やわらかな日差しを受けて、みなもは目を覚ました。
ゆっくりと目を開けると、冬の高く青い空と――愛しいひとの横顔が目に入る。
昨晩のことを思い出して、幸せな気持ちになると同時に、恥ずかしくなって布団を目深にかぶり直した。
「ん……」
その動きに、彼は少し身じろぎしたが、まだ目覚める気配はなかった。寝返りを打つと同時に、みなものほうに手を伸ばして、その体を抱き寄せた。
「……智也さん……」
無意識のその動作が、みなもにはとても嬉しかった。幸せで幸せで、涙が出そうになる。
まどろみ続ける智也の胸に頬を寄せて、みなもは目を閉じた。
このまま覚めない夢の中にいたかった。
1
病院のロビーに、頬を打つ硬い音が響いた。
手を振り上げたまま、瞳を涙でいっぱいにする唯笑と、打たれた頬を押さえもせず立ち尽くす智也。
そのままの姿勢で、どれだけの時間が経っただろうか。
「手術中」のランプが、赤く闇を照らしている。
「……どうして……?」
絞り出すような唯笑の声。けれど智也はやはり何も答えず、ただ黙ってうつむいていた。
「どうして、こんなこと……! どうして、みなもちゃんをひとりにしたの、智ちゃん? だから、みなもちゃん、こんな無茶を……。どうしてぇ……」
唯笑はその場に座り込み、泣き崩れた。それでも智也は何も云うことができなかった。云うべき言葉がなかった。
病院を抜け出してきたみなもを背負って、智也は海に走った。ふたりで約束した、金色の海へ。
みなもは、智也と過ごしたこの1カ月が、いちばん幸せだったと云ってくれた。
しかしそれでも、いやそれだからこそ、智也は自分が許せなかった。
いっそ、お前のせいだと責められたら、どれだけ楽だっただろうか。
みなもの強さが、想いが、優しさが、それらがすべて自分のせいで失われていくことが、智也を打ちのめしていた。
「……智ちゃん、来て」
唯笑は立ち上がると、智也の手を取って歩き出した。智也は引かれるままに歩いた。
唯笑が智也を連れてきたのは、みなもの病室だった。ドアを開けて、智也を促した。
「……見て」
智也はゆっくり病室に入り――、息を、飲んだ。
床一面に散らばるスケッチ。それらにはすべて、智也が描かれていた。智也の笑顔だけが。
「これ……は……」
「ひとりの間、ずっとみなもちゃんが描いてたんだよ」
唯笑の言葉に、智也が愕然と振り向いた。唯笑は変わらず瞳を涙でいっぱいにして、智也を正面から見据えた。
「智ちゃんが来てくれないことに、みなもちゃん、何も云わなかった。ただ、智ちゃんの絵を描いてたよ。これが……これが、みなもちゃんの戦いだったの。ひとりぼっちで……戦って……」
「……」
智也は身をかがめて、スケッチの一枚を拾った。
そこにいる笑顔の自分を見つめる。
俺は……本当に……こんな風に笑っていたか……?
「彩ちゃんのことは聞いたよ……。智ちゃんがつらいのもわかる……。でも……でもね、みなもちゃんは戦っていたの! 智ちゃんは? 智ちゃんは何をしてたの?」
そう、俺は――。
逃げていただけだ。
彩花の死と向き合うことから逃げ、みなもの苦しみと向き合うことから逃げ――。
自分が許せないだなんて、なんていう詭弁だったのだろう。
智也の頬を、慚愧の涙が伝った。
今こそ、みなものそばにいてやりたかった。ともに笑い、ともに涙し、ともに痛みを分かち合いたかった。
「……戻ろう、唯笑」
「……え?」
「少しでも、みなものそばにいたい。なんの役にも……立ちはしないけど……」
「……うん!」
強く頷く唯笑。病室のドアをそっと閉めて、ふたりは手術室の前に戻った。
2
静かに眠り続けるみなものそばに座り、智也はその顔をじっと見つめていた。
みなもはどうにか一命を取り留めた。しかし、依然、危険な状態であることに変わりはない――医師の言葉が智也の胸に突き刺さっていた。
こうして改めて見ると、本当にみなもは痩せてしまっている。元々小柄ではあったが、その明るさではかなさは感じさせなかったのに、今では触れたら壊れてしまいそうに見える。
こんな体で、みなもは戦っていた――。
智也はそっと、みなもの手を握った。
(もう……俺は……)
「……ん……」
みなもが目を覚ました。何度か瞬きを繰り返し、ゆっくり智也のほうに面を向ける。
「ごめん、起こしちゃったか」
智也は精一杯優しい笑顔を浮かべた。
みなももまた笑顔を返す。その瞬間、先ほどまでのはかなさは消え、以前と同じ太陽のような明るさがよみがえった。
「……智也さんだ……」
「うん」
