やまない雨

第四話「Rain then clear」


     1

 雨は依然激しさを増しているようだ。
 窓に打ち付ける銀の雫を眺めながら、信はそんなことを考えた。
 詩音の家にいた。
 あのあと、促されるまま歩き、ここへやってきた。そして、居間のソファに腰掛けて、詩音が戻るのを待っていた。詩音は今、キッチンにいる。
 不思議と、落ち着いた気持ちだった。
 これまでずっと、自分が答えを出さなければ、と思い込んでいた。なんて傲慢だったんだろう、と信は思う。
 答えを出そうとしているのは、自分だけではない。
 そのことに、信は気づいた。あの雨の中、傘を差し掛けた詩音の静かな瞳を見たとき。
 そして、すでに彼女がその答えを見出したのなら。それがどんなものであれ、自分には受け入れるしかない――。
 不自然なほど静かな、けれど、どこかやるせない想いで、信はただ窓の外を見ていた。
 こうして見ると、この銀の雨は、まるで彼女の髪の流れのようだ。それとも……涙、だろうか……。

「――お待たせしました」

 静かな声に振り向くと、詩音がティーカップを一つ持って、歩いてくるところだった。
 詩音は信の前にティーカップを置き、向かいのソファに腰掛けた。
 かぐわしい香りが辺りを包む。
 けれど、信は紅茶に手をつけず、じっと詩音を見つめていた。
 彼女の答えを、先に聞きたかった。
 しかし、詩音は何も云わず、無表情なまま面を伏せていた。

「詩音ちゃん……その……」

 沈黙に耐えられず、信が口火を切ろうとする。
 そのとき、詩音が顔を上げて信の目を見た。そして、思わず怯む信に、小さな声で呟いた。

「冷めないうちに、召し上がってください」

「あ、ああ」

「――それが、私の気持ちです」

「……え……?」

 戸惑って、信は詩音と、温かい湯気が浮かぶティーカップとを交互に見た。
 しかし、詩音はそれ以上何も云おうとはしない。ただまっすぐに信を見つめていた。
 沈黙の時間のあと。信はわずかに震える手を伸ばし、ティーカップを持ち上げた。口元に運び、一口飲む。

「……あ……」

 信は驚いて、大きく目を見開いた。
 詩音の紅茶は最高だと、常々思っていたけれど、今飲んだものは、これまでとは全く違っていた。味も、香りも。ただおいしいというだけではない、暗闇にしか目を向けられないでいる自分を、優しく包み込んでくれるような。

「すっげー、おいしい……」

 そんな言葉でしか表現できないことを、自分自身情けなく思いながらも、信は茫然と顔を上げてそう答えた。
 すると、そのとき。ずっと無表情だった詩音が、小さく微笑んだ。
 自分を包み込む紅茶の芳香と、その悲しいほど優しい笑顔が、信にあの夕暮れの教室を思い出させた。
 はじめて、詩音が信に紅茶を振る舞ってくれた、あの日。
 自分自身の痛みを隠して、誰かの力になろうとしていたその笑顔を、信は守りたいと思ったのだった。
 彼女には、心からの笑顔でいてほしい。できることなら、俺のそばで。それだけが、俺の願いだったはずで――。

「……真冬さんが、以前、私に云ったことを、覚えていますか?」

「――え?」

 静かな笑顔のまま、詩音が口にしたその名前に、信ははっと我に返った。
 詩音は信の返事を待たずに、言葉を続けた。

「あなたは、信のなんなの? ――真冬さんは、そうおっしゃいました。私は……わかりません、と答えました」

「……」

「今でも、それは変わりません。私には、わからない」

「詩音ちゃん、それは――!」

「……だけど」

 思わず腰を浮かした信に対して、詩音はやはり穏やかな笑顔を向けた。信は言葉をなくし、飲まれたようにその金の瞳を見つめるばかりだった。

「だけど、私はあなたを大切に想っています。それも、今でも変わりありません」

「……詩音ちゃん……」

「……それだけです」

 頬をわずかに染めて、詩音は目をそらした。
 信はほとんど放心して、ぺたんとソファに座り込んだ。
 少し気持ちが落ち着くと、泣き出したいような気分になった。
 本当に、真冬が云ったとおり。
 俺は、本物の、バカだ。

「紅茶、冷めますよ」

「……うん」

 頷いて、信は手を伸ばし、紅茶をもう一口飲んだ。ひび割れた心にしみ通っていくような、不可思議で、温かい、その味。
 気づいたときには、信も笑顔を浮かべていた。何がそんなに嬉しいのか不思議なぐらいの、詩音が大好きな、その笑顔。

