真紅の絆  第一章 旅立ち

−前編−


     1

 冬休みの校庭。
 その隅の木陰に座り、武はぼんやりと空を眺めていた。
 近くを、練習中の陸上部の面々がランニングしていく。ふと視線を下ろしたが、汰一の姿はなかった。
 再び、空を見上げる。
 冬の空は透き通った青さで、どこまでも高い。
 武は、この半年あまりのことを考えていた。
 あまりにたくさんのことがあった。犠牲も……あった。
 そして、今、これから。「神」として、自分は何をしていくのだろう。
「人がひとりひとり小さな神となる」世界。そのためには、ただ見守るだけでいいのか。
 背負うものの大きさに、まだ実感が伴わない。
 だからこうして、ぼんやりと空を眺めていることが多くなった。万葉に心配をかけないよう、一人の時間を選んで。しかし、万葉はすべてをわかった上で、自分のやり方を見守っているのだろうという気もしていた。

「すべてこの世はこともなし……か」

「なに呑気なこと云ってんだよ。大変だぞ、武」

「……え?」

 不意に声をかけられて、視線を向けると、そこには汰一が立っていた。
 校舎のほうから走ってきたらしく、息が荒い。

「よう、汰一。練習はいいのか?」

「だから、そんな場合じゃないと云ってるだろう。沙夜先生のこと、聞いたのか?」

「沙夜……先生が、なんだって?」

 つい京都のときの癖で呼び捨てにしてしまいそうになる。
 慌てて身を起こしながら、武は聞いた。

「学校を辞めるそうだ。さっき、職員室の前を通ったら、偶然聞こえてきて……」

「辞める? なんでそんな急に?」

「わからん。ひょっとしたら……」

「――責任をとらされるってことか?」

 修学旅行のときの騒ぎは、大変なものだった。旅行中、無断外出、無許可の自由行動が相次いだ上、教師と生徒が一人ずつ失踪。しかもそれには教師である沙夜も関わっているらしい。問題にならないほうがどうかしていた。
 関係者すべての記憶を消してしまうことも、今の武なら可能だったが、響子の嘆きを見ては、とてもそんなことはできなかった。
 しかし、結局はすべてが謎のまま、迷宮入りしようとしている。沙夜も武たちも冬休み明けまでの謹慎ですむはずだった。

「詳しいことはよくわからん。先生に聞いてみるしかないな」

「沙夜先生が、そんな責任のとり方をするとは思えないんだが……」

「俺もそう思う。……お、噂をすれば、だ」

 校舎のドアを開けて、沙夜が出てくるのが目に入った。大き目の鞄を抱えている。私物を片付けたのだろうか。

「沙夜先生!」

 駆け寄る二人の姿を見て、沙夜は足を止めた。いつもと変わらぬ、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「あら、お久しぶりね、停学ボーズども」

