ならくのそこ


     1

「……今日、優さんのお母さんにお会いしましたよ」

 珈琲の準備をしながら、ふと思い出して、鳴沢夢見はそう云った。

「えー、そうなの?」

 隣の部屋から、優――田中優美清春香菜の返事が聞こえてくる。夢見はトレイに珈琲カップを二つと、ミルクを入れたグラスを乗せて、そちらの部屋へ向かった。
 夢見の研究室ではない。優の家を訪れていた。
 それなのに、なぜ優ではなく夢見がお茶の用意をしたのかといえば、優には手が離せない事情があったからだ。

「それって、本部で?」

「はい」

 テーブルにトレイを起き、夢見は腰を下ろした。ずれた眼鏡を少し持ち上げる。
 外見からはあまり想像できないが、鳴沢夢見は、ライプリヒ内ではそれなりに重要なポストにある人物である。実は結構たいそうな肩書きもついていたりする。
 なんといっても、現時点では世界最高水準のAIを生み出したのだから。
 そして、それなりの立場にある人間には、やはりそれなりの責務がついて回る。たとえ彼女の肩書きが、彼女をライプリヒに引き留めておくための名誉職に過ぎないものであっても。たとえ彼女の願いが、ただ研究に没頭することだけであったとしても。
 そういうわけで、夢見は今日はライプリヒの極東本部へやってきて、いくつかの退屈な会議と、LeMMIHに関する報告を行っていた。
 もともと対人恐怖症に近い彼女が、自分でも場違いとわかる場所に出て話をするなんて、文字通り神経をすり減らす体験だった。彼女が発言を求められるのは、LeMMIHについてだけだったので、まだマシだったはずなのだが。
 LeMUでやってくれれば、空が代わりに喋ってくれるのに……そんなことを考えながら、ようやく解放された夢見は、憔悴しきってエントランスを出ようとしていた。そのとき。

「鳴沢先生?」

「は……はいっっ」

 授業を抜け出そうとしたのを見咎められた小心な学生のように、夢見は全身を硬直させて立ち尽くした。
 実際、夢見はこの後に予定されている懇親会やら何やらを、すべて断ってしまっている。すでに彼女をそういう席に誘う人も少ないが、中にはしつこい人物もいなくはない(もちろん、夢見はそういう人物の下心には気づかないのだが)。
 しかし、おそるおそる夢見が振り返ると、そこにいるのは穏やかな笑顔を浮かべた小柄な女性だった。歳は三十代後半ぐらいだろうか?
 そのことに安堵したものの、その女性に夢見は覚えがない。もしや誰かの秘書が、やはり私を呼びに来たのだろうか……その想像に、夢見の表情は再び曇った。
 けれど、目の前の女性は笑顔のままで、深々と夢見に頭を下げた。

「鳴沢先生でいらっしゃいますね? 娘がいつもお世話になっております」

「え……いえ、あの、え、娘さん?」

 年長者に慇懃に挨拶され、夢見はさらに慌てふためいた。ああ、何をやってるんだろう、私は。これじゃ失礼じゃない。ちゃんと挨拶しないと。ええと。あの、だから、娘さんって?

