチャカチャいわせる音も、もう、聞けない。
 ピー、という電子音――冷蔵庫の扉を一定時間開け放していると鳴る警告音――にあたしは慌てて冷蔵庫を閉めた。
 指先が、つめたい。冷蔵庫を開けっぱなしにしていたから、その冷気のせいだ、たぶん。たぶん、きっと、そう。

「……よしっ」

 無意味に気合を入れて、両頬を軽く叩く。
 この時間帯ならタイムサービスをやっている頃だろう。徒歩五分ちょっとの近所のスーパーにいこうと決めた。財布を取り出して、買い物用にしているショルダーバッグに入れる。菫色の傘を片手に、靴をはいた。

「行ってきます」

 習慣で呟いた挨拶の言葉は誰にも届かず、ただ玄関にたゆたって、消えた。



 言葉が、消えない。
 耳の奥、頭の中、何度も何度もリフレインする、台詞。

『さよなら、智也』

 別れの、言葉。
 遠ざかる背中を、追いかけることが出来なかった。
 守ってやることも、出来なかった。
 好きだ、と。まだお前のことを想っていると、本心を告げることすらも出来ずに、ただ一言で、俺と彩花の関係は終わってしまった。
 俺は何度もなぞっている線を再びなぞった。冷たい金属の感触。赤い線が手のひらに滲み、雨の粒と共に玉になって手首へと滑る。
 いっそ、手首を切ってしまえば楽になるのだろうか。ふと、そんなことを思う。銀色のナイフを一閃させてしまえば、それで全てが……本当に全部が、終わりになる。
 そっとナイフを手首に添えてみる。
 これを、引くだけで……。

『ねぇ、智也。明日……暇、かな?』

 いつもよりも心細げに俺を見上げた彩花の顔。
 そう昔でもないはずなのに、何年も前のことのように感じられる、その記憶。
 それが、俺の手を止めた。
 手から、ナイフが零れ落ちる。

「…………」

 息が詰まった。あの頃に戻れるなら、俺は何だってするのに。あの雨の日の待ち合わせで彩花をひとりにするような真似は、決してしないのに。絶対に守ってみせるのに。
 アスファルトに落ちたナイフが、雨を弾いて冷たく光る。
 それが、現実だった。過去の仮定は、意味なんて為さない。
 終わってしまったのだ、俺と、彩花は。
 俺に出来ることは、彩花を忘れることだけなんだ。
 ――なら、もう、なんだっていい。
 ここで死ぬのも、ずるずると生き続けるのも大差ない気がした。
 細い雨が、降り続く。
 目を閉じると、雨が温かく感じられた。
 生ぬるい、まるで血のように温かな雨。
 これに包まれていれば、全てが遠くなってくる。

「……ッ!?」

 生温い雨に包まれ消えかけた意識の狭間、悲鳴を飲み込んだような声が聞こえた。

「ちょっと……少年?」

 ガサガサという音と共に、不意に肩をつかまれる。

「なに、どうしたの? 酔っぱらってるわけじゃないわよね!?」

 賑やかな声とは裏腹に、額に触れる、涼やかな手のひら。
 俺は、重い瞼をこじ開けた。
 高校生くらい……だろうか。年上の女性が、俺の顔を覗きこんでいる。顔立ちはまるで違うのに、背にかかる長い髪が少しだけ彩花とダブって見えた。

「こんなとこで行き倒れてるなんて……もう! 立って! 立ちなさいっ!」

 俺の腕を引っ張りあげようとするその女性の瞳が、何故か濡れているように見えて……それが、俺に謝っていた彩花を思い起こさせた。
 思い返してみれば、俺はあの事件について一度も彩花に謝ることが出来なかった。泣いている彩花を、慰めることも出来なかった。
 ……そんなこと、考えたところで今更だ。
 なにもかも面倒で、女性に反駁するだけの気力もなかった。
 ただそれだけのことだったけれど……俺は、その女性の手を振り払わずに従っていた。



