1
その公園は、想い出の場所だった。
彼女と彼にとって、大切な。
そこに立つと、切ない痛みが胸を締め付ける。それでも真冬はその場所が好きで、足繁く通っていた。
特に何をするわけでもなく。大切なひとと過ごした短い時間を愛おしむように、ただ静かにベンチに座って、時を過ごした。
そこを再び彼が訪れることは、あの初夏の朝より、一度もなかったのだけれど。そう、ずっと、これまでは。
「……こんなとこで何してんだ?」
声をかけられても、不思議と真冬は驚かなかった。ただ当たり前の日々の続きのように、振り返って、微笑んだ。
「あんたこそ」
予想どおり問い返されて、信は小さく微笑んだ。しかし、次の瞬間には、その表情は悲しみと苛立ちで翳ってしまう。真冬はすっと目を細めて、首を傾げた。
「信?」
「……あ、いや……ただ……なんとなく、な」
「ふうん。私に逢いたかったんじゃないんだ」
「あ……いや……そう、なのかな、やっぱ……」
「なによ。歯切れ悪いわね」
責めるような口調とは裏腹に、真冬は心配そうに信を見つめていた。
しかし、信は真冬と目を合わせることができなかった。
そう、真冬の云うとおり。あのときと同じように、「ここに来れば逢えるような気がして」、そう答えそうになった。実際、そのとおりだったのだから。
けれど――。
「……座れば?」
「……ああ……」
真冬の隣に腰を下ろし、信はため息をついた。真冬はその横顔に、強い視線を送っていた。
「どうしたのよ。店のことで、悩んでるの?」
「ああ……それも、あるな」
「……」
「……辞めようかって……思ってる」
「――なんですって?」
思いがけない言葉に、真冬はつい声を荒げた。信は相変わらず真冬とは目を合わさず、うつむいている。
その姿に、真冬は小さく吐息を漏らして、肩をすくめた。
「いったい、なんの冗談なの、それは。そんなことして、どんな意味があるって云うの?」
「そうだけど……このままじゃ、俺は……」
「……」
「もともと、俺が学校をやめて家を出たのは、自分一人で何ができるのか、確かめたかったからなんだ。だけど、俺は……あの頃と、何も変わっちゃいない……。環境が変わっても……流されてるだけだ……。そんなの……」
唇を噛みしめ、拳を振るわせる信。
しかし真冬は、そんな信をいっそ冷ややかと云える表情で見据えていた。そして、一言、吐き捨てた。
「……バカなんじゃないの?」
「……ひでえよ……」
心底情けなさそうに顔を歪めて、ようやく信は真冬を振り仰いだ。真冬はそれでも同情など一切見せず、厳しい表情で言葉を続けた。
「ほんと、あんたは変わらないわよ。行き詰まると、すぐ全部投げ出そうとする。そんなんじゃ、いつまで経っても、同じことの繰り返しよ」
「……」
思わず息を飲んで、信は真冬の顔をじっと見つめた。
強い意志を映してきらめく黒瞳に、消えることのない翳りは、悲しみ。
かつて己の弱さが、そこに残した傷痕。
そう、承知していたはずなのに――。
「……ほんと、バカだな、俺は」
「気づくのが遅すぎるのよ」
乱暴に真冬が目をそらした。本当の気持ちが表情に表れることを、恐れたように。
「……詩音には、この話、したの?」
「いや……」
「三上くんには?」
「まだ……お前が、最初だよ」
「そう。……喜んでいいのかどうか。私は、あんたに「親友」なんて位置づけられるのは、嫌だからね」
きつい、だけど、どこか拗ねたような物言い。その響きに、信の胸は痛んだ。
「……すまん、無神経だったな」
「嘘よ。……嬉しかったわ。少しだけね」
そう云って真冬は振り向き、微笑んで見せた。
いつもとは違う、穏やかで悲しげな笑顔。
信は胸が高鳴るのを自覚していた。
親友、と真冬は云った。けれど、自分は本当にそんなつもりで、真冬に会いに来たのだろうか。そう、これではまるで――。
「じゃあ、私はもう、行くわよ。午後から授業あるから」
「あ……ああ」
「あんたもバカなこと考えてる暇があったら、とっとと働きなさい」
そう云ってハッパをかけてくれるのは、もういつもの真冬だった。
凛と背筋を伸ばして去るその後ろ姿があまりに魅力的で、信はつい立ち上がって声をかけた。
「なあ、真冬……」
「なあに?」
「お前……好きな奴とか、できないのか?」
「……」
真冬が足を止める。拳を握りしめ、肩を震わせて、力を溜めること十五秒。
振り向くと同時に、右腕を高く掲げた。
「――本気でぶん殴るわよ」
「ちょ、ちょっと、タンマ」
慌てて信が後ずさった。真冬はその姿をしばし睨みつけたあと、大きなため息と同時に拳を下ろした。そうして、泣き出しそうな表情で、じっと信を見つめた。
「ま、真冬?」
「……重荷なの?」
「……え?」
「私の存在が、重たくなった? 本当の悩みは、それ?」
「な……っ、ち、違うよ! そんなんじゃないって!」
そんな風に考えさせてしまうなんて、信は想像もしていなかった。真剣な表情で言い募る信から、真冬はそっと視線をそらした。
「……じゃあ、いいじゃない。訊かないで、そんなこと」
「真冬……」
「恋は、一度でいいわ」
信に背中を向けて、青い空を見上げて。唇からこぼれたのは、風にさらわれそうな小さな囁きだった。
それは、つらい想いは二度としたくないという意味だったのか。それとも、今の気持ちを、ずっと抱いていたいということなのか。信には、その答えはわからなかった。
ただひとつ、真冬にそう云わせたのは、自分自身だということを除いて。
「……淋しいこと、云うなよ」
「……」
「なあ、真冬……」
「――謝らないって、約束よね」
「……ああ……」
ため息混じりに頷きながら、信は考えた。謝りたかったのか、俺は? 本当に?
