冬物語 Second Season

第三話 「End roll」

君はどこにいるの
君はどこへ行ったの
遠い旅にでも出たんだね
一番大切な人と
浜崎あゆみ「End roll」


     1

 意識を失う前のことを、何も覚えていない――そんな都合のいい話が、実際にあればいいんだけれど。
 真冬は窓から差し込む朝日に目を細めながら、そんなことを考えた。
 実際には、自分が昨日何をしたか、真冬ははっきりと覚えていた。降りしきる雨の中、自分が何を云ったのかも。

「……なんて、無様」

 陽光から隠すように、真冬は両腕を上げて顔を覆った。
 自分が情けなくて、涙も出ない。ただ深いため息だけがこぼれた。
 静かな足音が近づいてくる。そちらへ顔を向けると、銀がかった薄茶色の髪を揺らして、美しい少女が微笑んでいた。

「おはようございます」

「……おはよう」

 短く答えたあと、真冬は辺りを見回した。
 高い天井。洋館風の作り。暖炉。自分のものではないベッドと寝間着。
 状況を正確に理解して、真冬は再度大きなため息をついた。

「ごめんなさい、迷惑かけて」

 ベッドサイドに立った少女――詩音の目を見ずに、真冬は呟いた。
 詩音は答える代わりに微笑み、そっと手を真冬の額に伸ばした。

「……あ……」

「失礼します。……うん、熱はないみたいですね」

 屈託なく笑う詩音を、真冬はじっと見つめた。詩音は不思議そうに首を傾げる。

「紅茶、入れてきますね。……あ、真冬さんは珈琲の方がいいですか? 珈琲だと……インスタントしかないんですけど……」

「……紅茶でいいわ」

「はい。では、少々お待ちください」

 再び静かな足取りで、詩音が歩き去っていく。
 やがて紅茶の芳香が部屋に届き、詩音が両手でトレイを持って帰ってくるまで、真冬は唇を固く結んで虚空を見据えていた。
 ベッドサイドの机にトレイを置き、詩音がカップを差し出した。

「どうぞ。起きられますか?」

「ええ」

 上体を起こして、真冬はカップを受け取った。すぐには口をつけず、琥珀色の水面を見つめる。香りを楽しむというより、猫舌の真冬は、冷めるのを待っているのだった。
 しばらくして、ようやく真冬はカップを口に運んだ。
 詩音は何も云わず、真冬の様子を見守っていたが、紅茶を一口飲んだ真冬の目がわずかに大きくなったのを見て、微笑んだ。

「……おいしい」

「ありがとうございます」

「紅茶も入れ方でこんなに違うのね……」

「はい」

 相変わらず詩音の目を見ずに、真冬は淡々と呟く。詩音も変わらず微笑んだまま、そんな真冬を見守っていた。
 飲み終えたカップを、真冬はトレイに戻した。

「お代わり、入れましょうか?」

「……いい」

 軽く首を振り、真冬はベッドの上で膝を抱き寄せ、顎を載せた。
 思いがけず子供のようなその仕草に、なぜだか詩音の胸は痛んだ。
 その姿勢のまま真冬は首を傾げ、詩音を見た。闇より暗い瞳で、まっすぐに。

「みっともないね、私」

「真冬さん……」

「笑ってもいいよ。軽蔑したっていい。こんな……無様な……!」

 唇を噛みしめて、真冬は肩を震わせた。けれど、詩音から目をそらすことはなく。
 詩音はかすかに眉をひそめて真冬を見つめていたが、やがて微笑んで、首を振った。

「誰もあなたを笑うことなんてできません。そんなの、私が許さない」

「……え……?」

「そこまで誠実にひとを愛するあなたを、誰が笑えるのですか」

 茫然と目を見開く真冬。詩音は微笑んだまま、そっと真冬の手を取った。

「だからこそ、私には自分から身を引くなんてことはできません。あのひとを大切に想い続けることが、私のあなたに対する誠実さだと思うから」

「……あ……」

 それが昨日の自分の言葉への答えだとわかったから、真冬は小さく息を飲んだ。
 ようやく見つけたかけがえのない想い、それを諦めるしかないのだと思い知らされて。
 本当に悲しかったのは、とっくに自分でも気づいていたのに、気づかないふりをしていただけだとわかってしまったことで。
 本当にもう自分には何もない。そう考えた、ぎりぎりの自分から出てきた言葉。

(信を……返して……)

 だけど。
 私は、今度も、間違っていた、のかも、しれない、――。

「ごめんなさい……」

「真冬さん……?」

「ごめんなさい……私……ごめんなさい……」

 それはすでに慟哭でさえなく。ただか細い呟きが、静かな涙と共にこぼれ落ちていた。

     2

 再びベッドで横になり、真冬は窓の外を見ていた。
 詩音の姿はない。朝食を用意するため、キッチンへ行っていた。

(もう……謝らないでください)

 去り際に、詩音は優しく真冬の髪を撫でて、そう云ってくれた。
 けれど、真冬は唇を噛んで、自身を強く責め続けた。
 自分はいったい何を見て、何をしてきたのだろうと思う。
 誰かが、誰かを愛している。
 詩音も。静流も。母の千尋も。
 誰もがかけがえのない想いを、胸に秘めて。
 自分はそんなことにさえ気づこうとしなかった。

(あんたはひとりでしか生きられないんだもの)

 かつて、叩きつけられた言葉。その意味。

(俺は……自分が許せない)

