1
雨は依然激しさを増しているようだ。
窓に打ち付ける銀の雫を眺めながら、信はそんなことを考えた。
詩音の家にいた。
あのあと、促されるまま歩き、ここへやってきた。そして、居間のソファに腰掛けて、詩音が戻るのを待っていた。詩音は今、キッチンにいる。
不思議と、落ち着いた気持ちだった。
これまでずっと、自分が答えを出さなければ、と思い込んでいた。なんて傲慢だったんだろう、と信は思う。
答えを出そうとしているのは、自分だけではない。
そのことに、信は気づいた。あの雨の中、傘を差し掛けた詩音の静かな瞳を見たとき。
そして、すでに彼女がその答えを見出したのなら。それがどんなものであれ、自分には受け入れるしかない――。
不自然なほど静かな、けれど、どこかやるせない想いで、信はただ窓の外を見ていた。
こうして見ると、この銀の雨は、まるで彼女の髪の流れのようだ。それとも……涙、だろうか……。
「――お待たせしました」
静かな声に振り向くと、詩音がティーカップを一つ持って、歩いてくるところだった。
詩音は信の前にティーカップを置き、向かいのソファに腰掛けた。
かぐわしい香りが辺りを包む。
けれど、信は紅茶に手をつけず、じっと詩音を見つめていた。
彼女の答えを、先に聞きたかった。
しかし、詩音は何も云わず、無表情なまま面を伏せていた。
「詩音ちゃん……その……」
沈黙に耐えられず、信が口火を切ろうとする。
そのとき、詩音が顔を上げて信の目を見た。そして、思わず怯む信に、小さな声で呟いた。
「冷めないうちに、召し上がってください」
「あ、ああ」
「――それが、私の気持ちです」
「……え……?」
戸惑って、信は詩音と、温かい湯気が浮かぶティーカップとを交互に見た。
しかし、詩音はそれ以上何も云おうとはしない。ただまっすぐに信を見つめていた。
沈黙の時間のあと。信はわずかに震える手を伸ばし、ティーカップを持ち上げた。口元に運び、一口飲む。
「……あ……」
信は驚いて、大きく目を見開いた。
詩音の紅茶は最高だと、常々思っていたけれど、今飲んだものは、これまでとは全く違っていた。味も、香りも。ただおいしいというだけではない、暗闇にしか目を向けられないでいる自分を、優しく包み込んでくれるような。
「すっげー、おいしい……」
そんな言葉でしか表現できないことを、自分自身情けなく思いながらも、信は茫然と顔を上げてそう答えた。
すると、そのとき。ずっと無表情だった詩音が、小さく微笑んだ。
自分を包み込む紅茶の芳香と、その悲しいほど優しい笑顔が、信にあの夕暮れの教室を思い出させた。
はじめて、詩音が信に紅茶を振る舞ってくれた、あの日。
自分自身の痛みを隠して、誰かの力になろうとしていたその笑顔を、信は守りたいと思ったのだった。
彼女には、心からの笑顔でいてほしい。できることなら、俺のそばで。それだけが、俺の願いだったはずで――。
「……真冬さんが、以前、私に云ったことを、覚えていますか?」
「――え?」
静かな笑顔のまま、詩音が口にしたその名前に、信ははっと我に返った。
詩音は信の返事を待たずに、言葉を続けた。
「あなたは、信のなんなの? ――真冬さんは、そうおっしゃいました。私は……わかりません、と答えました」
「……」
「今でも、それは変わりません。私には、わからない」
「詩音ちゃん、それは――!」
「……だけど」
思わず腰を浮かした信に対して、詩音はやはり穏やかな笑顔を向けた。信は言葉をなくし、飲まれたようにその金の瞳を見つめるばかりだった。
「だけど、私はあなたを大切に想っています。それも、今でも変わりありません」
「……詩音ちゃん……」
「……それだけです」
頬をわずかに染めて、詩音は目をそらした。
信はほとんど放心して、ぺたんとソファに座り込んだ。
少し気持ちが落ち着くと、泣き出したいような気分になった。
本当に、真冬が云ったとおり。
俺は、本物の、バカだ。
「紅茶、冷めますよ」
「……うん」
頷いて、信は手を伸ばし、紅茶をもう一口飲んだ。ひび割れた心にしみ通っていくような、不可思議で、温かい、その味。
