そしてまた、放課後。いつもどおり両手に抱えきれないほどの本を持って校門をくぐった詩音は、後ろから大声で呼び止められた。
「おーい、詩音ちゃん、待ってくれよー!」
そのまま行き過ぎてしまいたかったが、聞こえない振りをするには、その声は大きすぎた。詩音は軽くため息をついて、眉を寄せながら振り返る。信が慌てて走ってくるのが見えた。
「はぁ……はぁ……、図書室行ったら……いないんだもんな……。フェイントだよ、詩音ちゃん……」
その様子だと、図書室の窓から詩音が帰ろうとしているのを見つけて、急いで追いかけてきたらしい。
そのことに詩音は感動――するはずもなく、やや迷惑そうに眉をひそめたままだった。
「稲穂さん、何度も申し上げているとおり、私は男の方からそんな風に呼ばれるのは、好きではありません」
「あ……ああ、ごめん。でもさ、すごいいい名前じゃん、『詩音』って。こう、口にするだけで、こっちも幸せになるような気がするよ」
「……」
再度ため息をつくと、詩音はもう何も云わずに歩き始めた。慌てて信が隣に並ぶ。
「荷物、持つよ」
結構です……と詩音が答えるより早く、信は本の山を詩音の手から取り上げてしまう。そうした強引さが、詩音を何より戸惑わせることには気づいていない。
彼は、そんな風にはしなかったのに……つい、詩音はそう考えてしまうのだ。
「……私、稲穂さんのことを見直していたんです」
「え?」
「失礼ながら申し上げると、はじめはただ軽い人だと思っていました」
「……」
がっくりとうなだれる信。
「でも、智……三上くんとのことで苦しんでいる姿を見て……、私は、表面だけしか見ていなかったんだとわかりました。申し訳ありません」
「詩音ちゃん……」
一転して、信は満面の笑みを浮かべる。しかし。
「でも、今ではちょっと買いかぶりすぎたかと思っています」
「……」
再び肩を落とす信。そうやって表情がコロコロと変わる信を見て、詩音はつい笑ってしまいそうになるのを一所懸命こらえていたのだが――、信には、そのことはわからなかった。
なんとか失地回復しなければ、と信は話題を別のことに持っていく。
「あ、そうだ、お茶飲んで帰らないか? またいい店、見つけたんだよ」
「結構です」
今度はかなりにべのない様子で、詩音が答える。かえって不機嫌にさせてしまった。
「先日も、その前もそうおっしゃいましたが、散々な紅茶でした」
「うっ……でも、今度こそ大丈夫だって。俺が保証するよ」
「それが当てにならないから、お断りしているんです」
「詩音ちゃん……」
世にも物悲しい声で信が呟くが、詩音は動じない。
傍から見れば、意外にうまくいっているふたりに見えるのかもしれない。
「三上くんが教えてくれたお店ならまだマシなのに、そこには行きたくないと云うし……」
「あ、あそこは……なあ……」
その店を智也に教えたのは信だから、当然、信も知っている。しかし、そこは彼の姉が働いている店だ。さすがに女の子を連れて行くのは気が引けた。家に帰って、何を云われるかわからない。
「じゃ、じゃあさ、今度の日曜は暇?」
「日曜……ですか? 予定はありませんが……」
「じゃあさ、遊びに行こうよ。あ、別にふたりってわけじゃないから。智也や唯笑ちゃんも一緒に」
「三上くん……たちと?」
かすかに詩音の表情が動く。
「そう。遊園地でも行かないかって誘われたんだよ。いいだろ?」
「……でも……私たちが行くと、ご迷惑なのではないですか?」
「へ? なんで?」
「なぜって……その……お邪魔だと……」
詩音がそんな気の回し方をするのは、信には少々意外だった。目を丸くして、少し頬を赤くしてうつむいた詩音を見つめる。だが、すぐに破顔した。
「大丈夫だって。あいつら、そんなの気にしないよ。だいたい、唯笑ちゃんが言い出したんだぜ?」
詩音ちゃん誘ってみなよ――そう云われたことまでは、さすがに信も付け足さなかった。
「みんなで一緒に騒いでるのが楽しいんだろ。智也はともかく、唯笑ちゃんはそういう娘じゃん」
笑顔で詩音の顔を覗き込み――、やっと、信は気づいた。詩音は硬い表情で、唇を噛んでいる。
「……詩音ちゃん?」
「そうですね……」
独り言のように呟く。いつも静かに話す詩音だが、こんなに悲しく聞こえることはなかった。信は言葉を失って、詩音の横顔を見つめた。
「あのふたりは……いつも優しくて……、とても、明るくて、あたたかくて……。私には、少し眩しすぎる……。時々、そう思います……」
