Last Regret

−後編ー

〜原案 A・R・U・K・A・Sさん〜


     4

 図書室を出て、教室へ戻る廊下を歩きながらも、智也は考え続けていた。
 詩音の心遣いはありがたかった。その信頼に応えたい――いや、応えなければいけないと思う。
 しかし、具体的にどうすればいいのか、皆目見当がつかないのだ。
 今はまだわからなくても大丈夫だと、詩音は云ってくれた。だが、物事にはタイミングというものがある。今、何か行動を起こさなければ、すべて手遅れになってしまうのではないか。そんな不安と焦燥感が、智也をとらえていた。

(結局は、俺のわがままじゃないのか……?)

 どうしても、そう考えてしまう。
 誰も傷つけたくないなんていうのは、自分が傷つきたくないだけだ。
 今はどんなにつらくても、結局、それが唯笑のためになるのなら……。
 足を止めて、智也は大きくため息をついた。
 それもまた、言い訳だ。
 顔を上げると、教室のドアがあった。いつの間にか目的地に到着していたらしい。
 智也がドアを開けると、教室にひとり残っていた少女が振り向いた。智也と彼女は等しく息を飲み、しばし言葉を失った。

「……智ちゃん」

「唯笑……」

 緊迫した空気と、長い沈黙。今までふたりには無縁だったものが、どうしてこんなに突然やってくるのか。
 理不尽とさえ思える腹立たしさを抱えつつ、智也は無理矢理、唯笑に笑いかけた。

「どうした。こんな時間まで残ってたのか?」

「う、うん。学祭実行委員の打ち合わせ……」

「そっか。そういえばそんなのやってたんだったな。ご苦労さん」

「ううん。……智ちゃんは?」

「ああ、俺? 俺は双海さんに頼まれて、図書委員の仕事を……」

「そう……」

 上っ面だけのぎこちない会話。耐えられず、智也は鞄を掴んで逃げだそうとした。

「じゃあ、俺、帰るから。またな」

「あ……」

 唯笑が何か云いかけたことにわざと気づかない振りをして、智也は教室から出ようとした。――だが。

「智ちゃん、待って」

 呼び止められ、智也の足が止まった。
 振り返るのが、怖かった。
 今、振り返れば、これまでぎりぎりの線で守ってきたものが、すべて壊れてしまうような気がした。
 けれど、智也は振り返った。振り返って、瞳に涙を浮かべる唯笑の姿を見た。
 唯笑の泣き顔なんて、いくらでも見たことがあった。名前の通り、唯笑はいつも笑っていたが、同じくらい、すぐ泣いた。「唯笑はいつも笑ってなくちゃダメなんだぞ」そう云って、慰めたこともあった。
 しかし、このときの涙ほど、智也の胸を突いたものはなかった。

「智ちゃん……どうして……」

「え……?」

「どうして……唯笑じゃダメだったの?」

「唯笑……」

 刺すような痛みが、智也の胸に走った。
 そして、それを遙かに越える痛みを、ずっとずっと唯笑が抱えてきたことにも、智也はようやく気づいた。
 ずっと云えなかった、ずっと訊きたかった言葉。
 どうして。
 その痛みを知りながら、智也には答える言葉もなかった。

「なに……云ってるんだ」

 間の抜けた答えだ、と智也は自分に唾を吐きたい気持ちになった。
 唯笑の身を裂くような言葉を、自分はまだはぐらかそうとしている。
 それなのに、唯笑は涙を拭きながら、笑顔を作ろうとしてくれていた。

「うん、ごめん……そういうことじゃないよね。唯笑じゃダメなんじゃなくて、音羽さんじゃなきゃダメだったんだよね」

「唯笑……」

「ほんとにごめん。変なこと云って。唯笑、帰るね。お先にぃ」

 精一杯の作り笑顔で、唯笑は智也の脇をすり抜けて出ていこうとした。
 その腕を、智也は、思わず掴んでしまった。

「……」

 びくっと体を震わせて、唯笑の足が止まる。
 ゆっくりゆっくり振り向く唯笑。偽りの笑顔は失われ、止めどなく涙が頬を伝う。
 最後の枷が、切れようとしていた。
 智也が震える手をそっと差し出し、唯笑の涙に濡れた頬に触れようとした、そのとき――。

