Happy, Happy Birthday

「だから、この場合はこの公式を代入すればいいわけよ。わかる? それで……」

 涼やかな声を聞きながら、智也は小夜美の横顔を見ていた。
 小夜美は眼鏡をかけている。特になくても困らないが、勉強するときなどは使っているそうだ。
 これはこれで新鮮でいい……などと智也が考えていると、白い細腕がすっと持ち上がり――。

「あたっ!」

 智也の額に、裏拳が見事にヒットした。

「もう、聞いてるの?」

「聞いてるって……ひでえな、暴力教師」

「ぼけーっとしてるのが悪いんでしょ。はい、じゃあ次はここやってみて」

「ちょっと休もうぜ」

「さっき休憩したばっかりじゃない」

「だぁ……世間はゴールデンウィークだっていうのに……」

 智也は大きく伸びをして愚痴をこぼした。
 今年は5月1日・2日が土日に当たり、学生にとっても大型連休になっていたのだ。今日はその中盤、5月2日になる。
 そんな智也を小夜美は、あきれつつも微笑んで見つめた。

「受験生には連休なんて関係ないの」

「受験本番は夏休みからだろ」

「それじゃ間に合いそうにないから、こうやってあたしが教えてるんじゃない」

 眼鏡をとり、小夜美は大きくため息をついた。眉を寄せて、智也を軽く睨む。

「智也のご両親は、あたしを信用して任せてくれたんだから。今のあたしは、恋人じゃなくて家庭教師。甘えるんじゃないの」

「……ちぇっ」

 さすがにこれ以上ごねるとまずそうだ、と智也にもわかった。シャーペンを取って、問題集に向かう。
 ついさっき厳しいことを云っておきながら、小夜美は微笑んでその姿を見守った。
 小夜美が智也に勉強を教えるようになったのは、年が明けてからぐらいだった。しかし、もともと大学が忙しい上、智也の勉強まで見ていては、小夜美はバイトをする暇もない。そんな話を智也が両親にすると、じゃあ正式に家庭教師としてお願いしよう、ということになったのだ。
 智也にとっては願ってもないことだったが――、ひとつ誤算だったのは、小夜美がビジネスはきっちりとけじめをつけるタイプだったことだ。もちろん、智也の両親に不信感を持たれまい、という気負いもあっただろうが、智也にとってはかなり厳しい先生であることは間違いなかった。

「……でもさ、明日は遊びに行けるんだろ?」

 ノートに回答を書く手を止めずに、ふと智也が口を開いた。そのポーズは一種の照れ隠しだったのかもしれない。

「明日?」

 小夜美は意外そうな表情を作ろうとしたが、ついどうしても顔がほころんでしまった。智也が覚えていてくれたのが、嬉しかった。

「そう、明日。……誕生日だろ、小夜美の」

 ちらっと智也は小夜美のほうに視線を走らせる。しかし、はにかんだ笑顔で見つめられていることに気づき、慌ててノートのほうに顔を戻した。

「いいのよ、そんなの」

「よくないさ。だって、ほら……」

「?」

「つきあいだして……最初の誕生日……なんだからさ」

「智也……」

 智也は赤面してうつむいたままだった。
 小夜美は智也の横顔に顔を近づけ、頬に軽くキスをした。

「……!」

「ありがと。嬉しいよ、そういうこと大事にしてくれるの」

「小夜美……」

「楽しみにしてる」

 満面の笑みを浮かべる小夜美。智也は思わず抱きしめそうになったのだが、

「だから、今日は明日の分も頑張ろうね」

「……」

 その笑顔のままで云われてしまっては、勉強を再開するしかなかった。
 智也はため息をついて、問題集との格闘を始める。小夜美は終始上機嫌だった。

     *

 小夜美を駅まで送っていった帰り道、智也は明日のことを考えていた。

「楽しみにしてるね」

 別れ際、小夜美は笑顔でもう一度そう云った。
 しかし、実は智也にはまだ具体的なプランがあるわけではなかった。それどころか、プレゼントもまだ用意していなかったのだ。

