'MARIA' 愛すべき人がいて
時に 深く深いキズを負い
だけど 愛すべきあの人に
結局何もかも癒されてる
浜崎あゆみ「M」
1
「おはようございます」
「おはよう……って、……え!?」
軽く頭を下げて傍らを通り過ぎた黒髪の女性に、何気なく挨拶を返した静流と小夜美は、それが誰か気づき、慌てて振り返った。
彼女は振り向かず歩き去ってゆく。その後ろ姿を、二人は半ば茫然と見送っていた。
「今の……藤村さん、だよね?」
「うん……間違いない……けど」
先日の静流との口論以来、真冬は静流を無視してきた。小夜美にしても、この間の一件以来、気まずい想いがあった。
だから、あんな風に真冬から挨拶されるのは、二人にしてみれば意外なことだったのだ。
「どういう心境の変化だろ?」
小夜美が腕組みをして首を傾げる。静流も軽く眉をひそめた。
「さあ……」
「あたしたちが云ったことなんて、取るに足りないって思われてたら、悲しいけど」
「そういう娘じゃないと思うわ」
「そうだよね。……じゃあ、何かあったのかな? ここ何日か、大学で見かけなかったけど……」
「……」
「やっぱり、あたしが余計なこと云ったからかなあ……」
「小夜美……」
暗い表情になって、小夜美がため息をついた。静流は親友を元気づけるために、強いて明るい笑顔を作った。
「もともとはわたしとのことが発端なんだから、小夜美が責任感じることじゃないわよ」
「でもさ……」
「とりあえず、もう少し様子を見ましょう」
そう云って、静流はもう一度、真冬が去った方向を振り向いた。
一瞬、すれ違っただけだったが、静流には、真冬がこれまで持っていた張り詰めた雰囲気をなくしているように思えた。
それがいいことなのかどうか、静流にはまだわからなかった。
*
静流たちとすれ違ったあと、真冬は小さく息をついた。
とりあえず、そんなに不自然ではなかったと思う。
何もなかったのだと考えればいい。
――だって、何も変わっていないのだから。
信は、かけがえのない想いは、はじめから失われていた。私は子供のように、その事実を見ないようにしていただけ。
だから。何も変わっていないのだから、何もなかったのと同じ。
真冬はそう考えることにしていた。かつて、自分から信と距離を置こうとしていたときと同じように。
教室に入り、席に着く真冬。いつもの癖で肩にかかった髪をかき上げたところで、ふと何かに気づいたように、自分の髪を一房手に取った。
「切ろうかな、髪……」
もう髪を伸ばしている理由はないはずだった。だけど。
(綺麗な髪だな……)
(俺、真冬の髪、大好きだったよ)
胸の裡から響く懐かしい声を振り払うように、真冬は頭を振った。伏せた面で、ニッ、と唇の端だけで笑ってみせる。捨てられた猫のように。
「未練ね……。ほんと、私、みっともない」
2
電話の音に、少女は勢いよく立ち上がり、文字どおりダッシュで受話器を取った。
「はい、白河です! ……なーんだ、信くんかあ。健ちゃんからだと思ったのにー。……あははは、ごめんごめん。でも、珍しいですね、信くんが電話してくるなんて。……え、お姉ちゃん? うん、いますよ、ちょっと待ってくださいね。……お姉ちゃーん! 信くんから電話ー!」
*
「すみません、二人とも、お呼び立てして」
「ほーんと。おごってもらうからね」
「……うっ」
「小夜美ったら。……いいのよ、ちょうどわたしたちも、稲穂くんたちに話を聞きたいと思ってたの」
云いながら、静流と小夜美は席に腰を下ろした。向かいには、信と詩音が座っている。
信に電話で呼び出され、四人は喫茶店で待ち合わせをしたのだった。
「俺たちに話って……やっぱ、真冬のことですか?」
「うん……稲穂くんたちも、そうよね?」
「はい……」
頷いて、信は面を伏せた。詩音が気遣わしげな視線を、その横顔に送る。