「申し遅れました。私、田中ゆきえと申します」

「田中さん……。――ああ! じゃあ、優さんの……?」

「はい」

 やはり笑顔のままで、ゆきえは頷いた。
 人を安心させるあたたかい笑顔は、確かに優と通じるものがあった。
 夢見は慌てて、自分も深々と頭を下げた。

「こ、こちらこそ、お世話になってます! す、すみません、さっきから、私、失礼な……」

「いえいえ、とんでもありません、こちらこそ……」

 一方は終始あたふたと、一方は終始穏やかに。何度も頭を下げ合う奇妙な光景が、しばしエントランスで繰り広げられた……。


「きゃはははははっ。夢さんらしいね、ほんっとに」

「……だって、びっくりしたんですもの……」

 事の顛末を聞いて、ケラケラと笑い転げる優。夢見は赤面してうつむいた。
 すると、もうひとつ、明るい笑い声が響いた。

「きゃはははははっ」

 話の内容は理解しているはずがないけれど、嬉しそうに小さな手を打ち鳴らしている。その様子に微苦笑を浮かべながら、夢見はその子の柔らかい頬を軽く指でつついた。

「もう、優ちゃんまで、そんなに笑わないでください」

「きゃはははっ」

 優、と呼ばれたもう一人の人物は、まだ二歳の子供だった。夢見の指をつかみ、満面の笑顔を浮かべた。

「夢さんが来てるといつもご機嫌だから、助かるわ」

 頬杖をついて見守っていた優が、そう云いながら珈琲カップを持ち上げた。いただきます、と云って口をつける。

「そうですか? だったら、嬉しいですけど」

「ほんとほんと。夢さんは保母さんとかの方が向いてるんじゃないの?」

「そ、そんな、無理ですよ、私なんて」

 自分自身を「何の取り柄もない」と決め付けている夢見は、人から褒められるのが苦手だ。赤面して、つい眼鏡を直すふりをしながら表情を隠してしまう。
 快活な優には、夢見のそんなところが歯がゆい。これまでの短いつきあいだけでも、彼女の美点はいくつも数えられるのに。
 しかし、そう云ってみたところで、夢見はさらに困ったように身をすくめるばかりだろう。優は苦笑をごまかしつつ、言葉を続けた。

「そんなことないと思うけどなー。……それで、お母さん、なんか云ってた?」

「いえ、そんなに長くお話できたわけじゃありませんから……」

「そっか」

「はい、でも、優しそうで、素敵なお母様ですね」

 夢見が優に笑顔を向ける。優はなんとなく照れくさくて、肩をすくめて見せた。

「素敵かどうかは知らないけどね、女手ひとつで私をここまで育ててくれたひとだから。感謝してる」

「優さん……」

「ただでさえ大変だったろうに、私の体のこともあったしね。……おまけに、あの若さでもうおばあちゃんになっちゃったし」

 くすくす、といたずらっぽく優は笑った。つられて、夢見も微笑みを浮かべたのだが。

「――お父さんがいれば、あんなに苦労かけることもなかったと思う」

「……」

 すっと陰りを帯びた表情で吐かれたその呟きに、夢見は言葉を失って青ざめた。
 公式には、優の父親は彼女が生まれて間もなく、失踪したことになっている。しかし、実際にはライプリヒの研究機関IBFで行われていた致死性ウィルス「ティーフ・ブラウ」の開発を告発しようとし、逆に拘束されていたのだ。優たち家族の安全と引き替えに、彼は不本意な研究を続け、結果、そのティーフ・ブラウによって命を落とした。
 そのことを、優は閉じこめられたLeMUで知った。夢見もまた、その話は聞いていた。