「先生だって謹慎中でしょ。……じゃなくて!」

「辞めるって、ほんとなんですか?」

「え……」

 一瞬、虚を突かれたような顔をしたあと、沙夜は少し眉をひそめて微笑んだ。

「情報早いのね」

「そんな……どうして」

「やっぱり修学旅行の件で……?」

「ううん……そうじゃないの。ただちょっと、思うところがあってね」

「先生……?」

「うん……」

 しばし、沙夜は唇を噛んで沈黙した。
 武と汰一も、黙ってその美しい横顔を見つめる。
 ややあって、沙夜はまた少し寂しそうに微笑みながら、云った。

「そうね……やっぱり、ちゃんと話しておいたほうがいいよね。高原さんや斎さんにも。……今夜、みんなでうちに来てくれるかな?」

「沙夜……? いったい、何を考えて――」

「……わかりました。夜、伺います」

 性急に聞き募ろうとする武の肩を抑えて、汰一が答えた。

「ありがとう、じゃあ、またあとでね」

 足元に置いた鞄を持ち上げ、沙夜は歩き去った。
 その後姿を、武と汰一はしばらく黙ったまま見送った。

「どういう……つもりなんだろう」

「さあ……でも、よっぽどのことがあるみたいだな」

「ああ……」

 すべてのカタは京都でついたはず。
 だが、奇妙な胸騒ぎが、武の胸を冒していた。

     2

「せんせいっ! 辞めちゃうって、どういうことなんですか?」

 ドアを開けるなり、栞の叫びが轟いた。瞳はもう涙でいっぱいになっている。
 肩をすくめて、武が栞を部屋に押し込んだ。

「だから、これからその話を聞かせてもらうんだろうが。玄関先で突っ立ってないで、早く入れ」

「だってえ……」

「いいから」

「うふ……いらっしゃい」

 そんなやり取りを笑顔で眺めつつ、沙夜は4人を招じ入れた。

「適当に座っててね」

 お茶を入れに、台所へ立つ沙夜。手伝います、と云って万葉がすぐに席を立ち、それを見て栞も慌ててあとを追う。が、すぐに丁重に追い返されてきた。
 珈琲の香りが、部屋を満たしていく。謹慎中をいいことに、ここしばらく5人でよく遊びに行ったり、沙夜の家で鍋物をしたりした。こうした穏やかな時間に、すっかりなじんでいた。
 それなのに、なぜ?

「お待たせ」

 珈琲とケーキを運んできた沙夜の声が、武の思考を中断させた。
 下手な考え、休むに似たりだ。
 沙夜自身の口から事情を聞くために、こうして集まったのだから。

     *

「……で?」

 珈琲が行き渡ったあと、降りた微妙な沈黙を、短い武の声が破った。
 全員の視線が、沙夜に集中する。

「ん……」

 目を伏せて、沙夜が珈琲カップを口元に運ぶ。
 一口飲んで喉を潤わせたあと、小さな吐息とともに、沙夜は答えた。

「旅に出ようと思って」

「旅?」

「うん。……自分を見つめなおす旅、かな」

 照れたような、困ったような笑顔で、沙夜は云った。
 もちろん、その言葉を鵜呑みにするものはいない。

「茶化さずにちゃんと答えてくださいよ」

 このひとは相変わらず、自分の胸だけにしまおうとする。武は、ふとそんなことを考えた。

「茶化してるわけじゃないのよ。ある意味、ほんとに自分を見つめなおしたいって思ってるの」

「?」

「……これを見て」

 沙夜は手に持ったカップを机に置くと、両手のひらをその脇に添えた。カップに手は触れていない。
 そのまま目を閉じ、やや眉をひそめると同時に――ぴしっと、乾いた音がして、カップが二つに割れた。

「……」

 特に驚きの声はあがらなかった。その程度の力なら、今更珍しくもない。
 しかし、沙夜の面には、色濃い憂いがあった。

「このとおり、私の『力』はまだ失われていないわ」

「それが……?」

「それは……私の中の血が、まだ生きているということ」

「――!」

 今度こそ、誰もが息を呑んだ。沙夜の云わんとすることがわかったからだ。
 沙夜の力の源は、土蜘蛛の血にほかならない。その力が生きているということは、沙夜の中に「闇の血脈」が息づいているということだ。
 いつかその血に自分自身が呑み込まれてしまうかも知れない――。沙夜の不安は、まだ解消されてはいなかったのだ。

