君はどこにいるの
君はどこへ行ったの
遠い旅にでも出たんだね
一番大切な人と
浜崎あゆみ「End roll」
1
意識を失う前のことを、何も覚えていない――そんな都合のいい話が、実際にあればいいんだけれど。
真冬は窓から差し込む朝日に目を細めながら、そんなことを考えた。
実際には、自分が昨日何をしたか、真冬ははっきりと覚えていた。降りしきる雨の中、自分が何を云ったのかも。
「……なんて、無様」
陽光から隠すように、真冬は両腕を上げて顔を覆った。
自分が情けなくて、涙も出ない。ただ深いため息だけがこぼれた。
静かな足音が近づいてくる。そちらへ顔を向けると、銀がかった薄茶色の髪を揺らして、美しい少女が微笑んでいた。
「おはようございます」
「……おはよう」
短く答えたあと、真冬は辺りを見回した。
高い天井。洋館風の作り。暖炉。自分のものではないベッドと寝間着。
状況を正確に理解して、真冬は再度大きなため息をついた。
「ごめんなさい、迷惑かけて」
ベッドサイドに立った少女――詩音の目を見ずに、真冬は呟いた。
詩音は答える代わりに微笑み、そっと手を真冬の額に伸ばした。
「……あ……」
「失礼します。……うん、熱はないみたいですね」
屈託なく笑う詩音を、真冬はじっと見つめた。詩音は不思議そうに首を傾げる。
「紅茶、入れてきますね。……あ、真冬さんは珈琲の方がいいですか? 珈琲だと……インスタントしかないんですけど……」
「……紅茶でいいわ」
「はい。では、少々お待ちください」
再び静かな足取りで、詩音が歩き去っていく。
やがて紅茶の芳香が部屋に届き、詩音が両手でトレイを持って帰ってくるまで、真冬は唇を固く結んで虚空を見据えていた。
ベッドサイドの机にトレイを置き、詩音がカップを差し出した。
「どうぞ。起きられますか?」
「ええ」
上体を起こして、真冬はカップを受け取った。すぐには口をつけず、琥珀色の水面を見つめる。香りを楽しむというより、猫舌の真冬は、冷めるのを待っているのだった。
しばらくして、ようやく真冬はカップを口に運んだ。
詩音は何も云わず、真冬の様子を見守っていたが、紅茶を一口飲んだ真冬の目がわずかに大きくなったのを見て、微笑んだ。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
「紅茶も入れ方でこんなに違うのね……」
「はい」
相変わらず詩音の目を見ずに、真冬は淡々と呟く。詩音も変わらず微笑んだまま、そんな真冬を見守っていた。
飲み終えたカップを、真冬はトレイに戻した。
「お代わり、入れましょうか?」
「……いい」
軽く首を振り、真冬はベッドの上で膝を抱き寄せ、顎を載せた。
思いがけず子供のようなその仕草に、なぜだか詩音の胸は痛んだ。
その姿勢のまま真冬は首を傾げ、詩音を見た。闇より暗い瞳で、まっすぐに。
「みっともないね、私」
「真冬さん……」
「笑ってもいいよ。軽蔑したっていい。こんな……無様な……!」
唇を噛みしめて、真冬は肩を震わせた。けれど、詩音から目をそらすことはなく。
詩音はかすかに眉をひそめて真冬を見つめていたが、やがて微笑んで、首を振った。
「誰もあなたを笑うことなんてできません。そんなの、私が許さない」
「……え……?」
「そこまで誠実にひとを愛するあなたを、誰が笑えるのですか」
茫然と目を見開く真冬。詩音は微笑んだまま、そっと真冬の手を取った。
「だからこそ、私には自分から身を引くなんてことはできません。あのひとを大切に想い続けることが、私のあなたに対する誠実さだと思うから」
「……あ……」
それが昨日の自分の言葉への答えだとわかったから、真冬は小さく息を飲んだ。
ようやく見つけたかけがえのない想い、それを諦めるしかないのだと思い知らされて。
本当に悲しかったのは、とっくに自分でも気づいていたのに、気づかないふりをしていただけだとわかってしまったことで。
本当にもう自分には何もない。そう考えた、ぎりぎりの自分から出てきた言葉。
(信を……返して……)
だけど。
私は、今度も、間違っていた、のかも、しれない、――。
「ごめんなさい……」
「真冬さん……?」
「ごめんなさい……私……ごめんなさい……」
それはすでに慟哭でさえなく。ただか細い呟きが、静かな涙と共にこぼれ落ちていた。
2
再びベッドで横になり、真冬は窓の外を見ていた。
詩音の姿はない。朝食を用意するため、キッチンへ行っていた。
(もう……謝らないでください)
去り際に、詩音は優しく真冬の髪を撫でて、そう云ってくれた。
けれど、真冬は唇を噛んで、自身を強く責め続けた。
自分はいったい何を見て、何をしてきたのだろうと思う。
誰かが、誰かを愛している。
詩音も。静流も。母の千尋も。
誰もがかけがえのない想いを、胸に秘めて。
自分はそんなことにさえ気づこうとしなかった。
(あんたはひとりでしか生きられないんだもの)
かつて、叩きつけられた言葉。その意味。
