放課後。誰もいない教室で、智也は暇を持て余していた。
学祭実行委員会から唯笑が戻るのを待っているのだ。
もはやコオロギを集めている振りをする必要はなかったが、かといってほかにすることがあるわけでもない。智也は大きく伸びをして、何度目かのあくびをした。
(こんなときは……やっぱ寝るか)
そう考えて、机に突っ伏そうとしたとき、背後から声がかけられた。
「智也……まだ、いたのか」
「あん……ああ、信か」
振り向くと、そこにはいつの間にか信が立っていた。いつものように笑顔を浮かべているが、どこかに陰がある。過去と現在にけじめをつけた智也にとって、目下、唯一の悩みはその親友の陰りだった。
「唯笑ちゃん、待ってるのか?」
「ああ。毎日毎日、よくこんだけ話し合うネタがあるよな」
「会議なんてそんなもんだろ。……ところで、さ」
薄く笑ったあと、信は真顔になった。智也とは目を合わさずに、言葉を続ける。
「唯笑ちゃんとは、うまくいってるのか」
「見りゃわかんだろ。……って、それ、もう何回目だよ、信。なんか毎日訊かれてる気がするぞ」
智也は肩をすくめながら立ち上がり、信の顔を見つめた。やはり信は目をそらしてしまう。
「そ、そうか? すまん。やっぱ気になってさ。俺には……」
「『償いをする責任がある』か? もうその話はよせって云ってるだろ。だいたい、大袈裟だよ、信。たまたまその場に居合わせただけで、どうしてお前がそこまで責任感じる必要があるんだ」
「それは……」
言いよどむ信。
信がたびたび唯笑との仲を尋ねてくるのは、それを取っ掛かりとして何かほかに云いたいことがあるのだろう、ということは、智也にもわかっていた。しかし、信はいつも曖昧に笑って去ってしまうのだ。智也も振り切ったとはいえ、何度も話題にしたい事柄ではないので、あまり追求する気になれずに話は終わっていた。
しかし、信の今日の様子はいつもと違っていた。拳を握り締め、次の言葉を搾り出そうとしている。じっと待つ智也に向き直り、ついにその目を正面から見返した。
「智也、俺は……俺の、罪は……」
「……信?」
信のただならぬ様子に、思わず智也も息を飲む。
そのとき、教室のドアが静かに開き、涼やかな声が響いた。
「三上くん、こちらでしたか」
「……双海」
振り向くと、詩音が立っていた。ここのところ笑顔を見せることが多くなっていたのだが、今日は心なしか、以前のように硬い表情をしているように見える。
詩音はそのまま智也たちのところに歩いてきた。
「唯笑さんが、昇降口でお待ちになっていますよ」
「……え、ほんとに? もう会議終わったのかな?」
「そのようです」
「だったら、なんで戻ってこないんだ、あいつ。鞄だってここにあるのに……」
「ちょうど下で私に会ったからではないでしょうか? 三上くんに鞄を持ってきてほしいそうです」
「しょうがねえなあ。……あ、でも、今は……」
智也が信のほうに向き直る。しかし、間を外されてしまった信は、いつもの笑みを浮かべるだけだった。
「早く行ってやれよ。別にたいした話じゃない」
「……そうか? じゃあ……悪いな、また今度」
気にはなったが、ここでこれ以上追求しても、きっと信はしゃべらない。そのことがわかっていたので、智也は唯笑を迎えにいくことにした。
「それじゃ。双海も、ありがとう」
「ごきげんよう」
智也が去り、教室には信と詩音だけが残された。
信がややばつの悪そうな顔をして、詩音に手を上げてその場を去ろうとする。その背中に、詩音の言葉がかけられた。
「何を、云おうとしていたんですか」
「……え?」
思いがけない問いかけに、信は茫然と振り向いた。詩音が真剣な眼差しを注いでくる。
「失礼ですが、お話を聞いてしまいました。智……三上くんに、何を云おうとしたのですか」
「それは……」
双海さんには関係ないよ、信はそう答えようとしたのだが。
「彩花さんは、あなたをかばって事故に遭ったということですか」
「……なっ……!」