「……優さん、私は……」

「――ごめん、フェアじゃないね、こういうの」

 何かを云いかけた夢見を遮って、優は明るい笑顔を浮かべた。その作られた朗らかさに、夢見はさらにいたたまれなくなってしまう。

「夢さんは、自分で考えて決める。そういう約束だもの」

「……ごめんなさい、優さん。私……」

「謝ることじゃないでしょ? ほら、優が心配してる」

 その言葉通り、小さなもう一人の優は、眉を寄せてじっと夢見を見つめていた。瞳には涙が浮かんできている。
 夢見は慌てて、その頬をそっと撫でた。

「ご、ごめんなさい、優ちゃん。大丈夫ですよ、ケンカなんかしてませんから。ね?」

 ぎこちなく笑顔を作って語りかけると、小さな優はまたすぐに笑顔になって、夢見に抱きついてきた。夢見は彼女の髪を優しく撫でた。

「もー、あなたのママはこっちだぞー」

 云いながら、優はもう一人の優――優美清秋香菜の頬をつついた。愛娘はきゃっきゃと嬉しそうに笑った。

「この子が私の子だって紹介したときの夢さんの顔ったら、最高だったよねー」

「……誰だってびっくりしますよ」

「あはは、そうかもね。さ、優、こっちおいで」

 優は娘を自分の膝に抱き上げた。じゃれ合う母子を、夢見は眩しい思いで見つめていた。

「……ん、どうしたの、夢さん?」

「あ、いえ、素敵だなあって思って。ゆきえさんと優さん、優さんと優ちゃん……母と子の絆って、感動します」

「大げさだなあ。そう云えば、夢さんのご両親ってどんな人なの?」

 何気ない問いかけだったが、答えは沈黙だった。
 ふと目をそらしてうつむいた夢見を、優は訝しげに首を傾げて見つめた。

「夢さん?」

「……ごめんなさい、両親のことは、あんまり覚えてなくて」

「……え……」

「事故……だったと、聞いています」

「……」

 優は息を飲むと、みるみる瞳を涙でいっぱいにしていった。その様子に、夢見の方が慌ててしまった。

「ゆ、優さん!?」

「ごめんね、夢さん。私、無神経だった……」

「ち、違いますよ! そんなんじゃありません」

「だって……」

「本当です。私、母親の愛情ってどういうものか、よくわからなかったから、嬉しいんです。私もこんな風に愛されてたのかなって……そう思えるのは、幸せです」

「夢さん……」

「ほら、ママがそんな顔してると、優ちゃんがまた泣いちゃいますよ?」

 優と、そしてむずがりだした幼い優を慰めながら、夢見は不思議な感慨を抱いていた。
 自分が、こんな風に友人を元気づけたりできるなんて。
 そう、友人。はじめ、優はあくまで「空のお友達」のはずだったが、いつの間にか夢見自身にとって大切な友人になっていた。
 そんな彼女のために、自分が力になれるなら、できるだけのことはしてあげたい。確かに、そう思うようになってはいたのだが――。

     2

「――というわけなのよ」

「まあ、それは……」

 口元に手を当てて、茜ヶ崎空は上品に微笑んだ。女の目から見ても、見とれるほどたおやかで女らしい仕草だった。
 夢見は研究室で、空に優と会ったときのことを話して聞かせていた。

「本当、優ちゃんは会うたびに可愛くなってる気がするのよね。将来が楽しみ……って、優さんと同じ顔になるのか。クローンなんだから」

「ふふふ、そうですね。でも、性格で外見もだいぶ変わって見えますから、瓜二つとは限りませんよ」

「そうね。まあ、何にしても美人になるのは約束されているわけで……うらやましい話よね」

 空は微笑むだけで、答えなかった。
 夢見さんも十分お美しいですよ。本心からそう云ってみたところで、残念ながら、このひとは喜んでくれない。

「私も優ちゃんにお会いしたいです」

「そうよね、私も会わせてあげたいけど……さすがに子供連れでここに来てもらうわけにはいかないからね……」

 頬杖をついて、残念そうに夢見はため息をついた。
 インゼル・ヌルには、空の姿を投影できるRSDシステムは、夢見の研究室や会議室など、一部の区域にしか設置されていない。そして、それらは一般には開放されていないのだ。

「LeMUが活動を再開すれば、そちらでお会いできるのですが」

「そう……だね」

「正式に再建が決定したそうです」

「……そう」

 頬杖をついたまま、今度は憂鬱そうに夢見はため息をついた。
 あんな事故があったのに――いや、あったからこそ、ライプリヒはLeMUの再生を決めた。深海に潜むIBFの存在を覆い隠すために。

「空は……どう思う? LeMUの再建について」

「私は、LeMUが好きでしたから、あそこでまた働けるなら、嬉しく思います。またお客様がたくさん来てくださって、皆さんの笑顔が見られるなら。……ですが……」

「そう……それだけなら、ね……」

 十七年後に、あの事件を再現する――それが、優の「計画」の根幹だ。
 どうすればそんなことができるのか、そもそも、そんなことでどうして倉成武と八神ココを救うことができるのか。それは夢見にはわからない。
 だが、もし、LeMUが再建されなければ。優の計画は実現不可能になる。
 その方がよかったのではないか……夢見はどうしても、そう考えてしまう。

