やまない雨

第一話「Bustling time」


     1

「あ……」

「……っ」

「……あら」

 夕暮れ時、桜峰の駅の近くで、彼女たちは出会った。
 それぞれはすでに以前から面識はあったが、こうして三人が一堂に会するのは、実はこれが初めてだった。

「お久しぶりです、真冬さん」

 そう云って、銀の髪を揺らし、金の瞳を細めながら微笑んだのは、双海詩音だ。
 対照的に、闇のように黒い髪と瞳の藤村真冬は、いつもどおり、唇の端だけでニッと笑ってみせた。

「久しぶり。二人でお出かけ?」

 云いながら、軽く首を傾げて、真冬は詩音の連れに目を向けた。
 真冬と姉妹だと云っても通用するぐらい、雰囲気のよく似ている少女。流れるような黒髪をポニーテールにした寿々奈鷹乃は、なぜか気まずげに視線をさまよわせていた。

「あ、はい、その……」

「……?」

「朝凪荘で、信さんのお祝いをするんだそうです」

 鷹乃の様子を見て、真冬は訝しげに眉をひそめたが、詩音は気づかないようだった。
 真冬がじっと見つめると、さらに鷹乃は身を固くしてしまう。やむなく、真冬は視線を詩音に転じた。

「信のお祝い?」

「はい。バイト先の『ルサック』で、正社員登用のお話が出ているそうなんです」

「……ふうん」

 特に驚いた様子もなく、むしろ不審そうに真冬は相づちを打った。一方、詩音は嬉しげに微笑んでいる。

「それも、店長候補として考えてくれるそうなんですよ。すごいですよね」

「それはまた、無謀な話ね」

「……私も、ちょっとだけそう思いますけど……」

 真冬が肩をすくめると、詩音も小さく苦笑した。

「それで、お祝いをしようって、三上くんと唯笑さんが」

「なるほど。それで、鷹乃も呼ばれたんだ?」

「は……はい、私はいいって云ったんですけど、健がどうしてもって……」

「……鷹乃?」

 相変わらず、鷹乃の様子はおかしい。身の置き所もないほど狼狽しているように見える。
 真冬はしばし目を細めたが、すぐ何かに気づいて苦笑すると、鷹乃の頭を軽くぽんと叩いた。

「バカね。変な気の使い方しないの」

「真冬先輩……」

「私と双海さんが恋敵だってことと、あんたが双海さんと仲がいいのは、全然別の問題でしょう?」

「あ……」

 その言葉に、詩音もようやく現在がどういう状況か気づいた。
 当人同士は――少なくとも詩音はそのつもりで――屈託なくつきあっていたとしても、鷹乃の立場では、途方に暮れるしかないだろう。
 敬愛する先輩と、数少ない親友と。それぞれの恋をただ応援することができれば、どんなに――。

「ほんっと、そういうとこ、変わらないんだから」

 叱られた子供のようにうなだれている鷹乃に、真冬は優しい微笑を向けた。そして、微笑んだまま詩音を振り向いた。

「この通り、堅物なんだけど、これからもよろしくしてあげてね」

「ま、真冬先輩……」

「いえ、こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 さすがに鷹乃が赤くなって真冬を止めようとしたが、詩音は大真面目に頭を下げた。
 詩音らしいその態度に、真冬と鷹乃が目を見交わして小さく笑う。それでやっと、鷹乃の緊張もほぐれたようだった。
 安心したようにもう一度微笑むと、真冬は軽く手を振って歩き出そうとした。

「それじゃ。店に迷惑かけないよう、よく考えろって、信に云っておいて」

「あ……真冬さん」

「なあに?」

 詩音に呼びかけられ、真冬が足を止めて振り返る。
 詩音は微笑んで、けれど瞳に少し真剣な色を潜めて、提案した。

「お時間があれば、ご一緒しませんか?」

「……え?」

「ちょっと、詩音?」

 真冬が不審そうにすっと目を細めた。鷹乃も驚いて詩音の顔を覗き込む。
 詩音は動じることなく、まっすぐ真冬を見つめていた。
 しばしの沈黙のあと、真冬はため息とともに言葉を吐き出した。