信は石のように動けなくなった。額に冷や汗がにじむのが自分でもわかったが、手を上げてぬぐうこともできない。喉がからからに渇いた。
「どうして……双海さんがそれを……」
誰も知らないはずの、自分だけの真実。それを、なぜ、転校生の彼女が知っているのか。
だが、詩音は小さく肩をすくめて答えた。
「初歩的な推理です」
「なに……?」
「ただ事故の現場に居合わせて、何もできなかった……それだけで、そんなに責任を感じるなんて、不自然でしょう? 三上くんだって大袈裟だとおっしゃっていたではありませんか。……いつまでもそんな調子だと、感づかれてしまいますよ」
そう、あの雨の日に。傘を持たず、雨の中を走って帰っていた信は、信号が赤であることも、トラックが迫っていることも気がつかなかった。ふと振り向いたとき、トラックのライトが間近に迫り――。
「危ない!」
少女のそんな声が聞こえたのと同時に、突き飛ばされていた。
激しいブレーキの音。
小さな悲鳴。
そして、路上でくるくると回る白い傘。
怖くなって、信は逃げた。走ってその場を逃げ出し――、今度は、その自分の行為自体が怖くなって、恐る恐る現場に戻った。
そこにはもう少女の姿はなかった。ただ白い傘の前で、自分と同い年ぐらいの少年が泣き崩れるのを見た……。
「そうだ……俺の……せいで……。いつかきっと……智也や唯笑ちゃんも気づく……。だから……俺は……自分の口で……」
激しい後悔と自責の念で、信の体は震えていた。しかし、詩音はそんな彼を冷たいと云えるような視線で見つめ、きっぱりと云い切った。
「無用です」
「……なんだって……?」
「不必要な感傷だと云っているのです」
はじめ、信はぽかんと口をあけて詩音の言葉を聞いていた。だが、その意味が理解されてくるに連れ、怒りで頭が真っ白になってきた。
やっぱりこいつには感情ってものがないんじゃないのか?
思わず詩音を引っぱたきそうになった右手を、どうにか左手で押さえる。
詩音はその右手を一瞥し、相変わらず冷ややかな口調で続けた。
「殴りたいなら殴ってもかまいません。けれど、余計なことを云うのはやめてください」
「余計なこと? 本当のことを伝えるのが、どうして余計なことなんだよ!?」
「真実には必ず価値がある。そう、お考えですか?」
「え……?」
逆に問い返されて、信は答えに窮した。
本当のことだから、伝えなければならない。確かに信はただそう思い込んでいた。
「その『真実』で、誰が幸せになりますか。傷つく人が増えるだけでしょう?」
「それは……」
「もしあなたが本当にそれを自分の罪だと思っているのなら、一生、自分の胸だけにしまって、それを背負って生きていくべきです。それがあなたにできる唯一の償いなのではないのですか」
「……」
詩音の言葉に衝撃を受け、信は眩暈さえ感じた。思わず智也の席に腰を下ろしてしまう。茫然と虚空を見据えた。
そう、本当はわかっていたのだ。云うべきではないと。だが苦しむ智也と唯笑を見ていて、自責の念に耐えられなくなった。すべてを告白して、楽になりたかった。あのときと同じように、俺はただ逃げ出したかったんだ……。
こぽこぽ、という何かを注ぐ音がした。信の前に、詩音が魔法瓶のカップを差し出す。紅茶の芳香が信の心に染みた。
「どうぞ。落ち着きますよ」
「……双海さん……」
見上げると、詩音と目が合った。相変わらず、硬い表情をしていたが、その瞳にはどこかいたわりや哀切の色があるような気がした。
「……ありがとう」
カップを受け取って、口をつける。紅茶は幾分冷めていたが、信には十分、全身を、そして心を温かく満たしてくれるものに思えた。
「稲穂さんの痛みは、稲穂さんにしかわからない。それなのに勝手なことを云っている、ということはわかっています」
「……」
「だけど……それでも、智……三上くんと唯笑さんには、その話をしないでほしいんです。もし、ひとりで抱え込んでいるのがつらければ、私が……私でよければ、お話を伺いますから」
「え……?」
今度こそ茫然と、信は詩音の顔を見つめた。
なぜ、彼女はそこまで……?