「……智也?」

 小さな声だった。しかし智也と唯笑は、雷に打たれたように、その声を振り返った。
 教室のドアに立つその少女は、小さく震えているように見えた。

「かおる……」

 その名を呼ぶと同時に、智也は唯笑の腕から手を離してしまった。すると、唯笑は即座に身を翻し、教室から駆けだしていった。

「唯笑っ……」

 引き留める声が届いてたのかどうか。唯笑は振り返らずに走り去った。
 拳を握りしめて立ち尽くす智也に、かおるが静かに近づいた。
 智也は面を上げて、そばに立つかおるを見つめた。咎めようとする気配は、かおるにはなかった。ただじっと、智也に眼差しを注いでいた。

「かおる……どうして……? 帰ったんじゃ……」

「うん……やっぱり、一緒に帰りたいなって思って、引き返しちゃったんだ。下で待ってたんだけど、遅いから様子を見に来たら……」

「そうか……」

 かおるの説明を聞きながら、智也はなぜそんな質問をしたのかと悔やんだ。まるで、この場に居合わせたことを責めているようじゃないか。

「かおる……今のは……」

「うん……わかってる」

「え……?」

 思いがけない遮られ方をして、智也は戸惑い気味にかおるの顔を覗き込んだ。
 かおるは蒼白な面持ちで、唇を噛んでいた。

「智也を想う今坂さんの気持ちも……、智也が今坂さんを大事に想う気持ちもわかる……。わかってるの……だけど……」

「かおる……」

「だけど……やっぱりつらい……。つらいよ……」

 そう云うと、こらえきれず、かおるの瞳から涙がこぼれた。
 静かに落ちるその雫を、智也は為す術もなく見つめていた。

     5

 家に帰ると、智也は着替えもせずにソファに座り込んだ。我知らず、深いため息が口をついて出る。もう7時近い時間だったが、食事のことを考える気にもならなかった。
 あのあと、智也とかおるは一緒に学校を出て、帰路に就いた。
 いつもと同じように駅までの道を並んで歩き、いつものように同じ電車に乗る。
 だが、ふたりの間に会話はなく、終始うつむき加減で、互いの目を見ることさえ避けているようだった。
 やがて、電車がかおるの降りる駅に近づいた。

「じゃあ……」

「あ……うん、またな」

 軽く頭を下げて、かおるが電車を降りようとする。智也は適当な言葉も見つけられないまま、その姿を見送ろうとしていた。そのとき。
 きゅっ……と、智也の手が握られた。

「かおる……?」

「……」

 かおるは何も答えず、うつむいたまま、智也の手を握っていた。しかし、発車のベルが鳴ると、一瞬、智也に切ない眼差しを向けたあと、手を離して電車を飛び降りた。
 走り去る電車を振り返ることなく、改札に向かって歩くかおるの背中を、智也は茫然と見送った。
 そして、今。智也はぼんやりと自分の手を見つめていた。
 かおるのぬくもりが、まだそこに残っているような気がする。
 あの短い一瞬で、かおるが伝えたかったものがなんなのか、智也にはわかった。
 切なさと痛みと心細さと。二度とそんな想いはさせない、と約束したばかりなのに。
 もう一度深いため息が、智也の口から漏れる。
 結局、唯笑との絆を諦めて、かおるを安心させてやるしかないのだろうか。詩音はほかの答えを見つけられるはず、と云ってくれたが、智也にはほかにどうする術も浮かばなかった。
 頭を抱え、三度目の吐息をついたとき、電話の音が響いた。