気づいたときには、信も笑顔を浮かべていた。何がそんなに嬉しいのか不思議なぐらいの、詩音が大好きな、その笑顔。
「ほんっとうまいよなあ、これ。なんていう紅茶?」
「そんな特別なものではありません。ダージリンですよ」
「へえ……やっぱ、詩音ちゃんが入れるから、特別なのか」
「……ありがとうございます。もちろん、ダージリンがいい茶葉であることは、云うまでもありませんが」
「有名だもんね。俺でも、名前ぐらいは知ってる」
「ブランドのように、名前だけが一人歩きしすぎている感があるのは、残念なことですけど……おかわり、入れてきますね」
詩音は信が飲み干したティーカップを持って、キッチンに入っていった。
信はまた窓の外を見やる。細い雨が、未だ降り続いていた。
(俺の本当にやりたいこと……それは……)
しばらくして、詩音が今度はトレイにカップを二つ乗せて、戻ってきた。差し出されたカップを、信は笑顔で受け取った。
「サンキュ。……あのさ」
「はい、なんでしょう」
「紅茶ってのも、やっぱ現地で取り立てを飲むとうまかったりするのかな?」
「……そういうものではありませんが……だけど、そうですね、やはり紅茶を愛する者としては、一度原産地を訪ねてみたいものですね。紅茶園の方にお話を伺いながら、そこで取れた紅茶をいただければ、とても素敵だと思います」
「ダージリンってのは、インドだっけ」
「そうですけど……」
信がどういうつもりでそんなことを訊いたのかわからず、詩音は小首を傾げた。
信は少しの間、神妙な顔つきで考え込んでいたが、突然、すごい勢いで立ち上がった。
「し、信さん?」
「――決めた! 俺、インドに行って来る!」
「……は、はい?」
理解不能。それが率直な詩音の感想だった。どうして、急にそんな話になってしまうのか?
「インドに行って、俺が詩音ちゃんのために、最高の茶葉を手に入れてみせるよ!」
「……いえ、だから、そういうものではなくて……」
「それにさ、いつか一緒に行けるかも知れないじゃん。そんときのための下見も兼ねてさ。大丈夫、まかしときなって!」
「……」
詩音は文字通り目を丸くして、信をまじまじと見つめていた。しかし、やがてこらえきれず吹き出し、大声で笑い始めた。
「……本当に……もう……あなたっていう人は……」
珍しいくらい笑い転げる詩音の瞳から、涙がこぼれる。
信もまた顔中を笑顔にして、その涙をぬぐった。
2
「……で、本当に、本気で、インドに行くわけね」
「おう、俺はいつだって本気だぜ」
「……」
その答えに、真冬は深い深いため息をついた。
再び、信の部屋にやってきていた。
健から、信が元気になったのはいいが、またとんでもないことを云いだしている……と聞かされたのだ。前回のことがあったので、少し迷ったけれど、やはり真冬は信が出した答えを知りたかった。
自分を迎えたときの信の笑顔で、彼の気持ちはわかったつもりだったけれど、まさかこんなことになっているなんて。
「ほんっっっっっっとうに……バカなのね」
「……しみじみ云うなよ」
情けなさそうに眉を寄せたあと、また屈託なく信は笑った。
ずるい男だ、と目をそらしつつ真冬は考える。この笑顔を向けられると、何も云えなくなってしまう。
「名案だと思ったんだけどなあ。詩音ちゃんも笑ってくれたし」
「……そりゃあ、笑うしかないでしょうよ」
「ひでえ……」
「――まあ、あんたらしいと云えば、あんたらしいわね」
そう云って、真冬はニッと唇の端だけで笑って見せた。
「いちばん大事なことには、相変わらず気づいてないバカっぷりだけど」
「なんだよ、いちばん大事なことって」
「……教えてあげないわ」
あんたがそばで笑っていることが、詩音の何より望んでいることだ、なんてね。
しきりに首を傾げている信の姿に苦笑しながら、真冬は意地でも教えてやるもんか、と思った。
「それで、私へのオトシマエは、どうやってつけてくれるのかしら」
「……あ……」
信が息を飲んで、青ざめる。
真冬は挑発的に微笑み、わざとしなを作るような仕草で信の方に体を傾けた。
「途中でやめられると、女は傷つくわ」
「ま、真冬……」
後ずさろうとする信の胸ぐらをつかみ、真冬は顔を寄せた。
