桜が、舞う。
今年は春の訪れが早かった。四月を待たずして、すでに桜が咲き誇っている。
そんな満開の桜の木の下に、彼女はいた。
普段は見ることのない和装だ。黒の袴に、赤い薔薇があしらわれている。華美ではないがとても艶やかで、彼女のためだけにあつらえられたものだとわかった。
風が吹き、桜の花びらが舞う。同時に彼女の黒髪も風になびき、彼女は手を上げて髪を押さえながら、闇より深い黒瞳をそっと細めた。
そんな画のような姿に、気後れしたのか、見とれてしまったのか。いつまでも声をかけられずにいる稲穂信を追い越して、連れの女性が先に彼女に呼びかけた。
「ご卒業おめでとうございます、真冬さん」
「……あら、来てくれたんだ、詩音。ありがと」
振り向いた藤村真冬が、双海詩音に微笑みかける。そして、その後ろでやや居心地悪そうに立つ信にも、意地悪そうに笑って見せた。
「信も。似合わない格好しちゃって」
「……ほっとけ。これでもTPOはわきまえてるんだよ、智也と違って」
云いながら、信は鬱陶しそうに襟元のネクタイを引っ張った。
信も詩音もスーツ姿だった。千羽谷大学の卒業式に訪れていたのだ。卒業を迎えた真冬を祝うために。
「真冬さんのお召し物も素敵です」
「ありがと。雅がデザインしてくれたの」
「やっぱり。さすがですね。……卒業した後は、やはりあのお店を?」
「ええ。ほっとくわけにもいかないしね。誰かさんみたいに、無職のプー太郎ってのも格好悪いし」
「……失礼な。俺はちゃんと働いてるぞ。組織に縛られてないだけで――」
「はいはい」
「小夜美さんと静流さんも、後から来てくださるそうですよ。お祝いをしましょうって」
「あの人たちは、呑む口実がほしいだけでしょう。社会人になっても、ちっとも変わらないんだから」
「……そうかもしれませんね」
「おーい、詩音ちゃんまで俺の話はスルーですかー」
屈託のない、友達同士の会話。
こんな風に話せる日が来るなんて、あの頃は考えられもしなかった。冬の雨に打たれ、ただ自分の傷だけを見ていた頃には。
あれから長い時が流れ、色々なことがあって。
自分はどれだけ変われたのだろう、と信は思う。詩音も、真冬も。
変わらない自分に苛立ちつつ、今のままでいられれば、と思うこともしばしばあった。
それでも、時は進んでゆき、彼女たちは歩き続ける。
こんな風に。
「真冬」
少し離れた場所から、真冬を呼ぶ声がする。
振り返った真冬が浮かべた、華やいだ笑顔を見たとき。不覚にも信は、少し、胸が痛んだ。
「ごめん、ちょっと待ってて」
「あ、はい」
小走りに真冬は声の主のほうへ向かった。彼も信と詩音に気づき、軽く会釈をしてくる。それに会釈を返しつつ、詩音は信の横顔を流し目で見て、呟いた。
「ヤキモチですか?」
「な……、いや、そんなわけないって」
「ふうん」
真冬の口癖を真似ながら、詩音は変わらず横目でじっと見つめてくる。信は頭をかきながら、苦笑した。
「いや、ほんと、そんなんじゃなくて。なんだろう、娘を嫁に出す父親の心境かな、うん」
「……真冬さんが聞いたら、怒りますよ、きっと」
こらえきれず、詩音が吹き出した。信も釣られるように、つい笑ってしまう。顔中を笑顔にして。
そう、こんな風に。
立場も、想いも、歩いて行く道も、共に往く人も、きっと変わっていく。
それでも変わらないもの、二度となくさないものを、俺たちはもう手に入れたから。
「ま……藤村先輩!」
突然、信は大声を張り上げ、真冬に手を振った。その声に、そして何より、その懐かしい呼び方に驚いて、真冬が目を大きく見開いて振り返る。
「卒業、おめでとう!」
万感の思いを、その一言に込めて。
それが伝わったのか否か、真冬は黒瞳に涙を浮かべて、呟いた。
「……バカ」
end
2013.3.22
あとがき
お久しぶりでございます。それなのに短くてすみません。
このお話は、『冬物語』シリーズすべてのエピローグとして、もう何年も前から考えていたものでした。書くべきものをすべて書いてから公開しようと思っていたのですが、ぶっちゃけそんな日はもう来ないかもしれない(をい)し、シーズン的にすごくぴったりでどうしても書きたくなったので、やってしまいました。いい加減、真冬を幸せにしないとね!
ご感想など、いただければ幸いです。