「……」

 着信ランプの点滅を、智也はしばらくの間、黙って見つめていた。
 電話は鳴りやむ気配がない。
 智也はおそるおそる受話器を取り上げ、かすれる声で答えた。

「……はい、三上です」

「あ……」

 相手が、電話の向こうで息を飲むのがわかった。自分が受話器を取るのに勇気を必要としたように、彼女も電話をかけることに迷い抜いたに違いない。

「智ちゃん……」

「唯笑……」

 互いのことを確認したあとは、沈黙だけが支配した。
 唯笑が話を切り出す勇気を振り絞っていることを知りながら、ただそれを待っている自分を、智也は卑怯だと感じていた。

「智ちゃん……その……今日はごめんね、ほんとに……」

「……」

「音羽さん、大丈夫だった……?」

「……ああ……」

「そう……よかった……」

 再び沈黙。互いの息づかいだけが、聞こえてくる。
 そして、もう一度口を開いたのは、やはり唯笑のほうからだった。

「ねえ……智ちゃん……」

「ん……?」

「唯笑たち……、もう……一緒にいないほうが……いいんだよね……」

「……」

「一緒にいないほうが……いいんだよね……」

 震える声で繰り返す唯笑に、智也は答えられなかった。
 それでいいのか、と云いたかった。けれど、そうやって唯笑をつなぎ止めて、自分が何をしてやれるというのだろう。智也には、今の自分はただ唯笑を縛る痛みにしか過ぎないように思えた。
 ――それとも、唯笑は否定してほしくてそう云ったのだろうか?
 そうだとしても、同じことだ。唯笑にしてやれることが何もない智也に、口にできる言葉はなかった。

「……ごめん。また変なこと云っちゃった……」

「唯笑……」

「智ちゃんのこと、困らせてばっかりだねぇ、唯笑は。彩ちゃんに怒られちゃうな」

「……!」

 何気なく呟かれたその言葉に、智也は文字どおり、息も止まるほどの衝撃を受けた。
 しかし、唯笑はそんな智也の様子には気づかないようだった。

「じゃあ、これで……。ごめんね、ほんとに」

「……」

「おやすみ、智ちゃん」

 電話が切れたあとも、智也は受話器を持ったまま立ち尽くしていた。
 彩花のことを、思い出していた。
 彩花は、いつまでも3人一緒だと云った。
 それは、唯笑の気持ちを無視した、傲慢な言葉だったのだろうか?
 ……違う!
 俺たちは、3人でいるのが自然だったんだ。なぜなら……。
 智也は立ち上がり、家を飛び出した。

     6

「ど……どうしたの、こんな時間に?」

 目を丸くして、かおるは玄関に立つ智也を迎えた。
 走り通しで来たために息を弾ませていた智也は、呼吸を整えると、真剣な面持ちでかおるを見た。その目の色に、かおるは鼓動が早くなるのを感じた。

「……悪い。話が……あるんだ」

「話……?」

「ああ……どうしても……会って……話したかった……」

「……」

 かおるは一瞬、唇を噛んでうつむいたが、すぐに笑顔を作って顔を上げた。

「わかった。とりあえずあがって」

「ああ」

 廊下でかおるの母に会い、智也は挨拶をした。彼女も驚いて目を丸くしたが、あえて追求はせず、いつも通りにこやかにお茶を入れてくれた。父親が不在だったのは、智也にとってはラッキーだったかもしれない。

「今坂さんのこと……だよね」

 智也が珈琲に口をつけるのを待って、かおるは問いかけた。玄関で智也の目を見たときから、かおるの心臓は高鳴ったままだった。

「ああ。……だけど、その前に」

 カップを机に置いて、智也はかおるのほうに面を向けた。
 真剣なその眼差しは、かおるをひどく不安にさせた。
 ――智也は、別れを告げに来たのではないのか。
 かおるにはそう思えたからだ。