「ほんっとうまいよなあ、これ。なんていう紅茶?」

「そんな特別なものではありません。ダージリンですよ」

「へえ……やっぱ、詩音ちゃんが入れるから、特別なのか」

「……ありがとうございます。もちろん、ダージリンがいい茶葉であることは、云うまでもありませんが」

「有名だもんね。俺でも、名前ぐらいは知ってる」

「ブランドのように、名前だけが一人歩きしすぎている感があるのは、残念なことですけど……おかわり、入れてきますね」

 詩音は信が飲み干したティーカップを持って、キッチンに入っていった。
 信はまた窓の外を見やる。細い雨が、未だ降り続いていた。

(俺の本当にやりたいこと……それは……)

 しばらくして、詩音が今度はトレイにカップを二つ乗せて、戻ってきた。差し出されたカップを、信は笑顔で受け取った。

「サンキュ。……あのさ」

「はい、なんでしょう」

「紅茶ってのも、やっぱ現地で取り立てを飲むとうまかったりするのかな?」

「……そういうものではありませんが……だけど、そうですね、やはり紅茶を愛する者としては、一度原産地を訪ねてみたいものですね。紅茶園の方にお話を伺いながら、そこで取れた紅茶をいただければ、とても素敵だと思います」

「ダージリンってのは、インドだっけ」

「そうですけど……」

 信がどういうつもりでそんなことを訊いたのかわからず、詩音は小首を傾げた。
 信は少しの間、神妙な顔つきで考え込んでいたが、突然、すごい勢いで立ち上がった。

「し、信さん?」

「――決めた! 俺、インドに行って来る!」

「……は、はい?」

 理解不能。それが率直な詩音の感想だった。どうして、急にそんな話になってしまうのか?

「インドに行って、俺が詩音ちゃんのために、最高の茶葉を手に入れてみせるよ!」

「……いえ、だから、そういうものではなくて……」

「それにさ、いつか一緒に行けるかも知れないじゃん。そんときのための下見も兼ねてさ。大丈夫、まかしときなって!」

「……」

 詩音は文字通り目を丸くして、信をまじまじと見つめていた。しかし、やがてこらえきれず吹き出し、大声で笑い始めた。

「……本当に……もう……あなたっていう人は……」

 珍しいくらい笑い転げる詩音の瞳から、涙がこぼれる。
 信もまた顔中を笑顔にして、その涙をぬぐった。

     2

「……で、本当に、本気で、インドに行くわけね」

「おう、俺はいつだって本気だぜ」

「……」

 その答えに、真冬は深い深いため息をついた。
 再び、信の部屋にやってきていた。
 健から、信が元気になったのはいいが、またとんでもないことを云いだしている……と聞かされたのだ。前回のことがあったので、少し迷ったけれど、やはり真冬は信が出した答えを知りたかった。
 自分を迎えたときの信の笑顔で、彼の気持ちはわかったつもりだったけれど、まさかこんなことになっているなんて。

「ほんっっっっっっとうに……バカなのね」

「……しみじみ云うなよ」

 情けなさそうに眉を寄せたあと、また屈託なく信は笑った。
 ずるい男だ、と目をそらしつつ真冬は考える。この笑顔を向けられると、何も云えなくなってしまう。

「名案だと思ったんだけどなあ。詩音ちゃんも笑ってくれたし」

「……そりゃあ、笑うしかないでしょうよ」

「ひでえ……」

「――まあ、あんたらしいと云えば、あんたらしいわね」

 そう云って、真冬はニッと唇の端だけで笑って見せた。

「いちばん大事なことには、相変わらず気づいてないバカっぷりだけど」

「なんだよ、いちばん大事なことって」

「……教えてあげないわ」

 あんたがそばで笑っていることが、詩音の何より望んでいることだ、なんてね。
 しきりに首を傾げている信の姿に苦笑しながら、真冬は意地でも教えてやるもんか、と思った。

「それで、私へのオトシマエは、どうやってつけてくれるのかしら」

「……あ……」

 信が息を飲んで、青ざめる。
 真冬は挑発的に微笑み、わざとしなを作るような仕草で信の方に体を傾けた。

「途中でやめられると、女は傷つくわ」

「ま、真冬……」

 後ずさろうとする信の胸ぐらをつかみ、真冬は顔を寄せた。
 互いの息がふれあうほどの距離で、真冬の黒瞳がじっと信の目をのぞき込んでいた。
 怪しく光る、猫のような瞳。
 黒髪から香る、心を乱れさせるほど甘い――。