静流と小夜美は、黙って信の言葉を待った。
やがて、信は顔を上げて、口を開いた。
「……あいつ、どうしてますか?」
「うーん……」
顔を見合わせる静流と小夜美。
「表向きは、普段とあんまり変わらないんだけど……ちょっと、雰囲気が違うかな」
「雰囲気……ですか?」
詩音が眉をひそめて、首を傾げる。小夜美が腕組みをして頷いた。
「うん。柔らかくなった……っていうのとは、違うと思うんだ。なんて云うのかな……。以前の彼女は、周囲との関わりを自分から拒んでる感じがあったんだけど、そういうのはなくなったの」
「……」
「それだけなら、いいことなのかもしれないけど……今の彼女は……世界との繋がりをまるで持っていないみたい」
「それって……どういう……」
信が軽く息を飲んで、身を乗り出した。小夜美は小さくため息をつき、首を振った。
「ごめん。ほんと、うまく云えなくて。ただね、話しててもなんか頼りないっていうか、確かにそこにいるのに、すごく遠い人に思えるのよね……」
あれから数日が経っていた。
静流と小夜美は何度か真冬に話しかけ、食事を共にしたこともあった。真冬も以前のように、二人を拒んだりはしなかった。
しかし、これまでの態度が嘘のように穏やかな真冬の笑顔が、彼女とのよりいっそう深い溝に思えて、静流も小夜美も、真冬の真意を知ることができなかった
「……」
「……」
信と詩音が顔を見合わせて、ため息をついた。
「何があったのか……聞かせてもらえる?」
「はい……」
静流の問いかけに、力無く信は頷き、あの日の出来事を話し始めた。詩音は言葉を挟まず、硬い表情でうつむいていた。
3
「そう……彼女、それで……」
信の話を聞き終えて、ほう、と静流は深いため息をついた。
一方、小夜美は頭を抱えて、うなだれてしまった。
「それって……あたしと話した日だよね。あっちゃあ……最悪の目が出ちゃったか……」
「小夜美。今は『誰のせい』だなんて考えててもしょうがないわ」
「そうだけどさ……」
「――それでも、俺のせいです」
握りしめた拳を振るわせて、信が呟いた。自身をじっと見つめる詩音の悲しげな瞳に、気づくこともできずに。
「信クン……」
「真冬は、三年前の俺と同じことをしようとしてる。それが自分への罰だって思い込んで……。そんなこと……なんの意味もない、なんの償いにもならないって……誰より……知ってるはずなのに……」
「……」
「そもそも……あいつが償うべきことなんて、何もないのに……。俺が……俺が、あいつを……」
「ストップ」
蒼白な表情で自分自身を弾劾しようとする信を、小夜美が遮った。驚いて信が顔を上げると、小夜美は少し厳しい、けれど悲しそうな目を向けていた。
「それ以上は、恋人の前で云っちゃダメだよ」
「……あ……」
はっと信は傍らの詩音を振り返った。
詩音は小さく微笑んで、首を振る。信は云うべき言葉もなく、唇を噛んだ。
そんな様子をじっと見つめていた静流は、暗い声で呟いた。
「このままが……いいのかもしれないわね……」
「……え……?」
意外な言葉に、信は愕然と顔を上げた。詩音も意外そうに目を瞠っている。
「このままが、いちばん誰も傷つかない……そうじゃないかな?」
「……!」
「……っ」
静流の云わんとすることがわかって、信と詩音は絶句した。小夜美が悲痛に顔を歪める。
信が、詩音を選んでしまったから。
真冬には、その答えを受け入れるしかないのなら。
二度と逢わない、と思い詰めてまで、信への想いを振り切ろうとする真冬の決意を、自分たちもまた、受け入れるしかないのではないか――。
「そんなの……だって……それは……!」
一所懸命、言葉を探そうとする信。しかし、何を云おうとも、口にした瞬間、それは真冬のためではなく、自分自身を守るための言葉になってしまいそうで、ただ自らを責める想いに身を震わせるだけだった。