 行き倒れていた少年は、名前も名乗らなかった。
 玄関先でタオルを渡したのに、それを首にかけたまま身体を拭こうともしない。見ず知らずの少年を家に勝手に連れ込むなんて、母さんが知ったら心配するに違いない。わかっているけれど、どうしても雨に打たれている少年をそのままにできなかった。
 年の頃が同じだから、かも知れない。
 憔悴しきった顔はまったく似ていなかったけれど、少年の体格は……いなくなった弟と――克也と、似通っていた。だから、放って置けなかったのだろうか。
 バスタブにお湯を溜めながら、あたしはひとつ深呼吸して二階へと足を運んだ。とりあえずお風呂に入れて……着替えを探さないと。体格は同じだから、サイズは合うはずだった。借りるだけだ、きっと克也も許してくれる。頭で理屈をこねて、ノブに手をかける。馬鹿みたいに、心臓がどきどきした。

『ノックくらいしろって、小夜美姉!』

 聞こえるはずのない声を期待してしまう自分が、すこしだけ笑えた。これなら、大丈夫かもしれない。
 ドアをゆっくりと開く、その瞬間息が詰まった。
 ――薄暗い部屋には、誰も、いなかった。ただ想い出だけが、埃と共にふわりと浮き立つ。
 机に向かう眉を寄せた横顔が、頭を掻く照れた仕草が、悪戯が成功したときの子供っぽい表情が、心配そうにあたしを見つめる真っ直ぐな眼差しが、刹那のうちにあたしの内部を支配しようとする。
 震える足を無理矢理動かし、造り付けの洋服ダンスの引き出しを開けた。霜降りグレーのトレーナーとジーンズを引ったくるように取り出した。
 あたしは急いでドアを閉めた。
 ノブを握る手が白くなるほど力をこめて、いっぽんいっぽん指を引き剥がす。
 この部屋は、まだ、ダメだ。
 ガチガチと歯が鳴っている。きつく目を閉じると、手に持ったトレーナーから懐かしい匂いがして、吐きそうになる。あの部屋で、何もかも放り出して、待っていたくなる。
 不在が。まだ、どうしたって、受け入れられない。
 あたしは自分の部屋の箪笥からバスタオルを取り出すと、着替えをそれにくるんだ。深呼吸して自分の持っている包みから目を逸らし、キッチンを覗きこんだ。
 膝の間に顔を埋めて、捨て猫のように少年は自分を守っている。冷たいフローリング。雨の雫がぽたぽたと前髪を滑り落ち、床にまで染みをつくる。
 あたしはその頭にタオルをかぶせると、ごしごしと水気を拭き取った。
 硬い髪の感触。同じようにすると克也は照れて、そっぽを向いたっけ。

『いつまでもガキ扱いするなよ、小夜美姉は』

 ほんの少し赤くなった頬を見るのが楽しかった。困った表情が可愛くて、『風邪引くでしょ?』なんて言いながら、強くタオルを押しつけた。
 目の前の少年は、照れることもそっぽを向くこともなかった。
 黙ってされるがままになっている。
 ……当たり前だ、彼は、克也じゃない。

「それで、あんなところで行き倒れるなんて、どうしたっていうの?」

 少年は身じろぎもしなかった。
 全てに関心を失ったように、ぼんやりと手の傷をいじっている。塞がることのないかさぶた。じんわりと染み出している血の色。
 赤。
 止まらない、血。
 溢れた血が、命が、失われていくのを見ていることしか出来なかった。
 あんなに傍にいたのに。ずっと一緒にいたのに。
 家族だった。姉弟だった。それでいいと思った。いつか克也があたしの元から離れても、姉弟という絆が残ればそれだけでいいのだと自分に言い聞かせて、いつしか気付いていた互いの想いに蓋をしていたのに。
 いつもよりずっと青白い顔が、いつものように笑った。あの、おしまいの日。