「遠慮しておくわ。私が行っても、場が白けるだけでしょう」

「そんなことはありません。信さんのお祝いですから。真冬さんが来てくだされば、信さんも喜ぶと思います」

「……どうかしら」

 云いながら、真冬は背を向けてしまった。しかし、その背中にある答えは、「拒絶」ではなく、「迷い」であるように、詩音には思えた。

「三上くんたちも、いらっしゃいますよ」

「……だから、行かないって云ってるんじゃない。意外と意地悪なのね、双海さん」

「私は、むしろ、だからこそ、真冬さんに来てほしいんです」

「……」

 唇を噛む真冬。詩音と鷹乃にじっと見つめられたまま、少し考えたあと、真冬はため息混じりに頷いた。

「……わかったわ」

     2

 三人が朝凪荘の信の部屋に到着したとき、すでに他の参加者は揃っていた。
 奥には家主であり、今日の主役である稲穂信。右側には三上智也と今坂唯笑が、左側には伊波健が座っている。
 ノックの音がして、詩音たちが姿を現すと、まず唯笑が満面の笑顔で立ち上がった。

「あー、やっと来たぁ。遅いよ、詩音ちゃん、鷹乃ちゃん。……って、え?」

 詩音、鷹乃に続いて部屋に入ってきた真冬。その姿に、唯笑が目を丸くして言葉を失う。振り向いた智也と健も、驚いて少し目を開いた。

「……真冬さん?」

「……」

 真冬は硬い表情で、唯笑から目をそらした。所在なげに、玄関口で立ち尽くす。
 そんな真冬の背に、促すようにそっと詩音が手を回した。

「途中でお会いしたので、私がお誘いしました」

「あ、そ、そうなんだ」

「……」

 真冬はやはり何も云わず、ただ顔を上げて信の方を見た。
 信もやや意外そうな顔をしていたが、真冬と目が合うと、いつものように顔中を笑顔にして見せた。

「真冬も来てくれたのか。サンキュ」

 その笑顔に、ようやく真冬が小さく微笑む。真冬だけでなく、その場にいる全員がほっと息をついたように思えた。

「突っ立ってないで、三人とも早く座れよ」

「智也、ここはお前んちじゃないぞ」

「細かいこと気にすんなって」

 信と智也のやり取りに苦笑しながら、詩音たちは部屋に上がった。
 智也が席を空けて、詩音が信の隣に腰を下ろす。鷹乃は健の隣に。そして、真冬はその鷹乃の隣、信の真向かいに座るような形になった。

「じゃあ、信くんの嘘みたいな出世を祝して、乾杯しまーす」

「……唯笑ちゃん……」

 身も蓋もない唯笑の祝辞に、信が悲しそうに眉をひそめる。
 それぞれが飲み物の入れられたグラスを掲げようとしたとき、真冬の硬い声がそれを遮った。

「待って。その前に……」

「ほえ?」

「ん?」

 全員の訝しげな視線を受けて、真冬は智也と唯笑に向き直った。そして唇を噛んで、そのまま深々と頭を下げた。

「え、ちょ、ちょっと……」

「真冬さん?」

「あのときは、ごめんなさい、本当に」

「……」

「……」

 智也と唯笑が顔を見合わせる。健と鷹乃は困惑し、信と詩音は悲しげに表情を曇らせた。
 あの初冬の事件から、すでに一年以上経っている。その間にも色々な出来事があったけれど、真冬が智也や唯笑と顔を合わせる機会はなかった。
 だから、詩音は今日、真冬をここへ連れてきたのだ。智也と唯笑が、真冬のことを誤解したままでいるのは嫌だったから。
 しかし、それは詩音の杞憂だったようだ。いや、むしろ予想どおりというべきか。
 唯笑はその名のとおり、ただ笑顔で首を振ったのだった。

