季節は晩秋。心地よい風が、腰まで伸ばした長い髪をなびかせる。霧島小夜美は手を軽く挙げて髪を押さえつつ、立っていた。
花屋の前だ。やがて店員が大きく、華やかな彩りの花束を抱えて奥から出てきた。
「お待たせしました」
「ありがとう」
微笑んで受け取り、代金を払って小夜美は踵を返した。店員の青年が、少し頬を赤くして見送っている。
しばらく歩いたところで、小夜美はひとりの少女に気づいた。交差点で信号待ちをしている。ややうつむき加減で、暗い表情をしているように見えた。
小夜美はその少女に並び、横顔を窺った。少女は小夜美より、まず大きな花束に気づいて横を向き、それから小夜美を見て目を丸くした。
「あ……」
「あ、やっぱり。えーと……音羽さん、だっけ。智也クンの友達の」
「あ、はい、霧島さん、こんにちは」
そう云って、少女――音羽かおるは軽く頭を下げた。そして顔を上げたときには、先ほどまでとは全く違う笑顔を浮かべていた。
笑顔を返しつつ、小夜美はどうしてもその表情に「演技」を感じてしまった。
「小夜美でいいよ。お出かけ?」
「え、ええ、映画を見た帰りで……」
そこまで口にしたとき、再びかおるの表情を憂いがかすめたが、またすぐに笑顔を作った。話題をそらすように、小夜美が抱えている花束に注目する。
「わあ、すごい花束。何かのお祝いですか?」
「ああ、これ? ……ううん、お墓参り」
「……え?」
屈託のない小夜美の口調と、その口にした言葉があまりにちぐはぐで、かおるは言葉を失ってしまった。だが、小夜美が小首を傾げると、慌てて頭を下げた。
「ご……ごめんなさい、私……」
「あ、いいのいいの、気にしないで。変よね、こんな派手な花束持ってお墓参りなんて」
「い、いえ、そんな……」
「でも、いつもいつも辛気くさい花じゃきっとつまらないから。そういうの、嫌いな子だったし」
小夜美は微笑んだままだったが、どこか淋しげであることをかおるは感じ取った。そしてその言葉から、小夜美が足繁くそのひとの墓前に足を向けていることもわかった。そのひとがどれだけ大切な存在であったかも。
「恋人……ですか?」
気づいたときには、かおるはそう口にしてしまっていた。小夜美は怪訝そうにかおるを見たあと、小さく苦笑した。
「弟よ」
「あ……弟さん……。――ご、ごめんなさいっ、私、ほんとにどうかして……」
「そのうろたえ方のほうが、どうかしてると思うけど」
くすくすと笑いながら、小夜美は答えた。かおるは赤面して言葉もない。
信号が、変わった。かおるはそれを幸いと、歩き出そうとした。
「じゃあ、これで失礼します。ごめんなさい、ほんとに――」
「……あ、待って」
かおるの背に、小夜美が声をかけた。かおるは横断歩道に踏み出しかけた足を止めて、振り向いた。
「何か、あったの? こういうとこで会ったのも何かの縁だから、話してみない? おねーさんが相談に乗ったげるよ」
ついそう云ってしまったのは、小夜美の生来の世話好きな性格のせいもあったろうが、やはり「智也の友達」ということが大きかったかもしれない。弟のような彼の。
かおるも小夜美の態度に、冗談めかしてはいたが、いたわりを感じ取っていた。
何より、彼女なら彼の気持ちがわかるかもしれない。失った人に想いを残すというのが、どういうことか。そう思い、かおるは話をしてみたい衝動に駆られた。
そして、信号は再び赤になった。
*
「……今日は、智也と一緒だったんです」
「智也クンと?」
ふたりは手近な喫茶店に入っていた。
かおるの言葉に、小夜美は口元にカップを運ぼうとした手を止めて、少し驚いた表情を作った。
「音羽さんは、智也クンとつきあってるの?」
「……いえ、そういうわけじゃ……」
「ふーん? でも、仲いいんだね。あたし、てっきり智也クンは唯笑ちゃんと……、あ……ごめん……」
思わず口を滑らし、小夜美はバツが悪そうな顔をして謝った。かおるは苦笑しつつ、首を横に振った。
「私もそう思ってました。でも……そうじゃなかったみたいです」
「?」
かおるは表情を曇らせてうつむいた。
かおるが智也に好意を持っていることは、小夜美にもわかった。それなら、智也と唯笑に恋愛感情がないことは、喜ばしいことではないのか?
