目の前の状況が、あたしには信じられなかった。
ルルージュの鎌を、間一髪防いだマリアが、飛びすさって銃を構える。そんなマリアを、氷のような視線で見据えるルルージュ。
もし、あと数秒、ルルージュが現れるのが遅ければ、あたしはきっと生きていなかった。
でも、どうして? ルルージュは……あたしを……助けに来てくれたの……?
「……」
ルルージュはやっぱり、あたしの方なんて見ようとしない。
あたしも問いかけることさえできず、座り込んでしまっていた。恥ずかしながら、今更、腰が抜けてしまったのだ。
しばしの沈黙のあと。仕掛けたのは、ルルージュからだった。
緋色の姿が流れるように走り、ソウルイーターの刃がきらめく。マリアは銃で牽制しながら下がっているけど、押されているのは明らかだった。
こんな接近戦では、銃は不利だ。ルルージュはあんな大降りの武器を、あんな華奢な腕で軽々と振り回しているし。
さらに、マリアにとって致命的だったのは。ルルージュには、とっても頼りになる相棒がいたってこと。
「チェックメイト、かな〜?」
音もなくマリアの背後に回り込んだ白い影が、彼女の首筋にフォトンの刃を突きつけた。
「……ちっ」
舌打ちして、マリアが動きを止めた。背後を完全に取られ、正面にはルルージュ。さすがの彼女も抵抗を諦めたようだ。
千鳥は微笑んで、マリアの手から銃を奪った。
そう、千鳥もやっぱり、笑顔のままだった。だけど、それはあのときと同じ笑顔だ。感情のない、仮面の笑顔。千鳥が、きっとあたしには見せたくないと思っていた姿。
それはおそらく、千鳥が本当に怒っている証拠なんだろう。
でも、それはどうして? ルルージュが傷つけられたわけじゃないのに。彼女の怒りの元となっている、それは――。
「じゃあ、事情を説明してもらえるかな〜?」
「……」
マリアは怯えた風もなく、つんと視線をそらした。その前に、ソウルイーターの刃が突きつけられる。
「黒衣のマリアも、ずいぶんと趣味が悪くなりましたこと。こんな子供をいたぶって、何になりますの」
……子供。それはそうなんだけど、はっきり云われると、やっぱり落ち込むなあ。
わずかに恨みがましくなっていただろう、あたしの視線を、ルルージュはいつも通りきっぱり無視していた。そうして、つまらなそうな態度のままで、言葉を続けた。
「あなたの一存では、ありませんわね」
「……さあ?」
マリアはやはり動じることなく、冷笑して見せた。死を覚悟しているというより、まるで危機を一切感じていないみたいだ。
ルルージュたちが、自分を殺すはずがないと思ってるんだろうか。……残念だけど、ルルージュはそんなに甘くない。それに、マリアもそんな甘い期待をするようには、思えないんだけど……。
「私に云わせれば、あなたたちがこんな小娘にそこまでムキになる方が不思議だわ。『青の戦慄』と『緋の蠍』が庇護してやらなきゃならない価値が、その子にあるの?」
「尋ねているのは、こちらですわ」
「教えてくれれば、代わりになんでも答えるわよ。もし、何か特別な力があるのなら、『教授』に報告しなくちゃならないもの。貴重なサンプルだってね」
マリアが何を云っているのか、わからなかった。教授だとか、サンプルだとか。
でも、そんなことを気にしていられる状況ではなかった。
マリアがそう口にした瞬間、千鳥は蒼白になって面を引きつらせ、ルルージュは激情にまなじりを裂いた。
文字通り逆上したルルージュが、ソウルイーターを振りかぶる。
だけど、あのままじゃ、千鳥まで一緒に――!
「ルルージュ、ダメ!」
あたしは叫びながら、彼女に駆け寄ろうとした。その声に、はっとルルージュが我に返り、刃を止める。千鳥も一瞬、あたしに気を取られた。
その隙を、マリアは見逃さなかった。千鳥の腕から素早く逃れ、武器を拾うと、洞窟の闇の中へ駆け出した。
「……」
忌々しげに、ルルージュがマリアの去った方を睨み据える。
あたしは、また、ルルージュの邪魔をしちゃったんだろうか。あそこで止めるべきじゃなかった?
