率直に云って、詩音が学校の授業に身を入れることはほとんどない。
そんな暇があれば、読書に勤しんだほうが有益、と本気で考えている彼女は、ある意味、外見にそぐわず問題児であったかも知れない。
今日もまた、詩音は教師の熱弁を聞き流していた。
だが、本を読んでいるわけではない。ただぼんやりと、隣の席を眺めていた。
信がいるはずのその席は、今日で三日間、空いたままということになる。詩音はもうため息をつく気にもならなかった。
真冬の突然の告発以来、信は学校に出てこない。
無理もない、とは詩音も思う。あんな最悪な形で智也に真相が明らかにされて、どんな顔で会えばいいのか。事情を知る身として、どうしてあのとき真冬を止めるなり、信をフォローするなりできなかったのだろうかと、歯噛みする思いだった。
しかし、自分をこんな沈んだ気持ちにさせる本当の理由は別にあることを、さすがに詩音も自覚していた。
あれ以来、信は詩音に全く連絡を寄越していないのだ。
自分に何ができるわけでもないけれど、本当に苦しいとき、頼りにしてもらえない。そのことは、否応なく詩音に、真冬の言葉を思い出させた。
(あなたは……彼の何なの?)
本当に、何だったのだろう。彼に優しくされて思い上がっていた私は、肝心なときに何の役にも立たず、そしてこのまま、彼を失っていくのだろうか。
詩音は目を強く閉じて、涙がにじむのをこらえた。
物思いに深く沈む彼女は、その空いた席を自分と同じように見つめる二つの視線に、気づいていなかった。
*
ホームルームが終わり、帰り支度をした生徒たちが次々に立ち上がった。
詩音もまた、ゆっくりとした動作で、鞄を持って立ち上がる。しかし、どこへ足を向ければいいのかわからず、途方に暮れた。
図書室にいれば、彼が来てくれるかも知れない。帰り際、昇降口で待っていてくれるかも知れない。
そんな期待をするのにも、疲れてしまった。
立ち尽くしたまま、詩音は信の席をじっと見つめた。
しかし、再びにじみそうになった涙をこらえるため、すぐに詩音は目をそらした。そして、鞄を掴んで出ていこうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「詩音ちゃん」
「……はい?」
振り向くと、少し困ったような顔をした唯笑が立っていた。その横には、やはりどんな表情をすればいいのかわからない、という風情の智也がいた。
この三日間、詩音は彼らを避けてきたし、彼らもまた詩音に話しかけようとはしなかった。同じ人物のことを考えていたにも関わらず。
智也たちがどれだけ傷ついたかと思うと、詩音には云うべき言葉もなかった。あのとき、自分が余計なことをせず、信自ら本当のことを告げていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。すべての咎が自分にあるように、詩音には思えてしまう。
だから、彼らと目を合わすこともできず、詩音はうつむいて硬い表情を作っていた。
「……何か、ご用でしょうか」
「うん、その……」
「話があるんだ」
切り出し方に迷う唯笑を押さえて、智也が意外なほどきっぱりした口調で云った。
詩音は思わず顔を上げて、智也を見た。何かを決意したその表情は、詩音を落ち着かなくさせた。
「信のことで、話がしたい。つきあってくれ」
「……はい……」
強い視線から、思わず詩音は目をそらしてしまう。けれど詩音には、頷くしかなかった。
*
人に邪魔されず静かに話せる場所で、ということで、三人は図書室に来ていた。
沈黙したまま向かい合っていると、さっきカップを借りに購買へ行ったときの小夜美の言葉が思い出された。
(どうしたの? 三人でこれからお通夜にでも行くみたいよ)
ため息をこらえつつ、詩音は借りてきたカップに紅茶を注いで、智也と唯笑に差し出した。
「ありがと、詩音ちゃん」
一言礼を云って、唯笑がカップに口をつける。そしてすぐ、花のような笑顔を浮かべた。
「おいしい。やっぱり詩音ちゃんの紅茶がいちばんだね」
「ありがとうございます」
そんな何気ない一言にも、信を思い出して、詩音の心は痛んだ。