「かおるに、謝らなきゃいけない」

「謝る……? どうして……?」

 かおるの動悸は、ピークを迎えていた。声が震えているのが自分でもわかる。智也の言葉を聞くのが怖くて、いっそ耳をふさぎたい気持ちになった。

「もう……悲しませたりしないって、約束したのに……、俺がいつまでも迷ってるせいで、かおるのこと傷つけた……。ごめん……」

「あ……」

 安堵のあまり、かおるは大きく息をつきそうになった。
 智也の誠実さが、嬉しかった。

「ううん、私のほうこそ、自分勝手なことばっかり云って……」

 笑顔で首を振りながらそう答えたとき、かおるは新たな不安にとらわれた。
 それはまだ、本題ではないのだ。
 こうして会いに来たのは、迷った末、智也が答えを出したからに違いない。それではその答えとは、なんなのか……?
 再び笑顔を凍らせたかおるを、智也はじっと見つめた。そして、小さく、優しく微笑んだ。

「智也……?」

「双海さんにさ、云われたんだ。俺と唯笑と彩花の3人がいつも一緒にいたのは、本当に自然なことだったのかって。唯笑はその頃から、痛みを抱えていたんじゃないか……って」

「……」

「その通りかもしれない、と思った。俺の自分勝手な思い込みで、唯笑の本当の気持ちなんか知ろうともしてなかったんじゃないかって」

 智也はそこで言葉を区切り、視線を落とした。珈琲カップに手を伸ばし、もう一口すする。
 かおるは胸を押さえつつ、じっと話の続きを待った。
 ややあって、智也は下を向いたまま、ぽつりと呟いた。

「でもさ、やっぱり違うと思うんだ、それは」

「……」

「痛みは、確かにあったと思う。それは唯笑だけじゃなくて、彩花にも、……きっと俺にも、あった。誰かといれば、傷つかずにはいられない。悲しいことだけどな」

「うん……」

 その痛みに耐えられず、別れを選んだ過去を思い出し、かおるは小さく頷いた。
 今また、同じ痛みを繰り返すのだろうか? かおるは怯えたような眼差しを智也に向けた。しかし智也は、やはり優しげに微笑んでいた。

「それでも、俺たちは一緒だった。一緒にいるのが自然だったんだ」

「……」

「なぜなら、それが俺たちの望んだことだったからだ」

「望んだ……こと……?」

「そう」

 智也は強く頷いた。かおるは一瞬、胸の痛みも忘れ、その勢いに飲まれた。

「俺たちは、共にありたいと望んだ。そばにいたいって、そう考えたんだ。どんな痛みがあっても。だから、一緒にいるのが自然だった」

「……」

「そしてそれは、今でも変わらないって、信じてる」

「……」

 だから、私と別れて今坂さんを選ぶの……? 震える唇で、かおるはそう呟こうとした。
 しかし、智也の言葉のほうが、先だった。

「俺は、かおるを愛してる」

「あ……」

「だけど、だからって唯笑を失うのが当たり前だなんて思えない。もちろん、かおると別れる気もない。……それは俺のわがままか?」

「それは……」

 身勝手な台詞、とはかおるは思わなかった。けれど、それはやはり無理なことではないのだろうか。幼馴染みの3人ならできたかもしれないが、……よそ者の私が割り込んでしまったから。
 言い淀むかおるの胸中を察したのか、智也は少し語調を強めた。

「俺は諦めない。いつか一緒にいられなくなるとしても、それはこんな形じゃないはずだ。痛みを乗り越える方法が、離れることだけだなんて、俺は認めない……!」

「智也……」

 すでに、かおるの胸の痛みはなかった。
 けれど、今度は違う意味で、心臓が高鳴っていた。
 智也の決意を、自分はどう受け止めるべきなのか。迷いを示すように、また自分の気持ちを確かめるように、かおるは一言一言、ゆっくり呟いた。

「うらやましいな……」

「え……?」

「そんな風に信じられる絆があるのって、うらやましい……。それと……やっぱり、ちょっと妬けるよ」

「かおる……」

「でも……、でもね、智也が大切に想っているひとを、私も大切にしたい。そう思う……これも、本当」

「……」

 唯笑を信じているのと同じくらい、自分のことを信じてくれているからこそ、智也はこの話をしたのだ。かおるにも、それはわかった。
 これまで、自分は傷つくのが怖くて、絆が失われるのを諦めていたような気がする。絆がないから、と口にしたことがあったが、本当は確かにあった絆を自ら断っていたのではなかったか。今の智也のように、傷つくことも、傷つけてしまうことも覚悟の上でぶつかっていけば、違う結末もあったのかもしれない。
 今度こそ、痛みから目をそらして逃げることはしたくない。かおるはそう決心した。

