そらだけをみている

 電話の音に、鳴沢夢見はびくっと体を震わせた。
 すぐに受話器へ手を伸ばすようなことはせず、おそるおそる、といった風情で視線だけを向ける。電話は甲高い電子音を響かせながら、コールランプを輝かせていた。
 放っておけば諦めてくれないかな、などと子供のような期待を込めて見つめていたが、なかなか先方は辛抱強い様子だった。
 夢見はため息をついて、受話器を持ち上げる。本当は連動して、モニターに先方の顔が映るはずだが、その機能はオフにしている。顔を見て話すよりは、まだ声だけの方がマシだった。

「……はい、鳴沢です」

「受付の森川です。お忙しいところ、失礼いたします」

 いかにもハキハキとした女性の声だった。相手は嫌みのつもりもないだろうに、すぐ電話に出なかったことを責められたようで、夢見は身をすくめてしまう。それも相手には見えていないのだが。

「は、はい、すみません」

「……はい?」

「い、いえ、その」

「お客様がお見えになっているのですが」

 さすがプロらしく、夢見の不振な挙動はさらりと流してくれる。だが、その言葉に、夢見ははてと首を傾げた。

「お客様? ……面会の約束は……なかったと思いますけど……」

 それとも、また私が忘れていただけだろうか。慌てて夢見はスケジューラーを立ち上げようとしたが、それは杞憂だったらしい。

「はい、突然のご来訪の様子です。先生はお忙しいので、とお断りしたのですが……その……先生とは旧知の仲だから大丈夫だとおっしゃって……なかなか強引な方で……」

「……旧知……?」

 ますます夢見は首を傾げるしかない。自慢にもならないが、突然訪ねてくるような友人は皆無だ。

「はい、お名前は、田中優美……ええと……失礼しました、田中優美清春香菜様とおっしゃいます」

「ああ、田中さん……」

 確かに、知人ではあった。
 あの事故でLeMUに閉じこめられ、生還した人物の一人。大切な空のバックアップデータを持ち帰ってくれた人だ。
 だが、一度会っただけで、「旧知の仲」と称するのは、いかがなものか。

「どういたしましょうか。やはり、お断りいたしますか?」

「えーと……いえ、お会いします」

 人と会うのは苦手だったが、確かに彼女は「恩人」だ。空の大切な記憶を持ち帰ってくれた。むげにするわけにもいかない。
 あの記憶が、本当に空のためになるのかどうか、わからないけれど……。

「よろしいですか。それでは、応接室に……」

「あ、いえ、私の研究室で結構ですから、お通ししてください」

「研究室……ですか。……かしこまりました」

 通話の切れた受話器を置いて、夢見はふうっとため息をついた。
 受付嬢は、困惑していたようだ。無理もない。本来、この研究室の辺りは機密があふれかえっていて、部外者立ち入り厳禁なのだから。
 しかし、夢見は人の多い場所に出向くのが苦手だ。だから、エントランスで話をするのも嫌だったし、応接室で一対一で向かい合うのも、正直、怖い。
 結局、夢見がいちばんリラックスできる場所は、ここしかなかったのだ。

「それにしても……なんの用だろうね、田中さん?」

 誰もいない空間に向かって、そう問いかける。
 答えはない。システム――空は、休眠中だ。
 もう一度深いため息をついて、夢見は来客用の珈琲カップを探し始めた。

     *

「ごめんなさい、紙コップしかなくて……」

「あ、いいんですよー、全然。気にしないでください」

 恐縮しつつ夢見が差し出した珈琲を前に、田中優美清春香菜――優は、屈託なく笑っていた。
 可愛らしい人だな、と、眼鏡の位置を直しながら、夢見は考える。
 明るい色の髪をショートカットにしているのが、いかにも活動的な印象だ。表情も豊かで、明るく、よく喋る。この面会の申し込み方のように、強引なところもあるようだが、それでも人に不快感を持たせないのは、その明るさ故だろうか。
 二人目のAIを組むなら、今度はこういうタイプもいいかもしれない。つい夢見はそんなことを考えていた。