――ううん、そんなことない。もし本当に必要だったなら、どんなことがあっても、ルルージュは自分の手を止めたりしないはずだ。ルルージュが千鳥に手をかけるなんて、そんなこと。でも。
「……北都ちゃん」
「――え」
呼びかけられ、はっと振り向くと、千鳥がそばに立っていた。瞳を涙でいっぱいにした彼女は、膝をつくと、手を伸ばしてあたしを抱きしめた。
「ち、千鳥……?」
「よかった……無事で、よかったよ……」
そう云って、千鳥はあたしに頬ずりをした。涙の雫があたしの頬にも触れて、そのぬくもりにあたしは驚いた。
「千鳥……」
どうしようもない喜びと安堵が込み上げてくる。だけど同時に、拭いきれない不安もまだわだかまっていた。
千鳥は、優しすぎるから。あたしを拒むことが、きっとできない。
その優しさに甘えて、彼女を傷つけてしまうなら、やはりあたしは彼女たちから離れるべきなんじゃないだろうか。
あたしは思わず、そばに立つ緋色の魔女を見上げていた。
誰かに頼っていいことじゃない。あたしが自分で決めなきゃいけないことだ。
そうわかっていたけど、ほんの少し、背中を押してほしかった。あたしはここにいていいんだと、そう思えるような、何かが。
けれど、ルルージュはやはりあたしと目を合わそうとはせず、ふいと背中を向けた。
「……追いますわよ」
マリアが去った方向に、歩き出そうとする。あたしはとっさに声を張り上げていた。
「待って、ルルージュ!」
「……」
ルルージュが足を止める。振り返っては、くれない。
その背中に、あたしは祈るような気持ちで問いかけた。
「どうして……助けてくれたの……?」
「……」
「北都ちゃん……」
「どうして……? 答えて、ルルージュ……!」
耐えられないほど、重い沈黙。
実際にはほんのわずかな時間だったのだろうけど、あたしには永劫に近い長さに思えた。
そして。
緋の蠍のルルージュは、深い深いため息混じりに呟いた。
「……理由が、必要なんですの」
「……え……?」
「くだらないこと」
嘆きも諦めも蔑みもなく、ただ独り言のように言葉を吐き出して、ルルージュは歩き出した。
茫然としているあたしを、千鳥が手を貸して立たせてくれた。もう、いつもと同じように優しく穏やかに微笑んでいる彼女は、小首を傾げて、あたしの顔を覗き込んだ。
「北都ちゃんは、さっき、ルルージュを止めてくれたよね〜? どうして〜?」
「どうしてって、そんなの、当たり前……」
「……そういうことだよ〜」
「……」
「ね〜?」
千鳥が笑う。天使のように、屈託なく。
本当に? 本当に、あたしが想っているとおりだと、自惚れていいの?
早く追いかけないと、またルルージュに怒られるってわかっていたけど。あたしは千鳥にもう一度抱きしめられて、少しだけ、泣いた。
*
暗い洞窟を、あたしたちは走った。
マリアとはもうだいぶ差をつけられてしまったので、その姿を追うことはできない。だけど、ルルージュは諦めていなかったし、ただ闇雲に探し回ってるわけでもなさそうだった。
分かれ道にぶつかる度、ルルージュは軽く千鳥を振り向く。すると、千鳥は少し考えて、「こっちかな〜」と一方を指差すのだ。ルルージュは微塵の疑いも見せることなく、その方向にまた走り始める。
でも、どうして、千鳥にはマリアの逃げた方向がわかるんだろう? あたしなんかには全然気づけない痕跡が、どこかに残っているのかな? それに、そもそも。
「マリアは、まだここにいるの?」
「……」
「そうみたいだね〜」
「どうしてかな? ただ逃げるなら、シティに戻った方が確実だと思うんだけど……」
「それは〜」
「逃げているわけではない、ということですわ」
ルルージュが曲がり角で足を止めた。今度は千鳥に道を尋ねるのではなく、道の奥を伺うような様子を見せている。
「逃げてるんじゃない……?」
「マリアの目的が、もし北都ちゃんを殺すことだったら……きっと……間に合ってなかったと思うよ……」
とても云いにくそうに口にした千鳥の言葉に、あたしは今更息を飲んで、そのことに気づいた。
そりゃそうだ。殺そうと思えばいくらでもチャンスはあったし……そもそも、シャークに襲われたあたしをただ傍観していれば、彼女が手を下す必要さえなかったのだ。
だったら、マリアの目的はいったい……?
「北都さんを餌に、私たちをどこかへ誘い込みたかったのでしょうね」
ということは、転送装置へ案内してくれる、って云ってたのも、嘘だったってこと? 助けるふりをして、あたしを誘導して……。
だったら、この先にあるのは……!
「罠……!?」
「そもそもレンジャーは、敵を待ち伏せて遠距離から始末するのが得意なものですわ」
「さっきみたいな接近遭遇戦は、いちばん苦手なんだよね〜」
なんでもないことのように、二人はいつも通りの調子で云った。
それはとても心強いことなんだけど……でも、ほんとに大丈夫なんだろうか。三対一のメリットも、離れた距離からショットをばらまかれたら、意味がない。
そんな危険を冒してまで、マリアを追う必要があるんだろうか。いくら「敵」だからって……。
「……敵?」
何気なく浮かんだその言葉に、あたしは息を飲んだ。
つい先日、バトル中のあたしたちを襲ったあの事件。あれは明らかに悪意を持って仕組まれていた。
そして、あたしを騙して、ルルージュと千鳥を誘き出そうとしたマリア。それってつまり――。
問いかけるあたしの眼差しに、ルルージュが答えるはずはなく。彼女はいつもよりわずかに緊張した面持ちで、ソウルイーターを構え直した。
「私が先に出ますわ。マリアの位置を掴んだら、千鳥、彼女の動きを止めて」
「……了解〜」
「あ、危ないよ、ルルージュ!」
「承知の上ですわ」
それでも逃がすことができない――そういうことなの、ルルージュ?