「……今坂さんと、話がしてみたいな」

「唯笑と……?」

「うん。いいかな」

 何かを吹っ切ったようなかおるの笑顔をしばし見つめたあと、智也もまた笑顔で頷いた。

     7

 翌日の放課後。智也とかおるは、教室で唯笑が学祭実行委員の打ち合わせから戻るのを待っていた。
 智也は一度は決意したものの、やはりそれは身勝手な理屈に過ぎないのではないかという思いが拭えず、唇を噛んでいた。
 一方、かおるはすでに迷いのない様子で、静かに机に腰掛けていた。
 どちらも、言葉は少ない。
 静かな教室に夕日が差し込み始めた頃、廊下を歩いてくる足音が聞こえ、教室のドアが開かれた。

「あ……」

「お疲れさま」

 かおるが屈託のない笑顔で、唯笑に声をかける。
 唯笑はぎこちなく笑みを返しつつ、鞄を取りに教室の中へ入ってきた。

「どうしたの? ふたりとも……」

 唯笑の問いかけに、かおるは黙って智也のほうを見た。智也は頷いて立ち上がり、唯笑に近づいた。

「話が……したいんだ」

「唯笑と……?」

「ああ」

 唯笑は戸惑った――というより、むしろ怯えた様子で、智也とかおるの顔を交互に見た。そして、やや後ずさるようにしながら、作り笑いを浮かべた。

「ごめんね、今日はちょっと用事があって、急いでるから」

「唯笑……」

「ほんっとごめん。じゃあ、またね」

 鞄を掴み、唯笑はそそくさと背を向けてドアに向かった。
 その背中に、黙って智也と唯笑のやり取りを聞いていたかおるが、声をかけた。

「逃げるの?」

「え……」

 唯笑の足が止まる。振り返ると、かおるが立ち上がって唯笑を見据えていた。
 そのかおるの姿は、智也の目にも挑発的に見えた。

「おい、かおる、何を云って……」

 智也の制止を、かおるは無視した。ドアのそばで立ち尽くす唯笑に近づいていく。
 唯笑はいつもと違うかおるの態度に戸惑いながらも、視線をそらさずに答えた。

「逃げるって……どういうこと?」

「言葉通りの意味よ」

 かおるの態度はにべもない。さすがに唯笑も気色ばんで眉をひそめた。

「変なこと云わないでよ。唯笑がどうして逃げなきゃいけないの」

「そう? だったらひとつ答えてよ」

「?」

「なんで、今まで智也のそばにいたの?」

「なっ……」

 唯笑と智也は、同時に息を呑んだ。
 大きく見開いた唯笑の瞳に、涙が浮かんできた。しかし、泣くまい、という強い決意を面に出して、唯笑は唇を噛みしめた。

「なんでって……」

「智也が彩花さんを好きだから諦めて、今度は智也が私を好きだから諦めるんでしょう? だったら、どうして今まで一緒にいたの? 智也が彩花さんを好きになった時点で、離れればよかったじゃない」