疑問を抱きつつ、小夜美は黙って話の続きを待った。
「智也には……忘れられないひとが、いるんです」
「……」
「もうそばにはいないそのひとを……今でも……」
「……」
唇を噛んで言葉を途切れさせたかおるを、小夜美はじっと見つめた。心臓が、大きく高鳴っていた。
「そばにいない」その言葉の意味が、なぜだか小夜美にはわかりすぎるほどわかってしまった。
少し青ざめた小夜美の様子に、うつむいたままのかおるは気づかず、ややあってようやく話を続けた。
「私……実は転校してくる前に、つきあっていたひとがいて……。ちょっとしたことで気持ちがすれちがって、うまくいかなくなって……」
「……」
「そのことをずっと後悔してた……。でも、智也に会って、もう一度、恋をしたいと思ったんです。過去を振り切って、もう一度……」
「……」
「だけど、私は……智也にとって、そういう存在になれなかったみたい……」
膝の上で重ねた手を、かおるは強く握りしめた。涙をこらえて、肩が震えている。
その姿に、小夜美は激しく胸が痛んだ。
かおるの気持ちは、とてもよくわかる。愛しいひとの心の中に、自分ではない誰かが常にいること。それがどれだけ悲しいことか。
――けれど、智也の気持ちもまた、小夜美には痛いほどよくわかってしまうのだ。忘れることのできない、その想いが。
「音羽さんは……智也クンが、そのひとのことを忘れたほうがいいと思う?」
「え……」
ストレートな問いかけに、かおるは戸惑って視線をさまよわせた。それはあなたのエゴだと、責められているような気がした。
しかし、顔を上げると、小夜美はむしろ悲しげに――、泣き出しそうにも見える表情を浮かべていた。
「小夜美さん……?」
「……弟がね、事故に遭ったとき」
小夜美はかおるから目をそらし、窓の外を見た。独り言のように言葉を続けるその横顔は、理由もなく、かおるの胸を締め付けた。
私は、触れてはいけないことに触れてしまったのかもしれない。一瞬、かおるはそう後悔した。
「その日の朝、あたしが学校に行こうとしてたら、玄関で弟に呼び止められたの。『小夜美姉』って」
「……」
「あたしが『何?』って訊いても、弟は何も云わなくて……。その頃、あたし、色々嫌なことがあってね、苛々してたんだと思う。『忙しいんだから』って云って、そのまま学校に行っちゃった」
「……」
「学校に着いたら、すぐ連絡があって……弟が事故に……って……」
小夜美は目を閉じて、言葉を切った。込み上げる思いに耐えていることを、震える睫毛が示していた。
「あのとき、弟が云いたかったことは何なのか……。ずっとずっと、考えてる。わかりっこないんだけど。でも、絶対に忘れちゃいけないことなんだって……そう思うの」
「小夜美さん……」
「忘れちゃいけない想いっていうのも……あると思うんだ。忘れることだけが、前へ進むことじゃないよ」
かおるのほうに向き直り、小夜美は静かにそう云った。かおるは小さく頷いた。
「うん……」
「もちろん、過去
「……う、うん」
小夜美の大きく平手打ちをするポーズに、かおるは目を瞬いた。そして、思わず吹き出してしまった。その笑顔を見て、小夜美も柔らかく微笑んだ。
「そうですね。私、焦りすぎてたのかな」
笑いを治めて、かおるは呟いた。その表情は、幾分晴れやかなものになっているようだった。
その姿に安堵しつつも、小夜美はいくらか苦い気持ちを抱いていた。
*
「それじゃ失礼します。ありがとうございました」
「ううん、あたしのほうこそ、引き留めちゃってごめんね」
喫茶店の前で、ふたりは別れることにした。
小夜美の言葉に、かおるが笑顔で首を振る。
「とんでもないですよ。また、購買に来てくださいね。男の子がきっと心待ちにしてます。……智也も」
「あはは。ありがと」
もう一度頭を下げて歩き去るかおるを少し見送って、小夜美も歩き出した。