(どこ行こうかな……。思い出の場所といえばマリンパークだけど……あそこはもう何度も行ったしな……。やっぱどっかいい店でディナーかな……)

 定番通りのことを考えてみたものの、どんな店に行けばいいのか想像もつかない。信に訊いてみようか、と一瞬考えたが、そんなことをすればきっと連休明けには町中の噂になっているに違いないので、やめておいた。

(それよりプレゼントか……。何がいいのかな。アクセサリーとかはあんまりつけてないけど……でも、嫌いなわけじゃないだろう……。指輪とか……喜ぶかな……)

 道行く人々が、不審そうに智也を振り返る。にやけているのだ、とは当人は気づいていなかった。

(……とにかく! いつまでもガキじゃないってことをアピールするいいチャンスだ。よぉぉぉぉぉぉし!)

 妙な期待と高揚感で、智也は祝ってもらう本人より興奮して、なかなかその夜は寝付けなかった。

     *

 翌日。智也は朝早く家を出て、街の宝石店に足を運んだ。
 もちろん、そんなところに入るのは初めてだ。ドアをくぐるだけでも勇気がいったが、入ってからもおろおろと辺りを見回していた。
 そんな智也の様子に目をとめて、店員の女性が声をかけた。

「いらっしゃいませ。贈り物ですか?」

「あ、は、はい」

「どういったものをお探しでしょう?」

「えーと、指輪とか、いいかなと思って」

「指輪でしたら、こちらになります」

 店員は智也をショーケースの一角に案内した。
 きらびやかな輝きが並んでいたが、正直、智也にはどれがいいものなのかピンと来ない。

「お相手の方は、どんな方ですか? お若い方?」

「あ、はい、今度21歳で……」

「なるほど。可愛らしい方ですか? それとも綺麗な方かしら?」

「えーと、どっちかっていうと綺麗なほうだと思うんだけど……でも、やることは子供っぽくって可愛いというか……」

「……まあ、のろけちゃって」

 店員がからかうように笑い、智也は耳まで真っ赤になった。

(な……なにを云ってるんだ、俺は)

 そういう客は珍しくないのだろう、店員は智也の動揺に構わずに、いくつかの指輪をショーケースから取り出して見せた。

「こちらなどいかがでしょう?」

「うーん……」

 智也はそれらをざっと眺め――、ある1点に目をとめた。
 それはプラチナのリングに、小振りなダイヤを何点かはめ込んだ指輪だった。清楚な作りでありながら、豪奢な輝きを放っている。小夜美の細い綺麗な指に似合うと思った。

「これ……」

 智也が取り上げたその指輪を見て、しかし店員はわずかに眉をひそめた。

「そちらですか? ……8万7千円になりますが……」

「……」

 智也は目を大きく開いて、店員の顔をまじまじと見た。店員も少し困ったような顔をしている。智也のような若者――はっきり云えば子供だ――が買えるようなものではない、と思っているのだろう。
 実際には、買えなくはなかった。智也は貯金を全部下ろしてきていた。
 智也は息を飲んで、その指輪をもう一度見つめた。
 小夜美の指に、きっと似合う。喜んでくれるだろう。そう思った。