 かおるは容赦のない言葉を続けた。智也は止めることもできず、ただ茫然とふたりを見ている。唯笑は耐えきれず、悔し涙をこぼした。

「ひどい……。ひどいよ、どうして音羽さんにそこまで云われなきゃならないの?」

「別に。私は不思議だから訊いてるだけよ。どうして智也から離れなかったの?」

「どうしてって……」

 そこで唯笑は、智也のほうに視線を向けた。しばしじっとその顔を見つめる。そして、強い意思を表して、かおるを見返した。

「……唯笑は……唯笑は、智ちゃんと一緒にいたかったの! それだけだよ!」

 薄暗くなった教室に、唯笑の叫びが響く。
 唯笑はそのまま唇を引き結んで、かおるを睨み続けた。が、ふいに優しく微笑みかけられ、狼狽することになった。

「だったら、その気持ちを大事にしなよ」

「え……」

「そばにいるのがつらくても、それでも、そばにいたいんでしょう?」

「音羽さん……」

「少なくとも、智也はそう思ってるよ」

 智也のほうを振り返りつつ、かおるはそう云った。唯笑もおそるおそる智也の顔を見る。
 智也は微笑みながら、ふたりのそばに歩いていった。

「ね」

「ああ」

「智ちゃん……」

 唯笑の涙に濡れた瞳を、智也はじっと見つめて頷いた。

「身勝手な台詞だけど……俺は、唯笑を失いたくない。そばに、いてほしいよ」

「……」

 唯笑の瞳から、涙が次々とこぼれる。けれど、その面には、笑顔が浮かんできていた。

「ほんとに……? 智ちゃんの中に……まだ、唯笑の居場所はあるの……?」

「……ああ」

 もう一度、智也が頷く。唯笑は喜びに頬を染めたが、はっと何かに気づいたように、かおるを振り返った。かおるは微笑んだまま、小首を傾げた。

「音羽さんは……それでいいの……?」

「もちろん。どうして?」

 屈託なく笑うかおる。そして、右手の人差し指をずいっと唯笑に突きつけて、片目をつぶって見せた。

「負けないよ」

 唯笑は目を白黒させてその指とかおるの顔を交互に見たが、ややあって満面の笑みで頷いた。

「……うんっ」

     *

 それから、3人は一緒に学校を出た。
 夕陽がそれぞれの影を長く落とす中、唯笑が少し前を歩き、智也とかおるは並んで歩いていた。
 ぴょこぴょこと跳ねるように歩く唯笑の後ろ姿を見ながら、智也が小さな声で呟いた。

「これでいつも通り……かな」

 その呟きには安堵と、そしてわずかな悔いがあった。本当にこれでよかったのか。そう口にすることはできなかったけれど、迷いはやはりすべて振り切れるものでもなかった。
 かおるは智也の横顔に目を向け、小さく微笑んだ。

「いつも通り……いつもと同じ……そんなのは、ないんだよ」

「え……?」

 智也は思わず足を止めて、かおるの顔を覗き込んだ。
 かおるの笑みは優しく、そしてほんの少し悲しげだった。

「智也が教えてくれたんだよ? 日常なんて、どんどん変わっちゃうの。自分自身の勇気で変えることもあれば、どうしようもない力で、無理矢理変えられてしまうこともある……。昨日と同じ日なんて、ないの」

「かおる……」

「だから……」

 そっと、かおるは智也の手を握った。きゅっと力を込めると、暖かいぬくもりが伝わってくる。大切な何かが。

「だから、誰もが、自分の気持ちを大事にしなきゃいけないと思う。願うことさえ諦めてしまったら、何も信じられなくなってしまうから」

 智也の手を握る力が、わずかに強まる。かおるはかすかに涙を浮かべていたかもしれない。

「大好きなひとと、一緒にいたい。その想いは、絶対諦めちゃいけないの。そうでしょ」

「……」

 智也はかおるの手を優しく握り返した。微笑みながら、かおるに頷いてみせる。

「そうだな。かおるの云うとおりだ」

 その言葉に、かおるは花のような笑顔を浮かべた。
 無言で見つめ合うふたり――と、そのとき。

「もうっ、遅いよぉ。なにやってるの〜?」

 唯笑の声が届いた。いつの間にかだいぶ先に行ってしまった唯笑が、振り返って手を振っている。
 智也とかおるは苦笑しつつ、足を速めて唯笑に追いついた。

「悪い悪い」

「ほんっとらぶらぶだねぇ。見てるほうが恥ずかしいよ」

「バーカ」

 それぞれが痛みを抱えつつ、それぞれが大切な想いを抱いて歩く。
 昨日とは違う今日に、変わらない想いを繋ぐために。





2001.6.14


あとがき

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