冬物語 Second Season

第二話 「TO BE」

自分自身だったか 周りだったか それともただの
時計だったかな 壊れそうになってたものは
浜崎あゆみ「TO BE」


     1

「……あ……」

「……」

 大学の廊下を歩いていた静流と小夜美は、真冬とすれ違った。
 これまでなら強いて明るい笑顔で挨拶をしていた静流が、困惑気味に眉をひそめる。真冬も顔を背けたまま、歩き去ってしまった。いつもなら、会釈ぐらいはするというのに。

「……どうしたの?」

 そんな二人を交互に見比べながら、小夜美が首を傾げた。静流は小さく笑って、首を振るばかりだった。

「ううん、なんでも」

「なんでもないってことはないでしょう。ものすっごく険悪な雰囲気じゃない? 確かに彼女は静流を避けてたけど、あんな風じゃなかったよ」

「……」

「それに……そもそも、静流が……変だよ、そんなの」

「小夜美……」

 暗い――いっそ、泣き出しそうでさえある表情で覗き込んでくる小夜美に、静流はまた小さく微笑んだ。この親友には、本当に、隠し事なんてできない――。

「うん……ちょっとね。小夜美の忠告を、ちゃんと聞かなかったわたしが悪いの。本格的に嫌われちゃったみたい」

「静流……」

 何があったのか、とは小夜美は尋ねない。小夜美がいちばん心配していた部分に、二人が踏み込んでしまったのだと、静流の表情からわかったから。
 だけど、これでよかったのかもしれない。このまま二人が距離を置いてくれれば。小夜美はそう思っていた。――静流の、次の台詞を聞くまでは。

「わたしみたいに弱い女は、きっと、嫌いなんでしょうね」

「……」

 小夜美が、足を止める。数歩歩いてからそのことに気づき、静流が怪訝そうに振り向いた。

「小夜美?」

「なに、それ。彼女がそう云ったの?」

「え……?」

 小夜美はうつむいていたが、その面には、隠しようもなく怒りが覗いているのが、静流にはわかった。拳を震わせてさえいたかもしれない。

「じゃあ、強いって何? あの子がいなくても、こうして笑っていられるあたしは強いのかな? それって、ただ最低な女じゃないの?」

「こ……小夜美? どうしたの、急に?」

「静流は、弱くなんかないよ。それはあたしがいちばんよく知ってる」

 そう云って顔を上げた小夜美は、まるで睨むような視線を静流に向けた。
 静流は戸惑い、言葉を失うばかりだった。

     2

 八つ当たりだと自分でもわかっていたから、真冬は険しく眉をひそめて、小さく舌打ちした。
 静流がどんな恋をしようと、自分には関係ないはずだ。他人に干渉することもされることも、望んではいなかったはず。
 静流の前では、いつもの自分を保てない。それはやはりあの冬の日の出来事のせいなのか。それとも……。
 険しい表情のまま、真冬は校門を抜けようとした。そこで、真冬は見覚えのある女性が門にもたれて立ち、自分を見つめていることに気づいた。

「やっ」

 緑の黒髪、という言葉がある。彼女にはその表現が似合っていた。真冬とはまた違う趣を持つ、その黒く長い髪を揺らし、彼女、霧島小夜美は軽く手を挙げて見せた。

「……」

 真冬は軽く会釈して、その前を通り過ぎようとした。
 静流の親友である小夜美とは、真冬も何度か会っているし、紹介もされた。しかし、静流とは対照的に、小夜美は真冬に積極的に話しかけることはなかった。
 だが、このときは違っていた。

「ちょっと待って」

「……?」

 足を止め、真冬が振り返る。小夜美は真剣な面持ちで腕組みし、首を軽く振った。

「顔貸してよ」

「……」

 真冬の黒い瞳がすっと細くなり、まっすぐに小夜美を見つめた。小夜美も怯むことなく、その強い視線を見つめ返す。
 やがて、真冬が呟いた。ニッ、と唇の端だけで、猫のように微笑んで。

「校舎裏に呼び出しですか?」

「そ。ぼっこぼこにしてあげるから、覚悟しなさいよ」

 腕まくりするポーズを取る小夜美に、真冬はつい苦笑してしまった。
 彼女にはなぜだか反感を抱かせず、つい心を開いてしまいそうになる雰囲気があった。――信と、どこが通じるものが。
 真冬の苦笑に、小夜美は照れ臭そうに笑い返すと、踵を返して歩き始めた。不思議なくらい素直に、真冬はそのあとに続いた。

     *

「……白河さんのこと、ですよね」

 小夜美が切り出すより早く、真冬の方から口を開いた。
 真冬は冗談のつもりで云ったのだが、小夜美は本当に真冬を校舎裏に連れてきていた。人目につかない場所を選んだ結果なのだろう。
 狭い裏庭のような格好のその場所で、すでに葉桜となった樹の幹にもたれて、真冬は立っていた。小夜美はその前に立ち、腕組みをしたまま難しい顔をしている。

