1
カーテンの隙間から、朝日が差し込んできた。
真冬は軽く眼を細めて、その光を見つめた。
一睡もしていなかった。ただ、腕の中にいる少年が安心できるよう、髪を撫で、背中を撫で。彼がようやく眠ったあとは、ぬくもりが伝わるよう、強く抱きしめたままで。彼が目覚めれば、いつでも微笑みかけてあげられるように。
そうして、夜が明けるまで過ごしていた。
真冬と少年――信は、居間のソファにいる。信をソファで横に寝かせ、真冬が膝枕をしてやっている形だった。
「……ん……」
真冬のわずかな動きに反応したのか、信が目を覚ました。
何度か目を瞬かせ、辺りを窺う。自分がどこにいるのか、わかっていない様子だった。だが、笑顔で覗き込んできた真冬と目が合うと、一瞬、驚きに目を丸くし――、そして、次の瞬間、蒼白になった。
「真冬……! 俺……俺……!」
「……大丈夫」
慌てて起き上がろうとする信を、真冬はそっと押さえた。落ち着かせるため、信の髪を優しく撫でる。信はそれでもまだ怯えた様子だった。
「ここは、私の家よ。私たちふたりしかいない」
「……」
信が深いため息をつく。安堵に緩んだ面は、しかし、すぐ小刻みに震え始め、瞳には涙が浮かんできた。
それでも真冬は笑みを絶やさない。そんな真冬の視線から逃れるように、信は腕を上げて顔を覆った。
「何があったのか……云いたくなければ、云わなくてもいい」
「……」
「だけど、私はここにいるから。ずっと、いるから」
「……真冬……」
「まだ早いわ。もっと眠ってもいいのよ」
云いながら、真冬はまだ信の髪を撫でていた。
信は深呼吸を繰り返し、自分自身を落ち着かせた。ゆっくり、時間をかけて。真冬はただそれを見守っている。
やがて、信が腕を降ろし、真冬の顔を見上げた。まだ瞳には涙が浮かんでいたが、まっすぐに真冬と目を合わせた。
「俺……人を、殺した」
「……っ」
さすがに、真冬も一瞬、表情を強ばらせた。
信はじっと真冬を見つめている。真冬も目をそらすことなく、答えた。
「……嘘、よね?」
「……俺が……殺したのと同じだ……」
信の瞳に浮かんだ涙が盛り上がり、こぼれた。頬を伝う涙を、真冬はそっと指でぬぐってやった。
信はぽつぽつと、昨晩の出来事を語り始めた。
帰り道、信の予想に反して、雨足はどんどん激しくなった。とにかく急いで帰ろうと、信は周りをろくに見ずに走っていた。そして、ある横断歩道に差し掛かったとき。前方から白い傘を差した少女が歩いてくるのが見えた。
その白い傘が、やけにぎらついて見えた。それはトラックのライトを浴びたせいだ、と気づいたときには、もう間近にトラックが迫っていた。信が息を飲んだ瞬間――。
「危ない!」
少女の声が響くと同時に、信は突き飛ばされていた。
続く急ブレーキの音。小さな悲鳴。
そして、雨に打たれて、路上に転がる白い傘。
「頭が真っ白になって……気がついたら……逃げ出してた……」
「……」
「どうしていいかわからなくて……真冬のところに戻ろうと……してた……。最低だ……俺……ごめん……」
「……ううん」
微笑んで、真冬はもう一度、信の髪を撫でた。
不謹慎だとは思ったけれど、ぎりぎりの状況で自分を頼ろうとしてくれたことが、真冬には単純に嬉しかった。
信は真冬の手のぬくもりに目を閉じ、言葉を続けた。
「でも……途中で……自分が何をしたか……気づいた……。あの子は俺を助けてくれたのに……置き去りにして……」
「……」
「だから……もう一度、そこへ戻って……。だけど……もう、あの子はいなくて……。ただ……白い傘と……その前で……泣き崩れる……男が……!」
信の閉じた瞼から、また涙があふれた。その体が激しく震える。
真冬は思わず信の頭を抱えるように、強く抱きしめていた。
「もういい……もういいから……」
「俺が……俺が殺した……!」