彼女が死神の鎌を振るい続けたその理由が、突然、目の前で明らかにされそうな予感に、あたしの心臓は早鐘を打った。
ルルージュが角を飛び出す。
その途端、奥からフォトンの弾丸が数発放たれたんだけど――。
「……?」
あたしと千鳥は、安堵の息を吐くと同時に、目を見交わして首を傾げた。
マリアの攻撃はまるで見当違いの方向を向いていた。あれじゃ牽制にもならない。
ルルージュはとりあえず反対の壁際まで走り、様子を窺っているみたい。彼女も不審に思っているんだろう。
マリアはどういうつもりなんだろ? あれじゃ、自分のいる場所をあたしたちに明かしただけじゃない。
「北都ちゃん、行こ〜」
千鳥が無造作に歩き出した。あたしは焦って、彼女の腕を取る。
「ちょ、ちょっと待って、千鳥。まだ危ないよ! 何があるか……」
「ここにはもう、マリアの気配がないから、大丈夫だよ〜」
ニコニコ笑って、千鳥はそう答えた。
気配……? そういうの、わかっちゃうものなんだろうか。それはあたしと千鳥の実力の違い?
不得要領顔のあたしにもう一度微笑んで、千鳥はルルージュのいる方へ向かった。あたしも駆け足でそのあとに続く。
ルルージュも幾分警戒を解いた様子で、立っていた。
「外れ、だったね〜」
「……そうでもありませんわ」
云いながら、ルルージュはマリアが攻撃してきた方向を見ている。瞳にあるのは、獲物を狙う冷たい光。
「次が本番でしょう。こっちへ来い、という誘いですわ」
「……あ……」
「やっぱ、そうだよね〜。回りくどいのはいつものことだけど……何を考えてるのかな〜」
千鳥の表情がわずかに曇った。一方、ルルージュはいつも通り淡々と答えて、歩き出した。
「行ってみればわかりますわ」
危ないよ、とは、もう云えなかった。ただ、どんなことを目にしても、すべてを必ず受け止めようと決意して、あたしは緋色の影を追った。
*
果たして、そこにマリアは立っていた。
背後には、激流が囂々と音を立てている。こんな地下に、こんな水道があったなんて。
マリアはあたしたちを見て、薄く微笑んだ。嘲りに満ちた、あの笑みだ。
武器を向けようとはしない。例のクラッシュバレットを提げてはいるけど、銃口は地に向けていた。
もちろん、そんなことじゃ全然油断なんてできない。彼女の抜き手の素早さは、目の前で確認したことだ。
だけど、さっきルルージュたちが云ったように、待ち伏せて遠距離から仕留めるのがレンジャーの戦い方のはずだ。どうして、あたしたちを待ち構えておきながら、攻撃しようとしないんだろう。
ルルージュはマリアをまっすぐに睨み、その挙動を見逃すまいとしている。千鳥は辺りの様子を窺っているみたいだ。
「ようこそ。そんなところじゃ話しづらいから、こちらにいらっしゃいよ」
しれっと、マリアはそんな台詞を口にした。芝居がかった態度で、あたしたちを迎え入れるような礼までして見せる。
「……」
ルルージュは無言で足を踏み出した。
マリアの思惑はどうあれ、確かに、接近しなければ戦いにならない。テクニックを使う、という手もあったが、遠距離戦ならレンジャーであるマリアの方が有利だろう。ソウルイーターにこだわる、ルルージュのスタイルとも合わない。
もっとも、普段はダッシュで敵に斬りかかるルルージュも、今回は慎重に足を運んでいた。マリアがいつ銃口を上げても、対処できるように。あたしと千鳥も、そのあとに続く。
結局、マリアは冷笑を面に貼り付けたまま、手出しをせずにあたしたちを見ていた。
あと一歩で斬りかかれる間合いまで来て、ルルージュは足を止めた。
マリアが立っていたのは、激流に突き出した板場のような場所だった。……いや、これはむしろ……。
「いつまでもお客を待たせるものではありませんわ」
ルルージュが退屈そうに呟く。マリアは不敵に微笑むと、手元の機械を操作した。
「そうね、そろそろ始めましょうか、ショータイムを」
「――ひゃっ!?」
がくん、と足場が揺れる。周りを見回すと、足場が岸を離れ、激流に流されていた。
そう、これはやはり、岸に結びつけられた筏だったのだ。
逆巻く波に翻弄され、まともに立っていることも難しい――のは、あたしだけで、ほかの三人は、全く動じた様子もなく立っていた。いったい、どんなバランス感覚をしてるんだか……って、ひゃあっ。
「北都ちゃん、大丈夫〜?」
「う、うん、ごめんね」
また一際大きな揺れが来て、危うく転びそうになったところを、千鳥が支えてくれた。
その様子を横目で見て、ルルージュがまたつまらなそうにため息をついた。
「……それで? 余興はこれだけですの?」
「まさか。せっかちね。まずは舞台を用意しただけ。アトラクションはこれからよ。――ほら」
マリアが顎で、あたしたちの背後を指した。
ルルージュと千鳥は油断なく、あたしは思わず全身で振り返ってしまう。
「……?」
岩が見えたのだと、思った。あんなのにぶつからなくてよかったなあ、なんてバカなことを考えていて。
そしたら、その岩がどんどん大きくなってきた。
岩が大きくなんてなるわけがない。そう、それは動いているのだ。この筏に向かって、近づいてきている。
そして、それは岩と云うには、細長い形をしていることに気づいた。硬い甲殻に覆われ、頭と思しき辺りには仮面のような巨大な殻と牙、腹部に並ぶおぞましい節足。あれは――。
「で、でっかいムカデ!」
「ムカデは河を泳いだりしないんじゃないかな〜」
あんな化け物を前にして、千鳥はやっぱりのほほんとしてる。それは心強い、心強いけど――!