『……泣くなよ』

 掠れた声。
 そんなもの、聞きたくなかった。

『ったく……しょうが、ねぇ……な』

 ふれた唇は、鉄の錆びた味がした。

『小夜美……ごめん、な』

 姉ではなく、小夜美と呼んでくれたのは、それが最初で、最後だった。

「ッ……!」

 あたしは唇を噛み締めた。
 じんわりと広がる、血の味。最後に交わした、キスの味。
 瞼が熱い。叫び出したくなる衝動を、必死に堪えた。

「……か?」

 囁くようにちいさな声が、鼓膜を震わせる。
 それまで黙って俯いていた少年が、あたしの方を見上げていた。

「…………誰か……いなくなったんです……か?」

 その双眸は夜の海のように底知れぬ暗さを秘めていた。
 とても大切ななにかを諦めたようなその色に、あたしは何故この少年を放って置けなかったのかを悟った。



 何故、あんな顔をしたのだろう。
 天井には、白い蛍光燈。薄い緑のバスタブに両手をかけてぼんやりと上を見上げる。ひたひたと湯の温かさが身体に浸透してくる。
 ほとんど背を押すようにしてバスルームに閉じ込められ、ただゆったりと風呂に入っている。
 立ち上る湯気で、視界は頼りない。バスタブの縁にかけた腕からしずくが落ちて、かすかに音をたてた。
 ひどく非現実的だ、と思い、そもそもあの日から今日に至るまで、俺が現実をリアルに受け止めた事などあっただろうかと思いあたる。苦い笑みのようなものが、頬をかすかに引くつかせた。
 あの雨の日にはじまった悪い夢は、まだ続いている。覚めない夢。無意識になぞった手のひらの傷から、ぽとりと赤が湯船に落ち、緩やかに広がった。
 ぼんやりとした意識に紛れ込む雑音。料理でもしているのだろうか、風呂場の外、おそらく台所の辺りから水音が聞こえる。そういえば、「パスタでいいでしょ?」と聞かれたような気がする。
 ……小夜美さん、って言ったっけ。
 差し出されたほっそりした指と、雨に濡れた長い髪を思い出す。
 快活で、面倒見のよさそうな――これは、見ず知らずの俺を強引に家にあげたことで証明されているだろう――明るい女性。怒ったり笑ったり、くるくると変る表情は綺麗な顔を生き生きと見せている。
 なのに、どうしてだろう。
 タオルで俺の髪を拭く手が止まった瞬間、見てしまったあの顔は。届かない何かに飢えている瞳は。
 ……既視感の、あるものだった。あの日から鏡に現れる、暗く虚ろな双眸。

『…………誰か……いなくなったんです……か?』

 今思い出すと何を思ってあんな事を言ったのかわからないが、俺の問いかけに、彼女はほんの一瞬沈黙した。しかし、問いを口にした瞬間後悔していた俺に向け、「なんでもないわよ」と答えた小夜美さんは、既に笑みを浮かべていた。
 それは、彩花の切羽詰った『大丈夫』にも似た、ひどくギリギリなものだった。
 弱音を吐かない彩花、しっかり者のようでどこか危なっかしいあいつを、支えられるのは俺だけだと思っていた。彩花がつまずいたときは、俺が手を差し伸べるのだと信じていた。なんて馬鹿馬鹿しい妄想。彩花は、ひとりで立ちあがった。俺なんて、必要なかった。もう、二度と、必要とされることもない。
 握り締めたてのひらから、再び血が流れた。傷口が湯にふれ、ぴりっとした痛みに我に返る。
 ……俺には、何も出来ない。
 その事実だけを、意識的に反芻する。
 たとえ小夜美さんが何かを求めているにせよ、俺には何も出来ないし、する気力もない。自分自身すら支えられないのに、誰かの傷痕なんてどうにか出来るわけがない。そんなことは、よくわかっている。
 瞼を閉じて、眉間をほぐす。
 暗く虚ろな双眸が、一瞬ゆれる。彩花にも小夜美さんにも……そして、俺自身にも見える、虚無の瞳。
 小夜美さんが、なんだというのだろう?
 知り合ったばかりの、行きずりの女性。彼女がどんな瞳をしようと、俺には関係ない。関係ない……筈だ。
 ただ、まるで彼女にそぐわないその表情が、少しだけ印象に残った。それだけのことだ。
 風呂から出たら、この家からも出ていこうと考える。俺は誰かに関わるべきじゃないんだ。
 最後に顔を冷水で洗い、俺は風呂から上がった。



 手渡されたトレーナーとジーンズは、ほぼサイズが合っていた。
 ぺたぺたと廊下を渡り、台所のドアを開ける。途端に、トマトソースの匂いが漂ってきた。
 ドアに手をかけたまま、視線だけで台所の奥を見やる。
 長い髪を後ろで一つに束ねた、小夜美さんの背中……。それにもうひとりの後ろ姿が、重なっていた。
 セピアカラーのセーラー服の上にエプロンを着けて、彩花が台所に立っている。両親が出張中に、よくあった光景。