「よかった……。また……逢えたんだ。夢じゃ……ないよね」
「夢じゃないよ」
「金色の海も……」
「ああ、本当にあったさ。みなもが描いてくれた、金色の海……」
「うん……」
嬉しくて、みなもは涙を流した。智也はその頬を手で包んで、涙をぬぐった。
「これからは……俺がそばにいる」
「……え?」
「ずっと……そばにいるよ。二度とひとりになんかしない……。約束だ」
「本当に……?」
みなもは目を大きく見開いた。智也の手を握り返す力が強くなる。
智也は両手でみなもの手を包み、頷いた。
「ああ。片時も離れないよ」
「智也さん……」
大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれて落ちた。喜びと希望に頬を染めて。
「でも、それじゃ智也さん、学校に行けないよ」
「いいよ、そんなの」
「ダメだよ。智也さんはみなもの先生なんだから。ちゃんと学校に行って、みなもに勉強教えてくれなきゃ」
「……」
「ね」
「……わかった。みなもがそう云うなら、そうするよ」
「うん」
本当に嬉しそうに頷くみなもに、智也は布団をかけ直してやった。
「まだ休んでいたほうがいい。ゆっくりお休み」
「……うん。智也さんは?」
「云ったろ? そばにいるよ」
「ありがとう、智也さん……。ね、手、握ってて」
「ああ」
みなもはすぐにまた寝息を立て始めた。なんと云っても消耗が激しいのだ。
しかし、智也がそばにいることで安心したのか、その寝顔はとても安らかだった。
智也は涙が出そうになるのを、唇を噛んで耐えた。
みなもがもう一度学校に行けるようになるとは、思えなかった。勉強を教えても、きっと意味がない。それより少しでも長い時間、みなものそばにいたかった。
だけど、みなもがそう望むなら。けして未来に絶望しないみなもの強さに、応えなくてはならない。
(俺は……もう……逃げない)
みなもの笑顔に、涙に、智也は誓った。
3
以前のように、智也は毎日病院に通った。
一日あったことを、みなもに話して聞かせる。どんな他愛のない話でも、みなもは楽しそうに聞いていた。
みなもの調子がいいときは、勉強を教えた。みなもはすでに起きあがるのも難しくなっていたので、ほとんど進まなかったが――、そのことには、ふたりとも触れなかった。
そんな日々の中、以前と決定的に違っていることがあった。
みなもは、絵を描かなくなっていた。――いや、描けなくなっていたのだ。
「……ねえ、智也さん」
「なんだい?」
「絵を……描いてみない?」
「え?」
「絵」
「ええっ?」
「もう、真面目に聞いてよ」
ぷっと頬を膨らませるみなも。その姿の愛らしさに、智也は思わず笑みを漏らした。
「ごめんごめん。でも、俺には絵を描く才能なんかないよ」
「そんなことないよ。智也さんは、きっと、感じたままを絵にすることができる人だと思う。みなもが、教えてあげるから」
「うーん……でも、なんで?」
みなもの熱意にやや驚きながら智也が訊くと、みなもは少し悲しげにうつむいた。
「わたし……もう、筆が持てないの。力が、入らなくて」
「……!」
気づいていたことだったが、みなも自身の口から聞かされると、激しい衝撃が智也の全身を走った。
みなもの生きる糧とさえ云えた、絵を描くこと。それまでも、みなもから奪われるなんて。
けれどそれでも、みなもは智也のために、笑顔を浮かべた。
「だからね、智也さんに描いてほしいの。ふたりで見て、ふたりで感じたものを、智也さんに残してほしい……。だから……」
「……」
「ダメ……?」
「――ダメなもんか。前衛芸術を見せてやるよ」
無理矢理、智也は笑顔を作った。
泣いてはいけなかった。みなもが、笑っているのに。
智也の答えに、みなもは満面の笑顔を浮かべた。
「わぁい。じゃあ今日からは、みなもが先生だね」
「はい。よろしくお願いします」
「よろしい。じゃあ、最初の課題は……どうしよっかな……」
小首を傾げてみなもは考えた。しかし、智也はもう決めていた。
「みなもを描くよ」
「……え?」
「みなもを描きたいんだ。いいだろ?」
みなもは一瞬驚いた表情になったあと、再び満面の笑顔で頷いた。
「うん! 嬉しい!」
みなもの頬を涙が流れる。嬉しいときにだけ、みなもはためらわずに泣いた。
智也は立ち上がって、みなもを抱きしめた。愛しさが込み上げたのと、こらえきれなくなった涙を見せないために。
「……智也さん……?」
「……」
「智也さん……あったかいね……」