「すまない、沙夜、俺は……」

 千年の呪縛を断ち切ったつもりだったのは、自分だけだった。なにを浮かれていたのか。慙愧の念が、武の顔を歪ませた。

「ううん、これは私自身の問題だから……。私が、抱えていかなきゃいけないことなの。こうしている私も、土蜘蛛の私も、同じ私なんだから」

「沙夜……」

「それに、太祖が封じられたおかげで、負の想念がずっと少なくなってる。血がほしい、なんて云い出すことはないと思うわよ」

 いつもの、いたずらっぽい笑顔。その笑顔に、武は涙が出そうになった。どうしてこのひとは、こんなに強いのだろう。こんなに、優しくしてくれるのだろう……。

「……でも、どうして、旅に出なきゃいけないんですか?」

 栞が皆の疑問を代弁する。瞳は相変わらず涙でいっぱいのままで。

「だから、自分を見つめなおすためよ」

「……わかりません」

「あのね……」

 そこで、沙夜は武のほうに向き直った。笑顔を浮かべつつ、非常に真剣な眼差しで武の瞳を見つめる。

「武さんは、人も神も、土蜘蛛さえも共存できる世界を作りたいって云ってくれたわよね」

「ああ……」

「私も、そんな世界を見てみたい。土蜘蛛の者としてそう願わずにはいられない」

 祈るように、目を伏せる沙夜。

「そのために、私に何ができるのか、考えてみたいの。種族を超えてわかりあえるってことを、私は知っているから。だから……」

「闇の者に、逢いに行くんですか」

 それまで黙って話を聞いていた万葉が、口を挟んだ。
 射るような視線で、沙夜を見つめる。
 沙夜もまた、正面からその視線を受け止め、こっくりと頷いた。

「ご明察。さすがね」

「だけど、それは――!」

「高原さん」


 万葉の台詞を、沙夜の強い口調と――そして、なにより炎のような瞳が、遮った。思わず、言葉を飲み込む万葉。

「私に、やらせてほしいの。わかってちょうだい、みんな」

 ゆっくりと、全員の顔を沙夜が見渡す。
 しばしの沈黙。
 やがて、武が大きなため息をつきつつ、頭を振った。

「まったく……昔っから、こうと決めたら引かないよな」

「それはみんな、同じでしょ」

「違いない」

 輪廻の記憶がフラッシュバックし、全員が思わず苦笑を漏らす。
 もう、止められない。いや、止めるべきではないのかもしれない。
 武たちはそう考えることにした。

「……わかったよ」

「気をつけてね、先生」

「ありがとう、みんな」

 艶やかに、沙夜が笑う。
 このひとは、いつも笑顔で別れを告げる。残されたもの達に、悲しみを背負わさないために。

「……じゃあ、今夜はひとつ、ぱぁーっといきましょうか!」

「さんせーい!」

「え……ちょっと、先生?」

「高原さん。私はもう「先生」じゃないの」

「え……」

「……これもきっと止められないぞ」

     ※

「ちょおっと、もっと呑みなさいよ、たけるぅ。聞いてるのぉ」

「はいはい、呑んでますよ。……ああ、こぼれる、こぼれるって!」

 宴たけなわ……と云えるのかどうか。栞はビール一杯ですぐにつぶれてしまって、早々に寝息を立てている。汰一も意外に弱く、栞の介抱をするまもなくつぶされた。
 一方で、武と万葉は人並みの酒量ではほとんど酔えない。そもそも体質がすでに「人」ではないのだ。
 そんな武をどうにか酔いつぶさせようとしているのか、沙夜が矢継ぎ早に注いでくる。自分も同じペースで呑んでいるので、もうすっかり酔っ払いだ。
 頬を染め、潤んだ瞳でしなだれかかる沙夜の姿は、まさに「妖艶」の一言だ。心なしか、万葉の視線が痛い。

「沙夜……そろそろやめといたほうがいいんじゃないか」

「なぁんでよぅ。まだまだいけるわよぅ。あんたこそもっとしっかり呑みなさいよぅ。先生の云うことが聞けないの?」

「……先生は辞めたんでしょ」

「屁理屈云う男は嫌いだなぁ。キスしてあげないぞ」

「……結構です」

「素直じゃないんだからぁ。してほしいくせに。夏祭りの賭け、覚えてるわよ」

「――夏祭りの賭け? なんのことです?」

 黙って聞いていた万葉が、鋭く突っ込んでくる。

「いや、それは、あの……」

「あのとき、武さんったら、私をほっぽって高原さんを追っかけてっちゃったのよねぇ。あんまりじゃない? だ・か・ら。やり直し」

「だぁぁぁぁぁぁぁっ。いい加減にしろぉっ。万葉、なんとかしてくれよ!」

「いいじゃない、今日ぐらい。ねえ?」

「……今日だけですよ」

「……まよう……」

     ※

「先生、大丈夫ですか?」

「れぇんれん、らいりょうぶ、よ」

 ろれつの回らない沙夜に肩を貸して、万葉がベッドまで運んだ。着替えさせるのは断念して、体が冷えないように布団をかける。

「お水、持ってきますね」

「ごめんねえ」

 ひらひら、と沙夜が手を振る。苦笑しつつ、万葉は台所へ水を汲みに行った。
 沙夜が時折見せる子供っぽさ。そうした愛嬌が、万葉にとってはうらやましくもある。「いつも肩肘張ってちゃダメよ」そう云われているような気がするのだ。

「はい、先生、お水」

「はーい、ありがとー……」

 上体を起こして、水を飲む。コップ一杯を一息に飲み干して、ようやく少し落ち着いたようだ。照れ笑いを浮かべて、万葉にコップを戻した。

「もう一杯飲みます?」

「ううん、大丈夫。……ごめんね、ほんとに。みっともないとこ見せちゃった」

「そんなことありませんよ」

「ありがと。……ほんとにね、楽しかったんだ」

 そう云ったときの沙夜の瞳に、万葉は胸を締め付けられる思いがした。
 沙夜は笑顔のままであったし、声も沈んではいなかった。けれど、その瞳の中に、深い哀切を読み取らずにはいられなかった。
 それは自分も、そしてきっと栞も、同じように抱いてきたものだから。