「……『雨はいつあがる?』」
「……え……」
思いがけないその言葉に、信はほとんど茫然として顔を上げた。
真冬は何事もなかったように、ニッと唇の端だけで笑って見せていた。
「唯笑ちゃんから聞いたわ。あんたにしては、随分気の利いた台詞じゃない」
「……」
「ほんと、いっつも人のことでばっかり一所懸命になっちゃってさ。たまには自分の足元をよく見なさいよ」
「……」
「……じゃあね」
今度こそ振り返らず、真冬は公園を出ていった。信も呼び止めず、深いため息と同時に、もう一度ベンチに座り込んだ。
(本当、何をやってるんだ、俺は)
2
「お客さん、立ち読みは困るんですけど」
「……あ……」
不意に声をかけられ、はっと詩音は手にしていた本から顔を上げた。
実際には、立ち読みをしていたわけではない。ただ本を持ったまま、じっと考えにふけってしまっていた。
声をかけた方も、そのことには気づいていた。軽く肩をすくめながら、彼女は苦笑した。
「どうしたの。詩音が本を前にしてほかのこと考えてるなんて、珍しいじゃない」
「ご、ごめんなさい、鷹乃さん」
「別に、謝ってもらうようなことじゃないけど」
答えつつ、鷹乃はもう一度肩をすくめた。
詩音は、鷹乃の家の書店を訪れていた。
小さいが、専門書の充実しているこの「櫻書店」は、この界隈では詩音にとって貴重な存在だった。詩音と鷹乃のつきあいも、詩音が頻繁にここへ通ったことから始まったものだ。
今ではただ本を探すだけではなく、鷹乃に会うことも楽しみにして、詩音は通っている。だから、詩音がここに来ること自体は、珍しいことではなかったのだが。
「何か、悩み事でもあるの?」
「……いえ、そんなことは……」
「そんな暗い顔で云ったって、説得力ないわよ」
軽くため息をつくと、鷹乃は首を振って詩音を奥に促した。
「ちょっと上がって。お茶用意するから」
「あ……でも、お店の方は……」
「見ての通り、今は暇してるから、大丈夫よ。呼ばれればすぐわかるし」
そう云って、鷹乃はさっさとレジの奥から家に上がってしまった。詩音はためらいながらも、やむを得ずそのあとに続いた。
*
「それで?」
「……」
ティーカップを片手に、鷹乃は首を傾げて詩音に尋ねた。
紅茶を入れたのは、鷹乃だ。詩音の手ほどきを受けて、最近では紅茶を入れるのが楽しくなっている。真冬が珈琲党であることが、鷹乃には残念であったけれど。
詩音は紅茶に口をつけず、ただうつむいてカップを見つめている。
鷹乃は眉をひそめて、紅茶を一口飲んだ。
「……真冬先輩のこと?」
「……!」
弾かれたように、詩音が顔を上げた。目を見開いたその姿は、ただ驚いているというより、何かに怯えているように見えて、鷹乃は不審な想いを強めた。
「そんなに驚かなくたって。詩音が私に云いにくい悩みっていえば、真冬先輩のことだって、想像つくでしょう」
「そう……そうですね……」
うなだれる詩音。痛々しげなその様子は、鷹乃がこれまで見たことのない姿だった。
「何があったの? この間は、とても険悪な風には見えなかったけど」
「はい……特に何かがあったわけではありません……。私は、真冬さんのことがとても好きですし……憧れています……」
「……」
自分自身に言い聞かせているような口ぶりに、鷹乃は違和感を覚えた。しかし、何も云わず、話の続きを待った。
「だけど……いいえ、だからこそ……」
「……?」
「彼には……信さんには、真冬さんの方が……ふさわしいんじゃないかって……」
今度ははっきりと、鷹乃は眉をひそめた。そんな卑屈な考え方は鷹乃の嫌うところだったし、何より詩音らしくない。
だが、そんなことは、詩音自身が誰よりよくわかっていたはずだ。それでも、そう口にせざるを得なかったことに、そして、自分自身が口にしたその言葉に怯えているような詩音の姿に、鷹乃の胸は痛んだ。
「やっぱり、何かあったんでしょう?」
「……」
うつむいたまま、詩音は答えない。
鷹乃はため息と同時に、わざと乱暴な口調で云った。
「どちらかというと、私には、詩音も真冬先輩も、あの男にはもったいないと思えるけどね」
「そんな……!」
思わずカッとなって、詩音が顔を上げた。鷹乃はその視線を冷ややかに受け止めて――、そして、不意に優しく微笑んだ。
