「ただいま戻りましたぁ」
「おう、坊、お疲れ」
『ふうらい』編集部のドアを肩で押し開けつつ、相馬轍が帰ってきた。両手は取材器具でいっぱいなのだ。
脇に抱えたヘルメットを机の上に置き、現像室へ直行しようとする。そこへ、編集者の村瀬が声をかけた。
「おい、相馬。これって、例の子じゃないのか?」
手にした週刊誌を持ち上げ、手を振ってみせる。
なんです?と轍がそちらへ行こうとしたとき、編集長の川上の怒声が響いた。
「よけぇな話してんじゃねえ! 坊、お前もさっさと現像上げちまえ!」
慌てて首を縮める村瀬。しかし、川上のその声の調子で、何の話題か轍にはわかってしまった。
「……変な気の使い方しないでくださいよ、おやっさん。らしくない」
苦笑しつつ轍がそう答えると、川上は鼻を鳴らして横を向いた。
てめえが未だにそんな表情(かお)してるからよ。
横顔でそう語りながらも、それ以上は何も云わなかった。
「なんなんです、村さん?」
「……ああ、これなんだけどな……」
川上と轍の顔色を交互に見比べながら、村瀬は週刊誌を広げてその記事を見せた。
『滝沢財閥総帥倒れる』
轍の目に最初に飛び込んできたのは、その大きな見出しだった。続いて、
『揺れる後継候補。お家騒動か?』
そして記事の最後に――。
忘れるはずのないひとの姿が、あった。
「……」
何も云わず、じっと紙面を見つめる轍。
村瀬がやや上目遣いにその表情を伺うと、轍はまた小さく笑って、その雑誌を手に取った。
「村さん、これ、ちょっと借りてもいいすか?」
「あ、ああ、いいよ。やるよ」
「すんません」
雑誌に目を落としたままで、轍は現像室へ向かった。
その後姿を見送った村瀬は、現像室のドアが閉まると、川上のほうへ視線を転じた。
「……やっぱ、まずかったですかね?」
「知るか」
川上は、横を向いたままだった。
*
暗室の暗い灯りの下で、轍はその記事を繰り返し読んだ。
内容はすべて見出しに集約されている。滝沢財閥の総帥が倒れた。一人娘はまだ独身で、正式な後継者は決められていない。お家騒動が起こる可能性もあった。
そして、記事の最後にはその一人娘の写真が載っている。
滝沢玉恵さん(24)
そのキャプションに、轍はつい笑ってしまった。
「……そっか、もう玉恵も24か……。そうだよな、俺が23だもんな」
3年前の旭川での別れが、胸によみがえる。
あのとき、玉恵を連れて逃げなかったのは本当に正しかったのか。今でもそんなことを考えるときがある。結局、玉恵を犠牲にして俺は生活を守ったんじゃないのか、と。
しかし――。
「結婚、してなかったんだ……」
その事実が、かすかな救いのような気がした。
玉恵は、俺のために自分を犠牲にしたんじゃない。俺に約束したとおり、自分の力で自由を勝ち取ろうとしてきたのだ。それなのに、俺がいつまでもぐずぐず考えていてどうする?