安心できると云ってくれた、私の紅茶。だけど、彼が今、必要としているのは、私ではない……。
「双海は、さ」
「は……はいっ?」
ひとりの考えに沈みかけたところでふいに声をかけられ、思わず詩音は――あくまで詩音にしてはだが――大きな声を出してしまった。智也と唯笑に目を丸くされ、顔を真っ赤にして周囲を伺う。幸い、図書室にはもう誰もいなかった。
「そんな詩音ちゃん見るの、初めてだねえ」
唯笑が少しからかうように笑う。けれどすぐ真顔になって、少し悲しそうな色を瞳に映した。
「信くんのこと、心配なんだよね」
「私は……」
「双海のところにも、連絡はないのか?」
思わず言い訳しそうになる詩音を遮って、智也が話を切りだした。詩音は何も云わず、ただこくんと頷いた。
「……ったく、どこ行ってんだ、あいつは……」
智也が天を仰いで、嘆息する。唯笑も肩を落としてため息をついた。
「家に電話しても出ないし……というか、どうも家にいないようなんだよな……」
「え……?」
詩音が面を上げると、智也は頷いて見せた。唯笑が身を乗り出してくる。
「そうなの。昨日、一緒に信くんの家、行ってみたんだけどねえ、会わせてもらえなくて。そのとき、なーんか、変だったんだよね、お家の人の様子が」
「稲穂さんの……家に……?」
詩音が目を何度か瞬かせる。その様子から、智也は、詩音の驚いていることが、信が家にいないことだけではないということに気づいた。
「俺が信の家に行ったら、なんか変かい?」
「そうじゃありませんけど……でも……」
じゃあ、稲穂さんのことを、どう考えているのですか? そう聞きたかったが、詩音は口にすることができなかった。
智也もそれ以上は追求しなかった。腕組みをしてしばし考え込み、そして唐突に立ち上がった。
「――よしっ」
「何々? 心当たりでも見つかった?」
唯笑が目を輝かして智也を見上げる。詩音もつい期待してしまった。
だが、智也は肩をすくめるだけだった。
「いいや、全然」
「――もう、なによう、期待させて」
「でも、こうしてたってしょうがないだろ。あいつが行きそうなとこ、探してみようぜ」
「うん、そうだね」
唯笑も鞄を持って立ち上がった。二人はそのまま図書室を出ようとして、ふと立ち止まって振り返った。
「何してんだ、双海?」
「……え……?」
詩音は座ったまま、紅茶のカップをじっと見つめていた。呼びかけられ、意外そうに顔を上げる。
「一緒に探しに行くんでしょ?」
なんの疑いもない様子で、唯笑はそう云った。
詩音はまた意外そうに、目を瞬かせる。
自分にできることなんてあるのだろうか。詩音はずっとそう考えていた。彼らのように、すぐ行動できることがうらやましかった。だけど。
「ほら、早く行こ。日が暮れちゃうよ」
唯笑が詩音の手を取って引っ張る。
「あ、ま、待ってください、カップを片づけないと……」
立ち上がりつつ、詩音は答えた。できることは、必ずある。そんな当たり前のことに驚きながら。
*
「……とは云ったものの……」
「いないねえ」
「……」
公園のベンチに三人は並んで腰掛け、同じようにため息をついた。
すでに日は沈みかかり、夕焼けというより、薄闇が迫っている。
コンビニで買った紙コップに紅茶を入れて、詩音は智也と唯笑に渡した。
「サンキュ」
「ありがと」
沈黙を紛らわすように、三人で紅茶を飲む。けれどやはり飲み終えたあとには、ため息しか出てこなかった。
信が行きそうなゲーセン、本屋、喫茶店など、町中のあちこちを回ってみた。しかし、どこにも信の影はなかったのだ。
「まったく、人騒がせな男だよな」
空になった紙コップを握りつぶし、智也が立ち上がって背伸びをした。唯笑と詩音のほうを振り返る。
「もう遅いからさ、二人は帰れよ。俺はもうちょっと探してみる」
「唯笑だって、まだ大丈夫だよ」
「私も……」
「そうは云ってもさ……」
云いながら首を巡らした智也の目が、何かを見つけたように大きく見開かれた。
まさか信が、と思って詩音と唯笑もその視線をたどる。
しかし、そこにいたのは、黒髪の美しい少女だった。
詩音は我知らず、息を飲んだ。
「あれ……もしかして……」