「……鷹乃さん……?」
「それだけ好きなんでしょ、彼のことが」
「……!」
詩音の頬が見る見る赤くなる。鷹乃は微笑んだまま、紅茶をもう一口飲んだ。
「だったら、ふさわしいかどうかなんて、関係ないじゃない。ふさわしくなければ、どうするって云うの? 黙って身を引くの?」
「……」
やはり詩音は答えない。いや、答えられなかった。
自分が口にしたことのずるさに、気づいてしまっていたから。
そう、ふさわしいかどうかなんて、問題ではない。大切なのは、それぞれの気持ち。詩音と、真冬と、――信の気持ち。
だからこそ、こんなにも不安になる――。
再び蒼白になってうなだれる詩音に、鷹乃はほとんど途方に暮れてしまった。我知らず、ため息が多くなってしまう。
「……私は、白河さんと、五年後にどっちがいい女になっているか、勝負しようって約束したわ」
「……」
「でも、それはどっちが健にふさわしいとか、そんな話じゃない。ただ自分自身と、そして、大切なひとに誇れる自分であるように……って、そう願って」
「……」
「それは真冬先輩だって同じだし……詩音もきっとそうだって……信じてるから」
鷹乃の精一杯の言葉も、今は詩音の心に届かなかった。
それ以上何もできず、ただ見守るしか術のないことに苛立って、鷹乃は唇を噛む。
そして、詩音は、ただひたすら自分を責め続けた。そうしないと、この痛みを誰かの――大切なひとのせいにしてしまいそうで。それが、とても怖かった。
3
浜咲駅のホームのベンチで、信は足を投げ出して座っていた。
結局、今日はバイトをさぼってしまった。真冬と別れたあと、宛もなくぶらぶらとさまよい、そして今は、意味もなくこんなところでぼーっとしている。
いったい、俺は、何をしたいんだ。
今日一日で数え切れないほど繰り返したその問いかけに、やはり未だ答えられるものを見つけられず、信は深いため息をついた。そのとき。
「……信さん?」
「――え?」
顔を上げた信の瞳には、驚きに目を見開く詩音が映っていた。信自身も驚いて、思わず腰を浮かせて立ち上がる。
「詩音ちゃん……どうして……?」
「あ……私は……鷹乃さんのところへ行った帰りで……」
「あ、そ、そっか、あの本屋さん、浜咲だっけか」
いつもの信なら「こんな偶然、逢えるなんて、すっげーラッキー」と顔をほころばせるはずだった。そして、それに詩音も照れながら、けれど嬉しそうに微笑み返してくれるはずだった。
だが今は、お互い不自然なほどうろたえて、気まずげに視線をそらしていた。
「信さんこそ、どうして……? バイトはどうなさったのですか?」
「えっと、ちょっとその、気分が優れなくて、そんで」
「……それで、どうして、こんなところに?」
「それは……その……」
信の狼狽ぶりは、さらに激しくなる。その様子からあることに気づき、詩音ははっと息を飲んだ。
「……真冬さんと……逢っていたのですか……?」
「え……」
瞬間、信は動きを止めた。それだけで詩音には十分すぎるほどだった。
唇を噛みしめ、じっと信を見つめる詩音の瞳に、涙が浮かんでくる。
信は慌てて詩音の肩を抱こうとした。――しかし、その腕はそっと、けれど頑なに振りほどかれてしまった。
「詩音ちゃん……」
「……」
「その……別に、逢いに行ったわけじゃない。偶然、逢ったんだよ。ほんとだって」
詩音の顔を覗き込むようにして云いながら、信は激しく自己嫌悪していた。
何を言い訳しているんだ、俺は。言い訳をしなければいけないようなことなのか?
硬い表情でじっとうつむいていた詩音は、やがて顔を上げて、まっすぐ信を見つめた。
双眸を涙で一杯にしたその表情は、ガラス細工のように脆く、砕けそうに見えた。
「もし……私が、もう真冬さんとは逢わないでほしいと云ったら……どうしますか……?」
「詩音ちゃん……」
絶句する信。詩音もそれ以上言葉にできず、ただひたすら信を見つめた。
踏切の音が鳴り、電車が入ってくる。
人波が過ぎ、再び踏切の音が鳴って、電車が去る。
それでも二人は取り残された彫像のように、そこに立っていた。
互いが、互いの言葉を待つように。互いが、互いの口にすることを恐れるように。
ただ見つめ合ったまま、立ち尽くしていた。
2002.8.26