「じゃあ、これを――」

 そう云って差しだそうとしたとき。智也の横からすっと美しい指が伸び、ほかの指輪を指した。

「あたしは、こっちが可愛いと思うな」

「……え?」

 腰までかかる長い髪を揺らし、彼女が智也を見上げた。その微笑みを、智也は茫然と見つめた。

「ね」

「小夜美……」

「あら、ご一緒だったんですか」

 店員が目を丸くして、小夜美を見る。小夜美は笑顔で頷いた。

「ええ。……ねえ、智也。あたし、こっちがいいな」

 小夜美が指さしたのは、特に装飾のないプラチナの指輪だった。ただ微妙な曲線が美しいラインを作っており、小夜美の指にはめると栄えるだろうと思えた。

「う、うん」

 智也はとりあえず、頷くしかなかった。

     *

 宝石店を出たあと、しばらくふたりは無言で歩いていた。智也は憮然とした顔で、小夜美は満面の笑顔で。
 ややあって、智也が不機嫌そうに呟いた。

「……どうして、小夜美があそこに?」

「偶然だよ。……あ、ちょっと狙ったかな。朝、電話したらもういなかったから、もしかしてお買い物してくれてるのかも……って思って、出てきちゃった」

「……」

「そしたら、案の定。……ダメだよ、あんな高いもの」

 困ったような笑顔で、小夜美は智也を見上げた。
 智也は目をそらしながら答えた。子供扱いされるのが、悔しかった。

「……だって、今日は特別な日じゃないか」

「……」

 気がつけば、公園の入り口まで差し掛かっていた。小夜美は智也を促して、ベンチに座った。

「智也の気持ちはね、すっごく嬉しいよ。ほんと」

「……」

「恥、かかせちゃったってこともわかる。ごめんなさい……ほんとに。でも、でもね、智也はまだ高校生なんだから、……よくないよ、そういうの、やっぱり」

「俺は……」

 思わず智也は声を荒げそうになった。しかし小夜美と目が合うと、言葉を失った。
 小夜美の目は、真剣だった。それは対等の立場で、本気で話そうとしている目。けして子供相手に諭そうとしている姿ではなかった。

「わかる。そうやって『高校生だから』って見られるのがいちばんイヤなのはわかってる。でも、それは本当のことなんだから、しょうがないんだよ。背伸びして無理して……そんな風にして、あたしとつきあってほしくない」

「小夜美……」

「あたしは、今の智也が好きなの。高校3年生の智也が好きなんだよ? それで来年は大学1年生の智也が、再来年は大学2年生の智也が好き……ずっと、『今』の智也が好きなの。……わかるでしょう?」

「……」

 智也は黙って頷いた。小夜美はそんな智也の頭を胸に抱き寄せた。

「……こ、小夜美?」

「でもね、ほんとに嬉しかった。ありがとう、智也」

 そう云って、小夜美は智也の頭を撫でた。
 結局、ガキ扱いしてるじゃん……智也は苦笑したが、不思議とイヤな気分ではなかった。

「……それじゃ、改めて」

「え?」

 小夜美が智也の前に両手を差し出す。子供のような笑顔。

「プレゼント。くれないの?」

「あ……」

 智也はポケットから指輪の入った包みを取り出した。小夜美の手のひらにそっと置く。

「誕生日、おめでとう」

「ありがとう」

 小夜美は包みを一度胸に抱くようにしたあと、すぐ包装を開いた。指輪を取り出して、右手の薬指にはめる。シンプルなその指輪は、小夜美のために作ったように似合っていた。小夜美は愛しげに、指輪に頬ずりした。

「可愛い。ありがとう、ほんとに」

「いや……」

 智也は照れて頭をかいた。小夜美は微笑んで、云った。

「いつか智也が大人になって、いい男になって……そしたら、左手にする指輪を買ってね」

「え……」

 思わず真顔になって、智也も小夜美を見つめ返す。しかし、今度は小夜美が赤くなって背を向けてしまった。

「おい、今のどういう……」

「さーて、これからどこに連れてってくれるのかな? 高級ホテルでお食事?」

「……高校生らしくないことするなって云ったくせに……」

「冗談よ。じゃ、高校生らしくお勉強しよっか。云っとくけど、あたし、『浪人の智也』は好きじゃないからね」

「ひでえ……」

「じゃあ、明日っからはちゃんとやること。今日は息抜きね」

「OK。……特別な日だもんな」

 立ち上がり、智也は小夜美の右手を握った。
 指に触れる指輪の硬い感触が、心地よかった。




2001.5.3

あとがき

小夜美ねーさん誕生日記念です\(^_^)/。
書いてるほうが恥ずかしいぐらいラブラブですな(^^ゞ。
冒頭、小夜美ねーさんが眼鏡をしているのは、ハピレスの影響というわけではありません……たぶん(^^ゞ。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。

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