「空……私は、やっぱり卑怯なのかな。優さんと友達面しておつきあいしてるのに、彼女が本当に望むことから、眼をそらそうとしてる」

「夢見さん……」

「でも……でもね」

「夢見さん、お友達だからって、なんでも相手の思い通りにしなきゃいけないってことはないと思いますよ」

「空……」

 夢見が顔を上げると、空は穏やかに微笑んでいた。
 見る人を安心させる、優しげな微笑。それはLeMUでの接客のため、特に注意して作り上げたプログラム。
 作り手としてそんなことは十分理解していたが、それだけとも思えなかった。やはり空が先ほど云ったとおり、人の外見には、性格が――内面がにじみ出るものなのだろう。それは見る人が受ける印象の問題であり、ホログラムであっても関係ない。

「お友達だから、止められることも……止めなければならないこともあると思います」

「……私が、彼女を止めていいの? そうしたら、空、倉成さんは……」

「それは、夢見さんがお決めになることです。田中さんも、そして、私も。自分で考えて決める自由を、夢見さんが与えてくださいました」

「……」

 思わずまじまじと夢見は空を見つめてしまった。空が不思議そうに首を傾げる。
 夢見はふっと息を吐くと、小さく微笑んだ。

「空は強くなったわね」

「夢見さんのおかげです」

「そんなことないわよ。だって、私は……」

 迷ってばかりだ。――怖がってばかり、と云うべきか。
 今のまま、この現実を壊さずにしがみついていたい――。

「――夢見さん」

「え?」

 呼びかけた空の口調が、突然硬いものに変わっていたので、夢見は驚いて顔を上げた。
 空は沈痛な表情で、言葉を続けた。

「報告が入りました。田中さんのお母様――田中ゆきえさんが、勤務中に昏倒。緊急入院されました」

「……な……」

「――彼女は、ティーフ・ブラウに感染しています」

     3

 葬儀は、ずいぶん淋しいものに見えた。
 無理もない。やはり誰しもが、ティーフ・ブラウは恐ろしい。
 それでもそれなりの参列者がいたのは、やはり故人の人柄故だろうか。
 母を喪った優は、葬儀の席では取り乱すことなく、淡々と喪主を務めていた。その普段の様子との落差と、そして事情などわからぬままおとなしく座っている幼い優の姿に、夢見の胸は裂けるように痛んだ。
 こんなことになって初めて、夢見は優の思い詰めた気持ちをようやく理解した。己の迂闊さを、夢見は内心で激しく罵った。
 自分が安穏と暮らしている浮島の足下で生まれたウィルスが、こうして罪のない人の命を奪っていく。その現実に吐き気がした。
 優とは、ずっと話す機会が持てていない。
 ティーフ・ブラウ患者と認定された以上、見舞いにも行けず(もっとも、見舞う暇さえなかったのだが)、優母子も悲嘆にくれる間もなく、感染していないか検査が行われた。この家も、葬儀の準備の前に徹底した殺菌消毒が行われた。
 そんな状況でも葬儀を執り行い、ライプリヒの弔問さえ受けたのは、あるいは優の意地だったのだろうか。夢見にはその気持ちを推し量ることもできない。
 ただじっと優を見守るだけの自分に歯がみしていたとき、小柄な少年が夢見の隣に腰を下ろした。

「……鳴沢先生」

「桑古木さん」

 優と同じくLeMUに閉じこめられ、そこから脱出した少年・桑古木涼権だった。
 自分より十歳以上年下の少年にも、夢見は敬語で話し、丁寧に頭を下げる。そのことにいつも居心地悪そうにする涼権だったが、今日はさすがにおどけてみせることはできなかった。

「優のこと……お願いします」

「……」

「情けない話ですけど……僕は、なんて云えばいいか……」

「……はい」

 小さく答えて、夢見は軽く頭を下げた。
 本当は、夢見だってなんと言葉をかければいいかわからない。何しろ、自分はライプリヒの人間なのだ。自分のためらいがこの悲劇を生んだ、とまでは思わないけれど、ライプリヒの罪を知りながら何もしようとしなかったことには変わりない。
 けれど。