「……来ますわよ」
ルルージュの声に、はっと我に返る。いつの間にか、そいつは筏と併走していた。甲殻に空いた穴から、光弾が放たれる。
「――!」
千鳥があたしを抱えて、横っ飛びに飛んだ。ルルージュも、そしてマリアもその攻撃を避ける。
……え? マリアも?
「ちょ、ちょっと! なんなの、これ!」
「……さあ? 教授は、『デ・ロル・レ』って呼んでたわ」
「名前なんかどうでもいいの! あなたが操ってるんじゃないの!?」
「こんな化け物、操れるわけないじゃない」
肩をすくめて、さらりとマリアはそんなことを云ってのけた。
そんなバカな。マリアはこいつ、デ・ロル・レがここにいることを知った上で、あたしたちを誘い出したはずだ。それなのに、操ることもできないなんて。
それに、逃げようともしない。それは、その手段さえないということ?
自分の命さえ犠牲にする捨て身の罠を仕掛けながら、マリアは実に淡々としていた。それはルルージュの無関心さとも全然違う。なんだろう、この違和感は……。
「わわわっ」
一際大きい衝撃が来た。振り返ってみれば、なんとデ・ロル・レが半身を筏に乗り上げている。筏が大きく傾き、そして――。
「……本当に世話が焼けますこと」
襟首を捕まれ、猫の子のようにぶんと振り回された。そのあたしの目の前に、デ・ロル・レの触覚が突き刺さる。
ゾッとすると同時に、あたしを引っ張ってくれた手の主を見ると、彼女は眉をひそめてあたしを睨んでいた。
「戦うときは、目の前の敵に集中なさい」
「ご、ごめんね、ルルージュ」
あたしの返事なんてもちろん聞かず、次の瞬間にはルルージュはあたしを放り出して、ソウルイーターを振りかぶっていた。デ・ロル・レの触覚をかいくぐり、その硬い甲殻に鎌の刃を叩きつける。
さすがのソウルイーターでも、その殻を易々と切り裂くことはできない。それでもルルージュは斬撃を繰り返し、千鳥はラフォイエを連発してフォローしていた。
そうだ、ルルージュの云うとおり。すぐ自分の考えに沈んじゃうのが、あたしの悪い癖だ。今はまず、こいつを倒さなきゃ!
あたしはハンドガンを構えて、立て続けに引き金を弾いた。
とにかくでかいから、狙いをつける必要がないのはありがたい。――けど、甲殻が硬すぎて、あたしの攻撃程度じゃほとんどダメージを与えられてない。
それでも、何もしないよりはマシのはずだ!
そうやって、容赦なく繰り出されるデ・ロル・レの触覚を必死で避けながら、あたしたちが攻撃をしている間、マリアはやはり涼しい顔で、手出しをせずに眺めていた。
後ろから撃たれないだけいいのかもしれないけど、いったい、何を考えてるんだろう、彼女は。むかつくなあ。
と、マリアの方を軽く振り返った瞬間、また大きな衝撃があった。
まずい、また戦闘中に気を散らしちゃった。慌てて振り返ると、デ・ロル・レは筏を離し、再び水中に潜んでいった。そのまま徐々に遠ざかっていく。
……諦めた、のかな?
薄闇の中、目をこらしてデ・ロル・レの姿を追う。
違う、まだいる。ある程度距離を保って、追ってきている。
どうする気だろう、と思った瞬間、デ・ロル・レは蛇が鎌首をもたげるように、頭を高く掲げた。口元が蒼い光を放つ。
「――!」
飛び退く隙もなかった。あたしのすぐ横を青白い光が走り抜けた。そのまま水面に刺さり、一瞬、蒸気が浮かぶ。
生体レーザー! なんであんなもの持ってるの? こいつ……天然の動物じゃない!!