(俺は……自分が許せない)
かつて、偽善だと決めつけた言葉。その意味。
そんなことが、今になってやっとわかるだなんて。
だから、これはきっと……そう、真冬が考えたとき。
チャイムの音がした。
玄関の呼び鈴らしい。詩音が応対に出る声がしたかと思うと、ばたばたと慌ただしい足音が響く。何事かと真冬が首を部屋の入口に向けると同時に、ドアが大きく開け放たれた。
「真冬……! 倒れたって……大丈夫か!?」
「……信……」
息を飲んで、真冬はそこに立つ男の姿を見つめた。
信はずっと走ってきたのだろう、肩で息をついている。
間もなく、ぱたぱたと詩音があとを追ってきた。
「信さん、女性が休んでいる部屋を、ノックもなしに開けるなんて……」
「あ、ああ、悪い、ごめんよ」
咎められ、慌てて信はあたふたと頭を下げる。
そんな二人の様子に、真冬は小さく苦笑した。
(そう……これがきっと……罰……)
その苦笑をどう理解したのか、信も微笑みながら、けれどやはり心配そうに眉をひそめて、真冬のそばに近づいた。
「びっくりしたよ。詩音ちゃんから連絡もらって……」
「……彼女には、本当に迷惑かけたわね。ごめんなさい」
「真冬さん、それはもう……」
「――心配してくれたんだ?」
真冬は呟いて、信を見上げた。まっすぐなその視線は、少しだけ詩音を落ち着かなくさせた。
信は戸惑いながらも、強く頷いた。
「あったりまえだろが」
「……ありがと」
真冬はニッ、と唇の端だけで笑って見せた。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
だが、信は、そこに奇妙な違和感を覚えてしまった。
「真冬……?」
「もう大丈夫。帰るわね」
そう云って、真冬は体を起こした。詩音がその体を支えるように、そばに駆け寄ってくる。
「無理しないでください。まだ休んでいた方がいいのではありませんか?」
「平気よ」
「じゃあ……朝食を用意しましたから……せめて、召し上がっていってください」
心配そうにじっと見つめる詩音。真冬はしばし見つめ返したあと、悲しいほど優しい笑顔を浮かべた。
「うん。じゃあ、ごちそうになるわね」
「はい」
詩音がほっと息をついた。
信はやはり正体のわからない胸騒ぎを抱えて、二人の笑顔を見つめていた。
3
食事の間、真冬は言葉数は少なかったものの、屈託なく笑顔を浮かべているように見えた。
いつもの張りつめた雰囲気もなく。母・千尋のように穏やかに笑う真冬に、信はどうしても不安を感じてしまった。
彼女が無理をしているとは思えない。しかし、何か表現しがたい危うさを覚えて。
だから、真冬が帰るとき、信は強い調子で送っていくことを主張した。
何度断っても退かない信に、真冬は苦笑を漏らして、頷いた。
「わかった。じゃあ、お願い。……双海さんも一緒に、ね」
「は……はい」
詩音は頷きながらも、戸惑って信の表情を伺った。
信も首をひねりつつ、頷く。
真冬はただ微笑んでいた。
*
三人で辿る帰り道。
真冬は、信と詩音より少し前を歩いていた。
わずか半歩。それがけして越えられない溝のようで、信と詩音は悲しくなった。
だが真冬はまっすぐに背筋を伸ばしたまま、頑なにその距離を保っていた。
やがて、ろくな会話もないまま、三人は藤村家の前に到着した。
「それじゃ。二人ともありがと」
真冬が振り向いて、笑う。穏やかに、はかなげに。
その頃には、詩音も真冬の様子がおかしいことに気づいていた。しかし、信と同様、はっきりと言葉にすることができず、ただ二人は曖昧に頷き返すだけだった。
「……いや……」
「お体、大切にしてくださいね」
「うん」
もう一度微笑んで、真冬は信の顔を見つめた。
不意に笑顔が失われ、思い詰めた表情になる。
「真冬……?」
「……」
すっ……と、真冬は右腕を伸ばした。
信と詩音が首を傾げる暇もなく、伸ばした腕で信の胸倉を掴む。そして、無理矢理引き寄せ、唇を重ねた。
「――!」
「……!」
信が目を見開き、詩音が息を飲む。
口づけは、ほんの一瞬だった。軽く、わずかに触れ合うだけのキス。
真冬は体を離して、再び信を見つめた。
「真冬……お前……」
「……いいでしょう? これで最後なんだから」
一歩、真冬が後ずさった。後ろ手で門に手をかける。
「最後って……」
「……二度と、逢わない」
囁くような声だった。
微笑んだ真冬の瞳に、涙が浮かぶのを信と詩音が気づいた瞬間、真冬は身を翻して門をくぐり、そこを固く閉ざした。
「真冬……! お前、何を……」
「真冬さん!」
呼びかける声に決して振り向かず、真冬はドアを開けて家に入った。
鍵を閉めて、ドアに背をもたれさせる。そのままずるずると、崩れ落ちた。
あの日と同じように。ただ泣き崩れて。
けれど、あの日と決定的に違うのは、真冬が自ら望んでこのドアを閉ざしたこと――。
「さよなら……信……」
かすかな嗚咽の中で、別れの言葉を、真冬は呟いた。
2002.5.8