1
ファミリーレストラン「ルサック」。そこの従業員専用の裏口そばに、真冬は佇んでいた。
常にきつい印象を与える面差しだが、今日はいつにも増して硬い表情をしているように見える。空の一点を見つめて、唇を噛んでいた。
しばらくして、裏口のドアが開いた。そちらに顔を向けて、伊波健が現れたのを確認すると、真冬はわずかに柔らかく微笑んだ。
「すみません、お待たせしました、真冬さん」
「ううん。私こそごめんね、仕事中に」
「いえ……僕の方が、お呼び立てしたんですから」
そう、真冬は鷹乃経由で、健から相談を受けていたのだ。
そして、鷹乃を除けば、真冬と健の間で共通の話題になる人物は、ひとりしかいなかった。
「信、ずっと休んでるんですって?」
「はい、もう今週に入ってから、全然出てこなくて……」
「……」
「部屋に行って訊いても、『調子が悪い』って云うだけですし……。何を考えているのか……」
「……部屋には、いるんだ?」
「はい」
「じゃあ……これまでよりは、ちょっとだけマシか」
苦笑とも安堵ともつかないため息を、真冬は漏らした。
また行方をくらまされでもしたらどうしようか、と真冬は考えていたのだった。もちろん健には意味がわかるはずもなく、軽く首を傾げた。
「ごめん、なんでもないのよ。詩音はなんて云ってるの?」
「……えっと……」
「私より先に、詩音に連絡してるんでしょう?」
その問いかけに、健は困惑して目をそらした。真冬はすっと瞳を細めて、健の横顔を見上げた。
「……何か、問題が?」
「僕も、詳しいことは聞いていないんです。もちろん、鷹乃は双海さんにも連絡したんですけど……『そうですか』って……」
「……それだけ?」
「……みたいです」
「……」
はっきりと眉をひそめて、真冬が嘆息した。苛立ちがその面を険しくさせる。
健は自分に非があるわけでもないのに、思わず緊張して背筋を伸ばしてしまっていた。
「どういうつもりなのかしら。……いいわ、とりあえず私が信に話を聞いてくる」
「はい、お願いします」
「……まったく……」
腕組みし、不機嫌に舌打ちする真冬。
そのとき、裏口が開いて、小柄な少女が顔を覗かせた。しかし、振り向いた真冬の視線の厳しさに怯み、思わず息を飲み込んだ。
「……ご、ごめんなさい、お話中だったんですね」
「……」
「希ちゃん、どうしたの?」
姿を見せたのは、ルサックの制服に身を包んだ相摩希だった。
健の笑顔に少しほっとしつつも、希は緊張したままで言葉を続けた。
「あの、健さんにお願いしたいことがあって、それで探してて」
「そっか、ごめん」
「あ、いえ、お話中なら結構ですから、ごめんなさい」
「……私の話はもう終わったから」
腕組みを解きながら、真冬は希のほうを見た。
相変わらず吸い込まれそうな瞳――そう考えて、希は真冬から目をそらせなくなる。
そんな希に、真冬はニッと唇の端だけで笑って見せた。
「お久しぶり。希ちゃん、よね? 妹さんの具合はどう?」
「あ、はい、ありがとうございます! おかげさまで、最近はだいぶ調子よくて……」
「そう。よかった。……じゃあ、私はこれで。伊波くん、仕事中にごめんね。ありがとう」
云いながら、真冬はもう踵を返していた。
挨拶をする暇もなく、健と希は並んで、真冬を見送っていた。だが、数歩歩いたところで、真冬は立ち止まって振り返った。ちらっと希に視線を走らせたあと、少し厳しい視線で健を見据える。
「念のため云っておくけど」
「は、はい」
「鷹乃を泣かせるようなことしたら、承知しないからね」
「そ……そんなこと、絶対しませんよ!」
思わず顔を真っ赤にして言い募る健をじっと見つめると、真冬は再び猫のように微笑んだ。
しかし、振り向いて歩き出したときには、すでにその表情は険しいものに戻っていた。
歩きながら、肩からかけていたバッグから携帯電話を取り出す。そして、折り畳みの本体を開いて、電話帳を操作しようとしたところで、ふと困惑気味に真冬は眉をひそめた。
(そうか……私、詩音の電話番号は知らないんだわ……)
信に会う前に、詩音の話を聞いておくのが筋だと思ったのだけれど。
そう考えたとき、真冬の面には苦い笑みが浮かんでいた。
「筋……? 筋って、なんだろ」
自嘲気味に呟く。
自分は今いったい、何をやっているのだろう、と真冬は思った。あの二人の間で、自分という存在はいったいなんなのか。