(こんなときだからこそ、自己嫌悪とか罪悪感とか、そういうの言い訳にして逃げちゃいけない。友達なんだもの。そうよね、空)

 自分自身に言い聞かせて、夢見はただいたたまれない気持ちに耐えた。

     *

 結局、夢見が優と話す機会が持てたのは、葬儀がすべて終わったあとだった。
 喪服のまま、壁にもたれて座り、だらしなく足を投げ出している優。娘の優はその膝にもたれ、すやすやと寝息を立てていた。

「……優さん」

「あ、夢さん、お疲れー」

 熱いお茶を入れた湯飲みを二つ盆に載せて、夢見は持ってきた。どうしようか、と少し悩んだ末、優と並んで壁に背を預けて座った。
 優は湯飲みを取り、ふーふーと息を吹きかけながらお茶を飲んだ。

「色々ありがとね、夢さん」

「とんでもありません。私、何にもお役に立てなくて……」

「そんなことないよ。夢さん、ずっと私のこと、気にかけてくれてたでしょ?」

「……あ……」

 気づかれていた、と知って、夢見の頬がわずかに赤くなる。優は横目でそれを見て、薄く微笑んだ。
 しばしどちらも何も云わないまま、時間が過ぎた。
 夢見は何を云えばいいかわからない、というのもあったが、ただ許されるなら、こうしてずっとそばについていよう、そう思っていた。
 やがて、互いの湯飲みが空になり、夢見がお代わりを入れましょうか、と云おうとしたとき。優が夢見の顔を見ずに、独り言のように呟いた。

「感染したらまずいからってさ、死に目にもあわせてもらえなかったんだよ」

「優さん……」

「ひどいよねー。そのあとも検査検査でさー。キュレイウィルスキャリアの私が、ティーフ・ブラウなんかにかかるかっつーの。そもそも一回克服してるしねー」

「……」

「……まあ、この子が感染してなくて、よかったわ」

 不意に優しい声になって、優は眠る娘の髪を撫でた。
 こらえきれず、夢見は大粒の涙をこぼした。

「ごめんなさい、優さん、ごめんなさい……っ」

「……夢さんが謝るとこじゃないよ」

「でも……でもっ……」

 慟哭する夢見の姿を、やはり優は見ようとしない。そうして、虚空を見据えたそのままの姿で、優はぽつりと呟いた。

「じゃあ、協力してくれる?」

「……え……?」

 思いがけない言葉だった。これまで優は決して強制しようとはしなかったし、人の弱みにつけ込むようなやり方も、優らしくない。
 茫然とする夢見。優はゆっくり首を巡らし、ようやくそんな夢見を正面から見据えた。
 あのとき、研究室で一瞬見せた、斬りつけるような瞳の光。いや、あのとき以上に思い詰めたその眼の色は、すでに狂気に近いものがあった。

「ゆ、優さ……ん?」

「LeMUの再建が決まったそうね。ニュースで見たわ」

「は、はい」

「これで計画上、最大の問題点は取り除かれたわけ。LeMUがなければ、どうにもならないものね」

 歌うように、優は云った。夢見を真っ直ぐ見据えたままで。口元には微笑さえたたえていて。
 夢見は背筋を走る悪寒に、身震いした。

「夢さん、あなたはLeMUが完全に元通り再現されるよう、手を尽くしてちょうだい。アトラクションが変わっちゃうと、困るのよね。空を使えば簡単でしょう? とにかく一刻も早い再建が重要、とかお題目を立てればいいのよ」

「優さん……」

「入れ物ができれば、あとは中身……。十七年後に、あそこに同じ人物を集めればいい」

「そんなこと、できるわけ……」

「そう、無理ね。でも、『彼』を錯覚させればいいの。同一人物である必要はない。倉成の役は、少年がやってくれる。空は同じね。記憶だけ消しておけばいいわ。ココと少年の役は……つぐみの産む子供たちが務めてくれるそうよ。『彼』が云ってたわ。倉成の子なんだって。あんな状況で、よくもまあ……」