「またきっと……すぐに、こうした時間が持てますよ」

「そうかな」

「ええ。必ず」

「……そうだよね」

 小さく微笑む沙夜。万葉も、微笑を返す。

「ありがと。じゃあ、寝るね。おやすみ」

「おやすみなさい」

 沙夜は布団をかぶり、壁のほうを向いた。
 電気を消して、万葉が部屋を出ようとしたとき――。

「高原さん」

「……え?」

「あのひとを、よろしくね」

「……先生……」

「おやすみ」

「……」

 万葉は、深々と頭を下げた。
 そして静かに、ドアを閉めた。

     3

 頬杖をついて、沙夜は新幹線の車窓に移る自分の横顔を見た。
 不安のせいか、少し顔色が悪いような気がする。みんなの前で、こんな顔をしていなかっただろうか?
 見送りには、4人とも来てくれた。もう止める言葉はなく、誰もが気をつけて、と云ってくれた。
 そんな彼らに返した精一杯の笑顔。強がりだと思われなかっただろうか。もっと念入りにメイクするべきだったかしら。
 そんなことをぼんやりと考えていたとき、不意に声をかけられた。

「お隣り、よろしいですか?」

「あ、はい」

 答えつつ、なんとはなしに声のほうを見上げ――。
 目が、点になった。

「あ、あなた……」

「はぁい、先生。お久しぶり」

「お久しぶりって……あなた……天野……さん……?」

「はい、秋津高校3年、天野聡子でぇす」

 そう、茶目っ気たっぷりに挨拶したのは、紛れもなく天野聡子――天に帰ったはずの薙だった。
 すっかり動転してしまった沙夜を尻目に、さっさと座席に腰を下ろす。そして鞄の中から、缶ビールを取り出した。

「先生も飲みます?」

「いえ……私は昨日、十分……」

「そうですか。じゃあ、私は遠慮なく」

「あ、あの……天野さん……?」

「え……?」

 缶ビールに口をつけたまま、薙が沙夜のほうに振り向く。
 何か云いたげな沙夜を見て、思いついたように目を丸くした。

「あ……! 生徒が先生の前で堂々とお酒飲んでたらまずいですね?」

「え……っと、その……」

「でも、先生はもう先生じゃないし、私ももう学生とはいえないから、固いこといいっこなしってことにしましょう。ね」

「そうじゃなくって……! あなた、どうしてここに?」

 やっと、訊きたかったことが口に出せた。
 しかし、薙は聞こえているのかいないのか、喉を鳴らしてビールを飲み干すのに夢中だ。

「あーーーーーっ。おいしいですねえ。太祖が酒で身を滅ぼしたのも、納得しちゃいます」

「あのねえ……」

「旅は道連れ、世は情け。一人旅なんかつまらないですよ、きっと」

「質問に答えなさい」

 2本目を開けようとした薙の手を押さえ、沙夜は強い口調で云った。
 薙が、沙夜のほうに向き直る。真剣な面持ち。そして。

「怒った顔もセクシー。先生って、女の目から見てもやっぱり素敵です」

「……いい加減に……!」

 思わず立ち上がって大声をあげそうになり――、周りの視線に、気がついた。赤面して、座りなおす。

「電車の中で大声出したら、周りの迷惑ですよぉ。ただでさえ美人二人で、目立ってるんだから」

「……もういいわ」

 再び頬杖をついて、窓の外を見やる。ほうっと、大きくため息をついた。
 そんな沙夜を横目に見ながら、薙は2本目のビールを開けた。一口飲んで、独り言のように呟く。

「パパとママに、頼まれたんです」

「……え?」

「先生を守ってやってくれって」

「武さんたちが……」

 さっきまでのはしゃいだ様子とは打って変わって静かな薙の横顔を、沙夜はじっと見つめた。
 涙がこぼれそうになるのを、こらえる。嬉しかった。だけど。

「……帰りなさい」

「……え……?」

 思いがけない言葉に、薙は沙夜のほうへゆっくりと面を向けた。
 沙夜は唇を噛み締め、薙の視線を受け止める。

「あなたたちの気持ちは嬉しいわ。でも、これは私ひとりでやらなきゃいけないことなの」

「どうしてですか?」

「どうしても、よ」

「そんなんじゃ、栞さんだって納得させられませんよ」

 肩をすくめて、ビールをもう一口飲む薙。

「まあ、いいんですけど。でも、こうしてまたせっかく召喚されたんだから、すぐに帰れじゃ、私の立場がありません。私は私で、好きにやらせてもらいます」

「……どういうこと?」

「先生がなんと云おうと、ついていくってことです」

「……」

「それがパパの意志なんだから」

「天野さん……」

 てこでも動かない、ということは、その横顔を見ていればわかった。「みんな、一度こうと決めたら引かない」。昨日の武との会話を思い出して、沙夜は頭を抱えた。

「わかってちょうだい。武さんにとって大切なあなたを、危険な目に遭わせるわけにはいかないのよ」

「なぜ、危険なんですか?」

「それは……」

 云い淀む沙夜を見て、薙がにっと笑った。この子はいったいいくつの表情を持っているのだろう、と沙夜は考えた。そしてそれらがすべて、本心を隠すための韜晦なのかも、とも。