「真冬さんが謝るようなことじゃないよ。ね、智ちゃん」

「そうだな」

 微笑んで、智也も頷いた。
 二人の笑顔に、真冬もはにかんだような笑みを返した。そうすると、少女のようなあどけなさが浮かんで、唯笑はまぶしそうに目を細めた。

「ありがとう、今坂さん、三上くん」

「もう、だから、お礼云われるようなことでもないってばぁ。さ、乾杯しよ、乾杯! あ、唯笑のことは唯笑って呼んでね」

「……うん、わかった、唯笑ちゃん」

「えへへぇ。はい、じゃあ、かんぱーい!」

 今度こそ全員がグラスを掲げて、乾杯する。グラス同士がぶつかる硬い音が、騒がしく響いた。

「いやー、みんな、ほんっと、ありがとうな。俺のためにわざわざ集まってくれて」

「気にするな。ただ集まって騒ぐ口実がほしかっただけだ」

「智也! お前なあ……」

「そうそう、受験まっただ中だからねぇ。たまには息抜きしなきゃ」

「唯笑ちゃんまで……」

「ほんと、この忙しいときに、迷惑だわ」

「ちょ、ちょっと、鷹乃」

「……」

 言いたい放題の友人たちに、信はかなり本気で落ち込んでみせる。彼をいちばん傷つけたのは、詩音まで一緒になって笑っていたことだったかも知れないが。
 そんな様子を、真冬は頬杖をついて、微笑んだまま見つめていた。
 鷹乃という例外を除いて、真冬には高校時代、特に親しかった友人はほとんどいない。当然、こんな風にバカ話で盛り上がったこともない。
 そのことを後悔しているわけでも、羨ましく思っているわけでもなかったが、真冬の知らなかった今のこの空気は、確かに心地よいものだった。
 しかし、信が次に口にした話題に、真冬の目はすっと細められることになった。

「まあ、確かにこうやって集まってもらうのは、心苦しくはあるな。みんな忙しいときだし」

「おいおい、冗談だって」

「ああ、わかってる。それだけじゃなくて……その……まだ、決まったわけじゃないんだ」

「……え?」

「ほえ?」

「信くん、それってどういうこと?」

 全員に詰め寄られて、信はばつが悪そうに頭をかいた。ただ詩音だけは事情をわきまえていて、ただ静かに信の横顔を見つめていた。

「正社員に、って話があったのは本当だよ。ゆくゆくは店長候補……なんて、嘘みたいなことも、ほんとに云われた」

「だったら、何の問題があるってんだ?」

「その……まだ、返事してないんだ」

「……はあ!?」

「ええっ、なんでぇ!?」

 不審の声はさらに高くなる。信は困ったように苦笑するばかりだ。

「うん……まあ、ありがたい話ではあるんだけど……それでいいのかなってな」

「いいも悪いもないだろう! せっかくのチャンスじゃないか」

「そうだよー! 詩音ちゃんも、その方が安心するよ。ね、詩音ちゃん」

 不意に唯笑から話を振られて、詩音は驚いて顔を上げた。そして、少し首を傾げて自分を見つめる信に、微笑んで見せた。

「そう……ですね。私も、いいお話だとは、思いますけど」

「うん……やっぱ、そうだよね」

 頷きながらも、信は詩音から目をそらした。その先には、黙ったままじっと信を見つめていた真冬がいた。
 信は何も云わなかった。けれど、真冬は信と目が合うと、静かな声で呟いた。

「いいんじゃないの。それがほんとにあんたのやりたいことなら」

「……そう……なんだよな」

 真冬の言葉を噛み締めるように、信は深く頷いた。
 その態度に、詩音は誰にも気づかれぬよう、そっと胸を押さえた。なぜだか、ひどく居心地の悪い想いがした。

     3

 宴会の主題はやや曖昧になってしまったが、それでもそのあと、場は盛り上がって、誰もが楽しい時間を過ごした。残念ながら、その時間はあまり長いものではなかったが。
 今は一月の末。信と真冬を除いて、全員が受験を目前に控えているのだ。