墓地へ向かうその表情は、やや硬く、唇を噛んでいた。
やがて、人気のない霊園に小夜美はたどり着いた。弟の墓前に花を置き、手を合わせる。その面は、はっと胸を突かれるほど悲しげだった。
「忘れちゃいけない想いもある……か。また綺麗事云っちゃったね。怒ってる? 智
墓石が何も答えるはずがない。わかり切っていたことだけれど、それでも小夜美は墓碑に語りかけ続けた。
「相談に乗ってあげる、なんて云っといて、姉ちゃんさ、ほんとは自分に言い聞かせていただけなのかもしれないね。こうして過去
こらえきれず、小夜美の瞳から涙があふれた。
あのとき、弟から聞けなかった言葉。それがなんだったのか、永遠に得られないその答えを想うたびに、小夜美の胸は痛んだ。そしてその痛みを抱いていくのが、償いなのだと思っていた。だから、忘れてはいけないと。
しかし。忘れてはいけない、そう自分に言い聞かせるのは、本当は忘れたいと思っているからなのかもしれない。そう考えると、あまりの罪深さに我が身を呪いたくなった。
晩秋の高い空の下、小夜美はただ静かに涙を流していた。
*
「……ごめんね、智。また泣いちゃった」
どれだけの時間が経った頃だろうか。西の空から少しずつ夕焼けが広がり始めていた。
小夜美は涙をぬぐって立ち上がり、墓碑に向かって微笑んだ。
「また来るね」
最後にそう云って、小夜美は歩き始めた。霊園の出口へと向かう。その途中、小夜美はある墓碑の前で、見覚えのある少年が立ち尽くしていることに気づいた。
「……智也クン?」
「……え?」
ふいの呼びかけに振り向いたのは、間違いなく三上智也だった。こんな場所で知人に会うことが、心底意外そうに目を丸くしている。もっとも、それは小夜美も同様だったが。
「小夜美さん」
「お久しぶり。智也クンもお墓参り?」
「……もってことは、小夜美さんも?」
「散歩には来ないでしょ」
冗談混じりに答えながら、小夜美は智也の背後にある墓碑銘を見た。「桧月」という字が見える。
さきほどのかおるの話を、小夜美は思い出した。
「もしかして……昔、好きだった娘?」
「小夜美さん……どうして?」
さらに驚いて、智也はほとんど目を見開いていた。無理もない。小夜美は小さく微笑みつつ答えた。
「さっき、音羽さんに会ったの。ちょっと話聞かせてもらっちゃった」
「ああ、かおるに……そっか……」
智也の表情に、翳りが差した。
小夜美はかおるの気持ちを智也に伝えるべきかどうか、迷った。過去を振り切って、かおるを見てやれ、などということは自分には云う資格はない。けれど、女として、かおるの力になってやりたいとは思う。
奇妙な沈黙を破ったのは、結局、智也のほうからだった。
「かおるには……つらい想いをさせたと思う……」
「智也クン……」
その智也の言葉の意味は、今はかおるを愛せない、ということだろう。そうわかったから、小夜美は思わず口を開いていた。
「音羽さんは……智也クンのこと、真剣に想ってるよ」
「わかってる。わかってるけど……俺は……」
言葉を詰まらせ、智也は後ろを振り返った。墓碑をじっと見つめる。小夜美もまた智也の背中越しに、その墓碑を見つめた。
「忘れられないの?」
愚問だ、と小夜美は思った。忘れられないから、こうして今ここに立っている。彼も、あたしも。失くしたものの重みに、足を取られたままで。
しかし、智也の答えは、小夜美の想像とは少し異なっていた。
「忘れちゃいけないんだと思ってた……。でも、そうじゃなくて……俺が……忘れたくないんだって、わかった」
「え……?」
小夜美は智也の横顔に視線を転じた。相変わらず墓碑にじっと眼差しを注ぐその顔は、しかし、後悔や失意に彩られてはいなかった。
「無理に忘れようとしたり……、忘れちゃいけないと思ったり……、そんな不自然なこと、しなくてよかったんだよ。俺が、彩花を忘れたくないと思っているんだから。彩花と一緒にいたいんだ、俺は」