髪を軽くかきむしると、轍は雑誌を丸めてごみ箱に放り投げた。
……だが、すぐに拾った。
もう一度広げて、玉恵の写真を見つめる。
「……がんばれ、よ」
それは玉恵に云ったのか、自分自身に向けた言葉だったのか――。
結局、轍はその雑誌を持って帰ることにした。
*
バイクを止めて、キーを抜く。
「お疲れさん」
いつものように相棒に一声かけて、轍はアパートの階段を上った。
部屋の鍵を開けようとして、ふと気づいた。部屋に電気がついている。
そっとノブを持って回すと、開いた。
まさか、空き巣が?と警戒しながら静かにドアを開けると――。
底抜けに明るい声が、出迎えてくれた。
「にゃは。おっかえりー」
「……え……?」
栗色の長い髪を三つ編にした、太陽のような笑顔。
夢にまで見たその姿を前に、轍は……石になっていた。
「待ちくたびれちゃったよー。ねー、ご飯食べた?」
「……いや、まだ……」
「よかったぁ。私も食べずに待ってたんだ。久々にキャンプ料理でもしよっか」
「……た……」
「……ん?」
玄関から上がるどころか、靴も脱ごうとしない轍の様子に、さすがに彼女も気づいた。眉をひそめて、轍の顔を覗き込む。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「……た……たま……?」
「にゃー」
猫の鳴き真似をしてみせる彼女。そのあまりのばかばかしさに、轍の呪縛が解けた。
「玉恵!」
「夜中に大声出しちゃ……、あ……!」
不意に抱きしめられ、玉恵も言葉を失った。
轍の腕に、強く強く、力が込められる。
玉恵も手を上げて轍の首を抱き、その髪を撫でた。
「……玉恵……玉恵……玉恵……」
「うん……いるよ、私、ここにいる……」
「……玉恵……」
*
「はぁ〜い、お待たせぇ。たまちゃん特製カレーでーす」
「おっ、さんきゅ」
あのあと、しばしの無言の抱擁を破ったのは、ふたりの腹の虫だった。相変わらずムードがない、と大笑いしながら、ふたりは一緒に夕食の準備を始めた。
一緒に旅をしていたほんの短い間。その時間がそのまま続いているような錯覚を、轍は覚えた。玉恵も同じように感じていたのか、ふたりともこの3年間の話は何もしなかった。
玉恵は、まったく変わっていなかった。そのことが轍には涙が出るほど嬉しかった。
玉恵が帰っていった世界で、変わらずにいるには、きっと大変な努力が必要に違いないから。
そうわかっていたからこそ、自分から口火を切らなくては、と轍は考えた。
このまま何もなかったように楽しい時間を過ごしていたい、という誘惑は抗いがたかったけれど。
「……それで、玉恵、どうしてここに……?」
「ん……とね、最初、ドアの前で待ってたの。そしたら管理人さんが来て、どうしたの?って聞くから、『親戚なんですけど』って云ったら、『彼女って云えばいいのに』って笑って開けてくれたよ」
「そうじゃないだろ」
スプーンを口にくわえて、玉恵は少しうつむく。叱られた子供のようにうなだれる姿も、あのときと変わっていない。轍の胸に愛しさと切なさが、広がっていった。
「そっちに行っていい……?」
轍の隣を目で指しながら、玉恵が小さく呟く。
轍が頷くと、その隣に腰を下ろし、そして轍の胸に顔をうずめた。
栗色の髪を、轍が優しく撫ぜる。
「お前、もしかしてまた……」
逃げてきたのか?と轍は考えた。さっき読んだ記事のことが頭をよぎる。
滝沢財閥の後継者を選ばなければならなくなり、いよいよ玉恵の婿選びが避けられない事態になってきたのだろう、ということは容易に想像がついた。
もし逃げてきたのなら、今度こそ俺は……そう云いかけたが、玉恵の答えは、轍の想像とはまったく異なっていた。
「勇気を……もらいにきたの」
「勇気……?」
「あのときと同じ……。オーロラに自分から手を伸ばす勇気……」
ちくり、と胸の奥の小さな棘が痛む。
玉恵は目を閉じたまま、言葉を続けた。
「あのあと……ね、私、少し期待したんだ」
「期待?」
「そう。もしかしたら、お父様も少しは変わってくれたんじゃないかって。私のこと、一人の人間として考えてくれるんじゃないかって」
「……」
「でもね、そんなに甘くなかった。一目見るなり、引っぱたかれたわ。『恥さらし』って云われて」
唇を噛み、玉恵は拳を握り締めた。その手を轍の手がそっと包み込む。
玉恵は拳を開き、轍と指を絡ませた。
「悔しかった。だけど、そのおかげで覚悟が決まったの。負けるもんかって。絶対言いなりになんかなってやるもんかって」