「やめて……! お願い、もうやめて、信!」
真冬が信の頬に、自らのそれを重ねる。その熱さに、流れる涙に、信はようやく我に返った。
「……真冬……」
「それがあなたの罪なら……私も同じだわ……」
「な……っ、どうして……!?」
「あのとき、あなたが雨の中、走って帰るのを私が止めていれば、こんなことにはならかったのでしょう?」
「それは……」
「そもそも、あなたがあの公園で私を待っているようなことがなければ、こんなことにはならなかった……。私が……あなたを……」
「違う! 違うよ、真冬!」
信は起きあがり、真冬の肩を掴んだ。そして、涙に濡れた瞳でじっと自分を見つめる真冬の姿に、胸を突かれる想いがした。
そのあまりに心細げな表情は、一瞬、信に自責の念も後悔も忘れさせた。
「じゃあ……信も、そうやって自分だけを責めるのはやめて……。事故だったのよ。誰の責任なんて……考えても、意味がない……」
「真冬……」
「ね? もちろん、ただしょうがなかった、なんて開き直ることができないのはわかってる。これからのことは、ふたりで考えましょう。今はとにかく、気持ちを静めることが大切よ」
「……」
「ね。信、わかって」
「……うん」
わずかに頷いた信を、真冬は手を伸ばしてもう一度抱きしめた。
あの猫が死んだ日。真冬は信の心が壊れるのをとどめるため、彼を胸に抱いた。
だが今は、真冬こそが何かに怯えているように、強く抱いていないと愛しいものが失われると信じているかのように、見えた。
2
「真冬」
「……」
「……真冬?」
「――え、あ、なに? お母さん」
花瓶を抱えたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた真冬は、母の声に我に返った。
母・千尋が心配そうに自分を見つめている。真冬は無理矢理微笑んで見せた。
「大丈夫? 具合でも悪いの?」
「ううん、平気。ちょっとぼんやりしちゃっただけよ」
そう云って、真冬は花瓶を窓のそばに置いた。
信が持ってきた花も古くなってしまったので、替えてきたところだった。捨てるのも惜しいから、持って帰ってドライフラワーにしようか。ふと真冬はそんなことを考えた。
あれから、丸一日が経った。今は日曜日の昼下がりだ。
あのあと真冬は、ゆっくり休むよう言い聞かせて、信を家に帰した。真冬にとってはまだ心配であったが、前の晩、無断外泊をさせてしまったので、これ以上引き留めておくと問題になってしまう。家の人に事情を話したところで、それでもまだ信を自分のそばに置いておけるとは考えられなかった。
夜になって電話をしてみたが、信は出なかった。真冬は言い知れぬ不安を抱えて夜を明かし、千尋の見舞いに来た。
本当は、母に相談したかったのかも知れない。けれど、その顔を見ると、やはり余計な心配はかけたくないと考えてしまう。
そんな逡巡が、知らず知らずのうちに現れていたのだろう。真冬は本心を隠すため、いつものように唇の端だけで笑ってみせた。
「夕べ、本読んでたら遅くなっちゃって。寝不足かな」
「……そう」
頷きつつ、じっと千尋は真冬を見つめてくる。胸の内を見透かされそうで、真冬は視線をそらせて窓の外を見た。
そのとき、救急車が病院に入ってくるのが見えた。サイレンの音が木霊する。
真冬の胸に、ずきり、と痛みが走った。
千尋はそんな真冬の後ろ姿を見守りながら、言葉を続けた。
「それだけなら、いいんだけど。体には本当に気をつけてね」
「……うん、わかってる」
「おとといの夜、事故に遭って、この病院に運ばれた女の子がいたの。あなたと同い年ぐらいだったそうよ。……可哀想に」
「……え……」
一昨日の夜。事故に遭った少女。それは。
むしろ緩慢な仕草で、真冬は振り返った。
押さえようとしても、体が細かく震えてしまう。