唯笑も驚いて、言葉を詰まらせる。智也がやや険しい顔で、頷いた。
「ああ、彼女……藤村真冬、だっけか」
真冬のほうは、智也たちに気づいていない。しゃがみ込んで、猫を構っているようだった。
辺りは薄暗かったのでその表情がはっきり見えた訳ではなかったが、三日前、校門で会ったときとは別人のように柔らかい顔をしているのは確かだった。まるで子供のような笑顔だったのだ。詩音たち三人は、そのギャップに驚いて、しばらく言葉もなく真冬を見つめていた。
「彼女なら……知ってるかもしれないな」
智也の呟きに、詩音の体はびくっと震えた。胸が熱くなる。今は信の行方を知ることが何より大事なはずなのに、真冬からそれを聞かされることには、耐えられそうになかった。
だが智也は、一歩一歩真冬に近づいていった。
真冬と遊んでいた猫が、智也の気配を感じて、走って逃げていく。
「あ……」
ふいに逃げ去った猫を、真冬は淋しそうに見送った。詩音の見間違いでなければ、一瞬、泣きそうな表情さえしていたかもしれない。
しかし、近づいた人影が智也だと、そしてその後ろに立つ唯笑と詩音に気づくと、真冬はたちまち氷の表情を取り戻した。意外な面を見られてしまった、という動揺さえ表さない。
「あら、奇遇ね、こんなところで」
立ち上がりながら、長い髪を後ろにかき上げる。傲慢なほど艶やかな仕草。さっきまで猫と戯れていた少女と、どちらが演技なのかわからないほどに。
「この間はどうも」
挑発的な態度に、しかし、智也は乗せられなかった。無表情なぐらいの静けさで、用件だけを切り出した。
「信がどこにいるか、知らないか?」
「……」
真冬がまっすぐに、智也を見つめる。探るような、挑むような視線。
詩音と唯笑は、息を飲んで二人を見守った。
「知っていても、教えると思う?」
「知っているなら、どんな手を使ってでも聞き出す」
激しくぶつかり合う視線。
この二人は本当に稲穂さんのことを大切に思っている。理由もなく、詩音にはそう直感できた。
「信を見つけてどうするの? 復讐でもしようとでも?」
「これだけ面倒かけられたんだ。一発ぐらい殴ってもいいかもな」
肩をすくめて、智也が冗談交じりに答える。だがすぐに真顔に戻った。
「ダチがいなくなれば、探すだろ。なんか不思議か?」
それはさっき図書室で詩音が聞いたのと、同じ台詞だった。
真冬は苛立たしげに、唇を噛んだ。
「どうして……! 信が憎くないの? 信のせいで、あなたの恋人は死んだのよ?」
「信のせいじゃない」
「そんなの……」
「それに」
なお言い募ろうとする真冬を、智也は静かに遮った。彼は激してもいなかったし、口調も至って穏やかだったが、何か不思議な迫力があって、真冬を沈黙させた。
「たとえそうであっても、俺は信を探す。信は俺にとって、かけがえのない親友だ」
「……!」
拳を握りしめて、真冬は智也を睨んだ。智也は静かにその視線を受け止めている。
やがて真冬のほうから目をそらした。固く唇をひき結ぶその横顔に、智也は言葉を続けた。
「あんたが、そうやって信を探してるようにだ」
「なっ……」
真冬が初めて、動揺を露わにした。智也を睨もうとするが、その視線を受け止めることができず、またすぐに横を向く。氷の仮面が、はがれ落ちようとしていた。
「あんたが、何を失っても、信を取り戻したいと思うのはわかる。だけど、俺たちだって同じだ。それはわかってくれ」
真冬はもう答えない。唇を噛みしめて、肩を震わせていた。
そんな真冬に唯笑が近づき、そっと肩に手を置いた。真冬は振り払いもせず、目を背けるだけだった。
「ほんとは、わかってるんだよね」
「……」
「信くんが、好きになったひとだもん。わからないはず、ないよ。ね」
いつの間にか日は完全に沈み、公園の街灯が灯されていた。弱々しい光に照らされて、真冬の頬を涙が一雫だけ、伝った。
「……バカなんじゃないの、あんたたちって」
詩音たちに背を向けて、真冬はそう呟いた。そのまま数歩歩き、背を向けたままで、小さな声で云った。
「信が見つかったら教えて。お願い」
「お互いにな」
真冬はかすかに頷いたようだった。そのまま振り返らずに歩き去る後ろ姿を、三人は黙ったまま見送った。
