ゆめだけじゃいられない

 細い指がキーボードを軽やかにタイプしている。
 その指の動きは、まるでピアノを弾いているかのようだったが、芸術的と表現するには、彼女の表情はやや真剣すぎた。
 普段はおっとりした雰囲気があり、彼女の素性を知らない人からは、二十代後半になっても「ぼんやりしたお嬢さん」と呼ばれてしまう。それが今では堅く唇を引き結び、食い入るようにモニターに浮かぶ文字列を見つめていた。
 照合完了。エラーなし。
 結果に満足して、彼女はようやく手を止める。椅子の背もたれに体重を預け、少しずり落ちた眼鏡を直しながら、ため息をついた。

「よかった……。バックアップに異常はなかったみたい」

 呟いた面には、微笑が浮かんでいる。彼女がそんな風に笑うのを見たら、驚く人が多かったかも知れない。彼女は人付き合いが下手で、どうしても人前では上がってしまうのだ。

「リストア完了。システム再起動開始」

 云いながら、再びキーボードを叩き、エンターキーを押す。独り言というより、我が子を呼び起こす優しい母親のような声音で。

「"LM-RSDS-4913A"起動確認。……おかえりなさい」

 静かな唸りとともに、システムが起動する。同時に、涼やかなチャイナドレスに、明るい栗色の髪をした女性が、忽然と彼女の前に姿を現した。
 彼女は驚きもせず、その女性に微笑みかける。

「おはよう、空」

「……おはようございます、鳴沢教授せんせい

 嫣然と微笑み返して、茜ヶ崎空は軽く頭を下げた。

     ◇ ◇ ◇

「二人きりのときは『夢見』でいいって、いつも云ってるでしょ」

「そうでした。申し訳ありません、夢見さん」

「ほんと、堅物なんだから。……そういう風に育てたのは、私か」

 苦笑する夢見に、空も嬉しげに微笑んだ。
 夢見は決して「そういう風に作った」とは云わない。その使い分けの根拠はまだ空にはわからなかったが、「育てた」と云われると嬉しいのは確かだった。
 久しぶりの「生みの親」との再会に喜びつつ、空は周囲を見回した。もちろんそれは見る人を安心させるためのパフォーマンスで、彼女には起動した時点で状況は理解されているのだが。

「ここは……私が生まれた、夢見さんの研究室ですね。LeMUは……」

「潰れたわ」

 軽く肩をすくめて、夢見は立ち上がった。珈琲メーカーに近づき、カップに珈琲を入れる。その様子に、空は少し眉をひそめた。

「夢見さん、その珈琲は本日、もう十二杯目ですね。カフェインの取りすぎは、お体によくありません」

「はいはい」

 相変わらず聞く耳を持たない夢見に、空はため息をつく。
 いつもなら夢見の健康状況と生活習慣のデータを元に、十年後の現実をシミュレートして説教をするところだ。だが今は、もっと気になることがあった。

「それでは、LeMU内部に閉じこめられていた皆さんは……無事、救出されたのですか?」

「……」

「私のバックアップデータには、圧潰直前までの記憶しかありません。……教えてください、夢見さん。皆さんは……倉成さんは……」

「――本当、どうなるかと思ったわ」

 空に背を向けて、夢見は珈琲を一口飲んだ。
 空を「見て」いないとき、空はそこにはいない。設計者としてそんなことはわかりきっているけれど、不思議と夢見は空の存在感を感じていた。3Dサウンドによるヴァーチャルな立体感だけだとは、思えなかった。

「空の本体はここにあるけど、LeMUの中であなたが体験したことは、すべてHIMMELあそこに保存されていたんだもの。通信が途絶されて、定時バックアップも取れなくなってたし」

「夢見さん、質問に答えてください!」

「……落ち着いて、空。頭のいいあなただから、わかるでしょう? HIMMELにしかなかったはずのデータが、こうしてここでリストアされてることの意味が」

「……あ……」

 振り返った夢見に見つめられて、空は小さく息を飲んだ。そして、その表情には、次第に明るい笑みが浮かんだ。
 けれど夢見は、その笑顔を苦い想いで見ていた。ぬか喜びをさせてしまったかもしれない。

