居場所がなかった 見つからなかった
未来には期待出来るのか分からずに
浜崎あゆみ「A Song for ××」
雪が降っていた。
すでに陽が落ちてから長い時間が経っている。公園の薄暗い外灯はほとんど役に立たず、辺りは闇に閉ざされていた。
その闇の中に、白い雪が降り続く。
そして、その風景の中に。闇よりなお黒い髪と瞳の少女がいた。
彼女はとても美しかった。
濡れたように黒く艶やかな髪は、腰まで届くほど長い。切れ長の瞳と、柔らかくしなやかな体つきが、猫を連想させた。
だが、いつもなら勝ち気な意志を覗かせて強く輝くその瞳は、今ではただ虚ろに見開かれているだけだった。
白磁のような肌も、不健康に青ざめている。
いったいどれだけの間、そうしてそのベンチに座っているのか。黒い髪にも、黒い皮コートの肩にも、うっすらと雪が積もっていた。
少女と呼ぶには少し大人びて見える彼女の名は、藤村真冬といった。
「稲穂さんは私の大切なひとです……か」
さっき聞いた台詞を、自分で呟いてみる。
三年前、自分には云えなかった言葉。
あのとき、そう伝えられていれば。再び逢えたとき、ただそれだけを伝えていれば。
彼の傍らにあるのは、自分だっただろうか。
そう考えて、真冬の口元に笑みが浮かんだ。
自分自身を嘲る微笑み。何より彼女に似合わないもの。
そんなことじゃないと、わかっていた。ただ彼が選んだのが、私ではなく、あのひとだったというだけだ――。
再び、真冬の面から表情が消え失せる。
それからまた、どれだけの時間が経った頃か。
いつの間にか、真冬のそばに人が立っていた。その人が伸ばした手に、髪に積もった雪を払われ、ようやく真冬は誰かがいることに気づいた。
「……」
無表情なまま、真冬は顔を上げた。
どこか母に似た、穏やかな微笑を浮かべる女性が立っていた。
「風邪、ひくわよ」
軽く首を傾げて、その女性は云った。セミロングにした栗色の髪が、柔らかく揺れた。
真冬はやはり表情を変えず、視線を元に戻した。
「ほら、こんなに冷たくなって」
彼女は再び手を伸ばし、真冬の肩や背中の雪を払った。
散らされる白い結晶を眺めて、真冬はぽつりと呟いた。
「……雪、降ってたんだ」
「何を云ってるの? もうずっと前からよ。こんなになって――」
「……よかった」
「え……?」
真冬の呟きの意味が理解できず、彼女は手を止めて、真冬の顔を覗き込んだ。
真冬はやはり無表情だった。
雨でなくてよかった。
真冬はそう考えていた。こんな日も雨だったら、きっとやりきれない――。
そんな真冬を、傍らの女性は困ったように眉をひそめて見つめていたが、やがて微笑んで、その隣に腰を下ろした。
「何か、つらいことがあったのね」
「……」
「でも、これ以上、体冷やしちゃいけないわ。ね」
云いながら、彼女は真冬の背に腕を回した。真冬を立ち上がらせようとするように、軽く力を込める。けれど、真冬は動こうとはしなかった。
「……放っておいて」
「そうはいかないわよ」
「名前も知らない、見ず知らずの人間がどうなろうと、関係ないでしょう」
「んー、じゃあ、自己紹介しようか。わたしは白河静流。あなたは?」
真冬の面に、ようやく表情が浮かんだ。苛立ちと困惑を湛えて、真冬は静流と名乗った女性に顔を向けた。
「なんのつもり?」
そのきつい切りつけるような眼差しに、静流は一瞬、怯んだ。だが、またすぐに穏やかに微笑んで、真冬を見つめ返した。
「なぜかな。どうしても、放っておけなかったの」
「……」
静流の答えに、真冬は唇を噛んで目をそらした。
気まぐれな優しさは、何より彼女が嫌うものだった。
「いいから。ひとりにして」
「もう……そんなにひとりになりたいなら、家にお帰りなさい」
「……え……?」
「部屋にこもっていれば、こうやってお節介やかれることもないわ。そうでしょ?」
いたずらっぽく、静流は笑う。その笑みを茫然と真冬は見ていた。
そう、静流の云うとおり。家に帰れば、ひとりきりになれる。
誰もいない、誰も帰ってこないあの家で。
「……いや……」
真冬は小さく、首を横に振った。
さっきまであんなに大人びていた彼女が、今ではとても幼い少女に見える。そのことに驚いて、静流は目を瞠った。
「いや……ひとりの……家には……帰りたくない……」
その顔は静流に向けられていたが、真冬は何も見ていなかった。
ただ何かに怯えるように体を震わせ、虚ろに見開かれた瞳には、うっすらと涙が浮かんできた。
静流は微笑みつつ、そっと腕を伸ばして、真冬を抱きしめた。
真冬は抵抗せず、静流の腕の中で震えている。
まるで小さい子供をあやすように、静流は真冬の髪を撫でた。
「だったら、『ひとりがいい』なんて云っちゃダメよ」
「……」
それは、あまりに似ていた。あの日に聞いた、彼の言葉と。