「……未だ手がかりはなし、か」
智也が手を頭の後ろで組み、大きく息を漏らす。
「だねえ」
唯笑も相づちを打ちつつ、ため息をついた。
「やっぱ、もう一回、信の家に行ってみるか……ん?」
云いながら詩音のほうに振り向き、智也は驚いて言葉を失った。唯笑も気づいて後ろを向き、目を瞠った。
「ど、どうしたの、詩音ちゃん?」
「……え?」
詩音は意外そうに、首を傾げる。唯笑が心配そうに眉をひそめて、云った。
「泣いてるよ……?」
「え……?」
詩音は手をあげて、自分の頬に触れてみた。しめった感触に、自分で驚く。
「え? え?」
止めどなく涙が流れる。唯笑が詩音に駆け寄り、ハンカチを当てて涙をぬぐった。
「大丈夫? どうしたの?」
「わかりません……ただ……」
「ただ……?」
ただ……なんだろう。詩音は考えた。
感動は、していた。智也の信を思う友情に。真冬の信への愛情の深さに。
だけど、それだけではなかった。そう、私は――。
「うらやましかったから……」
「うらやましい……?」
唯笑が怪訝そうに繰り返し、智也の顔を見上げる。智也も不思議そうに首をひねった。
そうしている間も、詩音の涙は止まらなかった。
あんなに真っ直ぐに、誰かを大切に思うこと。人を傷つけても、自分がどれだけ苦しい想いをしても、それでも見失わない、大切な何か。
それをひたむきに信じることが、いつから、どうして、私はできなくなったのだろう。
怖い? 何が? どうして?
いつの間にか、詩音は唯笑に抱きしめられ、その胸の中で泣きじゃくっていた。唯笑は詩音の髪を優しく撫でながら、囁いた。
「詩音ちゃんがうらやましく思うものなんて、唯笑たち、何も持ってないよ?」
詩音が激しく、かぶりを振る。唯笑はいっそう優しい仕草で、詩音の髪を撫で続けた。
「ほんとだよ。唯笑たちが持ってるものは……詩音ちゃんも、同じように持ってるものだから……」
「……え……?」
涙に濡れた顔を、詩音が上げる。笑顔の唯笑と智也。そこにある、かけがえのないもの。
「信くんのこと、大事に思ってるでしょ?」
「……」
「唯笑たちのことも、だよね? 自惚れかな?」
「唯笑さん……」
「ま、ちょっとランクは落ちるかもな」
「うーん、まあ、それはしょうがないかぁ」
「私……私は……」
屈託なく笑う智也と唯笑に、何も考えず、笑顔を返すことができたなら。きっと、彼らの云うことを信じられるだろう。
それでもまだ自分への言い訳を考えていることに、詩音は絶望したくなった。ただ今、自分を包んでくれているこの暖かさ、それだけが唯一の希望に思えた。
「……さて、これからどうしようかな」
「信くんの家に行く?」
「そうだなあ……」
顎に手を当てて考え込んだ智也は、しばらくして、何かを思いだしたように顔を上げた。
「搦め手からいくか……」
「ほえ?」
「……?」
*
古びたアパートの門の側で、信は突然足下にまとわりついてきた犬に驚かされた。門には「朝凪荘」と書かれている。
「うわっ、なんだよ、お前。どっから来たんだ?」
もちろん、犬が答えるはずがない。ただ嬉しそうに足にじゃれつく犬を抱え上げ、信は笑った。
「なんだ、お前もここが気に入って住みたいのか? しょうがねえ、じゃあ、俺から家主に話つけてやるよ」
やはり嬉しそうに、犬がワンワンと吠える。信は犬を下ろし、自分もしゃがみ込んで腹を撫でてやった。
「じゃあ、名前がいるな。……トモヤってのはどうだ? 頭悪そうな名前だけどな」
「誰が頭悪そうな名前だって?」
「――えっ……」
驚いて信が振り向くと、そこには智也が立っていた。後ろには詩音と唯笑もいる。
「智也……詩音ちゃん……なんで……」
「とりあえず、一発殴らせろ」
茫然と立ち上がる信に近づき、そう云った瞬間には、智也の拳が信の頬をとらえていた。思わず詩音と唯笑が目をつぶる。
信はよろけつつ、何とか転ばずに踏みとどまった。犬が驚いて、智也に向かって吠えたてる。
「お前ら……なんで、ここが……?」
「なんで、はこっちが聞きたいことだけどな」
「お姉さんに教えてもらったんだよ」