「私のバックアップデータを持ち帰ってくれた人がいる、ということですね?」

「そう。田中さんっていう女の子が持ってきてくれたわ。田中優美……ええと、なんだっけ、すごく長い名前の子」

「田中さんが……じゃあ、皆さん、無事だったんですね!?」

「……」

 夢見は珈琲カップを置いて、空が立つ場所へゆっくり歩み寄った。
 空が不思議そうに、首を傾げる。
 できることなら、手を取って安心させてあげたかった。肩を抱いて、衝撃に耐えられるよう、支えていてあげたかった。
 しかし、それは叶わないことだ。夢見にできるのは、ただ「情報」を「入力」することだけ。

「落ち着いて聞いてね、空」

「……はい?」

「LeMUから救出されたのは、田中さんと、記憶を失っていた少年……桑古木くんだけよ。もう一人、黒髪の女の子……小町さんと云ったかしら? 彼女も自力で脱出したようだけど……あとは……」

「……え……?」

 空は何度か目を瞬いた。
 理解不能。シンタックスエラー。致命的な障害。予期せぬ終了。
 夢見は唇を噛んで、これまであえて閉じていた情報ソースへの連結を開いた。空の中に、否応なしに「事実」が情報として入り込んでくる。

「そんな……じゃあ……倉成さんと、ココちゃんは……?」

「……」

 沈痛な表情で、夢見は首を横に振った。
 二人の死亡が確認されたわけではない。しかし、LeMUにいたにしろ、IBFに残っていたにしろ、その生存は絶望的だ。

「………………」

 空は力無くそこに座り込んだ。虚ろに見開かれた瞳から、涙があふれてくる。
 こんなことなら、彼女に「感情」なんて持たせなければよかった。夢見は今初めて、そう考えていた。

「私の……責任です……」

「空……」

「LeMUのお客様の安全を守るのが、私の義務なのに……私は……いちばん、大切な人を……私……」

「……空……」

 夢見は思わずキーボードに手を伸ばした。システムを一時停止させようかと考えたのだ。このままでは、空が壊れてしまいそうで。
 ――だけどそれは、自分の無力さから目をそらすことだ。
 夢見は大きくため息をつくと、椅子に腰を下ろした。そして、宙を見据えて、話し始めた。

「好きだったの? その彼のこと」

「……」

 こくん、と頷く空。
 その姿を横目で見て、夢見は小さく苦笑した。

「恋、か……。私のAIがそこまで育つなんて、ちょっと複雑だな……」

 感情とは、所詮、経験と学習の積み重ねによる条件反射に過ぎない。だから、プログラムで十分再現できる。その自説が実証されたと、考えていいのかも知れない。
 けれど。今、こうして空を突き動かしている想いは……本当に、そんなモノなんだろうか?

「……空」

「……はい」

「つらいなら……消してあげられるよ? あなたの心に刺さったトゲ……そのノイズを……」

「……夢見さん……」

 涙に濡れた面を、ゆっくりと空が上げる。
 その涙も、結局はホログラフィに過ぎない。触れることはできないし、手を伸ばしても、雫が指を濡らすことはない。
 それでも。

「嫌です。倉成さんを忘れるなんて……なかったことにするなんて……絶対に嫌です」

 かけがえのない大切なものを胸に抱いて。
 必死に云いつのる空の姿は、夢見に不可解な痛みをもたらした。
 私と彼女と、どちらが「人間」らしいと云えるだろう。この世にただひとつ、ほかになくしたくないものなど何もない、というように、恋心を抱きしめている彼女と。AI相手でなければ、自分の心情を語ることもできない私と。
 自分自身の理想像として作り出した人格――「茜ヶ崎空」を前にして、夢見は語るべき言葉もなく、うなだれていた。
 その沈黙をどう理解したのか、空はやがてゆっくりした動作で立ち上がった。
 涙は、すでにない。涙のあとを残すようなことも……空には、できない。