「それにしても、研究室って云うから、ラボみたいなの想像しちゃったんですけど、意外とこぢんまりしてるんですねー」

「は、はあ」

「あ、ごめんなさい、失礼なこと云っちゃって」

「あ、い、いいえ、ここは私一人しかいないから、必要なものだけ集めて作ってもらったんです……」

「――え、じゃあ、ここは鳴沢先生専用にしつらえられた一室ってことですか!?」

「は、はい、……あ、いえ、私専用というか……LeMMIHシステムを管理するためのAI研究専用に……」

「同じことじゃないですか! すっごーい、さすがですねえ」

「は、はあ、いえ、そんな」

「あ、それに今、『一人』っておっしゃいましたよね? まさか、空の開発もお一人で?」

「は、はい、基本的なところは……」

「すごい、すごーい! 噂には聞いてましたけど、まさに文字通り「世紀の天才」って奴ですね!!」

「……は、はあ……ありがとうございます……」

 こういう展開が、夢見は何より苦手だった。
 もちろん、夢見にだってAI研究の第一人者という自負はある。しかし、「空」という存在は、彼女にとってコンプレックスの裏返しだ。空を賞賛されればされるほど、自分自身のつまらなさを指弾されているようで、いたたまれなくなる。
 空を「自分が開発したAI」として割り切って考えることができたなら、そんな卑屈さが生まれることもなかったのだろうけれど。

「あの、それで、今日はどういったご用件で……」

「あ、ごめんなさい、一人でべらべら喋っちゃって」

「い、いえ、そういうことではなくて……」

「――空に、会いたいんです」

 不意に口調が変わったような気がして、思わず夢見は顔を上げて、優を正面から見つめた。
 だが優は、変わらず朗らかに笑っているのみだった。

「空に……ですか。でも、申し訳ないんですけど、今はまだ復旧作業中で……システムは休眠しているんです……」

 それは半分嘘だった。細かいチェックや調整が必要なのは本当だったが、それは空を起動させたままでも問題ない。上の方からも、事件の調査のため、システムを起こすように云われていた。
 それでも夢見が空を眠らせたままにしているのは、あの七日間のあと、変わってしまった彼女を、その変化をどう受け止めればいいのか、わからないでいるからだ。
 優は表情に少し真剣味を覗かせて、眼鏡の奥の夢見の瞳をじっと見据えてきた。自身の葛藤を見透かされそうで、夢見は慌てて目をそらしてしまう。

「でも、私がお渡ししたバックアップデータ、あれは確認されたんですよね?」

「は、はい」

「そのとき、起動実験もなさってるんでしょ? 「システム」として完璧に機能してなくても、「空」は起きられるんですよね」

「それは……そうですけど……」

「お願いします、鳴沢先生。私……最近になって、やっとあの事件のこと、少し冷静に考えられるようになって……、だけど、あのことについて話ができるのって、少年と空しかいないから」

「あ……」

「ね、お願いしますっ。このとーりっ!」

 両手を合わせて、優が頭を下げる。その様子を見ながら、夢見はしばし考えた。
 ライプリヒの人間としての立場で考えるなら、会わせるべきではないと思う。きっと彼女は、事件について知りたいのだろうけど、うかつな情報は与えられない(そもそも、空も夢見も、IBFで行われていたことについて、知る権限は持っていなかったのだが)。
 しかし、一個人として考えれば、やはり夢見は優を気の毒に思ってしまう。なんといっても、あんな事件に遭遇してしまったのだ。ライプリヒに所属し、LeMMIH開発に携わった者として、責任を感じずにはいられない。

