……気がつけば、雨に打たれていた。
 それも、道ばたで、大の字に転がって。
 やだ、私、何やってんだろ。恥ずかしい。
 早く起きなきゃ……って、あれ? なんか力が入らないな……。
 急がなきゃいけないのに。早く傘届けてあげなきゃ、彼が待ってるのに。
 彼は恩知らずだから、一所懸命走っていっても、きっと「おっせーよ! 寒いだろ!?」とか云うに決まってるけど。
 彼は優しいから、そのあと、照れくさそうにして、「……お前も、寒かっただろ?」とか、きっと云ってくれるけど。
 だから、早く行かなきゃいけないのに。どうして、体が動かないんだろう。
「……こんばんは」
 ――え?
 不意に声をかけられて、目を向けると、黒い傘を差した女の人が、私を覗き込んでいた。
 とても、綺麗なひとだった。
 黒い髪に、黒い服。対照的に、肌は雪のように白い。黒と白だけをまとっているのに、信じられないくらい艶やかだ。
 そして、私をじっと見つめている、その瞳。
 それだけは、なぜか、血のように紅かった。
「こ……こんばんは」
 こんな格好で、間抜けな返事してるなあ、と自分でも思ったけど、なぜか私はそれが当たり前みたいに答えていた。
 彼女は、そんな私を不審に思うようでもなく、にっこりと微笑んでくれた。なんだかその笑顔が嬉しくて、私もつい笑ってしまった。
「あの……ごめんなさい、こんな格好で」
「……」
「なんか……力、入らなくて。申し訳ないんですけど、起こしてもらえますか?」
「……」
 彼女は答えない。呆れられたんだろうか?とちょっと心配になったけど、そんな感じじゃなかった。ただ、少し悲しげに、眉をひそめていた。
「本当に申し訳ないんですけど……私、急いでるんです。早く、この傘、届けてあげなくちゃいけないから……」
 声に少し真剣味を込めて、云ってみた。
 だけど、彼女はやはり私に手を差し伸べてはくれず、ただ悲しそうな表情のまま、首を横に振った。
「あなたは、もう、届けられないわ」
「……え?」
「あなたはもう、その傘を届けることはできない」
 言い聞かせるように、ゆっくり、彼女は繰り返した。
 だけど、私には彼女の云う意味がわからなかった。
 どういう……こと? 何を云っているの、このひと?
 優しそうなひとだと思ったのに。どうして、そんな意地悪云うの?
「それだけじゃない。もう、そのひとにも……誰にも……逢えない。お別れよ」
「……」
 心臓が、どくんと、跳ねる。……はずだった。
 そういう反応が、あって当たり前だった。
 だけど、私の体は、もうなんの動きも見せなかった。
 そう。こんな寒い、冬も間近な夕方に。こんな冷たい雨に打たれながら。
 私の体は、何も感じていなかった。何も……何も。
 ただ壊れた人形のように、無様に横たわって――。
「……うそ……」
「……」
 彼女が、じっと私を見つめる。私だったモノを。
「うそ……そんなの嫌……。彼に逢えないなんて……もうこれでお別れなんて……嫌……!」
 不思議だ。体は何も感じないのに、心だけがこんなに痛い。涙さえ出ないのに、心が血を流しているよう。
 そのとき、彼女が身をかがめて、そっと私の頬に手を伸ばした。
 何も感じられないはずなのに、なぜか私の頬を包んだその手は、あたたかい、と思えた。
「……見守ることなら、できるわ」
「……え……?」
「触れることも、話すこともできない。ただ見守り続けるだけ。それでもいいなら、彼のそばにいられる。……どうする?」
 どうする? そんなこと、訊かれる前から決まっていた。考える時間なんて、一秒だって必要ない。
「それでもいい……! そばにいられるなら、それで……!」
「……」
 彼女は、ますます悲しい表情になった。泣き出すのを堪えているように、唇を噛んでいる。私の頬に当てられた手も、震えていた。
「つらいわよ。時間は……とても残酷。彼はいつかあなたを想い出にして……あなた以外の誰かを、きっと選ぶ。それでも……」
「それでも……!」
 私は彼女の言葉を奪っていた。
 本当は、怖い。私のことを彼が忘れてしまうなんて、考えたくもない。
 だけど。それでも。
「それでも、彼のそばにいたい……!」
 私の頬を、雫が伝っていた。
 それは雨だったのか、彼女の涙だったのか。それとも、もう流れるはずのない、私自身の涙だったのか。それは、私にはわからなかった。
 彼女は膝をついて、私の体をそっと抱き上げた。そして、優しく抱きしめてくれた。
「あなた……名前は?」
「桧月……彩花……」
「そう。じゃあ、少しおやすみなさい、彩花さん」
 耳元で囁かれた声。その声が聞こえた瞬間、私の意識は真っ白になった。
 舞い散る羽の中に包まれている気分だった。
     *
 救急車のサイレンが近づいてくる。その音を背中に聞きながら、常磐沙夜は、待っている少女の元へ小走りに急いだ。
 待ち人は、沙夜の姿を認めると、傘を上げて不機嫌な視線を向けた。沙夜は困ったように、首を少し傾げて見せた。
「お待たせ。……怒ってるの、薙?」
「とーぜん。なんであんなことしたの?」
 薙はきつい視線で、そばに立った沙夜を見上げた。沙夜は眉をひそめるだけで、答えない。
「……あんなの、つらいだけだよ。見てるだけなんて。絶対、後悔する」
「薙……」
「そのつらさをいちばんよく知ってるのは、さやっちじゃないの?」
「……」
 沙夜は小さくため息をついて、微笑んだ。
 薙は乱暴に視線を逸らす。沙夜のその笑い方が、薙は苦手だった。どうしようもなく悲しくて……切ない気分にさせられる。
「確かに、私はそのつらさを知っている……。だけど……それでもそばにいたいって気持ちも……わかっちゃうから……」
「さやっち……」
 薙は唇を噛んで、うつむいた。涙がにじんだ瞳を、固く閉じる。
 沙夜は微笑んだまま、薙の頭を抱き寄せた。
「ごめん。……ありがと」
「お礼を云われるようなこと、してないよ」
 雨は未だ激しく降り続く。
 サイレンの音が遠ざかり、やがて、少年の慟哭が響いたとき、沙夜もまた、静かに瞳を閉じた。
The RING of BLOOD EX
"ANGEL REBIRTH
〜 Memories Off"
END
2002.1.30
あとがき
またやってしまいました(^^ゞ。
とりあえずこのシリーズは好き勝手やって遊ぶことに決めたので、また息抜きを兼ねてちょこちょこと続けていければいいかなあと思っています。
本編はどうした、というツッコミはとりあえず聞こえない振りをしておこう。
ご感想……を求めるほどのもんではないですが、お楽しみいただけたなら幸いですm(__)m。