『あと、ちょっとで出来るから。大人しく待ってなさい』

 腹減った、と訴えると、彩花は決まって姉のような顔をしてそう言った。どこかママゴトめいた、暖かいやり取り。
 幸福という言葉の意味すらも理解していなかった、そう遠くもないはずの、けれど今は手の届かない昔の記憶。

「あ、お風呂あがったのね。さっぱりした?」

 現実の声に、俺は目をしばたたいた。
 ここは他人の家の台所で、小鍋からトマトソースをすくっているのは、勿論小夜美さんだった。
 その瞳が、何故かひどく懐かしいものを見るように、優しく細められている気がした。優しく? むしろ……何かを押さえつけて、優しく装っている……? 馬鹿馬鹿しい、考え過ぎだ。

「……はい」

 とりあえず頷くと、小夜美さんは指で椅子を指し示し、「ご飯あげるから、そこに座ってて」とまるで犬に餌でもやるような調子で俺に命じた。
 食欲はまるでなかったし、これ以上この家にいるつもりもなかった俺は、小夜美さんにそのことを言おうとテーブルを素通りし彼女に近づいた。だが、俺が別れを言おうとするその機先を制して、小夜美さんは俺の鼻先にスパゲッティが山盛りになった皿を突き付けてきた。

「待ちきれないのかな、少年? じゃ、これ運んで」

「え……い、いや」

「なぁに、この期に及んで『トマトダメなんですぅ』なんて言うんじゃないでしょうね? もう二人分作っちゃったんだから、きっちり食べてもらうわよ!」

「あ……あの」

「ふふーん、こう見えても結構料理上手なんだから。アスパラのベーコン巻きトマトパスタ、温かいうちに食べたほうが絶対美味しいのよ。こんな美味しいものがあるなんて、小夜美さんありがとう、って感謝すること請け合いよ。サラダだってできてるし。いま冷蔵庫から出すから、ほら、とっとと座って! 暇なら布巾でテーブルの上でも拭いておいてね」

 一方的に捲くし立てられ、俺は何も言えないまま皿を受け取ってしまっていた。大人しく皿を置いた後、布巾でざっとテーブルの上を拭いておく。
 小夜美さんは言葉通り冷蔵庫からグリーンサラダの入ったボウルを取り出すと、小皿にとりわけ、そのひとつを俺の前に置いた。フォークとスプーンも揃えて渡され、くるくると独楽鼠のように動いていた小夜美さんが向かいの席に腰を下ろしたときには、俺は食事をしないわけにはいかない状況に追いこまれていた。

「それじゃ、いただきます」

「……いただき……ま、す」

 釈然としないものを覚えながらも、手が勝手にフォークを持つと、湯気を立てているスパゲッティをくるくると巻きつけた。
 まだ熱いトマトソースの味が口いっぱいに広がる。
 嚥下すると同時に、自分が酷く空腹であることに気付いた。食欲なんてさっぱりないと思っていたのに、何もかもどうでもいい、とすら思っていたのに、身体は浅ましく生きたがっている。

「どう、美味しい?」

 小首を傾げて、小夜美さんが唇の端を笑ませる。
 俺は首を縦に振ると、もくもくとフォークを口に運んだ。
 小夜美さんはその後、なにも聞かないでくれた。そのことがありがたく、同時に自分の貧しさが、身にしみた。
 俺は、何も出来ないのに。
 恋人ひとり、救えなかったのに。
 こんなふうに、人の厚意に縋ることが、許されるのだろうか。わからない、わからないんだよ。
 なぁ……彩花。



 食事を終えてしまうと、どこかずしりとした沈黙だけが残った。

「じゃあ、洗い物でもしちゃおうかな。お皿、貸してくれる?」

 あたしの言葉に、少年は逆らわなかった。協力的、というよりはむしろ惰性に近いかもしれない、手慣れた仕種で食器を重ねて流しへと運ぶ。
 その間も、彼は一言もしゃべらなかった。
 あたしは蛇口をひねって盛大に水を出した。冷たい流れに皿を差し入れると、赤いソースは大部分水流で落ちる。さらに洗剤を含ませたスポンジで表面と裏を洗っていく。食器を洗っているあたしの隣に、少年がどこか所在なさげに立った。