そんな信の震える拳を、詩音がそっと手を伸ばして包んだ。そして、涙を浮かべる信に優しく微笑んで、静流に面を向けた。
「私……ひとを憎んでしまいそうで、怖かったです」
「え……?」
「詩音ちゃん?」
「真冬さんと、初めて会ったときのことです」
詩音は自分の胸に手を当てて、瞳を閉じた。自分の裡から出る言葉に、じっと耳を傾けるように。
「誰かを大切に想ったり……誰かを……憎いと思ったり……そんな強い気持ちが私にあるなんて、知りませんでした。何も知らないで、人形のように、生きていました」
「詩音ちゃん……」
「知らなければ、傷つかなかったかも知れない。だけど、もっともっと失うものが多かったと思います。……ううん、そばにあることさえ、気づくこともできなかったでしょう。そのことを私に教えてくれたのが、信さんや唯笑さん、三上くん、私のそばにいてくれた人々……そして……真冬さんです」
詩音は目を開き、じっと静流を見つめた。常の詩音にはない、挑むような視線であったかも知れない。
静流もまたまっすぐに、詩音を見つめ返した。信と小夜美は息を飲んで、そんな二人の様子を見守っていた。
「これは私のわがままです。承知の上で、申し上げます。私は、真冬さんが真冬さんらしさを失うのは嫌です。たとえその生き方が、彼女自身を傷つけるとしても」
「ひどいことを云ってるって……わかってる?」
「はい」
「そう云いきれるのは、あなたが愛されているから。とても傲慢で思い上がった台詞だわ。そう思わない?」
「承知の上だと、申し上げたはずです」
詩音の声も表情も硬かったが、それは以前彼女が身につけていた「仮面」とはあまりに違っていた。脆い自分を隠すためでなく、大切な何かを守るために、詩音は不慣れな激情をほとばしらせていた。
信はそんな詩音の姿に、ほとんど感動していたかも知れない。
「誰も傷つかなければいいだなんて……そんなのは本物じゃありません。いちばん大切なものを、自分自身で壊してしまって……それでどうして……っ」
こらえきれず、詩音の金の瞳から涙がこぼれる。
信が詩音の肩に優しく腕を回すと、詩音は涙に濡れた瞳を彼に向けた。
「私、間違っていますか……?」
「いいや」
笑顔で首を振り、信は静流を見た。微笑んだままで、けれど、真摯な眼差しで。
「詩音ちゃんの云うとおりです。俺たちは、本物しかいらない。どれだけ傷ついたって。……そして、それは真冬も同じだって、信じてる」
「……本物……」
その一言を繰り返したとき、なぜか静流は青ざめて見えた。
小夜美は悲しげに静流と信の双方を見やり、ため息混じりに呟いた。
「もう、いいんじゃない、静流? そんな、試すようなこと云わなくても」
「えっ……」
小夜美の言葉に当惑し、信と詩音は小夜美と静流を交互に見た。静流は少し困ったように微笑んだ。
「ごめん、意地悪な云い方だったね」
「悪役ぶるなんて、似合わないんだから」
「あ……それじゃあ……」
「このままでいいなんて、あたしたちも思ってないってこと。……ただ、問題は、どうするかよねえ」
小夜美は頬杖をついて、ため息をついた。
詩音の口にしたことは確かに間違ってはいない。けれど、静流が云ったとおり、それは愛されているから云える言葉だというのも、また確かだっただろう。今の真冬にそれを求めるのは酷であるように、小夜美には思えた。
それでも、そのことを伝えられるとしたら、それはきっと――。
「わたしが、彼女と話をしてみるわ」
小夜美の考えを見透かしたようなタイミングで、静流が強い口調で云いきった。
信と詩音が意外そうに、小夜美がためらいを含んだ視線で、静流を見た。
「……やっぱ、それしかない、かな。でも、大丈夫?」
「なにが?」
静流は小夜美の方に顔を向け、じっとその目を見つめた。小夜美もまっすぐに見つめ返し、やがて、ふっと薄く笑った。
「わかった。任せるよ」
