ピアノの音が途絶えたことに気づいて、白河静流は読んでいた本から顔を上げた。
ピアノの前のほたるは、窓の外を見つめている。外は、静かな雨が降っていた。
そのほたるの表情は、なぜか静流に、声をかけるのをしばしためらわせた。
「……どうしたの?」
「――え?」
まるで静流に訊かれて、初めて自分が手を止めていたことに気づいたように、ほたるは驚いて振り向いた。心配そうに自分を見つめる静流に小さく微笑み、ほたるは首を振った。
「ううん、なんでも。ちょっとぼーっとしてたみたい」
「そう? なら、いいんだけど」
「もうじき発表会なのに、こんなんじゃダメだね」
そう云ってピアノの前に座り直したが、ほたるは弾き始めはしなかった。再び思い詰めた表情で、鍵盤を見つめている。
今度は、静流は声をかけなかった。いや、かけられなかったと云ったほうが正しかっただろう。それほど、ほたるの表情は静流の胸を突いた。
「……あ、私、そろそろ出かけなきゃ」
わざとらしく時計を見て、静流は声を上げた。ほたるがまた、はっと顔を上げて、静流を見る。
「こんな雨の日でも、プロレス見に行くの?」
「天気は関係ないでしょ。どうせすぐやむよ」
見かけによらない姉の趣味を、ほたるはいつもからかう。静流は内心ほっとしつつ、言葉を返しながら部屋を出ようとした。
――しかし。
「お姉ちゃん」
ふと声をかけられ、振り向いた静流は、一瞬、身をすくませた。
ほたるの視線。その表情。
静流はそこに、甘えん坊の妹ではなく、ひとりの「女」を見た。
(……知っている?)
そんな静流の動揺をわかっているのか、ほたるはすぐいつも通りに笑っていた。
「気をつけてね」
「う、うん」
静流は逃げるようにドアを閉めた。
*
「遅いよ、静流」
「ごめん、小夜美」
駅前でベンチに腰掛けていた霧島小夜美は、走ってくる静流の姿を認めて立ち上がった。長い髪が、風に吹かれて揺れる。そのまま腕組みをして、軽く静流を睨んだ。
「もう、自分から誘っといて」
「だから、ごめんってば。……もう、すっかり小夜美のほうが楽しみにしてるみたいね?」
「そ、そんなことはないけど……」
思いがけず逆襲を受けて、小夜美は少し頬を赤らめた。
最初、チケットが2枚あるから……と、静流に無理矢理連れていかれたときは、プロレスなんて、とさんざん文句を云っていたのだが。
「いいから、早く行こ」
「うん」
きびすを返して、小夜美が改札に向かおうとする。静流も頷いてあとに続こうとしたのだが、急に小夜美が立ち止まったので、危うくつんのめりそうになった。
「な……なに、危ないよ」
「……」
答えず、振り返った小夜美はじっと静流の顔を覗き込んでいた。静流はどぎまぎして、視線をさまよわせてしまう。
「なに、どうかしたの?」
「……なんか、あった?」
「ど、どうして」
ごまかそうにも、その態度が何より雄弁に語っていた。
しかし、小夜美はそう云ってはみたものの、深く追求するつもりはないようだった。
「なんとなく、変な気がしたから。なんでもないんならいいんだけどね」
「小夜美……」
「ごめん、変なこと云って。行こっか」
微笑んで、今度こそ小夜美は改札へ向かった。静流も黙ってそのあとを追う。
ホームで電車を待っている間、なんとなく二人の間に会話はなかった。小夜美は小雨の降る空を見上げ、静流は少しうつむいて立っていた。
やがて、まもなく電車が到着する、というアナウンスが聞こえたとき、静流がうつむいたままでぽつりと呟いた。
「かけがえのない想いとひきかえにしてもいいものって、あると思う?」
小夜美は空から視線を静流の横顔に移した。静流は少し青ざめて見える。
静流のほしい答えがなんなのか、小夜美にはわからなかった。だから、自分が思うとおり、正直に答えた。
「ないよ」
静流がゆっくりと面を上げる。すがるようでさえある視線を向ける親友に、小夜美は優しく微笑んだ。
静流は何も答えず、小さく頷いた。
聞こえない振りをしてきた、心の言葉。いつからか抱いていた、痛みと切なさ。
そして……かけがえのない、この想い。
それを正面から見つめてみたい。そう思った。
「雨、あがったね」
小夜美は再び空を見て呟く。
雲の隙間からわずかに射し込む光を見上げて、静流がもう一度頷いた。
あとがき
キッドのホームページでメモオフ2ndのオープニング「明日天気に…」が公開されていましたので、それを聴いて即興で作りました。もちろん、静流ねーさんおよびほたるの性格設定は仮です(^^ゞ。静流ねーさんのシナリオは、ほんと、想像するだけで怖いですね(^^ゞ。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。