ため息と同時に軽く頭を振って、真冬は携帯電話を畳み、バッグにしまった。
自分で決めたことだ。たとえどんな想いをしようとも、自分の気持ちから目をそらさない。誤魔化したり、逃げたりしない。もう二度と。
だから。苦しんでいる彼を、放っておくことはできない――。
迷いのない光を黒瞳に宿して、真冬は朝凪荘への道のりを辿り始めた。
2
暗闇の中で、信は膝を抱えて座っていた。
いつ頃、陽が沈んだのかも、覚えていない。それどころか、昼夜の感覚も麻痺しつつある。
ただ一つわかっていることは。
今の自分の行動が、まったくの無意味であるということ。
いや、行動とさえ云えまい。ただこうして、ここに座り込んでいるだけなのだから。
そうわかっていても、信は動くことができなかった。
これまでずっと、考えるより先に行動してきた。自分の気持ちを信じて、動こうとしていた。
けれど、それは答えを出すことを、先送りにしていただけなのかも知れない。場当たりな行動を繰り返すことで、その場をしのいできただけなのではないか。
そう思うと、信は動けなくなった。
自分だけの、本当の「答え」を見つけ出すまでは。
その「答え」は、こんなところで座り込んでいたって、絶対に見つかるはずがないとわかっていながら。
無限に繰り返される、無意味な自問自答の中で、信はただうずくまっていた。
――ノックの音が響く。
信は反応しない。
もう一度、今度は少し強くドアがノックされ、同時に、静かな問いかけがあった。
「信……? いないの?」
「……」
その声に、信はのろのろと顔を上げた。声は出さず、濁った目をドアに向けている。
やがて、ドアノブがかちゃりと回された。鍵は、していなかった。
「……入るわよ?」
薄闇の中へ、その闇より黒い髪と瞳の女性が入ってくる。そして、闇の中から自分を見据える視線に気づき、小さく息を飲んだ。
「信? どうしたの?」
「……」
「電気……つけるわよ」
真冬は手探りでスイッチを入れ、部屋の電灯をつけた。まぶしさに、信が思わず目を閉じる。その憔悴した様子に、真冬は眉をひそめた。
「いったい、どうしたっていうの? この間のことで、そんなに……?」
目を閉じたまま信はうつむき、答えない。
真冬は部屋に上がり、コートを脱いで、信の隣に膝をついた。そして、両手で信の肩を掴み、うつむいたその顔を覗き込もうとした。
「ねえ、信……」
「……」
「詩音と……何かあったの……?」
「――!」
詩音。
その名を聞いた瞬間、信は弾かれたように顔を上げた。血走った瞳で、真冬を睨む。
真冬はわずかに怯みながらも、まっすぐにその目を見つめ返した。
「やっぱり、そうなのね?」
「……」
「……話して。力になれることが、きっとあるから……」
「……」
真摯な、いたわりに満ちた黒瞳を、しかし信は、未だ仇を見るように睨み据えていた。
話す? 何を? 真冬とはもう逢わないでほしいと云われたことを?
力になる? どうやって? 二度と姿を見せるなとでも頼むのか?
それは、かつて真冬自身が選ぼうとしたこと。そのとき、俺は、俺と詩音はなんと云った? 何を望んだ? その結果、どうなった?
俺が望んだことは、俺の願いは……。
俺は――俺は――俺は――――!!
「……きゃっ……」
瞬間、真冬は何が起こったのかわからなかった。視界が回転し、気がつけば天井が見えている。
そして、覆い被さってくる、最愛のひとの、苦渋に歪んだ顔。
「やだ、ちょっと、悪ふざけはやめなさいよ」
「……」
やはり信は答えないまま、真冬の胸元に手を伸ばし、ブラウスを引き裂いた。
真冬は蒼白になり、信の腕を掴む。
「いや、やめて、信……!」
そのまま信を突き飛ばそうとした――一人暮らしの長い真冬は、護身術を身につけている――そのとき。
「……真冬……」
「信……?」
「……真冬……俺は……」
かすれた呟きに、真冬は信の瞳をじっと覗き込んだ。
その目を、真冬は知っていた。ずっとずっと昔。あの、激しい雨の日に――。
「……」
本当に、このひとは変わっていないんだ。あのときのままに、優しくて、脆い。
そう思ったとき、真冬は腕の力を抜いて、信の手を離した。
「……わかった……」
呟きながら、面をそらす。
見つめられたままでは、きっと信もやりづらいだろうと思ったから。