そこで玉恵は顔を上げ、轍の瞳を見つめた。
「だから、私、まだ独身なんだよ。ちゃんと操を守ってるんだから。誉めて」
「……えらい」
相変わらず変な言葉を覚えてるな、と苦笑しながら、轍は玉恵の頭を撫でた。
本当に子供のように嬉しそうな笑顔を浮かべ、再び玉恵は轍の胸にもたれる。
「だけど、ね」
目を閉じる。
「お父様、倒れちゃった」
「……ああ、記事は見たよ。大丈夫なのか?」
「うん、今のところ命に別状はないって。ただやっぱりストレスと過労のせいだから、これまでと同じような生活をしてたら危ないって」
「そうか……」
「うん……。それでね、ほんの気まぐれだったんだけど、おかゆを作ってあげたの」
「玉恵が?」
「そう。お父様なんて大嫌い、って思ってたけど、やっぱり私のこともストレスのひとつだったのかな……なんて思っちゃって」
「……」
「もしそれでまた下らないことをって突っぱねられたら、今度こそ出て行こうって思ってた」
「……それで?」
「泣いちゃった」
「……え?」
「私が作ったって云ったら、最初、すっごい驚いてて……。文句云われるかと思ったけど、何も云わずに食べてくれたの。それで……食べながら泣いてた、お父様」
「……」
「それで改心してくれたって期待するほど、私ももう甘くないよ。多分、体壊して弱気になってただけだと思う。だけど……ね。もう若くない父親の涙なんか見ちゃうと、いろいろ考えちゃってね」
「……」
「確かにお父様は私の意思なんかお構いなしだった。でも、だからといって、私のことを何も考えてくれていなかったわけじゃないんじゃないか……。エゴの裏返しであっても、私のためを思ってやったくれたこともあったんじゃないかって……」
「……」
「お母様のことにしてもそう……。お父様はお母様を利用しただけだってずっと考えてたけど、でもそれなら、後継ぎを生ませるためにほかに女の人を作ったり……、お母様を離縁したりすることだってできたはず……。そうしなかったのは、やっぱりお父様なりにお母様を愛していたから……なのかな、とかね……」
「……」
「全部、私の勝手な思い込みかもしれない。でも、父親が病気で臥せっているときに、たったひとりの娘が味方してあげられないなんて、あまりに悲しいじゃない?」
「そう……だね」
「だから、私、決めたの。自分の意志で、お父様の手伝いをしようって」
顔を上げ、轍の瞳を正面から見つめながら、玉恵は云った。
誇らしげな玉恵の表情とは対照的に、轍の顔からはすっと血の気が引いていった。
「それは……お父さんの決めた相手と結婚するってこと?」
声が震えている、と轍は自分でも気づいた。
本当のさよならを云うために、玉恵はここに来たのか。俺はそれを受け止めるしかないのか……。
だが、その問いに対する答えは、素っ頓狂な声だった。
「えぇ? なーに云ってんのよ?」
思わず体を起こして、玉恵は轍の目を覗き込んだ。
「え……? でも……違うの?」
「あー、私のことバカにしてるなぁ。何の役にも立たないと思ってるんでしょ」
「い、いや、そうじゃないけど、……じゃあ、どうするの?」
「経営を手伝うんだよ」
腰に手を当てて、高らかに宣言する玉恵。
「経営? 玉恵がぁ?」
「あー、やっぱりバカにしてるー。私、大学では経営学部だったんだよ。MBAの資格だって持ってるんだから」
「……マジで?」
「大マジ」
自慢げに胸をそらす玉恵を、轍はぽかんと口を開けてしばし見つめた。
「それはお見逸れしました」
ぺこり、と頭を下げる。
「わかればよろしい」
玉恵はさらに鼻高々な表情を作り――、そして、目が合うと、どちらからともなく大笑いになった。
再び轍の首に腕を回し、玉恵は猫のようにじゃれついてくる。轍が玉恵を膝の上に抱える形になった。
「それもね、意地の産物だったんだけどね。女がそんなこと覚える必要ないって云われてたから、反発して勉強したんだ」
「玉恵の根性はすごいよ」
「えへへ」
「でも……な」
相変わらず、玉恵は誉められると本当に子供のように嬉しそうな顔をする。
そうした素直さ、無邪気さが、しかし、これから玉恵が生きていこうとする世界では、何より彼女自身を傷つけるのではないか……。轍は、そのことが怖かった。
「……うん、轍の云いたいことはわかってる。ちょっと勉強したからって、経営に関しては素人と同じだし、奇麗事の通じない世界だってことも」
「それでも……?」
「うん……。本当は怖いよ。だけど……だから、勇気をもらいにきたの」
「オーロラに手を伸ばす勇気……?」