あんなのに当たったら一発でお終いだし、直接喰らわなくても、筏に当たればこんなのすぐ木っ端微塵だ。さっき乗り上げてきたとき、分解しなかったのが不思議なぐらい。
そんな戦慄をあざ笑うように、第二波が放たれた。
幸いだったのは、狙いをつける、という高度な真似はできないらしいってことだった。今度は避ける必要もなく、あさっての方向を飛んでいった。
苛立ったように、デ・ロル・レが金切り声を上げる。第三波。
今度も、あたしたちが立っている方には来なかった。しかし、その射線上には、黒衣の人影が、あった。
「マリア……!」
「……」
やはり彼女は動じない。それどころか、避けようともしない。ただ皮肉な笑みを浮かべたまま、迫り来る蒼い光を見据えていた。
あたしは。
考えるより先に、動いていた。
「な……っ」
「北都ちゃん!」
ジャンプして、マリアを押し倒す。その上をレーザーがかすめていった。髪の毛が少し焦げたような気がする。おまけに、ハンドガンを取り落としてしまった。初めてラグオルに降りて以来、愛用していた銃が転がり落ち、水の中に沈んでいく。
「あ……あーあ」
ハンターズになったとき支給されただけの代物とはいえ、やはりそれなりに思い入れがあった。茫然と水面を見つめるあたしに、怪訝そうな声がかけられた。
「……なんのつもり?」
振り返ると、マリアが不機嫌さを瞳に表して、あたしを睨んでいた。
別にお礼を云ってほしかったわけじゃないけど、その態度は、腹に据えかねた。
「なんのつもりって……それはこっちの台詞だよ! 死にたいの!?」
「あなたには関係ないでしょ」
「関係ないって……」
「私が死のうが生きようが、あなたには関係ない。むしろ死んだ方がいいんじゃないの? あなた、私に殺されそうになったの、もう忘れたの? ほんと、頭の悪い子」
立て板に水、という感じで、マリアはそんなことを云ってのけた。
あたしはもう頭に血が上って、言葉も出てこない。今がどんな状況なのかさえ、忘れてしまっていた。
そして、そんなあたしをいつも止めてくれるのは。
「確かに、あなたの生死は私たちに関係ありませんわ」
低い、退屈そうな声なのだ。
ルルージュはいつの間にかあたしの背後に立ち、マリアを冷たい瞳で見据えていた。
「けれど、三対一より、四対一の方が効率がいいのは、確かですわね」
「ルルージュ……?」
「……」
「こんな小娘に助けられたのが癪に障るなら、今この場で借りを返してはいかが」
マリアの電子の瞳が、煌めいた。人間なら、怒りに瞳を燃やしたというところだろうか。
ルルージュの挑発に対し、マリアはクラッシュバレットを持ち上げることで答えた。
「マリア、何する……」
とっさに、ルルージュの前に手を広げて立つ(ちびのあたしがそんなことをしても、長身のルルージュをかばうことなんて、ほとんど無理なんだけど)。
だけど、マリアの銃口は、もっと後ろを向いていた。第四波を放とうとしていたデ・ロル・レにフォトンの弾丸が叩き込まれ、怯んだ奴は再び体を水中に潜り込ませた。
「マリア……」
「また来るわよ」
マリアが不機嫌なまま、云い放つ。
その言葉通り、デ・ロル・レはまた泳ぐ速度を上げ、筏に追いついてきた。水しぶきを上げながら、筏に乗り上げ、触覚による攻撃を繰り出してくる。
ルルージュはすぐにそちらへ走り寄り、ソウルイーターを叩き込んだ。千鳥もラフォイエを唱え、マリアもクラッシュバレットを連射している。
あたしも……!と思ったけど……武器がない!!
「これ、使いなさい」
おたおたしているあたしの前に、マリアがさっき使っていた銃を突き出した。あたしのこめかみに押し当てられた、あの銃だ。
「え……?」
驚いて彼女を見上げたあたしの方を、マリアは見ない。不機嫌な態度そのままに、吐き捨てた。
「ルルージュが云ったでしょう。効率の問題よ。どのみち、あんなハンドガンじゃ役に立たないんだから」
「う、うん」
受け取った銃を構えて、引き金を弾く。これまでのハンドガンとは全然違う重い反動が来た。そして、デ・ロル・レの甲殻に穴が空き、金切り声が響く。
「すごい……!」
「ぼけっとしてないで、どんどん撃つ!」
「は、はいっ」
あたし、千鳥、マリアの三人は、触覚攻撃に巻き込まれないよう距離を取って、攻撃を繰り出す。ルルージュは単身、懐に飛び込み、敵の攻撃をかいくぐりながら斬撃を続ける。もちろん千鳥は回復と補助テクニックで、ルルージュをフォローし続けている。
そして、ついに。ルルージュ渾身の一撃が、デ・ロル・レの甲殻に突き立った!