唯笑が智也の背中から顔を出しながら、笑顔を見せる。信は唇ににじんだ血をぬぐいながら、しかめ面を作った。
「……あのおしゃべりが……」
あれから、詩音たちは信の姉がバイトをしている喫茶店に行って、事情を説明した。信の姉は、とりあえず状況が落ち着くまでは内緒にしとこうって話だったんだけどね、と前置きして、信が家を出たことを教えてくれたのだった。
「で、お前はどういうつもりなんだ? 突然、家を出る、学校もやめるなんて云いだして、家のほうでも頭抱えてるそうじゃないか」
「……」
信は目をそらしたきり、答えない。智也は信の胸ぐらを掴み、無理矢理自分のほうへ向かせた。
「智ちゃん、あんまり乱暴なことは……」
唯笑がたまらず止めようとするが、智也は腕の力を緩めはしなかった。
「俺に合わせる顔がない、なんて理由だったら、もう一回殴るぞ」
信が顔を上げて、智也の目を見つめる。互いに睨むような視線を交わしたあと、信は小さく、笑った。
その笑みは、場を誤魔化そうとするのではなく、泣き出しそうなのをこらえているように、詩音には思えた。
「お前って、こんな熱血バカだったか?」
「時と場合によるんだよ」
ようやく、智也が信から手を放した。信は胸元を引っ張って服を直しながら、もう一度笑った。
「お前がそんなだから、だよ」
「……?」
「ひとりに、なりたかったんだ。ならなきゃいけないと、思った」
「信くん……?」
信は首を巡らして、智也と、唯笑と、そして詩音を順に見つめた。詩音は信と目が合うと、頬が熱くなるのを感じた。そのことに気づいているのか、信はいつものように、優しく微笑んだ。
「償いを、したかった。そう思ってた。だけど、俺は……逃げていただけだ。ずっと」
「信……」
「あの事故の場所から逃げ、真冬から逃げ……、償いをしたいなんて云って、結局、智也や唯笑ちゃんの優しさに、俺のほうが救われただけだった。そして、今度は詩音ちゃんに……」
「稲穂……さん……」
「今度のことも、きっと智也なら許してくれるだろう。そう思った。だけど、それじゃダメなんだ。お前たちに甘えているだけじゃ、俺はもう自分が許せない。ひとりになって、自分に何ができるのか、何がしたいのか、考えてみたい。そう思ったんだ」
沈黙が降りる。
だからって、姿を消すことはないだろう。水くさいんだよ、バカやろう。智也はそう思った。
唯笑たちだって、信くんの優しさに救われてきたの。今こうしていられるのは、信くんのおかげなんだよ。唯笑はそう云いたかった。
けれど、沈黙を破ったのは、静かな、低い声だった。
「そんなの……勝手です……」
「え……?」
「双海?」
「詩音ちゃん……?」
三人の視線が、詩音に集まる。詩音は震える肩を自分自身で抱いて、うつむいたまま、言葉を詰まらせていた。
「そんな……何もかもひとりで決めてしまって……、それなら、私の……私は……!」
詩音が顔を上げて、まっすぐ信を見つめた。涙に濡れたその瞳を、紅潮した頬を、信は初めて見る想いで見つめ返した。
必死で何かを伝えようとするその姿には、真冬の凄絶さに劣らない、ひたむきな美しさがあった。
「私の……私の気持ちは……!」
もうそれ以上は、言葉にならない。
同じく何も云えず立ち尽くす信の背を、智也が思いっきり叩いた。
「――っ」
よろけながら振り向いた信に、智也が不器用にウィンクをして見せる。苦笑しつつ、信は詩音に近づいていった。そっと手を伸ばして、頬に触れようとした、そのとき。
信の動きが、止まった。
怪訝に思った智也がその視線をたどり、息を飲む。振り返った詩音と唯笑も。
真冬が、立っていた。
*
会うたびに、真冬の印象は変わる。詩音はふとそう考えた。
炎のように激しく、氷のように冷たく、子供のように無邪気で、そして今は――。
夢のように、はかなかった。
もちろん、きつい面差しや、強い意志を秘めた瞳の色に変化はない。それでも、どこか心細げに立っているように、詩音には思えた。
「真冬……」
信が真冬に向かって、一歩足を踏み出す。
「俺は……」
「待って」
真冬が手を挙げて、信を制した。固く結んだ唇が、やはり痛々しく詩音には見える。
「二人で……ううん、三人で話をさせて」