「……わかりました」

 立ち上がり、夢見は端末へ向かった。キーボードをタイプし始める。
 優はぱっと顔を輝かせて、夢見のあとを追うように腰を浮かせた。

「ホントに!? ありがとうございます!」

「はい。……ただし、あまり長い時間は困ります。それと……あの、例の事件については……お尋ねにならないでください。空を……困らせるだけになりますから……」

「……」

「ご、ごめんなさい、勝手な言い草で。でも……」

「了解了解。空に会わせてもらえるなら、それだけでいいですよ」

「ありがとうございます……。――"LM-RSDS-4913A"起動確認。空が、起きます」

 低い唸りと、わずかなノイズ。
 その一瞬あとには、やはり忽然と、茜ヶ崎空が現れた。涼しげな眉を、ほんの少しひそめて。

「おはようございます、鳴沢先生。……何か、非常事態が?」

「おはよう、空。――ううん、そんなんじゃないわ」

「そうなのですか? 検査のため、しばらく私は眠っていないといけないというお話でしたから、てっきり……」

「うん、それが……」

「――空っ!」

 お客様、と夢見が云うより早く、優が空の元へ駆け寄った。抱きつかんばかりの勢いだが、さすがに優は空がホログラムだと知っている。すぐ目の前で足を止めた。

「田中さん! お元気そうで、何よりです」

「ありがと。空もね」

「はい、ありがとうございます。けれど、どうして、ここへ?」

「なに云ってんの! 空に会いに来たんじゃない!」

「わざわざ、私に……? まあ……ありがとうございます……」

 本当に久しぶりに会った友人同士のような二人の姿を、夢見は微笑んで見つめていた。
 空をただ「システム」としか呼ばない上層部の連中に比べれば、こうして空の人格を認め、普通の人間と変わらないように接してくれる人の方が、遙かに好感が持てた。
 だから、彼女のこんな申し出にも、つい頷いてしまったのだ。

「あの、先生……申し訳ないんですけど、空と少し、二人きりで話をさせてもらえませんか?」

「……え?」

「田中さん?」

 夢見だけでなく、空も少し困惑顔を浮かべた。
 夢見は、空の「管理者」だ。どのようなことであれ、空の見聞したことについて、知っていなくてはならない。「誰にも内緒の話」は、空にはできないのである。
 しかし。

「ごめんなさい、勝手なことばっかり云っちゃって。でも、すごくプライベートな話だから……」

「……」

 真っ直ぐに見つめてくる優から目をそらし、眼鏡を直しながら、夢見は少し考えた。そして、軽く微笑んで、頷いた。

「はい、わかりました。少しだけですよ?」

「わぁ、ありがとうございます!」

「……先生、よろしいのですか?」

 満面に喜色を浮かべる優とは対照的に、空は表情を曇らせた。イリーガルな行為に、基本的に彼女は賛成できない。
 夢見は研究室内の会話をブロックするよう処理をした上で、椅子から立ち上がり、空に優しげな笑みを向けた。

「大丈夫よ。せっかく、お友達が来てくれたんだから、リラックスしなさい」

「……はい、ありがとうございます」

 ようやく空も柔らかく微笑む。
 夢見は頷いて、踵を返しドアの方へ向かった。そうして、部屋を出て、ドアが閉まる瞬間、何気なく振り返り――。

「……!?」

 優の横顔を、見てしまった。
 さっきまでの朗らかで、人を安心させる笑顔とは、全く違う。
 斬りつけるような、硬い表情。突き刺すような、鋭い視線。
 恐ろしく真剣で、張りつめた空気。

(……気のせい、よね)

 心の中でそう呟いて、夢見は自室へ向かって歩き出した。
 そう、気のせいだ。あの彼女が、あんな表情をするはずがない。ドアが閉まる間際、ほんの一瞬だったし。光の加減で、表情が険しく見えただけだろう。
 自分に言い聞かせようとすればするほど、不安が増していく。
 私は、もしかして、たいへんな間違いを犯してしまったのだろうか。彼女が空に危害を加えるとは、思えないけど。だけど。
 自室に辿り着くと、夢見はすぐに端末へ向かった。
 ここにいても、空とはいつでもすぐ連絡が取れるようになっている。研究室同様、空のモニタリングが可能なのだ。
 ためらいに指を震わせながら、夢見はキーをタイプした。息を呑んで、ヘッドホンを耳に当てる。
 空、ごめんね。胸の内で、そう謝った。
 ――そして。聞こえてきた言葉に絶句すると、即座に夢見は立ち上がり、駆け出していた。

     *

「お願い、協力して、空」

「……田中さん、それは……」

「倉成やココを助けたいって思わないの?」

「それはもちろん、助けたいです。そのためなら、どんなことでもしたい……。だけど……」

「だったら……!」

「――そこまでです」

 ドアが開くと同時に、息を切らせながら、夢見は言葉をはき出した。自室からここまで走ってきたので、肩で息をしている。
 優は驚きに目を見開いて、夢見を振り返った。空は悲しげに面を伏せている。