 かつて、偽善だと決めつけた言葉。その意味。
 そんなことが、今になってやっとわかるだなんて。
 だから、これはきっと……そう、真冬が考えたとき。
 チャイムの音がした。
 玄関の呼び鈴らしい。詩音が応対に出る声がしたかと思うと、ばたばたと慌ただしい足音が響く。何事かと真冬が首を部屋の入口に向けると同時に、ドアが大きく開け放たれた。

「真冬……! 倒れたって……大丈夫か!?」

「……信……」

 息を飲んで、真冬はそこに立つ男の姿を見つめた。
 信はずっと走ってきたのだろう、肩で息をついている。
 間もなく、ぱたぱたと詩音があとを追ってきた。

「信さん、女性が休んでいる部屋を、ノックもなしに開けるなんて……」

「あ、ああ、悪い、ごめんよ」

 咎められ、慌てて信はあたふたと頭を下げる。
 そんな二人の様子に、真冬は小さく苦笑した。

(そう……これがきっと……罰……)

 その苦笑をどう理解したのか、信も微笑みながら、けれどやはり心配そうに眉をひそめて、真冬のそばに近づいた。

「びっくりしたよ。詩音ちゃんから連絡もらって……」

「……彼女には、本当に迷惑かけたわね。ごめんなさい」

「真冬さん、それはもう……」

「――心配してくれたんだ?」

 真冬は呟いて、信を見上げた。まっすぐなその視線は、少しだけ詩音を落ち着かなくさせた。
 信は戸惑いながらも、強く頷いた。

「あったりまえだろが」

「……ありがと」

 真冬はニッ、と唇の端だけで笑って見せた。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
 だが、信は、そこに奇妙な違和感を覚えてしまった。

「真冬……?」

「もう大丈夫。帰るわね」

 そう云って、真冬は体を起こした。詩音がその体を支えるように、そばに駆け寄ってくる。

「無理しないでください。まだ休んでいた方がいいのではありませんか?」

「平気よ」

「じゃあ……朝食を用意しましたから……せめて、召し上がっていってください」

 心配そうにじっと見つめる詩音。真冬はしばし見つめ返したあと、悲しいほど優しい笑顔を浮かべた。

「うん。じゃあ、ごちそうになるわね」

「はい」

 詩音がほっと息をついた。
 信はやはり正体のわからない胸騒ぎを抱えて、二人の笑顔を見つめていた。

     3

 食事の間、真冬は言葉数は少なかったものの、屈託なく笑顔を浮かべているように見えた。
 いつもの張りつめた雰囲気もなく。母・千尋のように穏やかに笑う真冬に、信はどうしても不安を感じてしまった。
 彼女が無理をしているとは思えない。しかし、何か表現しがたい危うさを覚えて。
 だから、真冬が帰るとき、信は強い調子で送っていくことを主張した。
 何度断っても退かない信に、真冬は苦笑を漏らして、頷いた。

「わかった。じゃあ、お願い。……双海さんも一緒に、ね」

「は……はい」

 詩音は頷きながらも、戸惑って信の表情を伺った。
 信も首をひねりつつ、頷く。
 真冬はただ微笑んでいた。

     *

 三人で辿る帰り道。
 真冬は、信と詩音より少し前を歩いていた。
 わずか半歩。それがけして越えられない溝のようで、信と詩音は悲しくなった。
 だが真冬はまっすぐに背筋を伸ばしたまま、頑なにその距離を保っていた。
 やがて、ろくな会話もないまま、三人は藤村家の前に到着した。

「それじゃ。二人ともありがと」

 真冬が振り向いて、笑う。穏やかに、はかなげに。
 その頃には、詩音も真冬の様子がおかしいことに気づいていた。しかし、信と同様、はっきりと言葉にすることができず、ただ二人は曖昧に頷き返すだけだった。

「……いや……」

「お体、大切にしてくださいね」

「うん」

 もう一度微笑んで、真冬は信の顔を見つめた。
 不意に笑顔が失われ、思い詰めた表情になる。

「真冬……?」

「……」

 すっ……と、真冬は右腕を伸ばした。
 信と詩音が首を傾げる暇もなく、伸ばした腕で信の胸倉を掴む。そして、無理矢理引き寄せ、唇を重ねた。

「――!」

「……!」

 信が目を見開き、詩音が息を飲む。
 口づけは、ほんの一瞬だった。軽く、わずかに触れ合うだけのキス。
 真冬は体を離して、再び信を見つめた。

「真冬……お前……」

「……いいでしょう? これで最後なんだから」

 一歩、真冬が後ずさった。後ろ手で門に手をかける。

「最後って……」

「……二度と、逢わない」

 囁くような声だった。
 微笑んだ真冬の瞳に、涙が浮かぶのを信と詩音が気づいた瞬間、真冬は身を翻して門をくぐり、そこを固く閉ざした。

「真冬……! お前、何を……」

「真冬さん!」

 呼びかける声に決して振り向かず、真冬はドアを開けて家に入った。
 鍵を閉めて、ドアに背をもたれさせる。そのままずるずると、崩れ落ちた。
 あの日と同じように。ただ泣き崩れて。
 けれど、あの日と決定的に違うのは、真冬が自ら望んでこのドアを閉ざしたこと――。

「さよなら……信……」

 かすかな嗚咽の中で、別れの言葉を、真冬は呟いた。


to be continued...



2002.5.8


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