ドアを開ける前から、悪い予感があった。
外は、激しい雨が降り続いている。このままいつまでも晴れることはないのではないか、そんな風に考えてしまうほど、真っ黒な雲が空を覆っていた。
なんとはない肌寒さに、かすかに身を震わせたとき、玄関のベルが鳴った。
すでに夜更けといえる時間だったが、家にはほかに誰もいない。胸騒ぎを抱えながら、彼女は玄関に出て、ドアを開けた。
そこには、雨に打たれるまま立ち尽くす、一人の少年がいた。
少年はうつむいていて、表情を見ることはできなかったが、それが誰か、彼女にはすぐわかった。わからないはず、なかった。
「……! どうしたの、こんな時間に、そんな格好で……!?」
「……」
少年は答えない。ただ彫像のように、雨の中、佇むだけだった。
「……とにかく、中に入って。風邪引くわよ、もう」
自分もまた雨に濡れることなど厭わず、彼女は少年が立つ門まで小走りに出た。
家に入れようと、彼女が少年の腕を掴む。その瞬間、少年はびくっと全身を振るわせて、彼女の腕を振り払った。そして、驚く彼女に、怯えるような視線を向けた。
彼女は、その少年の視線をまっすぐ受け止めた。
降り続く雨が、彼女の長く艶やかな黒髪を、頬に張り付かせる。彼女は手でその髪をかき分けつつ、ゆっくりと微笑んだ。
「……!」
気がつくと、彼女は少年に抱きしめられていた。――いや、少年が彼女の胸にすがりついていた、と云うほうが正しかったかもしれない。少年は彼女の腕の中で、泣きじゃくっていた。
「真冬……俺は……俺は……!」
彼女――藤村真冬は、少年を抱きしめる力を強め、暖めるように何度も何度もその体をさすった。そして、何度も何度も繰り返し、呼びかけ続けた。
「どうしたの? 何があったの……? 信……」
降り続く、雨――。
*
……最悪の目覚めだった。
真冬は知らず知らず流していた涙をぬぐいつつ、上体を起こした。全身をじっとり濡らした寝汗が気持ち悪い。シャワーを浴びなければ、とぼんやり考えながら、深いため息をついた。
(また……あのときの夢……)
何度同じ夢を見ただろう。あれからもう、三年近く経つというのに。
重い体を引きずるようにして、真冬はバスルームに入った。火傷しそうなほど熱いシャワーを浴びていると、少しずつ頭がはっきりしてきた。
バスルームを出て、鏡の前で髪を乾かす。長くボリュームのある髪の手入れは、なかなか時間を食うものだった。
何度、切ってしまおうと思ったかしれない。だけど、どうしてもできなかった、その理由は……。
堂々巡りに陥りそうになる思考を振り切るため、真冬は大きくかぶりを振った。
「慣れないものね、いつまで経っても」
鏡の中の自分にきつい眼差しを向けて、そう呟く。
そのあとはいつもどおりの朝だった。リビングに向かい、トーストを焼いて、珈琲を入れる。食卓には真冬一人だったが、それもいつものことだ。食後は再び洗面所に戻って歯を磨き、自室で制服に着替える。シャワーのせいでいつもより準備に時間はかかったが、相当早く目覚めてしまったため、家を出た時刻は普段とほとんど変わらなかった。
外は、雲一つない快晴だった。
あの日の雨は、二度とやまないかと思ったのに。
真冬はまた一つ、ため息をついてしまう。
さわやかな天気とは裏腹に、重く沈んだ心を抱えたまま、真冬は通学路を辿り始めた。
「真冬先輩、こんなところにいたんですか」
「ん……ああ、鷹乃……」
屋上のベンチに腰掛けて、ぼんやりと空を眺めていた真冬は、後ろから声をかけてきた少女を振り向いた。
長い黒髪を、ポニーテールにしている。その綺麗な黒髪や、やや切れ長の瞳、そして何より雰囲気が、真冬によく似ていた。姉妹に間違われることもしばしばだ。実際、二人は姉妹のように仲がよかったが。
真冬の一年後輩、現在は浜咲学園の二年生である寿々奈鷹乃だった。
「昼休み、もう終わりですよ」
鷹乃がそう云い終わらない内に、予鈴が聞こえてきた。ほら、と鷹乃は促したが、真冬は立ち上がろうとしなかった。
「今日はもう、いいわ。そんな気分じゃない」
最初から休めばよかった、と真冬は後悔していた。教室にいたところで、何も手につかない。繰り言ばかりが浮かんでくる、そんな自分がうっとうしかった。もっとも、家にいても同じことを考えて、こんなことなら学校に行ったほうがよかった、と云っていたかもしれないけれど。
