冬の柔らかい日差しが差し込んでいた。
日曜日の昼下がり。智也は何をするでもなく、ただソファに座って時間を過ごしていた。
あれ以来、小夜美とは連絡を取っていない。もうじき1週間になるだろうか。
すぐに謝らなければ、と思ったのだったが、実際に小夜美を前にしたとき、なんと云えばいいのか。それがわからなくて、智也は動けなかった。
ただ、ごめん、と謝れば、小夜美は微笑んでくれるかもしれない。しかし、あの夜から――初めて彼女を「小夜美」と呼んだ夜から、その微笑みはどこか淋しげだった。口先だけで謝ったところで、その陰りをさらに深めるだけなのではないか。智也にはそう思えた。
あのとき、小夜美は云った。
「もう、おしまいにする?」
本心とは思えない。けれど、そう口にせざるを得ないほど、小夜美を追いつめてしまっていたのだ。それなら、それに対する答えを用意しなければ、どんな言葉もその場しのぎにしかならないだろう。
だから、俺は――。
「……」
そこで、いつも思考は止まってしまう。彩花のことを忘れればいいのか。忘れることができるのか。……そんなことが、許されるのか。
天を仰いで、深いため息をつく。そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「え……」
心臓が高鳴る。それでいながら、立ち上がることもできないでいると、もう一度チャイムが鳴った。
智也はようやく立ち上がり、玄関のほうに歩いていった。
もしかして……期待と不安におののきながら、ドアを開けた。
「おはよ、智ちゃん。起きてた?」
「……唯笑」
にこやかに笑う幼馴染みを前に、智也はふうっと息を吐き出した。それは失望より、安堵のほうが大きかったかもしれない。
「どうしたんだよ、急に」
「久しぶりにね、様子見に来たんだ。上がっていい?」
「あ……ああ」
少し戸惑いながら、智也は唯笑を招じ入れた。
そういえば、唯笑と話をするのも久しぶりだった。先日の彩花の墓参り以来、唯笑は朝、智也を待たなくなっていたのだ。学校でもほとんど顔を合わさず、帰りもいつの間にか姿を消していることが多かった。
「唯笑がお茶入れるね」
そう云って、唯笑が台所に立つ。カップを手に取って、それがもうひとつのカップとペアであることに気づいた。唯笑はそっとそれを元の場所に戻し、食器棚から別のカップを取りだした。
「お待たせ」
「ん……サンキュ」
目の前に置かれたカップを手に取り、智也は一口飲んだ。なんとなく、落ち着いた気分になる。同じインスタントなのに、自分で入れたときと、小夜美が入れてくれたとき、そして今、唯笑が入れてくれたときで、微妙に味が異なるのはなぜなんだろう。
そんな思いを感じながら、智也は冗談めかして感想を述べた。
「唯笑でも、インスタントコーヒーならちゃんと作れるんだな」
「失礼だなあ。料理だってもうちゃんとできるんだからね」
ぷっと頬を膨らまして唯笑が答える。そういう姿を見ると、もうずっと昔から変わっていないようにしか智也には思えなかった。
「それはあまりにハッタリが過ぎるんじゃないか?」
「もう、バカにしてぇ。子供じゃないんだからね」
智也は笑って取り合わない。だが唯笑は、沈んだ声で、もう一度同じことを繰り返した。
「子供じゃ……ないんだよ」
「唯笑……?」
その声に智也が唯笑の顔を覗き込むと、唯笑は真剣な表情で唇を噛みしめていた。蒼白、と云ってもよかったかもしれない。
「いつまでも、子供じゃないの。時間はね、どんどんどんどん流れていっちゃうんだよ。どんなに立ち止まっていたいって思ってもダメなの。歩いて……行かなきゃ……」
涙が、唯笑の瞳からあふれる。膝の上で握りしめた拳の上に、その雫がぽたぽたと落ちた。
「……唯笑……」
「智ちゃん」
唯笑が顔を上げて、智也を正面から見据えた。涙でいっぱいの瞳で、まっすぐに。
「彩ちゃんは……もう、いないんだよ」
「……!」
唯笑がその一言を口にするのがどれだけつらかったか、智也には、智也にだけはわかった。
そして、そんなつらい思いをしてまで、智也に伝えたいことがなんなのかも。
智也はうつむいて、両手で顔を覆った。
わかってた。わかっていたんだ、そんなことは……。
小さく肩を震わせる智也の背に、唯笑はそっと手を置いた。あの日と同じように。
そして、囁いた。
「今日、ここに来たのはね、小夜美さんに頼まれたからなんだ」
「……え……?」
思わず智也が顔を上げると、唯笑はいたわりと悲しみを湛えて微笑んでいた。
「電話かかってきたの。智ちゃんのそばにいてあげてほしいって、小夜美さん、そう云ってた。……あたしじゃ、ダメだからって」
「……」
智也は茫然と目を見開いた。ゆっくりと、首を横に振る。
そうじゃない。そうじゃないのに。
「……うん、唯笑にはわかってる。だから、早く行ってあげて。ね」
「唯笑……」
「小夜美さん、今日は大学の図書館にいるって」
智也はすがるように、じっと唯笑の顔を見つめた。唯笑もその視線を正面から受け止め、強く頷いた。
智也は弾かれたように立ち上がり、着の身着のままで飛び出していた。
*
智也は小夜美の大学までの道のりを駆け通しに駆けた。
本当のところ、はっきりとした答えはまだ出ていない。
しかし、唯笑から聞いた小夜美の言葉。
(あたしじゃ、ダメだから)
違う。そうじゃない。それだけは、どうしても伝えたかった。
ようやく大学の図書館が見えてくる。智也は門のところで立ち止まり、息を整えた。