陶器が砕けるような音とともに、デ・ロル・レを包んでいた甲殻が剥がれ落ちていく。中からはぶよぶよしたデ・ロル・レの本体が現れた。うう、気持ち悪いよう。
身を守る殻を失ったデ・ロル・レは、たちまち大きなダメージを受け、のたうち回る。やがて筏に掴まる力も失い、断末魔の呻きをあげながら、激流の中に飲み込まれていった……。
*
しばらくは、誰も何も云わなかった。
あたしは疲労困憊で座り込んでしまっていたし、さすがのルルージュや千鳥、そしてマリアも、荒い息をついていた。
気がつけば、水の流れがだいぶ緩やかになっている。ぼろぼろになり、もういつ分解してもおかしくない状態の筏は、岸にぶつかって、動きを止めた。
「……」
マリアが素早く、岸へと飛び移る。
そのあとをすぐルルージュが追い、千鳥も、そしてあたしもおっかなびっくりで続いた。
マリアは逃げようとするわけでもなく、例の嘲笑をやはり浮かべて、あたしたちを軽く見渡した。
「あのデ・ロル・レを倒すなんてね。『緋の蠍』も『青の戦慄』も、まだまだ現役ってことかしら」
「……」
「『黒衣の狙撃手』もね〜」
……あたしが数に含まれないのは、まあ、しょうがない。
千鳥はニコニコと微笑みながら、一歩、前に出た。そして。
「千鳥……?」
とても深い憂いを面に表して、小さな声で呟いた。
「これも、教授の差し金なの……?」
「『教授』……?」
マリアが何度か口にしていた言葉。特定の人物を指すであろう、その教授っていったい……?
「……そうよ。あなたたちの力がどんなものか、見てみたいとおっしゃってね」
マリアの言葉に、千鳥の憂いはますます濃くなっていった。
あたしはその姿に、不安で胸がいっぱいになる。千鳥は時々悲しそうな表情をするけど、ここまで深い憂いを見せたことはなかった。
どういうことなんだろう。教授って人と、千鳥と、マリア。きっとルルージュも無関係じゃない。
普通に考えれば、それが「敵」の正体なんだろうけど……それならなぜ、千鳥はそんなに悲しそうな顔をするの……?
「一歩間違えば、あなたも死ぬかも知れなかったのに……それを承知で……」
「……」
「本当、変わらないんだね、あの人は」
「……」
マリアの表情は動かない。
そうだ、千鳥の云うとおり、あれはマリアを犠牲にして初めて成立する罠だ。実際、彼女は命を落とすところだった。
そんなことを平然と命じる人がいて、それに盲従する人がいる。そんなこと、あたしには信じられない……。
しばしの沈黙のあと、千鳥はマリアを正面から見据えた。強い決意と覚悟を秘めたその表情は、いっそ悲壮だと云えるほど青ざめていた。
「教授に伝えて、マリア。私は絶対に帰らないって」
マリアが何か答えるより早く。緋色の影が、つと前に出た。
「――残念ですけど、それは無理ですわね」
「ルルージュ!?」
千鳥が驚いて、ルルージュの横顔に視線を向ける。ルルージュはそんな千鳥さえ無視するように、マリアだけを睨み据えていた。
「私は私の敵を見逃すほど、寛大ではありませんわ」
そう云って、ソウルイーターをマリアに突きつけるルルージュ。
それは、生かしてこの場を去らせない、という宣告だった。
マリアが嘲笑を深くし、クラッシュバレットを構え直す。
「……第二ラウンド開始ってことね」
「ルルージュ、待って……」
「マリア、あなたは北都さんを欺き、私たちに銃を向けた。その罪、その命で贖いなさい」
……え? ルルージュ、今、なんて……?
あたしが茫然と見上げ、千鳥がよりいっそう蒼白になって見つめる前で。
今まさに、ルルージュがマリアに斬りかかろうと、ソウルイーターを振り上げた刹那。
「そう云わないで、今日のところは退いてくれないかな?」
錆のある男性の声が響いた。
「――!」
千鳥が息を飲んだ。
ルルージュの瞳が燃え上がった。
マリアが、小さくため息をついた。
その場の全員の注視を受けて、マリアの背後の暗闇から、ゆっくりと男の人が現れた。
ヒューマン、だと思う。ローブのような衣装を着ているから、フォーマーだろうか? だとしたら、とても珍しい存在だ。
歳は……結構、若く見える。見えるんだけど……同時に、とても老成しているようにも感じる。いや、老成とは違う。なんだろう、生気がないというか……そう、まるで幽霊みたいな……。
そして、それとは対照的に、ルルージュはぎらぎらするほどの殺意を漲らせていた。いつもモンスターを相手にするときとは、比べものにならない。そばにいるだけで、首の後ろがチリチリするみたい。
そんな殺意を正面から受けながら、その人は涼やかに微笑んで、云った。
「私も、私の娘同士が争うのは見たくない」
「娘っ!? 娘って……」
あたしじゃない。そんなの、当たり前。
あたしはルルージュと千鳥を交互に見た。ルルージュは変わらず殺意で目を爛々と輝かせ、千鳥は……なぜか瞳を涙でいっぱいにしていた。じゃあ……千鳥が……?