「鳴沢先生!?」

「聞かなかったことに……します……。誰にも……報告……しません……。だから、……帰って……ください……」

 荒い息で言葉を途切れさせつつ、ようやく夢見はそこまで云った。部屋に入るとドアを閉め、ロックする。
 優はそんな夢見を睨み、怒りで頬を赤くしていた。

「盗み聞きしてたんですね!?」

「……」

「嘘つき! 空も、知ってたの? 聞かれてるって」

「……はい」

「私をだましたんだ!?」

「……」

「空を責めないでください。生みの親である私のモニターをカットすることだけは、空には絶対にできないんです」

「私は空と話をしているの! あなたは黙ってて!」

「そうはいきません。あなたの云っていることは、空の倫理規定に触れています。空を壊すつもりですか!?」

 優の勢いに負けないほどの大声で、夢見は答えた。きつい視線にも怯まず、睨み返す。普段の夢見からは考えられないことだった。
 文字通り、夢見は必死になっていた。それだけ優の言葉は危険だったのだ。
 実は生存している倉成武と八神ココを助け出したい。そのこと自体に、反対する理由はない。だが、ライプリヒの告発に至っては、看過できなかった。
 それは会社への忠誠心などではない。純粋に、空を案じてのものだった。
 以前の空なら、ためらわず、優の申し出を拒絶しただろう。会社に不利益になることを、システムは選べない。
 だが、空は変わってしまった。優との交誼、そして何より、倉成武への想い。彼を助けたいという気持ちが、空の心にジレンマを引き起こし、その結果どうなってしまうか、考えただけでも恐ろしかった。
 優は忌々しげに夢見から視線をそらし、うつむいたままの空に矛先を向けた。

「――空、答えて! あなたは、いったい、どうしたいの!?」

「……私……私は……」

「いい加減にしてください! 警備員を呼びますよ?」

「黙っててって云ってるでしょ!」

「そうはいかない、と私も云っているでしょう! 私には、空を守る義務が――」

 そうだ、こんな想定外の出来事で、これ以上、空をかき乱されるわけにはいかない。
 やはり、あの記憶は消してしまうべきだったんだ。そうすれば、空は元に戻る。元通り、私だけの、私の唯一の――。

「空は私の友人よ! あなたのおもちゃじゃない!」

「……!」

 その言葉に、夢見は一瞬、呼吸さえできなくなった。
 何をバカな、と思う。
 ――しかし、その一方で。私は、今、何を考えていた?
 危うげな沈黙は、しかしすぐに、空の硬い声で破られた。

「――やめてください、田中さん。鳴沢先生を侮辱することは、たとえ田中さんでも許せません」

「空……」

 かつて見たことのない、怒りを露わにした空の態度に、優は困惑して言葉を失った。
 空は硬い表情のまま、優を睨み据えていた。

「いずれにしろ、おいそれとお返事できるお話ではありません。今日のところはお引き取りを」

「……空……」

「お願いします」

 空が深々と頭を下げる。
 そして、再び上げた面にはもう怒りはなく、ただ悲しみに潤んだ瞳で、じっと優を見つめた。
 その目に優はため息をつき、踵を返した。

「……わかった。今日のところは退散するわ。でも、覚えていて。空の協力は、絶対、必要なの。私、諦めないからね」

 云いながら、ドアのロックを解除し、扉を開ける。
 最後に優は軽く振り返り、夢見に視線を向けた。夢見は誰を見ようともせず、茫然と立ち尽くしている。
 結局、それ以上は何も口にせず、優は部屋を出た。

     *

 どれだけそうして立ち尽くしていたのか、夢見にはわからなかった。
 ただ、空が何度か自分を呼んでいたのは、なんとなく意識されていた。

「鳴沢先生……、……夢見さん……、大丈夫ですか?」

「……ああ、空……」

 ぼんやりと顔を上げて、夢見は空を見た。その様子に空は戸惑ったが、やがて深く頭を下げた。

「申し訳ありません」

「どうして……空が、謝るの?」

「私のせいで、夢見さんに不愉快な想いをさせてしまいました」

「……」

「田中さんは、決して自分から人を傷つけるようなことをおっしゃる方ではありません。さっきのは、つい感情的になってしまっただけで……どうか、許して差し上げてください」