そして門をくぐろうとしたとき、ちょうど小夜美が図書館から出てくるのが見えた。
「こ……」
呼びかけようとした声が、喉で止まった。
小夜美は、先輩らしい男と一緒だった。談笑しつつ歩いてくる。
穏やかな笑顔。小夜美のそんな表情を、智也はしばらく見ていなかった。ここしばらく、智也に逢うとき、小夜美はいつも悲しげだった。
そしてそれは――自分の、せいなのだ。
小夜美の言葉がもう一度よみがえる。
(あたしじゃ、ダメだから)
違う。そうじゃない。そうじゃなかった。
(俺じゃ……ダメなんだ)
俺は、あんな風に小夜美の笑顔を守ることができない。俺にできるのは、ただ彼女を傷つけることだけだった。
足下から崩れそうになった智也を支えたのは、けれど、小夜美の声だった。
「智也?」
門のところで立ち尽くす智也に気づき、小夜美は目を丸くして驚いていた。
「どうしたの、いったい?」
そのまま駆け寄ってこようとする。そう認めたとき、智也は小夜美に背を向けて走り出していた。
「――智也!?」
追いすがるその声を振り切ろうとするように、智也は無我夢中で走った。
*
家に戻ると、鍵は開いていた。戸締まりもせずに飛び出したのだ。
ドアを閉めると同時に、深いため息が漏れる。そのままそこに座り込みそうになったとき、奥から足音が近づいてきた。
「智ちゃん? お帰り、早かったね」
「……唯笑」
茫然と智也が顔を上げると、唯笑はいつものように屈託なく笑っていた。その笑顔から、智也は目をそらしてしまった。
「もう、智ちゃん、いきなり飛び出してっちゃうからさあ。鍵開けっ放しで帰るわけにいかないから、唯笑、留守番してたんだよ」
「そうか……悪い……」
「いいけど。でも、ひとりで帰ってきたんだ? 小夜美さん、まだ勉強忙しいって?」
「……」
「逢えたんでしょ?」
「……」
「智ちゃん?」
唯笑の表情から、だんだん笑みが失われていく。
智也は何も答えることができず、うつむくだけだった。
「どうしたの? 何があったの?」
智也の肩をつかみ、唯笑が顔を覗き込んでくる。智也はどうしても視線を合わせられなかった。
「俺じゃ……ダメなんだ……」
「……え……」
「俺にはやっぱり……そんな資格……なかったんだよ……。誰かを幸せになんて……俺には……」
「……」
唯笑の手が、ゆっくりと智也の肩から離れていく。
数歩後ずさって、唯笑は智也の顔を見た。
睨んでいた、と云ってもいいかもしれない。
どんなときでも、唯笑が智也をそんな責めるような視線で見ることはなかった。けれど今は、怒りと、失望と、悲しみとを瞳に宿して、智也を見据えていた。
「……どうして……?」
涙が落ちる。抑えに抑えていた感情が爆発して、全身が激しく震えていた。
「どうして……? また……同じことを繰り返すの……?」
「唯笑……」
静かな、しかし痛烈な響きを持つ声に驚いて、智也はやっと唯笑の顔を正面から見た。
智也の知らない唯笑が、そこにいた。
「智ちゃんが……やっと彩ちゃんのことを振り切って、好きなひとを見つけられたんだって思ってたから……、だから、喜んであげなきゃって……、そう、思って……」
「唯笑……?」
「唯笑じゃダメなのは、わかってたから……。唯笑といると、どうしても彩ちゃんを思い出してしまう……。だから……」
「……」
「だから……智ちゃんが前に進むなら、唯笑もって……そう……思ったのに……。どうして? どうして智ちゃんは、そこから動けないの? あの雨の日から、時間は止まったままなの?」
「……」
長い沈黙があった。その重みに耐えかねて、智也が、ぽつりと漏らした。
「それが……俺の……罪だから……」
「罪……」
くりかえし呟くと、唯笑はもう一度智也を睨み据えた。すでに、涙はなかった。
「うそつき。違うよ、そんなの」
「……え?」
「意気地がないのを、彩ちゃんのせいにしないで!」
そう叫んで、唯笑は玄関から出ていった。
智也はただひとり、立ち尽くすだけだった。
*
気がつけば、昼間の好天が嘘のように雨が降り注いでいた。
智也は公園のベンチに座り込み、雨に打たれていた。
あのあと、家にひとりでいることにいたたまれず、あてもなく街をさまよった。そしていつの間にか、彩花とよく来たこの公園に足を運んでいたのだ。
もう智也は何も考えていなかった。何も考えたくなかった。
ただあの日と同じように、雨に打たれ続けていたかった。
そうしてどれぐらい時間が経った頃だろうか。誰かが智也に近づいてきて、傘をさしかけた。
柑橘系の香りが周りを包む。ゆっくり顔を上げると、長い髪が風に揺れて……。
「――彩花!?」
思わず叫びながら立ち上がりそうになり、人違いだと気づいた。
少し不思議な目の色をした少女が、驚いてこちらを見つめていた。
「双海か。……悪い」
「……いえ。どうなさったのですか?」
いつもの冷静な調子を取り戻して、詩音が訊いてきた。
智也は力無く首を振るばかりだった。
「なんでもない。……放っておいてくれ」
「そうもいきません。風邪を引いてしまいますよ」
「……」
「さあ、立ってください」
詩音が智也の手を取って、立ち上がらせようとする。
智也は逆らうでもなく立ち上がり――、意識を、失った。
懐かしい香りの中に倒れ込んでいく。
「――きゃっ。み、三上くん?」
智也の体重を支えきれず、詩音まで倒れそうになった。慌てて両手で智也の体を受け止める。傘が落ちて、地面に転がった。
智也の体は、火のように熱かった。
「三上くん? しっかりしてください、三上くん!」