「ありがとう。じゃあ、早速行ってみるわね。稲穂くん、藤村さんのお家、教えて」
「え……あ、は、はい……」
思いがけない静流の行動力と有無を云わせぬ勢いに、信は考える暇もなく答えていた。
真冬の家の住所と簡単な地図が書かれたメモを取り、静流はすぐに立ち上がった。
「じゃあ、行ってくるわ」
「よろしく。……あとで、電話するね?」
「うん。それじゃあ、二人も」
「は……はい」
「よろしく……お願いします……」
目を白黒させながら、信と詩音は店を出て行く静流を見送った。
小夜美はひらひらと手を振り、飲みかけの珈琲に口をつけた。
「……あーあ、冷めちゃった」
「静流さん……大丈夫でしょうか」
不安げに窓の外を見ながら、信が呟いた。詩音も同じ気持ちのようで、眉をひそめて小夜美を見つめている。
小夜美はちらっと上目遣いでそんな二人を見たが、またすぐに視線を落として、冷えた珈琲を飲んだ。
「なにが?」
さっきの静流と同じように、短く問い直す。信はやや不服そうに、口をとがらせた。
「なにがって……静流さんみたいに穏やかな人が、真冬を説得できるかどうか……」
「静流は説得なんてする気はないと思うけど」
軽く肩をすくめて、小夜美は飲み干した珈琲カップを机に置いた。そして、首を傾げる信と詩音に、微笑んで見せた。
「心配いらないよ。静流なら……あのふたりなら……きっと……」
祈るように、けれど確かな信頼を込めて、小夜美は呟いた。
4
真冬はソファに腰掛けて、ぼんやりと過ごしていた。
なにを見ているわけでもない。何かを考えているわけでもない。
ただ本当にぼんやりと、目を開いて座っていた。
不思議と、涙は出なかった。
以前はひとりでこうしていると、信との想い出が次々に甦ってきて、胸をかきむしられる想いがした。
けれど今、真冬の胸にあるのは、ただ虚ろな黒い穴だけだった。
痛まないから、まだマシなのかも知れない。
自分でもくだらないと想いながら、真冬はそんなことを考えた。
そうしてどれだけの時が経った頃か。玄関の呼び鈴が鳴った。
真冬はまるで聞こえていないようになんの反応も示さなかったが、来訪者は辛抱強く呼び鈴を鳴らし続けた。
深いため息をついて、真冬は立ち上がる。インターホンを取らずに、玄関へ向かった。
信や詩音が訪ねてきたのだったら、出ないつもりだった。だから、インターホンを通さなかったのだ。実際、彼らは何度か真冬を訪ねてきていた。母のことで、急な連絡がいつあってもおかしくない、という環境でさえなかったら、真冬はずっと居留守を決め込んでいただろう。
玄関のドアの覗き窓から、外を窺ってみる。するとそこには、栗色の髪の女性が少し困った顔で立っていて、もう一度呼び鈴に指を伸ばそうとしていた。
「……」
ため息を再びついて、真冬はドアを開けた。
「……あ」
「子供じゃないんだから、そんな、何度も押さないでください」
「ごめんなさい。……絶対、居留守使ってるんだろうなって思ったから」
頭を下げながらも、そう云って静流はいたずらっぽく笑った。
真冬は苦笑し、ドアを開けたまま、静流に背を向けた。
「どうぞ。上がってください」
「……ありがとう。お邪魔します」
真冬が何も聞かずに自分を招き入れたことに、少なからず驚きながら、静流は真冬のあとに続いた。
*
両手に珈琲カップを持って、真冬は静流を待たせている居間に戻ってきた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
カップを手に取り、静流は香りを少し楽しんでから、珈琲に口をつけた。そしてカップを手に持ったままで、柔らかい笑顔を真冬に向けた。
「おいしい。藤村さん、珈琲入れるのも上手なのね」
「ありがとうございます」
淡々と答えながら、真冬はいつもどおり、珈琲が冷めるのを待っている。カップを持ち、ふーふーと小さく息を吹きかける仕草が子供のようで、その可愛らしさに静流は思わず笑ってしまった。