「じゃな、信。あんまりうだうだ考えるなよ。似合わないんだから」

「うるせーよ」

 朝凪荘の玄関口で、智也は軽口を叩きながら手を振った。唯笑も笑顔でそのあとに続く。

「あはは、じゃあねー、おやすみー」

 二人並んで帰っていくその姿を見送りながら、真冬は鷹乃に声をかけた。

「じゃ、私たちも帰りましょうか。送っていくわ、鷹乃」

「え……本当ですか?」

 嬉しげに頬を染める鷹乃。反対に、少し残念そうな健に、真冬は軽く微笑んで見せた。真冬には珍しい、からかうような、いたずらっぽい笑顔。

「それとも、お邪魔かな?」

「あ、いえ……」

「飛んでもありません!」

 思わず健が赤くなって首を振るが、それより早く、鷹乃が力強い調子で否定する。今度こそがっくりと肩を落とす健に苦笑しつつ、真冬は信と詩音に軽く手を振った。

「じゃあね。おやすみ、信。双海さんも」

「ああ、気をつけてな」

「あ……はい、あの……」

「ん?」

 何かを云いかけた詩音に、真冬は首を傾げて先を促した。
 詩音は何度かためらったあと、少し頬を赤くして口を開いた。

「その……私のことも、『詩音』って呼んでくださると、嬉しいのですけれど」

「……」

 真冬の瞳がすっと細くなる。その仕草に、詩音はやはり云うべきではなかったかと、体を固くした。
 真冬は親しい女性を名前で呼ぶことが多い。鷹乃はもちろん、静流や小夜美、そしてたった今、唯笑のことも。それが少し羨ましかった。
 けれど、やはり自分にはそんなことを望む資格はなかっただろうか。私は彼女の「友人」ではあり得ないのか――。
 詩音のそんな物思いを裏付けるように、真冬は冷たい声で呟いた。

「私には、恋敵と馴れ合うような趣味はないわ」

「そう……ですね」

 予想通りの答えに、詩音は悲しげにうつむいた。
 その様子を見て、真冬はニッと唇の端だけで笑った。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。

「そういうこと。――じゃあね、おやすみ、詩音」

「あ……」

 驚いて詩音が顔を上げたときには、真冬はもう背を向けて歩き始めていた。目を丸くしている詩音に鷹乃が微笑みかけ、真冬のあとを追う。
 ほとんど茫然として、詩音は彼女らの後ろ姿を見送っていた。その肩を、信がそっと抱き寄せた。顔中を笑顔にして。

「あいつは、かっこよすぎるんだよな」

「……はい」

 微笑んで、詩音は頷いた。
 このとき、詩音は本当に嬉しかった。たとえどのような経緯があったとしても、真冬に出会えたことを喜びだと思っていた。
 ――そう、思っていたかった。

     4

 日曜日の昼下がり。
 詩音は居間で参考書を広げて、キッチンから聞こえてくる料理の音に耳を傾けていた。
 料理をしているのは、お手伝いの人ではない。信だ。
 普段、勉強にあまり身を入れない詩音だが、受験となるとそうも云っていられない。必然的に、デートできる時間も少なくなる。同じ受験生同士なら、一緒に図書館に行ったりすることもできたのだが。
 一方、信もバイト先で任される仕事が多くなって、忙しい毎日を送っている。互いの都合をつけて外で逢うのは、なかなか難しい状況だった。
 そこで、信の時間があるときに、彼が詩音の家を訪れることが多くなっていた。あまり長い時間ではないが、紅茶を飲みながら歓談したり、時にはこうして信が料理を作ったりする。
 彼の手料理をいつも振る舞われる立場、というのは、さすがの詩音にとっても少し複雑であったけれど。
 仕事で毎日厨房に立っている信の腕には、もはや詩音は叶わない。受験が終われば、私も静流さんや小夜美さんに料理を習うべきだろうか――そんなことを考えて、詩音は苦笑した。

「よっ、お待たせー。できたよ」

「あ……はい、ありがとうございます」

 両手に皿を持って、信が居間に入ってくる。詩音は急いでテーブルの上を片づけた。今日の昼食は焼きそばだ。

「お口に合えばよろしいのですが」

 おどけてみせる信に微笑んで、詩音は箸を取った。一口食べて、にっこりと笑顔を浮かべる。

「おいしいです」

「ほんと? はは、よかった」

 満面の笑顔を返しながら、信も自分の箸を取って食事を始めた。
 とりとめのない話をしながら、時間は過ぎてゆく。
 やがて食べ終わると、詩音は食器をまとめて、キッチンへ下げようとした。