「……教授……」
「久しぶりだね、千鳥」
とても優しげで――だけど、どうしてか背筋が寒くなるような微笑を、その人、教授は浮かべていた。
まるでその笑みが、その声が抗いがたい誘惑であるかのように、千鳥は瞳を固く閉じて、激しくかぶりを振りながら答えた。その様子とは裏腹に、その声はとてもか細かった。
「私は、あなたの娘じゃありません」
「つれないね。家出娘が帰ってきてくれれば、すべてが丸く収まるというのに」
「……」
「よく考えてくれ」
「考えるまでもありませんわ」
ぎりぎりまで引き絞られた弓が、矢を放つ。まさにそんな感じだった。
死神の鎌は、文字通り死を運ぶ旋風となって、教授の首筋に振り下ろされた。
あたしが今まで見た中で、それは最も速い一撃だった。なのに。
「君も相変わらずだな」
苦笑混じりにそう云った教授の首と紙一重の距離で、ソウルイーターは止められていた。
もちろん、ルルージュが止めたわけじゃない。
教授が首筋に右手を挙げていたので、あたしははじめ、彼が素手であの刃を止めたのかと思った。でも、いくらなんでも、そんなことあり得ない。
よく見ると、教授は手に何か持っていた。何か、カードのようなものを。
あんな薄いもので、あんな軽い動きで、ルルージュの一閃を止められるなんて。
あたしは驚愕に言葉も失っていたけど、ルルージュは動揺したりしない。即座に刃を引いて、もう一度振りかぶった。
教授は芝居がかった仕草で肩をすくめ、苦笑して見せた。
「どうしても、と云うならお相手するけど……君たちも今は万全の体調じゃないだろう? あのデ・ロル・レを倒したのはお見事だが、さすがに無傷とはいくまい」
その通りだった。先のドラゴン戦同様、いやそれ以上に、あたしたちはボロボロだった。特に常に接近戦を挑んでいたルルージュの消耗は激しい。さっきの一撃が出せたのが信じられないぐらいだ。
ルルージュはそんなことを意に介さず、それどころか戦意をますます高ぶらせているけれど。
「まあ、君なら確かにそれでもやるだろうね。だけど、巻き添えを食らう方はたまったものじゃないだろう。その小さい子は無事には帰れないね」
「――!」
教授があたしの方を指差す。あたしはカッとなって、思わず銃を構えた。
冗談じゃない。ルルージュの足手まといになるぐらいなら、あたしから――って、え?
「ルルージュ……?」
信じられない。ルルージュが、鎌を下ろしたのだ。敵を前にして、ルルージュが、戦闘態勢を解いた。そんな。
「聞き分けがよくて助かる。君も、もう自分の判断ミスで人が死ぬところは見たくないだろうしね」
相変わらず優しげに、表向きだけ優しげに、教授が云う。
ルルージュは唇を噛み、拳を振るわせていた。あたしが初めて見た、屈辱に震える、ルルージュの姿。
「卑怯者……!」
絞り出されたその声を聞いてしまったとき。
あたしはもう一度銃を構えて、引き金を弾こうとした。あたしのせいで、ルルージュが辱められるなんて、そんなこと許せなかった。
マリアが銃を構えるのが目に入る。あたしが撃つのと、どちらが速いか――。
「……っ」
激痛に顔をしかめたときは、銃を取り落としてしまっていた。驚いて見上げると、ソウルイーターの柄であたしの手を強打したルルージュが、冷ややかにあたしを見下ろしていた。
「ルルージュ……」
「……」
ルルージュは何も答えてくれない。
教授がまた薄く微笑み、マリアが銃を下ろして、教授のそばに歩み寄った。
「いい仲間に恵まれているようだ。次に会うのが楽しみだよ」
「……」
「教授、あなたは……」
「千鳥、僕には君が必要なんだ。忘れないでくれ」
「……っ」
「待っているよ」
教授がリューカーを唱え、その輪の中に二人は消えた。
残されたあたしたちは、しばらく何も云えなかった。ルルージュはすでに表情を消して、いつものように佇み、千鳥はうつむいて嗚咽をこらえているように見えた。
そして、あたしは悔しくて悔しくて、口を開けばその瞬間に泣き叫んでしまいそうで、教授が消えた空間を睨んでいた。
「……帰りましょうか」
ぽつりと漏らされた、つまらなそうな呟き。リューカーの詠唱。
浮かび上がった光の中に踏み込もうとしたルルージュの腕を、あたしはとっさに掴んでしまっていた。
「ごめんね、ルルージュ、あたしのせいで……っ」
「……」
「ごめん、ルルージュ、ごめん……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、謝った。
ルルージュは振り返ってくれない。だけど、あたしの手を振り払いもしなかった。
千鳥が愁いを含んだ微笑みで、あたしたちを見つめている。
「……戦ったら、負けていましたわ」
「……え……」
「無駄死にだけは許されませんの。だから、今のは、妥当な判断ですわ」
「ルルージュ……」
「帰りますわよ」
歩き出そうとするルルージュの腕を、あたしはまだ放さなかった。ようやく怪訝そうに眉をひそめて、ルルージュが振り返る。
その感情の読めない瞳を、あたしはまっすぐに見つめた。
「あたし、ルルージュのことが知りたい」
「……」