鷹乃は真冬の言葉に、一瞬、眉をひそめたが、すぐに微笑んで真冬の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、おつきあいします」
「ダメよ。あんたは私と違って優等生なんだから」
そう云って、真冬は、ニッ、と唇の端だけで笑った。猫のような印象を与える、その笑み。それになぜか鷹乃は安堵を覚えた。
「入学以来、ずっと主席の人が云うと、嫌みですよ?」
「だからこそ、鼻持ちならないんでしょ」
うっとうしげに長い髪をかき上げながら、真冬は他人事のように云った。
確かに真冬は教師受けするタイプではない。だが、そんなことは真冬も鷹乃も、気にしたことさえなかった。
「それに、もう間に合いません」
五時間目の開始を告げるベルが鳴った。真冬は苦笑するだけで何も云わず、また空に視線を戻した。
鷹乃はそんな真冬の横顔を、じっと見つめた。言葉を紡ぎ出すきっかけを一所懸命探すが、なかなか見つけられず、沈黙が流れた。
「……どうかしたの?」
結局、会話の糸口を作ったのは、真冬のほうからだった。空のどこかを見つめたまま、独り言のように、真冬は呟いた。
鷹乃は何度かためらいを繰り返しながら、真冬に答えた。
「それは……私が聞きたいことです」
「どういうこと?」
「どうって……」
「……」
「何か、あったんじゃないんですか? 元気ないです、真冬先輩……」
鷹乃の言葉に、真冬は小さく微笑んだ。
真冬がそんな風に笑ったとき、なんと答えるか、鷹乃にはわかりきっていた。
「大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけよ」
「夢……」
そうですか、といつもなら鷹乃は頷くしかなかった。真冬は心の翳りを覗かせることは滅多になかったし、あったとしても、それは本当に一瞬のことだった。どれだけ親しくなろうと、痛みを人に見せようとしない。それは心を閉ざしているわけではなく、生き方の問題だろうと鷹乃は思っていた。自分も、そうありたいと。
けれど、今日の真冬は違っていた。いつもと同じように凛とした佇まいを見せているけど、どこか痛々しいものがあって、鷹乃は口を閉ざすことができなかった。
「また……あのひとのこと……ですか?」
「……ん……」
否定とも肯定ともつかない、曖昧な返事。それこそが、肯定の何よりの証だった。
そうわかったから、鷹乃は思わず語気を強めて言い募っていた。
「もう、忘れたほうがいいです」
「……」
「真冬先輩が、そんな風に過去に縛られている必要はないはずです。……そんなの……私は……嫌です」
「……そうね」
真冬はやはり、鷹乃を見ようとしない。ただ空を見つめたまま、言葉を続けた。
「きっと、鷹乃の云うとおりだと思う」
「……」
「……雨がね、降ってたんだ」
「……え?」
「いつもいつも……雨が降ってた……。そんな気がする……」
*
天気予報どおり、その日は午後から雨になった。
体育館での練習を終え、陸上部の部室の鍵を閉めて、真冬は雨空を見上げた。
部員はすでに皆、帰らせている。全員が帰ったのを見届け、戸締まりを自分で確認するのは、部長としての務めというより、真冬の性格だった。
職員室に鍵を戻したあと、真冬は折り畳み傘を広げて、外へ出た。グラウンドに足跡を残さないよう――雨の日に荒らすと、あとの手入れが大変だ――校庭の隅を遠回りして歩き、一人、母校である中学の校門を抜けた。
季節は、春。わずかに残っていた桜が、雨で散らされていく。その様を惜しそうに眺めながら、真冬は歩いていた。
ふと、いつも通る公園の前で、真冬は足を止めた。
この公園で、よく猫を見かけた。人に慣れているようで、近づいても逃げない。真冬もミルクや食べ物をあげたことがあった。
こんな雨の中、どうしているだろう。雨をしのぐ場所はあるだろうか。
そう考えて、真冬は公園の中に足を踏み入れた。
きょろきょろと周りを見回す。こんな天気だから、そこには誰もいない。ただ一つの傘だけが転がって……。
「……え?」
違う。誰かが傘を差したまま、地面にしゃがみ込んでいるのだ。
真冬は傘の中が見える位置まで、近づいていった。
そこには、少年と猫がいた。人懐こい笑顔を浮かべた少年が、猫にパンを与えている。よく見ると、少年は猫が濡れないよう傘をさしかけていて、自分自身の背中は濡れそぼっていた。