「語るに落ちたって、感じですか? 先生のやろうとしていることなんて、お見通しですよ?」

「どういうこと?」

「先生……退魔を行うつもりでしょう?」

「……」

「まつろわぬ神々の後始末……でも、それは本来、先生の任ではないんじゃないかしら? パパやママの仕事でしょう?」

「私は……」

 沙夜は目を閉じて、一言一言、噛み締めるように言葉を紡ぎだした。それは自分に言い聞かせているようにも、自分の気持ちを確かめているようにも見えた。

「私は、闇の者たちさえ、この世界で共に生きていける、そう信じたい。そのために、力を尽くしたいと思っている。……それだけよ」

「……」

 薙が、じっと沙夜を見つめる。今度こそ、真剣に。

「……でも、道綱のように、人との共存を肯んじないもの相手にはどうします?」

「それは……」

「戦うのでしょう」

「……」

 答えず、沙夜は目を伏せた。しかし薙は、まっすぐに視線を注いでくる。
 万葉に似た、その強い視線が、沙夜はほんの少し苦手だった。

「神であるパパがやるより、自分がやったほうが、まだ受け入れられやすいかもって考えたんですか? でも、逆に、よけい反発を受けるかもしれませんよ?」

「それは……わかってる」

「そのときも……自分だけが「裏切り者」の名を背負えばいいと?」

「……」

「先生……」

 薙が、そっと手を伸ばしてきた。
 思わず身構えた沙夜に構わず、その頭にぽんと手を乗せる。そして、何をするかと思えば、髪をくしゃくしゃっと撫でた。

「ちょ……天野さん、何するの?」

「先生はかっこつけすぎなんですよぉ、いつも」

「え……」

「そんな何もかも自分ひとりで抱え込もうとして。私はそういうの嫌いじゃないけど、見守るだけしかできないのもつらいんですよ? その気持ちも、わかってほしいな」

「天野さん……」

 まるで年長者のように諭されて、沙夜は半ば茫然と薙の顔を見た。
 にこっ、と薙が笑う。そしてまた、沙夜の髪をくしゃくしゃにした。

「だから、一緒に行きましょ。ね」

「わ……わかったから、ちょっと、やめて。やめてってば、髪が……」

 やっと手を離すと、薙はけらけらと大笑いした。
 髪を直しつつ、沙夜は憮然とした顔をする。なんだかうまく丸め込まれたみたい。

「……それとも先生、私のこと、信用できないって思ってます?」

「……え?」

 振り向くと、今度はまた一転して暗い面持ちの薙がいた。どうしてこの子はこんなに表情が突然変わるのだろう?

「ママが恐れていたもうひとつのこと……。それを防ぐために、私を監視として寄越した。……そう思っていますか?」

「それは……」

 沙夜は一瞬、言葉に詰まった。考えなかったわけではない。しかし――。

「私は、武さんを――あなたのパパとママを、信じている。だから、あなたのことも信じるわ」

「先生……」

 微笑む沙夜。手を伸ばし、お返し、とばかりに薙の髪をくしゃくしゃと撫でる。

「あ……やだっ、先生ったら!」

「年上相手に説教なんかするからよ。お返し」

「やだ、もう……」

 ようやく沙夜の手から逃れ、髪を直す薙。
 どちらからともなく目が合い、くすくすと笑う。

「じゃあ、コンビ結成ですね」

「……嫌だって云ってもついてくるんでしょ」

「もちろん。じゃ、乾杯しましょ、乾杯!」

「はいはい」

 無理やり手に持たされたビールを開け、乾杯して口をつける。
 一人で車窓を眺めていたときより、ずっと心が軽くなっていることに、沙夜は気づいていた。

「……ありがとね」

「え? なんですか?」

「なんでもない」

「ふーん……? ところで先生、まずどこへ行くんですか?」

 目指すところ。それはすべての始まりの地。そしてすべてを終わらせたはずの場所。

「京都、よ」



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