そう云って、真冬は詩音を見た。今度は、刺すような視線ではなかった。
智也が信のほうに目を向ける。信が頷くと、智也も頷き返して、唯笑を促して歩き出した。
「あとでレポート出せよ」
軽口を叩く智也に、信は手を軽く振って答えた。
残された三人はしばらく黙っていたが、やがて真冬が、やはり猫のように微笑んだ。
「話は、聞かせてもらっちゃった」
「そうか」
「……あんた、やっぱり勝手よ。全然変わってない」
信は少し困ったように、眉をひそめた。真冬はその顔をじっと見つめる。切れ長の瞳に、涙が浮かんできた。
「なんでも、自分で勝手に決めちゃって……、なんでも……自分のせいだって抱え込んじゃって……、バカなんじゃないの……?」
「そうかもな」
信が苦笑する。真冬も目に涙を浮かべたまま、微笑んだ。
詩音は真冬の本当の笑顔を、初めて見た。その瞬間、信が彼女を愛した理由が、わかったような気がした。
そしてそれは、不思議と苦い気持ちではなかった。
「双海さん、だっけ」
真冬が詩音のほうに向き直り、云った。静かなその視線を、詩音もまた穏やかに受け止めた。
「はい」
「もう一回訊くけど……あなたは、信のなんなの?」
「私は……」
詩音は、信の顔を見た。信は戸惑ったような表情をしている。
詩音は微笑んで、真冬に視線を戻した。
「わかりません」
「……」
「だけど、私にとって、稲穂さんは大切なひとです。それは、わかります」
「詩音ちゃん……」
「……そう」
もう一度微笑むと、真冬は踵を返した。そして門のところで立ち止まり、振り向かずに呟いた。
「私、諦めないから」
「真冬……」
「油断しないことね」
その言葉を最後に、真冬は歩き去った。一度も振り返らず、凛と背筋を伸ばして。
「素敵なひとですね」
正直な気持ちで、詩音はそう呟いた。そして、少し悲しそうに頷いた信の手を、そっと握った。
「詩音ちゃん……?」
詩音は答えず、ただじっと信の顔を見つめた。
傷つくのが、怖かった。ひとりでいることに、安心さえしていた。孤独なんて、裏切られることに比べれば、遙かに受け入れやすいものだった。
だけど。この手にあるぬくもり。胸を熱くさせる何か。それを失うことよりも、怖いことがあるだろうか。
微笑む詩音の頬を、また涙が伝う。信は手を伸ばして、その雫をぬぐった。
「稲穂さん……」
「なに……?」
「お話ししたいことがあります……。あなたに聞いてほしいこと……たくさん……」
「……うん」
信が笑顔で頷く。詩音の大好きな、その笑顔で。
詩音は微笑んで、そっと、目を閉じた。
あとがき
「Last Regret」を超える難産でした……。
やはり信のキャラメイキングをもっとしっかりやってから始めるべきでしたね。猛省(--;)。とりあえず作ったもん勝ちってことで、なんかやりたい夢とか持たせとけばよかった。でないと、彼の行動に説得力がないですよね。はあ。
でも、2ndが発売されるともう出る幕なくなっちゃうし。ということで、駆け込み公開です(^^ゞ。
正直、最初は完結編書くつもりはなかったんですよね。詩音ファンの人って、信とのカップリング嫌うみたいだから(^^ゞ。それを書く気になったのは、某所で穂波さんが全然オッケーと云ってくれたからですね。
あと、村山由佳の一連の著作を読んで、ラブストーリー書きたいなあと思って。だから、じみぃさんが村山由佳を薦めてくれなかったら、やはり書くことはなかったかも知れない。
ということで、ここで勝手ながら穂波さんとじみぃさん、おふたりに感謝させていただきます。ありがとうございましたm(__)m。
村山由佳の影響は、随所に出てますね。実は何も解決してない終わらせ方とか、特に(^^ゞ。
さて、これは結果的にアナザーストーリーということになってしまったのですが、「本編」たる「Bridge」はどんな出来だったのでしょうか。私が「こんなもん公開するんじゃなかったよ(--;)」とへこむぐらいの名作であることを期待しておきます。
最近、あとがきが長いな(^^ゞ。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。