そして、やはりとても――悲しいことだったから。
「いいよ、好きにして。私のすべては……信のものだから……」
「……」
信が息を飲む。
真冬は目を閉じて、ただ待っていた。
……わずかな沈黙のあと。
信は体を離して、再び壁際に座り込んだ。
真冬はその姿勢のまましばらく横たわっていたが、やがて、深いため息と共に呟いた。
「どうしたの?」
「……帰れよ」
短い答えに、真冬は目を開く。そして、体を起こしながら、きつい眼差しで信を見据えた。
「……なによ、それ。意気地なし」
「いいから、帰れって云ってるだろ!」
「云われなくたって。ここまでヘタレだとは思わなかったわ。こっちから願い下げよ」
「……」
乱暴に立ち上がり、真冬はコートを羽織った。破れた胸元を隠すため、コートの前をきっちりと合わせる。
そのまま出ていこうとして、真冬はドアを開けたところで振り向いた。信は彼女がここへ来たときと同じように、膝を抱えたままうつむいている。
「……ねえ、信」
「……」
「……あんたの雨は……いつあがるの……?」
……やはり答えはなく。
ドアは静かに閉ざされた。
3
呼び鈴の音を、詩音はぼんやりと聞いた。
以前に比べればずっと社交的になったとはいえ、やはり未だ彼女には、突然訪ねてくるような友人は多くない。
誰だろう、わずらわしい……そう思いながら、詩音は席を立った。
ふと覗いた窓の外は、夜の帳が落ちている。静かな雨が降り始めているようだった。
もう一度、玄関の呼び鈴が鳴る。
ため息をつきながら、詩音は玄関に向かった。
本当に、誰だろう。これまでならいちばん可能性の高かった人物は、しかし、今は来るはずがない。もしかしたら、もう二度と。
自分の想像に胸を痛めながら、詩音は玄関のドアを開いた。そして、更なる衝撃に息も忘れ、その黒い瞳を見つめていた。
「こんばんは」
そう云って、真冬はニッと唇の端だけで笑う。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
「突然ごめんね。雨降ってきたから、傘貸してもらおうと思って」
確かに真冬の髪も肩も、雨に濡れていた。詩音は何も答えられず、茫然と立ち尽くすばかりだったが、
「上がってもいいかな?」
と尋ねられ、機械仕掛けのように不自然な仕草で頷いた。
「は……はい、どうぞ……」
「ありがと。おじゃまします」
微笑んで自らの横を通り過ぎる真冬を、詩音は怯えた眼差しで見送っていた。
*
居間に入っても、真冬は濡れたコートを脱ごうとしなかった。
「真冬さん? コートを、お預かりします」
「あ……うん……」
珍しく、真冬が逡巡を見せる。そのとき、詩音はようやく、真冬がコートの前を襟元まできっちり閉めていることに気づいた。そう何度も会ったことがあるわけではなかったが、これまでの印象では、真冬はそういう着こなし方をしていなかったように思う。
だが、濡れたコートを着たままで、ソファに座るわけにもいかない。真冬はやむを得ずコートのボタンを外していき、詩音はブラウスの引き裂かれたその姿に、はっと息を飲んだ。
「……! 真冬さん、いったい……」
「ああ、ちょっと引っかけちゃってね。ごめんなさい、見苦しくて」
何事もないように、真冬は微笑んでみせる。
あまりに明白な嘘だったが、詩音は問い質すことができなかった。確かめることが、怖かった。
蒼白になって自分を見つめる詩音に、真冬は挑発的な笑みを向けた。
「悪いけど、珈琲もらえるかな。体冷えちゃったから」
「あ……はい、でも、珈琲だとインスタントしか……」
「いいわ。インスタントでも、今のあなたが入れる紅茶より、よほどおいしいでしょうから」
「……」
初めて会ったときのような、冷たい視線、斬りつけるような言葉。
それに何を云い返すこともできず、詩音は小さく頷いてキッチンに向かった。
震える手でお湯を沸かし、珈琲の準備をする。
そうしながらも、詩音の動揺はますます深まっていった。
真冬の意図がわからなくて。
彼女がこの時期にやってきたのが、偶然であるはずがない。何かを、あるいはすべてを知った上で、ここに来ている。
彼女はいったい何を伝えようとしているのか――そう考えたとき、詩音はかつて真冬に叩きつけられた言葉を思い出した。
(あなたは、彼のなんなの?)