そして。涙が一粒だけ、詩音の頬を伝って落ちた。
「詩音ちゃん……」
信の呟きに、詩音がはっと我に帰る。慌てて顔を背けた。
「ご、ごめんなさい、変なこと云って」
信はしばらく詩音にかける言葉がなかった。気づいてしまったから。いや、はじめから薄々感じてはいたことだ。
「詩音ちゃんは……智也のことが……?」
「ち……違います!」
顔を背けたまま、強く否定する詩音。しかしその震える声が、本当の気持ちを明らかにしてしまっていた。
信がそっと詩音の肩に手を置く。詩音はびくっと体を震わせたが、振りほどきはしなかった。
「そっか……」
苦い想いと、詩音へのいたわり、愛しさ……複雑な感情の渦に翻弄されながら、信は努めて明るい声を出そうとした。
「実は、俺もさ、唯笑ちゃんに振られたばっかなんだよな」
「……え?」
「智也には、お前らをくっつけるための芝居だったって云ったけど、結構マジだったんだぜ。はは……。俺たちって、似た者同士なのかな」
「……」
道化を演じることで、詩音の心を和らげようとしたのだったが……、今度もまた、逆効果だった。
詩音は肩に回された手をゆっくりほどき、信の瞳を正面から見つめた。その顔には、能面のように無表情を装っていたが、隠しようのない怒りがのぞいていた。
「唯笑さんを忘れるために、私に近づいたのですか」
「え……し、詩音ちゃん?」
「私は私です。誰かの代わりじゃない」
吐き捨てるように云うと、詩音は信の手から荷物を奪い、足早に歩き出した。
一瞬、茫然と立ち尽くした信だったが、慌ててあとを追い、その腕をつかんだ。
「待って……待ってくれよ、誤解だ、詩音ちゃん」
「離して……! もう、結構です!!」
「詩音ちゃん!」
強引に振り向かせ、両肩をつかむ。そのときの信の瞳は、詩音が思わずはっとするほど真剣だった。だが詩音は、唇を噛んで目をそらした。
「俺が好きなのは、詩音ちゃんだ。詩音ちゃんだけだ。詩音ちゃんだから、好きなんだ! 誰かの代わりじゃない……誰にも代わりなんかできない……!」
「稲穂さん……」
「詩音ちゃんの髪が、詩音ちゃんの瞳が、詩音ちゃんの入れた紅茶が……、俺に冷たいところだって……、ああ、もう! 全部好きなんだよ!」
ゆっくりと顔を上げる詩音。信の瞳を見つめ、頬を赤く染めて、そして――。
「人が……見ています」
「……え?」
気がつくと、行き交う人々がみんなこちらを見ている。立ち止まって眺めている一団もあった。往来で、あんな大きな声で愛の告白をすれば無理もなかった。
「あ……ごめ……」
慌てて詩音の肩から手を離すと、彼女は荷物を拾い、ほとんど駆け足でその場を去った。信も慌ててそのあとを追う。拍手をしている連中もいたようだ。
結局、駅に着くまでふたりは無言だった。改札の前で、ためらいがちに信がやっと口を開いた。
「その……ごめんな。恥ずかしい思いさせて……」
「……」
詩音は無言で定期を取り出す。そして信の顔を見上げて、微笑んだ。
「嬉しかったです」
「……え……?」
「そんなにも、私のことを想ってくれる人はいなかったから」
「詩音ちゃん……」
そのときの信の様子は、まさに「この世の春」をテーマにした図だっただろう。
「じゃ、じゃあさ、お詫びにやっぱりお茶でも……」
「それはお断りしたはずです」
調子付いて誘う信に対して、詩音がぴしゃりと答える。またしてもがっくりと肩を落とす信に、詩音はいたずらっぽく微笑んだ。
「恥ずかしくって、もうしばらくこの辺りのお店には入れませんよ。……その代わり」
「……?」
「日曜には、紅茶を作って持っていきます。本当の紅茶の味、稲穂さんも早く覚えてくださいね」
「詩音ちゃん……」
「ごきげんよう」
頭を下げて、詩音は改札を抜けた。信は茫然とその姿を見送っている。
やがて、詩音がホームにたどり着いた頃、改札の辺りで歓声が上がるのが聞こえた。
肩をすくめて、今度こそ詩音は聞こえない振りをした。
あとがき
なんとなくこのふたりの組み合わせが気に入ったので、続きを書いてみました。
しかし、信はゲーム中の初登場時の紹介では「クールな個人主義者」ということだったんですが、片鱗もありませんな(^^ゞ。でも、ゲームやってても「クールな個人主義者」には全然見えなかったものなあ。身内とそうでない人とで対応が激しく違うんでしょうか。汰一タイプ?
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。