「あ、俺がやるよ」

「いえ、これぐらいはやらせていただかないと……私の立場がありません」

「ははは、そんなことはないだろ」

 屈託なく信は笑うが、詩音は少し真顔になってため息をついた。相変わらず大袈裟に考える詩音に、信は小さく苦笑する。それに気づいて、詩音も少しはにかんだ笑みを浮かべた。

「でも、本当にすごいです、こんなに素敵なお料理ができるなんて」

「たかが焼きそばで、そんな、大袈裟だよ」

「いいえ。手際もいいですし……さすが、プロのお仕事と云うしかありません」

「サンキュ。まあ、毎日やってるからな……」

 恋人に手放しで褒められて、信は照れながら頭をかいた。そして、ふと真顔になって、呟いた。

「そうだな……やっぱ、このまま料理人にでもなるか……」

「信さん……?」

 その言葉は、深いため息に似ていた。詩音は眉をひそめて信をじっと見つめたが、信は自分の考えに沈み込むように、何も云わなかった。

「何か……ご不満があるのですか?」

 ルサックでの正社員登用の話を、信がすぐに受けなかった理由を、詩音は聞いていなかった。バイトの方が気楽だし、という信の軽口を、特に疑いもなく受け入れていたかも知れない。その軽率さに、詩音は自分を責めた。

「いや……不満なんか、あるわけないよ。智也たちにも云われたとおり、ほんと、いい話だと思う」

「だったら……?」

「うん……」

 言い淀む信の手を、詩音はそっと伸ばした掌で包んだ。驚いて信が顔を上げると、真摯な瞳でじっと見つめている詩音と目が合った。

「何か悩み事があるなら、私にもお話ししてください」

「……サンキュ」

 信が笑う。詩音の大好きな、その笑顔で。
 しかし、今日に限って、その笑みは詩音を不安にさせた。瞬間、詩音は考えてしまう。キカナケレバヨカッタノカモシレナイ。

「ほんと……具体的に何がどう、ってことじゃないんだ。ただ、それが本当に俺のやりたかったことなのか……。学校やめてまで見つけたいと思ったことが、本当にそれなのかなって……さ」

「……」

 詩音の目が見開いた。小さく息を飲むと同時に、先日の真冬の言葉が思い出されていた。

(いいんじゃないの。それがほんとにあんたのやりたいことなら)

 信の手を包んでいた手を離し、詩音は膝の上に置いた。強く拳を握りしめて。そして、自嘲気味の笑みを浮かべた。

「詩音ちゃん……?」

 その様子に気づいて、信が眉をひそめて詩音の顔を覗き込んできた。
 それに対して、詩音は、小さな声で呟いた。呟いて、しまった。

「あなたの心を動かすのは……いつも、真冬さんなんですね……」

「詩音ちゃん……」

 その言葉の意味に、信が絶句する。詩音自身も、はっと我に返って、自分が何を口にしたかに気づいた。狼狽して視線をさまよわせる二人。

「ご、ごめんなさい、私、何を云っているんでしょう」

「……」

「その……お茶、入れますね。少々、お待ちください」

 食器を手に、逃げるようにして詩音はキッチンへ向かった。
 紅茶を選ぼうと、棚へ伸ばした手が震えている。詩音はその震えを無理矢理押さえつけるように、強く両手を握り合わせた。
 何を云ってしまったのだろう、私は。これでは、まるで私は、真冬さんのことを――。
 わき上がる想いを否定するため、詩音は強く唇を噛んで、目を閉じた。
 そして、居間に残された信もまた、苛立ちに唇を噛みしめていた。
 何を考えているのだろう、俺は。これじゃあ、まるで俺は、真冬のことを――。
 つい浮かんでくる考えを振り切るように、激しく頭を振る。
 これまで、たとえどのような経緯があったとしても、真冬に出会えたことを喜びだと、信と詩音は思っていた。
 ――そう、思っていたかった。


to be continued...



2002.8.20


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