 くすくす、と本当に楽しそうに、優は笑った。
 一方、夢見はどんどん青ざめていく。どうして、どうして、こんなことに――。

「その子供を餌にすれば、つぐみもおびき寄せられる。つぐみは不老不死だから、全然変わってないでしょうね。問題なし」

「優さん、待って……」

「――そして」

 微笑んだまま、優は娘を抱き上げた。眠ったままの彼女に、心底、愛おしげに頬ずりして――。

「私の代わりは、この子がやってくれるわ」

「――!!」

「クローンだもの。私と全く同じ容姿になる。十七年後だから、歳も同じ。ふふ……なんてうまくできてるんだろ」

「優さん……あなた……」

「ああ、でも、私の娘だとまずいよね。しょうがない、私はこれから「ゆきえ」を名乗るから……夢さんも、この子の前では「優さん」って呼ばないでね?」

「優さん! 本気で云ってるの!?」

 耐えられず、夢見はついに叫んでしまった。優の狂気が、自分まで蝕んでいく気がする。いや、もう、何をどうすれば正しかったのかわからない。頭がガンガンする――。

「大きな声出さないでよ。優が起きちゃうじゃない」

 話が全くかみ合わない。本当に、どうしてこんなことに。

「優ちゃんにも、桑古木さんにも、小町さんにも、これから産まれてくる子供たちも……皆さん、自分自身の人生があって、自分自身の未来があります! それを利用しようと云うんですか!?」