「申し訳ありません。取り乱してしまいました」

「……空、あのね……」

「情報を確認しました。確かに倉成武、八神ココの両名の生存は確認されていません。……しかし、同時に、死亡が確認されたわけでもありません」

「空……」

「私は、信じます。きっと、生きているって。倉成さんは……そうおっしゃいました」

「……え?」

 夢見はデータに破損がないかチェックするため、空の記憶はすべて確認している。彼女と倉成武との間に、そんな会話はなかったはずだ。――少なくとも、バックアップされている中には。
 夢見の困惑には気づかず、空は再び艶やかに微笑んで見せた。

「私は大丈夫です。夢見さんこそ、もうずっとお休みになっていないのでしょう? 私の復旧のために、不眠不休で……ありがとうございます」

「空……」

「どうぞ、おやすみください」

 深々と頭を下げる空。
 彼女は本当に自分の身を案じている。そうわかっていながら、夢見は奇妙な居心地の悪さを感じていた。
 私の気持ちはあなたにはわからない。空に、そう云われたようで。
 さっきまであんなに身近に感じていた、自分の分身のように思っていた彼女が、急に遠い存在になってしまったように思えた。
 もしかしたらそれは、子供の親離れを寂しがる心境なのかも知れない。無理矢理そう考えて、夢見は苦笑して済ませた。嫉妬しているだなんて、そんなこと――。
 夢見は立ち上がって、ドアの方へ向かった。

「わかった。じゃあ、そうさせてもらうわ。何かあったら、すぐ起こして」

「はい。ごゆっくりおやすみください」

「ありがとう」

 ドアの前で、夢見が足を止める。そうして振り向くと、変わらず微笑んだままの空が、そこにいた。

「……ねえ、空」

「はい、なんでしょう」

「私には、話を聞いてあげるくらいしかできないけど……ううん、だからこそ、何でも云ってね。我慢しないで」

 そうでないと、私が寂しいから……そう、正直に付け加えることはできなかった。
 空はやはり微笑んで、頭を下げた。

「はい。ありがとうございます」

「うん。……おやすみ」

 ドアを開けると同時に、照明を落とそうとスイッチに手を伸ばす。そのとき。

「あ、夢見さん」

「え?」

「スイッチを押すときのかけ声は、『ポチッとな』ですよ」

「……」

 思わず目が点になる夢見。空はいたずらっぽく微笑んでいる。

「……変なこと知ってるのね」

「はい。先生に教わりました」

「……先生は選びなさい」

 夢見は大きくため息をつきながら、スイッチを押した。かけ声がなかったことに、空が残念そうな顔をする。
 ……やはり、消去した方がいいんじゃないのかしら、あの記憶は。
 頭を軽く振り、その拍子にずれた眼鏡を直しながら、夢見は研究室を出て、ドアを閉めた。
 残された部屋に、空はいない。誰も見る人がいない場所に、彼女は存在できない。
 けれど、確かに空は「いた」。強い強い想いと、不退転の決意を秘めて。

(必ず助け出します……倉成先生)


end



2002.11.5


あとがき

誰もが思いつくネタだと思うので、先に使ったもん勝ちってことで(^^ゞ。
「なるさわゆめみ」を知らない人には、ワケわかんなくて、ごめんなさいm(__)m。
ただし、彼女はお遊びで出したわけじゃなくて、もしシリーズ化されることがあれば、佐々木道元と同じくレギュラーとして重要な役を果たすことになります。
構想的には、前作「かみさまなんていない」と、本作、それにもうひとつ沙羅編「てんしなんかじゃない」とで三部作になっておりまして、それでやっとプロローグが終わるわけですが……やっぱ書くのは無理だよなあ(^^ゞ。
ちなみに、空が公式に再起動したのは、2018年10月です。突っ込まれない内に自分で書いておこう(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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