互いの息がふれあうほどの距離で、真冬の黒瞳がじっと信の目をのぞき込んでいた。
怪しく光る、猫のような瞳。
黒髪から香る、心を乱れさせるほど甘い――。
「真冬……ダメだ……」
「……」
再び、ニッと真冬は笑った。誘うような、嘲るような、――泣き出すような、蠱惑の笑み。
「冗談よ」
手を離して、真冬は立ち上がった。信は思わず、深い息を漏らしてしまう。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
「……ん。駅まで送るよ」
真冬の言葉に、信も立ち上がった。そして、先に出ようと、玄関に向かって足を踏み出したとき。
背中から、そっと抱きしめられた。
「……真冬……」
「――何も云わないで。なんか云ったら、ぶん殴るわよ。こっちを向くのも禁止」
「……」
「お願いよ……。少しだけ……、このままで……」
真冬の手は小さく震えていた。嗚咽を必死でこらえようとするその姿は、鋭い痛みとなって信の心に傷を残した。
振り返って、抱きしめることができたなら。
どれだけ、気持ちが楽になることだろう。
けれど、それは信も真冬も、望むことではなかった。
だから、真冬は声を殺して涙を流し、信は血がにじむほど唇を噛んで、立ちつくすばかりだった。
3
結局、真冬は一人で朝凪荘を出た。これ以上、二人でいると、もっとみっともない姿を見せてしまいそうで、嫌だった。
そして、それは正解だったかな、と真冬が考えたのは、門を抜けたところで、詩音に出会ってしまったからだ。
「……あ……」
「……あら」
詩音は戸惑い気味に視線をさまよわせる。真冬は冷たい瞳でそんな詩音を見ていた。
「信なら、部屋にいるわよ」
「は、はい、その……」
「なあに」
「ごめんなさい、あの……」
詩音は真冬に謝りたかった。けれど、そんなことで真冬が喜ぶはずがない。
本当に伝えるべきことはなんなのか、うまく言葉にできないもどかしさに、詩音は身をすくめて狼狽していた。
真冬は依然、昔のように硬い表情のままだったが、やがて、ぽつりと呟いた。
「お願いがあるの」
「……なんでしょう」
「一度だけ、ひっぱたいてもいい?」
詩音ははっと顔を上げて、真冬の瞳を見た。
怒りも憎しみも、そこからは読み取れない。
それでも詩音は目を閉じて、頷いた。
「――はい、どうぞ」
「……」
真冬が手を振り上げる気配がする。詩音は奥歯をかみしめ、衝撃に備えた。
一瞬の間のあと。
ふわりと柔らかい感触が、詩音の頬を包んだ。
「……! 真冬……さん……?」
驚いて目を開くと、真冬は詩音の頬を撫でて、微笑んでいた。
黒瞳にはいっぱいの涙が浮かび。
口元には、とてもとても優しげな笑みをたたえて。
「信を大事にしてあげてね。約束よ」
「……はい……はい……っ」
真冬の手を握り、大粒の涙を次々にこぼしながら、詩音は何度も頷いた。
そして、その誓いを、深く心に刻んだ。
epilogue
空の蒼さは、目が痛いほどだった。
その蒼天を裂くように、一条の飛行機雲が伸びている。
真冬は目を細めてそれを見ながら、呟いた。
「……ほんとに行っちゃったわね……」
「……そうですね……」
静かに微笑んで、詩音が頷く。
真冬は肩をすくめて、ため息をついた。
「ほんっとうに、バカなのね」
「……そう、かも知れませんね」
目を見交わして、二人は笑った。
冬の空は高く、空気は冷たく澄んで。
晴れた空は、どこまでも蒼い。
「雨は、あがったのかな」
「……え、なんですか?」
「なんでもないわ。そろそろ帰るわね」
「……あ、よかったら、家に寄ってくださいませんか? ケーキも焼いたんですよ」
「おいしい珈琲が入れられるようになったら、考えてあげる」
「真冬さんこそ、紅茶の魅力にいい加減気づいてください」
「ごめんだわ」
もう一度笑って、真冬は空を見上げた。詩音もその視線をたどるように、同じ空を見上げる。
飛行機雲は、もう、消えていた。
Memories Off EX
Scenario for Shin, Shion & Mafuyu
"The Rain"
end
2002.10.19