「そうよ。他に方法はないもの」

「そんなの……! 目的のために手段を選ばないなんて、それじゃライプリヒと何も変わらないじゃないですか!!」

「そうよ。奇麗事を云うつもりなんかない。私は、復讐がしたいだけ」

「優さん……!」

 視界が完全に暗くなる。ああ、もう何も考えられない。もう、これ以上は。

「未来、人生……そうね、その通り。でも、それを理不尽に奪われた者も……、夢さん? どうしたの?」

「……」

「夢さん? まさか、あなた……」

 暗転した視界が。
 次の瞬間。
 朱に染まった。

「――! 夢さん! しっかりして、夢さん!」

 遠くなる意識の中で。夢見は優の叫びに、安堵していた。ああ、この声は、まだ「友達」を呼ぶ声だ……。

     4

 意識を取り戻したとき、夢見はベッドに寝かされていた。
 周囲の様子から、病院ではないことはわかる。おそらく優の家だろう。

「……気がついた?」

 傍らについていた優が、夢見の顔を覗き込んでくる。
 すべてが夢だったらよかったのに――、そう夢見は願っていたが、優の瞳には、依然、暗い光があった。

「ここは……? 私……どうして……?」

「突然倒れたの。覚えてない?」

「なんとなく……」

「そう」

 一拍間をおいて、優は言葉を続けた。恐ろしい内容を、淡々と。

「血を吐いたのよ、夢さん。尋常な量じゃなかったわ」

「……っ。それって……」

「そう。ティーフ・ブラウ。間違いないでしょうね」

 夢見の瞳が大きく見開かれる。優は冷ややかにじっと見つめ返した。

「そんな……じゃあ、どうして、まだこんなところで……」

「……」

「あなたは平気かもしれませんけど、優ちゃんが感染したらどうするんですか!?」

 その言葉に、確かに一瞬、優は息を飲んだ。しかし、冷ややかな態度は崩さなかった。

「それは、無事を祈るしかない」

「そんな……!」

「私はまだ、あなたの答えを聞いていないもの」

「答え……?」

 夢見の前に、優は一本のアンプルを差し出した。硬質の輝きを見せるそれを、夢見は熱で朧になった眼で見つめた。

「それは……?」

「キュレイワクチン」

「!!」

「脱出のとき、一本だけ持ち帰ってたの。隠すのに苦労したわ」

「……」

「夢さん、あなたはこのままだと確実に死ぬ。でも、これを打てば助かるわ。……副作用はわからないけどね」

「優さん……」

「さあ、選んで。人として死ぬのか、悪魔に荷担して生き延びるのか。さあ……!」

 アンプルが突きつけられる。
 夢見は震える手を伸ばして、そのアンプルを掴んだ。
 そのまま、握りつぶそうと思った。
 どうして、こんなことになったのかわからない。だけど、きっとこれが自分に都合の悪いことから目を背けてきた罰なのだろう。自分が死んでしまえば、空を味方につけることができず、優の計画はおそらく失敗する。そうすれば、優ちゃんや桑古木さんや小町さんたちが苦しむこともない。
 だから、きっとそれが最良の――。

「……え……?」

 アンプルを掴んだ夢見の手を、優がそっと両手で包んでいた。
 優の手は、夢見よりずっと激しく震えていた。そして、彼女の瞳からは、涙が止めどなく流れていた。

「お願い……夢さん……」

「……」

「もう……もう誰も……なくしたくない……!」

「ゆ……う……さん……」

 視界がかすんでゆく。それは熱のせいか、それとも、夢見自身も涙を流していたからか。
 そして――。

     5

 再び意識を取り戻したときは、もう朝になっていた。
 柔らかい日差しと、心地よい風。
 ああ、私、生きてるんだ……。当たり前だけど、不思議な感慨を夢見は抱いた。

「……おはよう」

 声がした方に顔を向けると、優が小さく微笑んでいた。
 きっと一睡もしていない。同時に、夢見が目覚めるまで、泣き続けていたのだろう。瞳がウサギのように真っ赤だった。
 その笑顔は、もう昔のように朗らかではない。あの笑顔を取り戻せる日が来るのかどうか、わからない。だけど、それでも。

「おはようございます、優さん」

 かけがえのない親友に、夢見は微笑んで挨拶を返した。

「……っ……」

 その夢見の笑顔が引き金になったかのように、優はまた涙をこぼれさせた。
 詫びの言葉は、口にしない。謝って済むのなら、何度でもそれを繰り返すだろう。しかし、二人はもうそんなことでは引き返せないところに来てしまった。
 償うことさえできない。それでも、やらなければいけないことがある。
 だから、優は涙を流し、夢見は手を伸ばして、そっと優の手を握った。

「泣かないでください」

「……」

「私は、優さんの笑顔が好きなんです。だから、笑ってください」

「ゆめ……さん……私……」

「ね」

 もう一度、夢見が微笑みかけると、優は変わらず涙をこぼしながら、ようやく笑顔を浮かべた。朝日の中、その笑顔はとても無垢なものに、夢見には思えた。
 友達だから止めなければいけないときもある。空は、夢見にそう云った。
 だから、私は彼女と歩もう。夢見はそう決意していた。優がもし万一、狂気に囚われ、道を誤るようなことがあったら。そのときのために、私は。
 空になった銀のアンプルが、朝日を受けて鈍く輝いた。


end



2003.6.30


あとがき

2034年バージョンの優春がめっちゃ好きなのです。
その変貌の過程を描きたいというのが、第一作「かみさまなんていない」でも書いたとおり、本シリーズの出発点でありました。しかし、優春のファンには怒られそうな内容かも……(^^ゞ。
でも、BWは気軽に優に「十七年後に再現しろ」と云ってくれますが、あれだけのことを仕組むには、やはり狂気に近い熱情が必要だと思うんですね。一応、母親の死を契機に優が覚悟を決める、というのは、ゲーム本編のエピローグでも語られていたはず……。
あと、どうでもいい話ですが、優春と優秋が同時に出てくると、表現に困ります(^^ゞ。
「優春」「優秋」っていう略称は、ゲームだから許されることだと思うんですよねー。小説の地の文で使っちゃいかんと思うのですよ。どっかのノベライズでは使ってたような気がしますが(-.-)。
とりあえずこれで「優篇」は終了。次は「桑古木篇」です。忘れた頃にやってきます。……多分(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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