はじめの玉恵の言葉を思い出し、轍が呟いた。
玉恵は轍の胸に体を預けたまま、窓の外を見る。東京の空は星さえほとんど見られなかったが、それでもそこにオーロラが見えているかのように、玉恵は手を伸ばした。
「そう……あのとき、轍が教えてくれた勇気。そして約束」
「約束……?」
「『私もまたいつかきっと旅に出るから』……そう、約束したでしょう?」
「……ああ」
「これが、私の旅なんだと思うの」
静かにそう呟いた玉恵の横顔に、轍は胸を衝かれる思いだった。
短い旅路の間に、彼女のいろんな表情を見てきたつもりだった。だけど今日の彼女はなんて――そう、なんて綺麗なんだろう……。
「玉恵……どうしてお前は……そんなに……」
言葉を詰まらせた轍を、玉恵が不思議そうに見上げる。
そして、静かでとても優しい笑みを浮かべた。利尻島で見た、母のように、姉のように、――恋人のように、優しい笑顔。
「だって、私は轍の前輪だもん。止まるわけにはいかないの。そうでしょう?」
「……!」
そう、それは轍が玉恵に云った言葉だった。前輪をなくしてはもう走り続けられないと。
だが、いつしかそれを言い訳にしていなかっただろうか? 玉恵を失ったからもう走れない。もう旅を続ける理由もない……。
「最高の笑顔」が、今そこにあるというのに。
轍はただ黙って、玉恵を強く抱いた。涙を、見られたくなかった。
「……轍?」
「……ありがとう……」
「やだ、どうしたのよ、轍」
云いながら、玉恵も轍の体を抱いた。
3年前の自分の決意。それが轍を苦しめたことは、わかっていた。
ふたりのため、そう自分にも轍にも言い聞かせたけれど、本当はあそこでも自分は逃げていたのかもしれない。ふたりで生きてゆくことから。
そう考えるのが怖かったからこそ、玉恵はこの3年間、負けまいと必死になれた。そしてやっと自分の『旅』を見つけられた、と思えたとき、轍に会わなきゃ、とごく自然に考えたのだ。あのとき別れた本当の意味が、きっとわかるはずだから。
そして、今夜。玉恵の確信は、間違っていなかった。
私のために苦しんだ彼への償い。それは、私が走り続けること。彼と一緒に。
「私が、轍に勇気をもらいに来たんだよ? 御礼を云うのは私」
轍が黙って首を横に振る。
そんな轍に頬を寄せながら、玉恵は囁いた。
「たとえそばにいられなくたって、私たちは同じ空を見て、同じ風を感じてる。私たちの旅は、続いているよ。一緒に」
瞬間――。
ふたりは、北海道の風の中にいた。初夏の頃、緑なす高原。地平線を目指して、タンデムで駆け抜けた日々。
あの頃と、今と。何ひとつ変わってはいない。
「そうだよ……。玉恵の云うとおりだ……」
轍の面に、ゆっくりと笑顔が広がっていく。
探し続けていたものが、今、腕の中にあった。
*
滝沢家の大きな門の前で、轍はバイクを止めた。
タンデムシートから降りた玉恵が、ヘルメットを取って轍を見つめる。
どちらからともなく笑顔が浮かんだ。朝焼けの中で、まぶしい、「最高の笑顔」。
「……ありがとね、送ってくれて」
「いいんだ」
「うん。……じゃあ、また」
「ああ、またな」
小さく手を振って、玉恵が踵を返す。
今度いつ会えるかは、わからない。だけどもう悲しくはない。ふたりは、同じ風の中にいるから。
「……あ」
何か思いついて、玉恵が振り返った。
「どした?」
「今度会えるときは、表彰式かな?」
「表彰式?」
「そう、心光展の。轍が大賞取ってさ、それで私はスポンサー企業の女社長として、祝辞に訪れるってわけよ。どう?」
「……」
轍は黙って右拳を上げ、親指をびっと立てて見せる。
玉恵もVサインを返した。
笑顔でしばし見つめあったあと、再び玉恵は踵を返し、門をくぐった。
轍はバイクのキーを回し、走り去る。
ふたりの新しい旅が、はじまった。
あとがき
『風雨来記』版・私的「再臨詔」です(しつこい? (^^ゞ)。
たまちゃんシナリオのラストは、必要以上に悲痛に描かれていると思います。ひとえに主人公が情けないために。
なので、ちゃんと別れさせるために、この話を書きました。
別れる……というと、ちょっと誤解されそうですけど、「今は一緒にはいられない。だからってそれがなんなの?」というふたりのコンセンサスを描きたかったのです。
これでやっとふたりはそれぞれの、そして同時にふたり一緒の旅をはじめられます。
つーことで、続きは是非書きたいですね。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。