「あの……」

 帰る、と言い出すのだろうか。食卓につく前も、同じような顔をして何かを言いかけていた。あの時は強引に遮ったけれども、もう引き止める理由はない。時計も八時を回っている。濡れた服は着替えたし、御飯も食べた。もう行き倒れる事はないだろう。
 それに、あたしだって、出会ったばかりの少年をこれ以上家にとどめておく理由はないのだ。少なくとも、背格好が弟に似ているからなんて、世間的には何の説得力もない。
 彼は友達でも親戚でも、知り合いですらない。あたしは彼の名前も知らないのだから。
 知らない……?
 自分で自分の思考に反駁する。するりと自分自身につく、嘘に。
 違う。知らなかったんじゃない。知りたくなかった。だから、聞かなかった。少年に名前なんて必要なかった。……わかっている、これはただの「ごっこ」だ。悪趣味な、代償行為。

「なに?」

 鍋の底をこすっているあたしに、彼はきまり悪そうに頭を掻いた。

「……手伝い、ます」

「え?」

 思っても見なかった一言に、あたしは少年の方へと顔を上げた。

「その、俺、なんにもしてないから……」

 ぼそぼそと告げられた誠意に、少しだけ胸が痛んだ。そんなこと、ないのに。お互い様だ。あたしは、君自身のことなんて、見ていなかったのだから。

「ありがと。少年、なかなか良い心がけね。じゃあ、これ洗ってくれる? あたしはお皿とか拭いてしまっちゃうから」

「あ、はい」

 少年と立ち位置を変えて、あたしは既に洗い終えていた食器類に手を伸ばした。水気を拭きながら横目で見ると、彼は意外に慣れた手つきで鍋の底を擦っている。

「おうちの手伝いとか、結構してるの?」

「……いえ、そんなに」

「そう? それにしては上手いわね、鍋洗い」

「それは、あ……幼馴染に、手伝わされたんで」

「幼馴染?」

「俺の家、両親揃って出張とかが多いから、隣に住んで……た、幼馴染が飯作ってくれたり、したんです」

 ぼそぼそと、少年は自分のことを話してくれる。今までの無言っぷりを思えば、破格の話しぶりだ。あたしは、罪滅ぼしの意識もあったのかもしれない、わざとはしゃいだ声をあげた。

「へぇ、でもそこまでしてくれるってことは、ただの幼馴染じゃないんじゃない? ひょっとして、彼女とか?」

 からかうつもりの一言に、返ってきた反応は、過剰ともいえるものだった。
 少年の顔が強張り、すすがれていた鍋が手から落ちる。派手な水飛沫があがり、少年の着ていたトレーナーをびっしょりと濡らした。

「ちょっと、やだ、大丈夫!?」

 少年は流しに片手を突いて、何かを封じこめるように両目をギュッと閉ざしている。

「……い、き、です」

「平気っていう顔してないわよ、ああとりあえず濡れたところ拭いて。っていうか着替えた方がいいわね」

「俺は……大丈夫です。すみません、この始末したら、もう帰りますから」

 少年は頭を軽く振って、あたしに向き直る。
 灰色のトレーナーが濡れて、黒っぽく変色している。克也のトレーナー。胸から腹にかけて広がるそれは、血の染みのようにも、見えた。
 シャツを染める、赤い黒い……血。

「小夜美さん?」

 少年の声は、遠くてよく聞こえない。
 ぐらりと、意識が暗転する。止める間もなかった。圧倒的な波に、飲まれる。

『大丈夫だって、俺は』

 心配して小言を言うたびに返された、強がりのような笑み。
 最後まで、それは、変わる事がなかった。
 甲高いクラクション。誰かの悲鳴。タイヤと地面が擦れて、黒い轍を残す。割れたミラーの欠片が夕焼けを乱反射して輝いている。アスファルトが赤く染まり、あたしの視界も赤く染まる。赤い赤い中に、赤い少年。
 突き飛ばされ身を起こしたあたしの前には、倒れている克也がいた。

『……だい、じょうぶ……か?』

 掠れた声。それが、終わりの始まり。
 男の子は、いつだって強がりばかりだ。

「あ……あ、あ」

 あたしの喉から、悲鳴が洩れる。
 過去が、現在と入り混じる。
 克也の、馬鹿。嘘つき。いつだって心配かけて、あたしの気持ちなんてまるで無視して、克也の馬鹿。傍にいるって言ったじゃない、ずっとずっと一緒だって、約束したじゃない。本当の姉弟になるから……そばにいるって、そう思ってたのに。