「真冬……ダメだ……」

「……」

 再び、ニッと真冬は笑った。誘うような、嘲るような、――泣き出すような、蠱惑の笑み。

「冗談よ」

 手を離して、真冬は立ち上がった。信は思わず、深い息を漏らしてしまう。

「じゃあ、そろそろ帰るわ」

「……ん。駅まで送るよ」

 真冬の言葉に、信も立ち上がった。そして、先に出ようと、玄関に向かって足を踏み出したとき。
 背中から、そっと抱きしめられた。

「……真冬……」

「――何も云わないで。なんか云ったら、ぶん殴るわよ。こっちを向くのも禁止」

「……」

「お願いよ……。少しだけ……、このままで……」

 真冬の手は小さく震えていた。嗚咽を必死でこらえようとするその姿は、鋭い痛みとなって信の心に傷を残した。
 振り返って、抱きしめることができたなら。
 どれだけ、気持ちが楽になることだろう。
 けれど、それは信も真冬も、望むことではなかった。
 だから、真冬は声を殺して涙を流し、信は血がにじむほど唇を噛んで、立ちつくすばかりだった。

     3

 結局、真冬は一人で朝凪荘を出た。これ以上、二人でいると、もっとみっともない姿を見せてしまいそうで、嫌だった。
 そして、それは正解だったかな、と真冬が考えたのは、門を抜けたところで、詩音に出会ってしまったからだ。

「……あ……」

「……あら」

 詩音は戸惑い気味に視線をさまよわせる。真冬は冷たい瞳でそんな詩音を見ていた。

「信なら、部屋にいるわよ」

「は、はい、その……」

「なあに」

「ごめんなさい、あの……」

 詩音は真冬に謝りたかった。けれど、そんなことで真冬が喜ぶはずがない。
 本当に伝えるべきことはなんなのか、うまく言葉にできないもどかしさに、詩音は身をすくめて狼狽していた。
 真冬は依然、昔のように硬い表情のままだったが、やがて、ぽつりと呟いた。

「お願いがあるの」

「……なんでしょう」

「一度だけ、ひっぱたいてもいい?」

 詩音ははっと顔を上げて、真冬の瞳を見た。
 怒りも憎しみも、そこからは読み取れない。
 それでも詩音は目を閉じて、頷いた。

「――はい、どうぞ」

「……」

 真冬が手を振り上げる気配がする。詩音は奥歯をかみしめ、衝撃に備えた。
 一瞬の間のあと。
 ふわりと柔らかい感触が、詩音の頬を包んだ。

「……! 真冬……さん……?」

 驚いて目を開くと、真冬は詩音の頬を撫でて、微笑んでいた。
 黒瞳にはいっぱいの涙が浮かび。
 口元には、とてもとても優しげな笑みをたたえて。

「信を大事にしてあげてね。約束よ」

「……はい……はい……っ」

 真冬の手を握り、大粒の涙を次々にこぼしながら、詩音は何度も頷いた。
 そして、その誓いを、深く心に刻んだ。



     epilogue

 空の蒼さは、目が痛いほどだった。
 その蒼天を裂くように、一条の飛行機雲が伸びている。
 真冬は目を細めてそれを見ながら、呟いた。

「……ほんとに行っちゃったわね……」

「……そうですね……」

 静かに微笑んで、詩音が頷く。
 真冬は肩をすくめて、ため息をついた。

「ほんっとうに、バカなのね」

「……そう、かも知れませんね」

 目を見交わして、二人は笑った。
 冬の空は高く、空気は冷たく澄んで。
 晴れた空は、どこまでも蒼い。

「雨は、あがったのかな」

「……え、なんですか?」

「なんでもないわ。そろそろ帰るわね」

「……あ、よかったら、家に寄ってくださいませんか? ケーキも焼いたんですよ」

「おいしい珈琲が入れられるようになったら、考えてあげる」

「真冬さんこそ、紅茶の魅力にいい加減気づいてください」

「ごめんだわ」

 もう一度笑って、真冬は空を見上げた。詩音もその視線をたどるように、同じ空を見上げる。
 飛行機雲は、もう、消えていた。


Memories Off EX
Scenario for Shin, Shion & Mafuyu
"The Rain"
end



2002.10.19


あとがき


トップページへ戻る