智也の胸に顔を埋めて、みなもは微笑んだ。
智也は嗚咽を聞かれぬよう、ただ静かに涙を流した。
4
それからは、智也はみなもに絵を習うのが日課になった。
みなもは智也の絵をすべて手放しで褒めてしまうので、あまりいい先生とは云えなかったが、智也に才能があったのは確かだったようだ。
それとも、それは想いの強さの成せる業だったのだろうか。
いずれにせよ、智也は数日で技巧の基本は覚えてしまい、みなもをモデルにして絵を描き始めた。
同じ趣味を持てたことが何より嬉しかったのか、ここのところみなもはずっと明るく、体調もよさそうに見えた。このまま、何もかもよい方向に向かうのではないか――。そんな期待さえ抱いてしまうほどに。
けれど、智也と一緒に絵を描こうとすると、やはりすぐに疲れて熱を出してしまう。それが現実だった。
そんなある日。智也がいつものようにみなもの絵を描いている病室のドアが、ノックされた。
智也はキャンバスに覆いをかけて、振り返った。
「はい」
「えへへ、こんにちはぁ」
少し開けたドアから首だけを出して、唯笑が笑顔を見せた。
「あ、唯笑ちゃーん。来てくれたんだぁ」
みなもが喜色を浮かべて声を上げる。智也も微笑んで迎えた。
「何やってんだ。早く入れよ」
「うん……あのね、実は唯笑だけじゃないんだぁ」
「……え?」
「じゃーん」
ドアを押し広げながら、唯笑が病室に入ってくる。その向こうには、3人の女性が立っていた。
「こんにちはー」
「お久しぶり」
「……こんにちは」
「かおる……双海さん……小夜美さんまで」
「わぁ……皆さん、来てくださったんですか?」
みなもから見れば先輩たちが見舞いに来てくれたということなので、みなもはベッドから体を起こそうとした。
「あ、いいのよ、そのままで」
小夜美が微笑みながら、みなもの体を気遣う。すみません、と呟いて、みなもは横になった。
みんなが座る場所を作るため、智也はイーゼルを片づけた。
「……あ、それが智ちゃんが描いてるってヤツね。見せてよぉ」
唯笑が目ざとくチェックを入れてくる。しかし智也は笑って首を横に振った。
「ダメだ。完成するまでは誰にも見せない」
「けちぃ」
「そうなのー。わたしにも見せてくれないんだよー。先生に見せないなんて、おかしいよね」
心強い味方を得たことで、ここぞとばかりにみなもも責め立てる。しかしそれでも、智也は絵を見せようとはしなかった。
「まあまあ、いいじゃないの。画伯の絵はあとのお楽しみってことで」
肩をすくめながら、かおるが場をまとめてくれた。そして、手にしていた紙袋を差し出した。
「退屈してると思ってさ。差し入れ」
「なんですか? ……あ、ビデオがいっぱい」
「オススメの映画、選んできたんだよ。全部見たら、また持ってくるから」
「ありがとうございます」
「……あ、私も……」
詩音もまた、同じように紙袋を差し出した。誰もが想像したとおり、たくさんの本が入っている。
「詩音さんも。ありがとうございます」
「読み終えたら、私も、ほかのを持ってきますね」
「……これはなかなかちょっと読み終わらないと思うぞ」
智也でさえ持ち運びには疲れそうなその量を見て、ため息混じりに智也は呟いた。
詩音は不思議そうに、智也を見上げた。
「そうですか? せいぜい3日分ぐらいだと思ったのですが……」
「……それは双海さんだけだって……。で、唯笑は?」
「え? ――ああっ、忘れてた!」
智也の言葉に、慌てて唯笑は病室から出た。そして、廊下に置いてあったのだろう、両手で抱えきれないほど大きな花束を持って戻ってきた。
「わぁ、綺麗……。ありがとう、唯笑ちゃん」
「えへへ、奮発しちゃった」
「無理すんなよ」
「平気だよぉ。あ、ここに置くね。あとで花瓶に生けてくる」
唯笑が窓際に花束を置く。そのあと、何となく全員の視線が残るひとり――小夜美に集中した。
「あたし? あたしは特別に新製品のパンを……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……冗談よ」
バツが悪そうに照れ笑いをしながら、小夜美は鞄から一通の封筒を取り出した。
「あたしは、これ」
みなもにその封筒を差し出す。みなもは手を伸ばしてそれを受け取りながら、尋ねた。
「なんですか、これ?」
「旅行のクーポン券よ。元気になったら、智也クンにどっか連れていってもらいなさい」
「……え……」
瞬間――。
誰もが、言葉を失った。
再び、全員の視線が小夜美に集中する。みなももゆっくりと小夜美を見上げた。