「まあ、ね」

「失礼なことをしている、というのはわかっています」

 そう云うと、真冬はため息をついた。小夜美は答えず、真冬を見つめるだけだった。

「謝っておいてください。お願いします。……それと、もう私に関わらないでほしいと」

「……」

「……昔、云われたことがあります。私には人を傷つけることしかできないって。だから――」

「嘘だね」

 小夜美は不意に真冬の言葉を遮った。そのときようやく真冬は、小夜美が自分を見る視線に、痛ましげな色が生まれていることに気づいた。
 ――静流や、信と同じく。自分を落ち着かなくさせる、その想い。
 真冬は思わず目をそらしてしまっていた。

「そんなはずないよ。信クンが好きになったひとが」

「やめてください」

 叫ぶように、真冬は答えた。
 そんな言葉、聞きたくなかった。だったらなぜ、彼は私から去っていったというのか。
 蒼白な面持ちで唇を噛む真冬の横顔を、小夜美はやはり痛ましげに見つめていた。

「そうだね。ごめん。こんな話をしたいんじゃなかった」

「……」

「……ほんとはね、あたしもあなたに、もう静流には関わらないでほしいって云おうと思ってたんだ」

「……」

 真冬は無言で頷いた。そうだ、それしか方法はない。傷つけないためには、関わらないこと……。
 けれど、小夜美の話には続きがあった。

「あたしが本当につらいとき、静流だけが支えになってくれた。静流がいなければ……あたし、生きていなかったかもしれない」

 真冬は驚いて、思わず顔を上げて小夜美を見た。このいつも晴れやかに笑うひとに、そこまで思い詰めることがあったなんて。
 小夜美は小さく笑い、空を見上げた。いつもの笑顔とは違う、儚い、透明感のある笑み。

「あの子はね、いっつも人のことばっかり考えてるんだ。自分が傷ついてもいい……ううん、自分が傷ついてすむなら、それでいいって」

「……」

「それをあの子の弱さだって……自分の意志を貫けない弱い心だって思われるのだけは、我慢できなかった。だから、もう静流に近づかないでって云おうと思ったの」

「それは……」

 そんなつもりではなかった。ただ、自分は……。
 ――ただ、自分は?
 自分が何を云おうとしたのかわからず、真冬は戸惑って口ごもった。
 そんな真冬に、小夜美は微笑みを向けた。すべてわかっている、というような、穏やかで、悲しげな微笑を。

「うん、わかってる。そんな簡単なことなら、もう静流に近づくなー!って怒鳴って終わりなんだけど……やっぱり、違うんだよね。あたしが、思った通り……」

「霧島……さん?」

「あたしね、本当に、あなたたちには関わり合ってほしくなかった」

 小夜美が、じっと真冬を見つめてくる。真冬はなぜか、動悸が早くなるのがわかった。

「あなたと静流はね、よく似てるんだよ」

「似てる……?」

 瞳を細めて、真冬は首を傾げた。
 私とあの人の、どこが似ていると云うのだろう。むしろ何もかも正反対ではないか。だからこそ、彼女を見ているとこんなにも苛立つのだ。――そう、思っていた。
 けれど小夜美は、悲しげな眼差しを真冬に向けたまま、言葉を続けた。

「そう、似てる……。あなたたちは、同じ壁にぶつかって、全く正反対の答えを選んだ……。お互いが選んだ、もうひとつの答えを見ないようにして」

「……!」

 真冬は息を飲んで、目を見張った。
 小夜美は苦渋を浮かべながらも、目をそらさない。端から見れば、小夜美の方がつらい告白をしているようにさえ見えたかもしれない。
 しかし、実際には、耳をふさいで逃げ出したいと思っているのは、真冬の方だった。

「そんなの、気づかないままでいられればよかったんだよ。もっとつらくなるだけなんだから。だから、あなたたちに関わり合ってほしくなかったの。だけど……だけど、もしかしたら……」

「……気分が悪いので、失礼します」

 ついに耐えられず、真冬は小夜美に背を向けた。
 そのまま歩き去ろうとする真冬の腕を、小夜美は慌ててつかんで引き留めた。

「ちょ、ちょっと待ってよ、まだ話は……」

「もう結構です。聞きたくありません」

 真冬は小夜美の腕を振りほどこうとする。だが、小夜美はさらに力を込め、真冬の両肩をつかんで自分の方に向き直らせた。

「放してください……!」

「ねえ、ちょっと落ち着いて、聞いて」

 真冬は小夜美の言葉に耳を貸さず、聞き分けのない子供のように首を振った。そして、かすれた声で、呟いた。

「お願い……もうやめて……」

「……」

 その声のはかなさに、小夜美は思わず手を離してしまった。駆け去っていく真冬。
 傷ついた子猫のようなその後ろ姿を、引き留めることもできず見つめていた小夜美は、やがて深いため息をついた。