もう一度、あの問いを向けられたなら。自分は、あのときと同じように答えられるだろうか。今の自分に、その資格があるだろうか――。
蒼白を通り越し、土気色と云っていいような顔色で、詩音は珈琲カップを一つだけ持って居間に戻った。珈琲であれ紅茶であれ、自分のために作るような余裕はなかった。
「お待たせ……しました」
「ありがと」
目の前に置かれたカップを、真冬はすぐには手に取らない。それは彼女が猫舌だからであり、そのことは詩音も承知していたが、それでも詩音はその行為が「拒絶」を示しているようで、息苦しさを強めた。
そんな詩音の想いを知っているのかどうか、ややあって、真冬はカップに手を伸ばして一口飲んだ。瞬間、眉をひそめたものの、何も云わずまたカップを机に戻した。
「……」
「……」
沈黙が降りる。
真冬は詩音を見ていない。窓の外に視線を向け、だんだんと勢いを増してきた雨を眺めていた。
一方、詩音は真冬の横顔から目をそらせなかった。蒼白な面持ちで、緊張に拳を握りしめて、けれど食い入るように、真冬を見つめていた。
「……それで」
不意に、外を向いたまま真冬が口を開いた。そして、びくんと体を震わせた詩音に、ゆっくりとその黒い瞳を向けた。
「あなたは、何をしているの」
「……」
「信は今、苦しんでいるわ。それなのに、あなたはいったいこんなところで、何をしているの」
「それは……!」
一方的に責められて、初めて、詩音の胸に怒りに近い感情がわき上がった。
私たちが、どうして、こんなに苦しんでいるのか。それはいったい、誰のせいだと思って――!
浅ましい考えだと、自分自身で封じてきた想いが、ついに抑えられず噴き出そうとしていた。
「だったら……あなたが彼を救ってあげればいいじゃないですか……!」
「……」
「……彼だって……きっと……それを……望……ん、で……」
自ら口にした言葉で、自らを傷つけて、詩音は言葉を失った。
真冬は詩音の激昂にまったく動じることなく、冷ややかに見つめ返している。
その闇のような瞳の静けさに、詩音の激情はたちまち冷め、ただ深い自己嫌悪だけが残った。
「……ごめんなさい……」
「……」
「私……私……知りませんでした……。自分がこんなに醜くて……弱い人間だなんて……」
「……」
「私には……もう、資格がありません……。あのひとを、大切だなんて、そんなことを云う資格は……。だから……」
「……そうね」
抑揚のない声で、真冬は云った。
瞳はまっすぐに、涙に濡れた詩音の金の瞳を見つめて。
突き刺さるようなその視線と言葉は、詩音の胸の深いところを貫いた。
「私を選べば、信は楽になるわ。私なら、信のすべてを許してあげられる。嘘でも偽りでもいい。ほかの女のことを考えながら、私を抱いたって構わない。私がほしいのは、信だけだもの」
「……」
「……だけど、ね」
真冬は微笑んだ。そのときの笑顔は、詩音にとって一生忘れられないものになった。
「信がほしいのは、そんなことじゃないから」
「……真冬さん……」
「それでもまだ動けないなら、私はもうあんたを恋敵とは認めないわ」
吐き捨てて、真冬は立ち上がった。コートに袖を通して、居間を出ていく。
「じゃあね。傘、借りてくから」
「……」
詩音は言葉もなく、真冬を見つめた。真冬もしばし視線を合わせていたが、それ以上は何も云わず、出ていった。
ひとり残された詩音は、ほとんど手つかずの珈琲カップを、身じろぎもせずに見据えていた。
*
詩音の家から出て、真冬は携帯電話を取り出した。
借りる、と云ったものの、真冬は傘を差していなかった。
なんとなく、雨に打たれたかったのかもしれない。あの日と、同じように。
つまらない感傷だと思いながら、真冬はダイヤルボタンを押した。
「……ああ、鷹乃? 私。大事な時期に悪いんだけどさ、今晩だけ、つきあってくれないかな。……うん、まあ、ちょっとね。自分のバカさ加減に呆れてるところ。……ほんと、自分がこんなお人好しだったなんて……バカバカしいったらないわ……」
苦笑と共にこぼした涙は、すぐ雨の雫に紛れた。
4
雨の中にいた。
見上げると、暗く閉ざされた空から、銀の糸が絶え間なく降り注いでいるように見える。
いつかもこんなやり切れない思いで、雨空を見上げたことがある。そう、あれは――。
真冬に、別れを告げたときだ。
そう思い返して、信は血がにじむほど唇を噛みしめた。
あれから、自分は何をしてきたのだろうと思う。
人を傷つけて、傷つけて、傷つけて。
それでも、願い続けたことはなんだっただろうか。
つぐないか? 許されることか? それとも――。
答えを見出せず、それがまた誰かを傷つけていく。
深い絶望は、もはや叫び出す力も信には与えない。
――しかし。
いつの間にか、雨が遮られていた。
見上げると、そこには白い傘。
振り返ると、そこにいるのは、銀がかった薄茶色の髪に、不思議な金の瞳をした少女。
「……詩音ちゃん……」
答えず、詩音はただ信に傘を差し掛けていた。
初めて出逢った頃のように、硬い、能面のごとき無表情で。
2002.9.10