「ルルージュや千鳥のこと、もっとちゃんと知りたい。過去に何があったのか、教えてほしい。二人が背負ってるものを、あたしも一緒に背負っていきたい。だから」
「……」
「北都ちゃん……」
云ってしまった。
これまで分不相応な望みだと。あたしが踏み込んでいい領域じゃないと、自戒してきた。
過去なんかどうでもいい、それもほんとの気持ちだって思ってる。
だけど、マリアの云うとおり、知るのが怖かったっていうのもあった。
もしルルージュや千鳥が話したくないというなら、あたしは二度と訊かないだろう。でも、あたしはまだ尋ねてもいなかった。壁を作っていたのは、あたしの方だった。あたしたちは、仲間なのに。
静かな目の色でじっとあたしを見つめていたルルージュが、不意に空いた方の手を伸ばした。
ひっぱたかれるような気がして、思わず目を閉じて、身をすくめた瞬間。
柔らかく、頭を撫でられていた。
「……え……?」
目を開けると、ルルージュは未だまっすぐあたしを見つめていた。とても、とても悲しそうな色を、瞳に宿して。
「あなたはそんなもの背負う必要は、ありませんわ」
「……え……」
「あなたは今のまま、ただ真っ直ぐでいれば。……それが、千鳥の望むことなのですから」
「ルルージュ……」
「帰りますわよ」
云った途端、くるっと踵を返して、ルルージュはリューカーの輪に入ってしまった。引き留める隙もない。
あたしはほとんどぽかんと口を開けてそれを見送って、そして、おずおずと手を挙げて自分の頭に置いてみた。
そこにさっきまで触れていた、あたたかいぬくもり。
「いいな、いいな〜、北都ちゃん。ルルージュはなかなか撫でてくれないんだよ〜」
そんなことを云いながら、千鳥がそばにやってきた。彼女ももういつも通り、ニコニコと満面の笑顔を浮かべていた。
「……うん、びっくりした」
「あはは〜、そうだよね〜。でも、云っちゃダメだよ、怒るから〜」
コロコロと喉を鳴らして、千鳥が笑う。うん、もちろん、云えるわけない。そんなの怖くて……。
――って。
こんな大変な出来事があって、これからまだまだ恐ろしいことが起きそうな予感があって。
それなのに、あたしはいつもと同じように笑っている自分に気づいた。
結局、あたしが不安に思っていたものは、はじめからすぐそばにあったと、そういうことなんだろうか。マリアに何度も云われたとおり、あたしって、ほんとに頭が悪い。
「じゃあ、私たちも帰ろうか〜」
「うん……あ、これ、どうしよ」
そのときになって、ようやくあたしは自分が持っている銃に気づいた。マリアに借りたままだったのだ。
「もらっとけば〜」
「え、でも……」
「平気平気〜。マリアはいっぱい持ってるからね〜。見せて〜。……あ〜、ヴァリスタだね、らっき〜」
千鳥が笑顔で云うと、それも悪いことのように聞こえない。
ヴァリスタといえば、かなり名の知れた短銃のはずだけど……まあ、いっか。とりあえず借りとこ。うん。
「じゃあ、帰ろっか」
「うん〜。……ねえ、北都ちゃん」
「え?」
「ありがとうね」
「……ええっ?」
リューカーの輪に踏み込みかけたところで、思いがけない千鳥の言葉に、あたしは驚いて振り返った。
千鳥は、やっぱり微笑んでいた。だけど、それはいつもとは違う。
さっきのルルージュと同じように、とても、とても悲しげな――。
「ルルージュのそばにいてくれて、ありがとう」
「な、何云ってるの、千鳥?」
「……おかげで、私も覚悟が決まったよ〜」
「千鳥……?」
「さ、帰ろ〜。疲れたね〜、今日は〜」
問い返そうとしたときには、千鳥はあたしの手を引いて、リューカーに入っていた。
空間を越える不快感と、危機の連続で心身共に疲れ切っていたあたしは、シティに着くと同時に気を失ってしまった。
そのことを、あたしはものすごく後悔することになったのだ。
覚悟。
その言葉の意味を、どうしてあそこで問い質しておかなかったのかと――。
2003.4.21
あとがき
たいへんたいへんたいへん長らくお待たせいたしましたm(__)m。
前後編でここまで時間かかったのは初めてですね。序盤は割と早く書いてたし、デ・ロル・レ戦以降も固まっていたんですが、この間のシーンの繋ぎで難渋しておりました。ほんとはマリア対チーム・ルージュのシーンとかも入れようかなあと思ったんですけど、あんま冗長になっても何なんで、やめました。マリアとの対決はいずれ必ずあることですし。
今回はシリーズ中、随一のウェットさ、というのも、書くのが遅れた理由ではありますが。やはり悲しい話、痛い話は、執筆のテンション上げるのが大変です。でも、どうしても書いておかないといけない話だったんですよね。
なんか言い訳ばっかですけど、お待たせした分、後半は結構迫力あるんじゃないかと思ってみたり……ダ、ダメっすか?
さて、いよいよ『教授』が出てきて、役者が揃ってきた感じです。まだ全員じゃないですけどねー。ローズもまだだし。
次回はついに「青の戦慄」です! 千鳥過去編! いつになるかわかりませんが(^^ゞ、気長にお待ちいただけると嬉しいです。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。