「裏目に出ちゃったか……」

 同じ痛みを抱きながら、全く違う答えを選んだふたり。だからこそ、互いがこれまで気づかない振りをしてきた真実と向き合い、変わっていくことができるのではないか。小夜美は、そう期待したのだったけれど。

「焦りすぎたかな……。静流になんて云おう」

 もう一度ため息をついて空を見上げると、さっきまでの青空が嘘のように、どんよりとした雲が空を覆っていた。

「……うわ、最悪」

     3

 駅の改札の前で双海詩音は軽く微笑み、会釈した。

「それでは、お仕事頑張ってください。ごきげんよう」

 その笑みに、稲穂信は情けないぐらい相好を崩してしまう。せっかく買った切符をポケットにしまい、信は大袈裟にため息をついた。

「ああ、名残惜しいなあ。今日はもうバイト休んじゃおうかな」

「いけません」

 途端に、詩音の表情が険しくなる。図書室で怒られたときのように、眉をひそめて厳しい視線を送る詩音に、信は思わず後ずさった。

「信さんはもう社会人なのですから。たとえバイトとはいえ、自分の務めをおろそかにしてはいけません」

「はい……ごめんなさい」

 素直に頭を下げる信。詩音は苦笑しつつ、小首を傾げた。

「……また明日、逢えますよね」

「ああ」

 信が顔中を笑顔にして頷いた。どんな不安も寂しさも消し飛ばしてしまう、詩音の大好きな、その笑顔。

「それじゃあ、また明日。雨降りそうだから、詩音ちゃんも気をつけて帰ってね」

「はい、ありがとうございます。ごきげんよう」

 大きく手を振りながら、信は改札を抜けていった。詩音は少し恥ずかしそうに小さく手を振ってそれに答え、信の姿が見えなくなると、踵を返して家路についた。

     *

 信の言葉どおり、雨がすぐに降り出した。
 それもぱらぱらと降り出したかと思えば、いきなり豪雨に早変わりだ。
 詩音は手近な書店に飛び込んで時間を潰していたが、どうにもやみそうにない。諦めて、傘を買うことにした。せっかくだから本も買って帰りたかったが、この雨に濡れて本が傷むのは我慢できない。

(信さん……大丈夫だったでしょうか)

 新品の傘を開きながら、詩音はそんなことを考えた。最寄り駅から信のバイト先のファミリーレストラン「ルサック」までは、少し歩く。その間に、雨に打たれていなければいいのだけれど。
 ルサックまで一緒に行けばよかった……そんな自分の考えに頬を赤らめながら、詩音は雨の中、帰っていった。
 今日も、父は家にいない。お手伝いの人も、もう帰っているだろう。
 これまではけして嫌いではなかったはずの、ひとりきりの静かな時間。それが今では、少し淋しく思える。
 そんな自分の変化が、変わってしまったことを好ましく思えることが、詩音は嬉しかった。
 角を曲がると、ようやく自宅の門が見えた。
 そして、その前に佇む人影が。

「え……?」

 痛いほど激しい雨の中、彼女は傘も持たず、ただ雨に打たれるまま立ち尽くしていた。
 艶やかな黒い髪が濡れそぼち、白い肌に張り付いている。
 黒瞳は、ただ虚ろに見開かれていた。
 詩音は一瞬驚いて足を止めたが、すぐに彼女の元へ駆け寄った。

「真冬さん……! どうしたんですか、いったい……!?」

 傘を差し掛けられ、真冬はゆっくりと面を上げた。
 瞳に、強い光が戻ってくる。張りつめた、斬りつけるような意志の光。
 けれど、次の瞬間には、その瞳には涙が浮かんでいた。
 その姿に戸惑いながらも、詩音は真冬に家へ入るよう促そうとした。

「こんなに濡れて……。早く上がってくださ――」

「……返して」

 真冬の背に回そうとした詩音の手を、真冬が掴んだ。
 瞠目する詩音を、真冬がまっすぐに見つめる。睨むようではなく、すがるようでもなく。
 ただひとつの願いを、涙に宿して。

「信を……返して……」

「……真冬さん……」

 答える言葉もなく、詩音は真冬を見つめ返す。
 そこで不意に、真冬の黒い瞳が閉じられた。意識を失い、崩れ落ちる真冬。
 詩音は慌てて真冬を抱きかかえた。白い傘が地に落ち、くるくると回った。

「真冬さん! 真冬さん!」

 ますます激しくなる雨が、詩音の叫びさえかき消していく。
 真冬はただ、深い闇の中に堕ちていった――。


to be continued...



2002.5.7


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