(淋しいのに慣れただなんて、そんなこと云うなよ)
どうして、今、その言葉を。
二度と聞きたくなかった。
忘れたままでいたかった。
だけど。
もう一度、そう云ってほしかった――。
真冬の瞳から、静かに、しかしとめどなく涙があふれた。
静流はもう何も云わず、ただ真冬を抱きしめていた。
*
四月。
入学式を終え、真冬は千羽谷大学講堂から出てきた。
サークルの勧誘に目もくれず、真冬はまっすぐ校門に向かって歩いていく。このあとは特に予定もないので、母の病院に寄って帰ろうか、そんなことを考えながら。
校門脇には、大きな桜の樹があった。
真冬はふと足を止めて、桜を見上げ……その表情に、翳りを落とした。
風に舞う桜の花びらを見ると、彼との出逢いを想い出す。
すべての出来事が、彼との想い出に繋がっているような気がした。
こんなつらいことがあるだろうか。
暖かい春の陽気に浮かれ騒ぐ景色の中、ただ彼女だけが、硬い表情で立ち尽くしていた。
「……どうしたの、気分でも悪いの?」
誰かが顔を覗き込んでくる。真冬がそちらに目をやった瞬間、両者は、同時に目を丸くした。
「……!」
「あなた……」
栗色の髪を揺らし、穏やかに微笑むその女性は、白河静流だった。
真冬は乱暴に目をそらす。静流にはあのとき、最も見られたくない姿を見せてしまった。二度と会うこともないだろうということだけが救いであったのに、こんなところで再会するなんて。
静流は真冬の屈託など知らぬげに、変わらず微笑んでいる。
「また会えるなんて、偶然ね。わたし、白河静流。覚えてくれてるかしら?」
「はい。……あのときは、ご迷惑をおかけしました」
静流と目を合わせないようにしながら、真冬は頭を下げた。静流は笑顔で首を振る。
「ううん。……あ、もしかして、新入生なの?」
「……はい」
「そうなんだ。大人っぽいから、同い年ぐらいかと思ってたけど、二つも年下だったのね。驚いちゃった」
「……あなたも、ここの……?」
「ええ、今、三年生よ」
なんてことだろう。真冬は内心、ため息をついた。同じ大学なら、これからも顔を合わせる機会が多いだろう。他人に内面を見せようとしない真冬は、初対面でいきなりあんなところを見られてしまった静流とどう接すればいいのか、文字どおり途方に暮れていた。
「じゃあ、私、失礼します」
「あ、ちょっと、待って……」
「静流、どうしたの? 知り合い?」
とりあえず真冬がこの場を去ろうとしたとき、髪の長い女性がもう一人、声をかけてきた。
静流とは違い、気の強そうな顔立ちをしている。だが、見ず知らずの真冬に対してもにこやかに笑顔を向ける人懐っこさが、彼女の印象を柔らかいものにしていた。
「ああ、小夜美、ちょうどよかった」
静流は軽く手を挙げて、小夜美と呼んだ女性に答えながら、真冬に向き直った。
立ち去り損ねた真冬は、うつむき加減に立っていた。
「紹介するわね。わたしの高校からの友達、霧島小夜美」
「よろしくー。……で、こちらは?」
「えっと……」
小夜美に真冬を紹介しようとして、静流は困惑で眉をひそめた。小首を傾げながら、真冬の瞳を覗き込んでくる。
「あのときは、結局、名前教えてもらえなかったのよね。聞いてもいい?」
「……」
気づかれないように注意しながら、真冬は小さくため息を漏らした。
こんな春の日だまりのような人たちは、本当に苦手なのに。
「藤村真冬……です」
「……え?」
真冬が名乗ると同時に、静流と小夜美は小さく息を飲み、顔を見合わせた。
「……?」
真冬はすっと目を細め、肩に掛かる髪をかき上げた。
強い風が吹き、真冬のその髪と、桜の花びらを舞い散らせた。
そして、季節は巡り、春が訪れる。
けれど、彼女の――彼女たちの冬は、まだ続いている。
2002.2.20
あとがき
実はこれは「暗躍する真冬ねーさん」シリーズのひとつとして考えていたお話でした。
前にも云いましたが、真冬と静流ねーさんってとても絡めにくかったんですよね。基本的に真冬は説教するタイプなので(^^ゞ、年上の女性との関係は作りにくい。
しかし、静流ねーさんの「イミテーション」を聴いたとき、このひとはほんとに真冬と正反対だなあと思いまして。その辺をとっかかりになんか作れないかなと。で、時期としてはやはり真冬がいちばんへこんでいる時期がいいだろうってことで、シチュエーションができあがりました。
できあがったのはシチュエーションだけで、今後の展開はほんとに全然未定なんですけどね(^^ゞ。
真冬再生の物語として、今度は後味のいい作品にできたらいいなあと思っております。季節的には春から初夏にかけてのお話なのに「冬物語」とはこれいかに、という感じですが(^^ゞ、真冬の「冬」の物語なので……。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。