「小夜美さん!?」

 嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき!!
 いないから……あんたがいないから、悪いんだから。
 目の前の誰かのトレーナを引っつかんで、頭を押しつける。誰でもいいから、助けて欲しくて。
 胸に開いた穴を、忘れさせて欲しくて。嘘でもいいから、ぬくもりが欲しくて。そうでもしないと、壊れてしまいそうなほど、寂しくて。

「行かないで! ひとりにしないでよ!!」

 克也。ねぇ……あたし、寂しいよ。寂しくて寂しくてダメになっちゃいそうだよ。

「どうして……あたしのこと、置いて……ずるいじゃない」

 弟のくせに、最後の最後で、男の顔をした。あたしのこと……庇って死んでしまった。そんなこと、これっぽっちも望んでなかったのに。

「小夜美さん……」

 誰かの手が、ぎこちなく頭に置かれた。
 不器用な指が、ゆっくりと頭をなでている。
 あたしは自分が嗚咽を漏らしていることに、気付いた。悲しくて、ただ悲しくて、涙が濡れているトレーナーに染み込んで、ますますその色を深くした。



 ソファーで眠っている小夜美さんを、月明かりだけが照らしている。
 長い睫毛に、整った鼻梁、形のいい唇、全てにうす青い影がかかっている。
 頬に残った涙の跡が、少し痛々しい。
 小夜美さん。
 気さくで明るくて……なのに、俺と良く似た瞳をしていた……いや、俺よりも深い傷を負った女性。
 さっきまで小夜美さんは、ぽつりぽつりと過去を語ってくれた。
 克也、という俺と同年代の弟がいたこと。彼が、交通事故で……小夜美さんを庇うようにして、死んでしまったこと。そして、小夜美さんが弟さんの事を、本当に本当に好きだったことも。
 俺には、何も言えなかった。
 彩花との別れを口にしようかとも思ったけれど、小夜美さんの負った傷に比べれば、振られた話などしない方がいいと判断した。
 だから、俺は黙って小夜美さんの話を聞いた。
 何もしてやれないし、その資格もなかったけれど、話し終えた小夜美さんは「ありがとう」と言った。
 話を聞いてくれて、少し、心が軽くなった、と。
 泣き疲れたのだろう、沈黙が続いた後小夜美さんは眠っていた。俺のトレーナーの裾を握ったままで。
 俺はそっと彼女の髪を梳いてやる。小夜美さんの弟にはなれないけれど、夢で会う手伝いくらいは、してやりたいと思った。
 小夜美さんの寝顔は穏やかで、そのことが俺の気持ちも優しくしてくれる。
 もしかしたら。
 彩花にも、こんな風に接していれば、良かったのかもしれない。
 ナイフを握り締めて徘徊するのではなく、あいつの隣で話をしていれば良かったのかもしれない。
 俺は敵が欲しかった。
 悪い奴がいて、そいつを倒せば、全てが良くなる。そんな敵が、欲しかった。でもそれは、彩花の気持ちを本当に考えた行為だったのだろうか。
 誰かを憎むのではなく、聞こえない声に耳を澄ませてやった方が、彩花は嬉しかったのかもしれない。
 あの雨の降り続く部屋に、俺は彩花ひとりを置き去りにした。
 だからきっと、別れを告げたのは彩花でも、そのきっかけを作ったのは俺のほうなんだ。そんなことに、ようやく……気付いた。
 窓の外には、月が見える。
 やわらかな光が、全てに等しく降りそそぐ。
 今も俺には何の力もなくて、全てを解決することなんて出来ないけれど。それでも、ほんの少しだけ、誰かの力になることは許されている。
 彩花を忘れることは、きっと、俺には出来ないだろう。
 彩花が俺を許すことも、きっと、ありえないだろう。
 それでも、もう少し、あと少しだけ。頑張ってみよう、と思った。今隣で眠る小夜美さんのように、誰かが「ありがとう」と言ってくれるのなら。どうしようもなく馬鹿な俺でも、許される日が来るかもしれないから。
 俺は月光を瞼に受けながら、そんなふうに思った。




the end


「memory trace」本編は「ざつぶんしょこ」さんでご覧になれます

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