「……」
「それが今の俺の……正直な気持ちなんだ」
あの日と同じような雨に打たれて、そして智也は気づいた。忘れたくない、と。
いつか誰かを愛するかもしれない。だけど今は。今はまだ、彩花の思い出と寄り添っていたい。
過去に囚われるのではなく、自分からそうすることを選んだのだ。
その静かな決意は、小夜美の心の何かを激しく揺さぶった。
「それで……いいのかな……」
うつむいて、小夜美が呟く。うなだれているようにも、見えただろう。
小夜美に背を向けたままの智也は、小夜美の様子には気づかず、答えた。
「いいも悪いもないさ。それが今の俺には、自然なんだもの。……って、小夜美さん?」
微笑みつつ振り向き、智也は三度驚きに目を開いた。
「ど、どうしたの? 俺、なんか変なこと云った?」
「……ううん」
小夜美は、涙を流していた。静かな涙が、止めどなく頬を伝う。
けれど、面を上げたとき、そこには笑顔が浮かんでいた。
「ありがとう、智也クン」
「な、なにが?」
智也は狼狽するばかりだった。小夜美は笑いながら、涙をぬぐった。
「お礼に、取り置きパンに今度からウニパン混ぜてくれるよう、お母さんに頼んどいてあげる」
「なっ……それって嫌がらせじゃない? 俺、やっぱりなんかひどいこと云った?」
蒼白になった智也を後目に、小夜美はさっさと歩き出していた。智也が慌てて後を追う。
「ねえ、小夜美さんってば……」
「ご飯食べて帰ろっか。おねーさんがおごってあげるよ」
「……なんか怖いんですけど……」
「あっそ。じゃあ家でひとりでラーメンでも食べなさい」
「あ、うそうそ、小夜美さん!」
ようやく追いついた智也が、小夜美の横に並んで歩く。追従の言葉を聞き流しながら、小夜美は呟いた。
「忘れたくない。そう思ってて、いいんだよね」
「……え?」
「なんでもないよ」
微笑んで、小夜美は空を見上げた。暮れてゆく空に、薄い月がかかっている。
忘れてはいけない、そう思っていた。償いのために、忘れることは許されないと。
でも、本当はそんなことではなかったのだ。いつまでも胸が痛いのは、弟を愛していたから。忘れてはいけないのではない。忘れたくない。つらくても痛くても、この想いを抱いていたいから。
そのことがやっとわかった。だから小夜美は、微笑んで夜空を見上げていた。
どこか透明感のあるその横顔の美しさに、智也は言葉も失くしてしばらく見とれた。しかし、自分でそのことに気づいて、照れたように、小夜美と同じく夜空へ目を向けた。
そのままの姿勢で、ふたりは長い間、ぼんやりと月を見ていた。
今はいない誰かを想うふたりは、それでも翳りのない笑みを浮かべていた。
あとがき
「かおるシナリオに失敗して彩花エンドになったあとの小夜美ねーさんのお話」です。わかりにくいシチュエーションですみません(^^ゞ。
今回は、メモオフのテーマを正面から否定するような話を書いてしまいました(^^ゞ。でも、作中の小夜美ねーさんの台詞「忘れることだけが、前へ進むことじゃないよ」、これは本当だと思うので。囚われていなければ、無理に忘れる必要はないと思うんです。
さて、この作品は有志によるメモオフ同人誌「Eternal」に寄稿したものです。小夜美ねーさんの魅力が、少しでも伝えられているといいのですが。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。
追記
これを書いたあと、設定資料本が発売になって、いきなり「小夜美ねーさんの弟の名前は克也」という設定が明らかになり、頭を抱えました(^^ゞ。でも、もう書いたものだし、「智」という私の案のほうが気が利いてるだろうと思って直しませんでした。志菜乃ねーさんの弟も「和也」だし、もうちょっとひねれよ>キッド、と、正直、思いますよね? ね?