小夜美は屈託なく、微笑んでいた。
そして、みなもも――、晴れやかな、笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます! 嬉しいです。ねえ、どこがいいかな、智也さん」
「え……っと、それは……」
「思いっきりおねだりしちゃいなさいね」
「はい!」
笑顔のみなもと小夜美をよそに、智也たちは戸惑い気味に互いの視線を見交わした。
*
しばらく歓談したあと、唯笑たちは帰ることになった。智也はいつも消灯時間ぎりぎりまで残っているので、唯笑たちを病院の玄関まで送りに出た。
「みんな、ありがとな」
「ううん、また来るね」
手を振ってそれぞれが家路につこうとしたとき、かおるが、やはり黙っていられない、という風に口を開いた。
「小夜美さん、さっきのあれは……やっぱり……」
「……かおる」
「でも……」
「……」
小夜美はかおるには答えず、智也の正面に立った。まっすぐに、強い視線を智也に注いだ。
「智也クン、『最後まで一緒にいてやろう』なんて、考えてちゃダメだよ」
「え……」
どくん、と智也の心臓がはねた。
まさにそのとおりだったからだ。
逃げない、ということは、そういうことだと思っていた。
小夜美は手を伸ばし、智也の両肩を掴んだ。渇を入れるように、強く智也の体を揺さぶる。
「あなたが信じなくてどうするの!」
「小夜美さん……」
「みなもちゃんは、全然諦めてないよ? 一所懸命生きてる! どうしてそれを信じてあげないの! あなたがみなもちゃんと一緒にいるのは、彼女を看取るため? 違うでしょう? 彼女と、生きていくためでしょう!?」
「……!」
智也を見つめる小夜美の瞳から、涙がこぼれた。
智也もまた涙を流しつつ、何度も何度も頷いた。
そうだ。俺はまた、勝手に諦めていた。もう逃げないと云いながら、諦めてしまうことで、自分を守ろうとしていた。
みなもが望んでいるのは……そんなことじゃないのに……。
「……しっかりしろよ、少年」
智也の頬を軽く叩いて、小夜美は踵を返した。お先に、と云って歩き去る。
その後ろ姿を見送って、かおるが小さくため息をついた。
「……ちぇっ。かっこいいね」
「そうですね」
詩音も頷く。唯笑が智也の横に来て、その顔を覗き込んだ。
「さすが小夜美さん、だね」
「……年の功だな」
照れ臭そうに涙をぬぐいながら、智也は憎まれ口を叩いた。
「あ、云いつけちゃお」
「勘弁してくれ」
そのときの智也の笑顔に、唯笑は安堵すると同時に、切ない痛みを覚えた。
どうして智ちゃんだけが……と、考えてしまう。一度は逃げ出した智也をなじったけれど、彼の痛みがどれほどのものか、その笑顔を見て初めてわかったような気がする。
しかし、それはもう云ってはいけないことだ。今、唯笑に云える言葉は、ひとつだけだった。
「じゃあ、唯笑たちも帰るね。……みなもちゃんのこと、よろしくね」
「ああ。――ありがとう、みんな、ほんとに」
笑顔で手を振る智也。3人の少女たちは、それぞれの痛みを抱えつつ、帰路についた。
*
智也が病室に戻ると、みなもは小夜美からもらったクーポン券をじっと見つめていた。
智也のほうに面を向け、小さく微笑む。その笑顔はいつもと違い、少し寂しげだった。
「どうした……?」
「うん……」
うつむいてしまったみなもに近づき、智也はベッドに腰掛けた。みなもの手を握り、クーポン券を同じように見つめた。
「一緒に……行けるかな」
ぽつりと、みなもが呟く。
智也はためらいのない笑顔で答えた。
「もちろんさ。楽しみだな」
「……うん!」
みなもはようやくいつものような笑顔を浮かべた。
しかしそれも一瞬のことで、すぐ次には真剣な表情で智也を見つめていた。
「智也さん……」
「ん?」
「お願いが……あるの」
「なに? なんでも聞くよ」
優しく見つめられ、みなもの頬は紅潮した。それでも目はそらさず、じっと智也を見つめながら、かすれた声で囁いた。
「キス……してほしいの」
「……」
智也は微笑んだまま、みなもに顔を近づけた。
みなもの心臓は破裂しそうなほど高鳴り、緊張のあまり目を見開いてしまっていた。
だが、智也の手がそっと頬に触れると――、そのぬくもりが伝わってくると、嘘のように気持ちが穏やかになり、自然と目を閉じた。
唇が重なる。
触れるだけの優しい口づけに、万感の想いを込めて。
ふたりは今、この世の誰よりも、幸せだった。
――けれど運命は、どこまでも残酷だった。