「……なんですか?」
じろっと真冬が上目遣いで静流を見やる。静流は慌てて笑顔を納めようとしながら、首を振った。
「う、ううん、なんでも」
「……」
無理に唇を引き結んだ静流をしばらく睨んだあと、真冬はカップに口をつけた。まだ少し熱いのを我慢して一口飲み、それからまた静流に視線を戻した。
「……信に、頼まれてきたんですか?」
「……ううん。話は聞かせてもらったけど……ここへ来たのは、わたしが、あなたと話をしたかったからよ」
「慰めや同情なら、結構です」
「そんなんじゃ……」
「ああ、でも、ひとつだけ、あなたに謝らなければいけないことがありました」
真冬はカップを机に置いた。
「謝る……?」
「ええ」
頷いて、真冬はニッ、と唇の端だけで笑って見せた。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
その笑い方が一種の韜晦だと、静流は気づいていた。だが、今日の様子はいつもともまた違い、いっそ泣き出しそうな表情にさえ見えた。
「散々偉そうなことを云いました。ごめんなさい」
「藤村さん……」
「だけど……結局、あなたのほうが正しかった。そういうことですよね」
「……え……?」
静流がわずかに眉をひそめる。そのことに気づかず、真冬はうつむいて言葉を続けた。
「自分でもわかっていたことだったのに……この気持ちを捨てられなかった……。手に入らないものをずっとほしがって……子供と同じです。弱かったのは、私……」
「――バカにしないで」
突然、強い調子で遮られ、はっと真冬は顔を上げた。静流はきつい、睨むような視線で真冬を見据えている。
静流のそんな表情を、真冬は初めて見た。それどころか、静流にそんな表情があることを、真冬は考えたこともなかった。
「私はこの想いを、捨てたりはしないわ。絶対に手に入らなくて……諦めるしかなくて……それでも……捨てることなんかできない。それだけが、たったひとつの本物だから……!」
「嘘……っ。だって、あなたは……」
「想いが届かなければ、その恋に意味はないの?」
「……っ」
真冬は絶句し、唇を噛みしめた。体が震えて、涙がこぼれそうになる。
もう一度、今度こそ完全に封じようとした熱い想いが、体の芯から熱く込み上げていた。
けれど、その想いに身を任せることで、再び同じ過ちを繰り返すのが怖くて。真冬はその激情を必死で押さえようとするように、自分自身を強く抱いた。
「そんなの……だって……傷つけるだけだもの……っ。つらいだけ……傷つけるだけ……私は……私には……そんなことしかできないから……っ」
「……」
「だから……捨てるしかない……捨てた方がいいの、こんな、こんな……」
こんな恋、こんな想い。
そう口にすることが、真冬にはどうしてもできなかった。
自分を哀れんだのではなく、そう、ただそれが、自分自身でさえ汚すことも、傷つけることもできない、たったひとつの――。
「……本当に、それだけだったの?」
「――え?」
「つらいだけ、傷つけるだけ……本当に、それだけだった? そんなはずないでしょう?」
「……あ……」
いつの間にか静流の面から怒りは消え去り、真冬と同じように涙で瞳をいっぱいにしていた。その瞳で見つめられて、真冬はようやく思い出した。
彼が教えてくれた、大切なこと。
かけがえのない、この想い。
それがなおさら自分を苦しめるのだと、思っていた。だから、はじめからなかったと思えばいいのだと。
だけど。
本当に、なければよかったのだろうか。あのぬくもりを知らないままでいられればよかったと、本当に――?
真冬は茫然と目を見開き、その瞳からは涙がこぼれ続けた。
静流は痛ましげに唇を噛み、その姿を見守っていた。
2002.5.14