「どうして……双海さんは?」
「……」
詩音はすぐに答えず、信からカップを受け取ると魔法瓶を鞄にしまった。
そして、小さく微笑んだ。
その笑みを見た瞬間――、信は、恋に落ちていたかもしれない。
「私は、もう彼らに傷ついてほしくないだけです」
「双海さん……」
「三上くん、心配していましたよ。『信の様子が変だけど、隣で見ててなんか変わったことない?』って。……残念ながら、私ではお役に立てませんでしたけど」
そう、信と詩音は隣の席同士だが、ほとんど話をすることはない。というか、教室にいるときの詩音は授業中だろうが休み時間だろうが、本を読んでいるのだ。
「あいつが、俺のことを心配? 気持ち悪っ」
いつもの調子を取り戻して、信がおどけて見せる。
詩音がその様子にまた少し微笑んだとき、教室のドアが再度開かれた。
「……あ、双海、まだいたんだ。なあ、唯笑、いないんだけど?」
智也だった。教室に残っている詩音と信を、不思議そうに見比べる。
「あ、ごめんなさい。時間をお伝えするのを失念していました。5時にお待ちしているそうです」
「ええ? なんだ、まだ1時間もあるじゃん……って、さっき会議終わったみたいって云わなかったっけ?」
「そうでしたか? ……私は図書委員の仕事があるので失礼します。ごきげんよう」
動じた様子もなく、丁寧に挨拶をして詩音は教室を出て行った。
智也と信はふたりとも、なんとなく言葉も出せずにその姿を見送ることになった。
智也が頭を振りながら、信のほうに向き直る。
「相変わらずだなあ、彼女。……でも、珍しいな、信と双海ってのは。なんの話してたんだ?」
「……甘い語らいを、他人にぺらぺらしゃべると思うか?」
「甘い語らいねえ」
そんなことありえるわけがない、と考えていることを全身で表現しつつ、智也は肩をすくめた。そして、真顔になって信の顔を見る。
「なあ、信、さっきの話は……」
「あ、ああ、あれな。実は……」
信もまた、真剣な表情を浮かべる。正面から智也の目を見つめた。
「実は、俺が……」
「……」
「俺が双海さんのことを好きだって云ったら、唯笑ちゃん、怒るかな?」
「……はあ?」
「いや、俺が唯笑ちゃんに告白したのって、ついこないだじゃないか。それですぐほかの女の子が好き、だなんて云い出したら、軽薄な奴とか思われるんじゃないかってな……」
「……軽薄じゃないつもりだったのかよ……」
「なぁっ!? お前、それが親友に対して云う言葉かっ?」
信が話をはぐらかしたことは、智也にももちろんわかっていた。
しかし、その様子がここ最近とは違い、「いつもの」信だったので、それ以上追及する気にはならなかった。云うべきことならいつか云ってくれるだろうし、信が云わないほうがいいと判断したのなら、そのほうがいいのだろう。
信の迷いが晴れたのなら、それでよかった。――しかし、そのきっかけは彼女なんだろうか?
「やっぱり気になるなあ。双海となんの話してたんだよ」
「そいつは何度聞かれても答えられんな。ふたりだけの秘密だ」
「はーん。……ま、いいけど。彼女もお前のこと心配してたしな」
「心配?」
「ああ、最近、様子が変だけど何かあったのかって俺に訊いてきたよ」
「……」
それは、さっき詩音から聞いた話とは全く逆だった。
そうなると、立ち聞きしていたのも、偶然ではあるまい。信の様子がおかしいことに気づいていたから、様子を見に来たのだ。
その理由が、俺を心配してじゃなくてこのバカのためっていうのが気に入らないけどな。
信はじろっと恨みがましい目で智也を見た。
「な、なんだよ、その目は」
「べっつに。じゃあ俺、行くわ」
「へ? 行くってどこへ」
「決まってんだろ。図書室さ」
「図書室って……お前、本気なのか?」
「俺はいつだって真剣だぜ、親友!」
ドアのところで振り返り、握り拳を掲げる信。
智也も力なく手を振り返した。
「……頑張れよ、親友」
*
図書室のやや重い扉をゆっくりと開ける。
滅多に来ない場所なので、信には中の配置がどうなっているのかさえすぐにはわからなかった。
きょろきょろと見回すと、貸し出しカウンターに座っている詩音が見つかった。いつもどおり、熱心に本を読んでいる。
信はまっすぐ彼女のもとへ歩いていくと、声をかけた。
「……やあ」
詩音が顔を上げる。先ほどのことなど何もなかったように、表情に変化はない。
「こんにちは」
「こ……こんにちは。早速来ちゃったけど……ちょっと、話して、いいかな」
「結構ですが……」
読んでいた本に栞を挟んで閉じる。
そして――、にっこりと、微笑んだ。
「図書室では、静かにしてくださいね」
その笑顔が、信にとって決定打となった。
あとがき
掲示板でちょっと話題になった「信の云うことは大袈裟だ」ということから、思いついたお話です。あと、小説版では信は詩音に気があることになっているので、そのきっかけってなんだろうな?と考えたのもあります。
詩音は全然そんな気がないところがミソです(^^ゞ。意外といいカップルかも、という気もしますけどね。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。