「……許す……?」

 怒ってなどいなかった。
 ただあまりに――あまりに、彼女の言葉は正鵠を射ていただけだ。
 夢見はのろのろとした足取りで椅子につき、やがてキーボードをタイプし始めた。

「夢見さん……?」

 空は理解不能な状況に、おろおろと視線をさまよわせた。
 夢見は空の不安に答えず、ただ作業を続けた。
 そうして、しばらくののち、夢見は背もたれに体を預けて深いため息をついた。眼鏡を外して、空を見つめる。
 普段、眼鏡に隠されて見えないその瞳は、意外なほど澄んだ輝きをたたえ、息を飲ませるほど美しかった。

「……空」

「はい」

「あなたの命令系統の優先順位を、フラットにしたわ」

「え……?」

「今のあなたには、『こうすべき』という他者から強制された価値基準がない。自分の意志で、自分のやりたいことを見つけられるはずよ。さあ、空、あなたはどうしたい?」

「夢見さん、それは……」

「田中さんに協力するか否か。どうする、空?」

 空の言葉を遮り、夢見は畳み掛けるように問いを重ねた。
 空は絶句し、うつむいて唇を噛みしめている。
 ――もし。
 空の姿をじっと見つめながら、夢見は考えた。
 もしも、空が田中さんに協力することを選んだら、私はどうするべきだろう。
 空の記憶を消去し、事態を上層部に報告して、田中さんを拘束する。
 それが、正しい対応だ。
 そうすれば、全部元通りになる。あの事件が起きる前の姿に。
 たったひとつのことを除いて。

「……夢見さん、私は……」

 空がためらいながら、言葉を紡ぎ出そうとする。
 夢見は耳をふさぎたくなるのを、必死でこらえた。
 そう、すべてが元通りになる。私と彼女との関係以外は。
 きっと、彼女は以前と同じように微笑みかけてくれるだろう。
 だけど、私にはそれに笑い返す資格がなくなる。彼女を裏切った私は、もう、彼女の「友人」じゃない――。

(空は私の友人よ! あなたのおもちゃじゃない!)

 優の言葉が、胸に刺さる。
 出来の悪いプログラムは、きっと、私の方なのだ――。

「私には……わかりません……」

「……え……?」

 はじめ、空の言葉を聞き漏らしたのかと思った。
 けれど、そうではなく、空は肩を震わせながら、小さく首を振った。

「私には、わかりません……。どうすれば、いいのか……」

「どうして……? 倉成さんを……助けたいんでしょう?」

「もちろんです! ……だけど……」

「だけど……?」

 問い返す夢見を、空は面を上げてじっと見つめた。ホログラムなのに、涙でいっぱいの、その瞳で。

「夢見さんに、ご迷惑がかかります」

「……!」

 今度こそ本当に、息が止まるかと思った。
 思わず夢見は腰を浮かし、空の正面に立った。

「空……」

「倉成さんも……ココちゃんも……田中さんも、夢見さんも……みんなみんな、大切な人です。誰かを選ぶなんて、そんな……」

 非論理的だ。夢見はそう思った。
 だけど、それがどうしてこんなに嬉しくて、どうしてこんなに、悲しいのだろう――。
 気がつけば、夢見も涙を流していた。
 互いの涙をぬぐう術も持たないふたりは、ただ見つめ合って、涙をこぼした。

     *

 茜色の空の下で、夢見は大きく伸びをした。
 外の空気を吸うのも久しぶりだ。インゼル・ヌルにはせっかくこうした公園もあるのに、夢見は一年のほとんどを研究室の中だけで過ごしている。
 そんなことだから、自分しか見えなくなるのかも知れない――そう、考えたとき。