千尋は面を暗くして、うつむいていた。同じ年頃の娘を持つ親として、その子の無念さや、残された者の悲しみがわかるからだろう。
「それで……その子は……?」
震える声で、真冬が問う。
千尋は目を閉じて、小さく首を横に振った。
真冬は崩れ落ちそうになるのを、どうにかこらえた。
せめて生きていてくれたら。そう願いつつ、確認するのが怖くて、昨日から新聞もテレビも見なかった。それで起こった出来事が、変わるわけではないのに。
信は。信はどうしただろう。もうそのニュースを、知ってしまっただろうか。
「……真冬? どうしたの?」
「……」
蒼白になって震える真冬の様子に、千尋も気づいた。真冬は答えることさえできない。
「やっぱり具合が悪いの? ……それとも……知っている子……?」
「――! ううん、気分が悪いだけ……」
何の説得力もない、棒読みの台詞。自分でもそうわかっていながら、真冬は取り繕うこともできず、ふらふらとドアに向かった。
「ごめんなさい、今日はもう帰るから」
「真冬? 待ちなさい、真冬、あなた、おかしいわよ?」
「大丈夫、ほんとに気分が悪いだけだから……。ごめんね、心配かけて。また来るから……」
「真冬!」
母の叫びを遮るように、真冬はドアを閉めた。壁にもたれかかり、息を整える。
そして、顔見知りの看護婦を捜した。
*
真冬が病院で聞いたその場所へ辿り着いたのは、ちょうど出棺の時間だった。
白木の棺のそばには、すでに涙も枯れ果てた様子で、茫然と立ち尽くす少年と、自分自身も涙で瞳をいっぱいにしながら、それでも少年を支えようとするように寄り添う少女がいた。
そして。思わず目をそらした真冬の視線の先には。
離れた場所から、その二人を食い入るように見つめる信の姿が、あった。
「……!」
信の面はそれこそ死人のように血の気を失い、全身が小刻みに震えていた。
それでも信は彼らをまっすぐに見据え、足を踏み出そうとした。
その動きを見た瞬間、真冬は信に走り寄って、その腕を掴んでいた。
「――真冬!?」
狼狽する信に答えず、真冬は無理矢理信を路地の陰に引き込んだ。そして、葬儀に参列する人々から見えない位置まで来ると、初めて信を睨むように見た。
「……何をする気なの」
「何って……」
「こんなところに姿を現して、『彼女が死んだのは自分のせいです』って告白するつもり? そんなことしたら、どんな目に遭うか……」
「――いいんだ。そのほうが……いい」
「信……!」
「殺されたって、俺は文句は云えない。だから……」
「やめて! そんなことしたって、みんな傷つくだけじゃない。どうして……そんな……」
悲鳴のような声をあげる真冬と対照的に、信は淡々と呟いていた。その態度から、信がどれだけ真剣か、真冬にはわかった。
真冬は信の腕を掴む力を強めた。すがりつくように。
信はそんな真冬と、目を合わせようとはしなかった。
「お願い、信、もう少し待って。今はきっと、お互い感情的になりすぎるわ。だから」
「……」
「お願い……!」
信は目を強く閉じ、拳を振るわせていた。だが、やがて体の力を抜くと、諦めたように深い息を吐いた。
真冬もまた安堵の息をつき、信を抱きしめた。
信が自責の念で自分を追い詰め、壊れてしまうことが、真冬は怖かった。
あの雨の日も。ふたりで迎えた朝も。そして、たった今も。ただ彼を守ることだけを真冬は考えていた。――そのはずだった。
3
そして、季節は急速に冬の気配を強めていく。
つい先週までは、まだ秋の穏やかさが感じられたのに。今では空気さえ凍てつくように冷たい。
――それとも、それは私の心が、そう感じさせるのか。
真冬は唇を噛んで、フェンスにかけた指の力を強めた。
学校の屋上に、真冬は一人、立っていた。すでに五時間目は始まり、辺りに人の気配はない。それでも真冬は、フェンスを掴んだまま、硬い表情で虚空を見つめいてた。