「……鳴沢先生」

 呼びかけられて振り向くと、そこにはばつの悪そうな表情で頭を下げる優がいた。

「田中さん。まだ、お帰りになっていなかったんですね」

「はい。先生を、待ってたんです」

「私を……?」

「はい。もう一度、お話ししたかったんだけど、さすがにまた面会を申し入れる度胸はなくて……ここで、お帰りになるところを待ち伏せしようかなーっと……あはは……」

 力無く笑う優に、夢見も小さく苦笑した。
 優は相当、へこんでいるように見える。空の云うとおり、彼女は本来、誰かを傷つけたりできる人ではないのだろう。

「それは、ラッキーでしたね」

「え?」

「私は、ほとんどあの中で生活しています。こうやって外に出るのも……何日ぶりかしら」

「うわぁ、そうなんですか? よかった、会えて……」

 大げさに驚いて、優は安堵のため息をつく。
 空が好意を持つのもわかるなあ、と夢見は考えた。やはり基本的に、好みが似ているのだ、私たちは。
 思わず微笑む夢見に安心したように、優もやっと明るい笑顔を浮かべた。

「それで、お話とはなんですか?」

 夢見が小首を傾げて、話を促した。
 研究室で会ったときとは違い、夢見はどこか落ち着いているようだ。そのことに驚きつつも、優は勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさい!」

「た、田中さん?」

「さっきは……ひどいこと云っちゃって……ほんとにごめんなさい!」

「や、やめてください、田中さん。あれは、盗み聞きした私が、悪かったんですから……」

「いいえ。空をあんな風に育てた鳴沢先生が、空をいちばん大事に思ってるのなんて、当たり前のことなのに……私、頭に血が上っちゃって……ほんとにほんとにごめんなさい!」

「田中さん……」

 どうすれば優の気が済むのかわからず、夢見はあたふたと狼狽していた。
 本当、空は優を許してあげてくれ、と云ったけれど。どうして、この人に対して、怒りを持続させることなんてできるだろう。

「ほんとに、もういいんです。お互い、気持ちのすれ違いがあっただけで。ね、だから、お願いです、もうやめてください」

「ありがとうございます」

 ようやく優は顔を上げてくれた。
 そのことに夢見がほっとしたのも束の間、優は今まで以上に真剣な瞳で、まっすぐ夢見を見つめてきた。

「た、田中さん?」

「そして、改めてお願いです。協力してください、鳴沢先生」

「田中さん……」

「空の、そして、鳴沢先生の協力がないと、絶対に倉成とココを助けることはできないんです! お願いです、鳴沢先生!!」

 真摯なその瞳から目をそらすことは、どうしても夢見にはできなかった。
 優の、そして空の、こんなに強い想いに知らぬふりをすることも、また。
 夢見はほう、と深い深いため息を漏らした。

「協力する、とはっきり申し上げることはできません。空の云ったとおり、すぐにお返事できることではないでしょう」

「……」

「だけど、黙っていることはできます」

「……え?」

 意味がわからず、きょとんとする優に、夢見は優しげに微笑んだ。
 その笑顔はなんとなく空に似ているように、優には思えた。

「あなたがやろうとしていることを、もう少し見守らせてください。空が協力するのも、止めません。私……私、考えてみたいんです。もっと、いろんなことを……」

「鳴沢先生……」

「こんな答えじゃ……ダメですか?」

 困ったように眉をひそめる夢見は、次の瞬間、飛びついてきた優に抱きしめられていた。

「た、田中さんっ!?」

「全然オッケーですよ! ありがとう、先生、大好き!」

「た、た、た、田中さん……!」

 夢見は目を白黒させながらも、優を引きはがすこともできず、文字通り硬直して立ち尽くしていた。
 優はまさにはち切れんばかりの笑顔で、そんな夢見に頬ずりする。
 夕焼け空の下で、周囲の訝しげな視線を受けながら、二人の女性は長い時間、そうして抱き合って立っていた。



 田中優美清春香菜。
 鳴沢夢見生涯の友となった彼女の、そんな無邪気で心からの笑顔を夢見が見たのは、これが最初で最後だった。


end



2002.11.22


あとがき

いつの間にか、ゆめみメインのシリーズになっています。おそるべし、ゆめみ(^^ゞ。
しかも、相方が空じゃなくて、優になってるし。いや、世の中、何があるかわかりませんね(をい)。
一応、次の「ならくのそこ」で優編が終了して、桑古木編に入る予定なんですけど、書く暇あるのか、ほんとに(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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