そんな彼女を咎める者は、偶然通りかかった教師ぐらいのはずだったのだが。
「何してるの、こんなところで」
不意に声をかけられても、真冬は全く動じず、ただ流し目だけで屋上への入口を見やった。
そこにはドアにもたれて、真冬をまっすぐに見つめる――いや、睨んでいる、眼鏡をかけた少女がいた。
真冬は答えず、またすぐに視線を空に戻した。
少女――環は舌打ちすると、真冬の隣まで歩いてきた。真冬はやはり彼女を見ようとはしない。
「信くん、今週に入ってから、学校に来てないんだってね」
「……」
「もう四日目だっていうじゃない。……あんた、彼に何をしたのよ?」
何があったのか、ではなく、何をしたのか。その問いかけは、真冬を苛立たせた。
自分のせいであれば、どれだけいいだろう。それなら、きっと何かできることがある。
だけど信は、ただひたすら自身を責めるばかりだ。日曜以来、真冬に逢おうともしないし、電話にも出ない。真冬にはただ、信がバカな真似をしないよう、祈るしかなかった。
――それなのに。
「あなたには関係ない」
ただ一言、真冬は吐き捨てた。
幼馴染みだかなんだか知らないが、もうこれ以上、自分たちの問題に踏み込んでくるのは許せなかった。
環はその言葉に、一瞬、蒼白になって顔を引きつらせたが、すぐに笑みを浮かべた。それは確かに、嘲笑だった。
「ふうん。関係ない、ね」
「……」
「そうよね。あんたはいつだって立派だもの。一人きりで生きていけるのよね」
「……」
真冬は軽く息を吐くと、身を翻してドアへ向かった。もう環の相手をする気にはなれなかった。しかし。
「……だったら、どうして信くんに関わったりしたのよ」
「……え?」
独り言のような呟きが、真冬の足を止めさせた。
振り返ると、環は相変わらず、嘲るような笑みを浮かべていた。それなのに、なぜか瞳には涙が浮かんでいた。
そのアンバランスさが、真冬を戸惑わせた。
「彼を守ってあげられると思ったの? 彼を救うことができるとでも?」
「……」
「無理よ。あんたにはできっこない。だって、あんたは一人で生きてきたんじゃない。一人でしか生きられないんだもの」
「……な……っ」
思わず息を飲んだ真冬に、環は歩み寄った。
真冬はつい後ずさってしまう。誰かに圧倒されたことなど、一度もなかったのに。なぜだか真冬は、自分でも不思議なくらい動揺していた。
「あんた、いつも私たちをバカにしてたでしょ。自分は強い、特別な人間だって」
「そんなこと……」
「そういうとこ、すごくむかついた。……だけどね、ちょっとだけ憧れてもいたんだ。悔しいけど、そういう風に生きていけたらって」
刹那、環は優しい微笑を浮かべた。
しかし、真冬が驚いて眉をひそめたときには、再び嘲笑がその面に張り付いていた。
「でも、信くんと出逢って、変わっていくあんたを見て、わかったの。あんたもただのメッキだったって。あんたは一人でいることで、自分を守ろうとしてただけよ」
「……!」
「そんなあんたが、どうして他人を守れるの? あんたにできるのは、自分を守るために、他人を傷つけることだけよ!」
「……違う……」
あまりに弱々しい声で、真冬は首を振った。対照的に、環はさらに声を大きくして詰め寄ってくる。
「違う? 何が違うの?」
「私は……私と信は……そんなんじゃ……」
そう。彼は云ってくれたのだ。そばにいると。
だから。
(――え?)
だから、私は――?
真冬が心の奥深くに沈めて、気づかないようにしてきたことが、浮かび上がろうとした瞬間――。
「お前ら、こんなところで何をしてる!?」
入口のドアが開き、教師の怒声が響いた。
環は舌打ちして面をそらし、真冬は蒼白になってうつむいた。
「藤村に……新堂? いったい……」
素行も成績も特に問題のない二人を見て、教師は不審そうにしたものの、警戒を解いた。
その隙をついて、真冬は駆け出していた。