真冬がすぐそばに立っても、猫はお構いなしに食事を続けていた。少年が気づいて、顔を上げる。そして、笑った。
「あ、藤村先輩、こんちは」
「……こんにちは、稲穂くん」
そう、真冬はその少年を知っていた。陸上部の後輩だったからだ。中学二年生の、稲穂信だった。
同じ部だと云っても、男子と女子では練習も別だし、交流はあまりない。特に真冬は男にあまり興味がなかったので、なおさらだった。だから、真冬は信とは話をしたことはあるだろうけれど、どんな人間なのか、ほとんど知らなかった。それは信も同じだっただろう。
「どうしたんですか、こんなとこで?」
屈託なく、信が笑顔で訊いてくる。真冬は「その猫が心配だった」と正直に云うのが気恥ずかしく、逆に質問で答えた。
「稲穂くんこそ。何してるの」
「俺? 俺は見たとおりですよ。こいつが雨に濡れて寒そうで、腹も減らしてるみたいだったから」
「……」
なんのてらいもなくそう言葉にできる信が、少し真冬にはうらやましかった。
自分には、少し構えて人と接することしかできないから。
そんな真冬のわずかな憂いに、信は当然気づくはずもなく、ひたすらパンをむさぼり食う猫に視線を戻した。
「しっかし、相変わらずよく食うなあ、お前は」
「……よく、ご飯あげてるんだ?」
「そうですね、帰り道だから、なんとなく」
「猫、好きなの?」
「好きですよ。藤村先輩もそうでしょ?」
再び顔を上げて、信は真冬を見た。その笑顔を、なぜか真冬はまっすぐ見られなかった。
「え……なんで?」
「なんとなく。先輩、猫っぽいし」
「……なによ、それ」
真冬は、かろうじて苦笑して見せた。
同じようなことは、これまでにも云われたことがあった。だけど、それはあまりいい意味で使われたことはなかったように思う。特にそのきつい、挑むような眼差しが。
しかし、信は変わらず、笑顔だった。
「可愛いってことですよ」
「な……」
思わず真冬は絶句した。かすかに赤面していたかもしれない。
誰かに見られたら、一頻り話題になるだろうその動揺ぶりを、真冬は即座に押さえた。眉をひそめて、咎めるような視線を信に向ける。
「生意気ね」
「すみません」
信にはやはり屈託がない。真冬はため息で、つい浮かんだ微笑みを隠した。
いつの間にか猫は食事を追え、顔を洗っている。信が手を伸ばして喉を撫でると、ごろごろと気持ちよさそうに鳴らした。
「……さて、それじゃ、俺は帰るぞー。またな」
そう云って、信は傘を猫の上に置いたまま、立ち上がった。未だやまない雨が、信の体を打っていく。
「じゃあ、失礼します。お疲れさまでした!」
最後だけ体育会系の挨拶をして、信は駆け出そうとした。
猫が濡れないよう、傘を残して走って帰ろうとするその背に、真冬は声をかけずにはいられなかった。
「あ……ちょっと、待って」
「え?」
振り向いた信に、小走りに近づくと、真冬は傘をさしかけた。目を丸くして見つめる信から、目をそらす。
「送ってあげるわ。風邪引かれると、部長として困るから」
照れ隠しのため、ぶっきらぼうな口調になる。その真意に気づいているのかどうか、信は破顔して、真冬の傘を取った。
「ラッキー。ありがとうございます。あ、傘は俺が持ちますから」
「あ……うん」
それからは言葉少なに、雨の中、二人は肩を寄せ合って帰った。
別れ際、やはり信は真冬が濡れないように気を遣っていたことを、真冬は彼の濡れた肩で悟った。
それから、真冬と信は、なんとなくその公園で会う機会が増えた。
特に待ち合わせをするわけでもなければ、部活のあと、約束して一緒に出るわけでもない。ただいつもどおり真冬が部室を締めて学校を出て、公園に差し掛かると、信が猫と遊んでいる。その姿を見て真冬も公園に入り、一緒に猫を構って、公園の前で別れる。
そんな日常を、いつの間にか真冬は楽しみにしていた。
「じゃあ、またな」
信が猫にそう云って、立ち上がる。猫は軽くにゃお、と答えて、歩き去る二人を見送っていた。
信は公園の出入り口で振り返り、苦笑を浮かべた。
「結構ドライな奴ですよね。絶対ついてきやしない」
「……野良としての、ぎりぎりのプライドかしら?」
「あれだけ食っといて、プライドもないもんだ」
信の笑みにつられて、真冬も笑顔を浮かべる。
その笑顔を少し眩しそうに見ていた信は、猫を振り返った真冬の表情がふと暗くなったことに気づいた。
「……藤村先輩?」
「……怖いのかも、しれないわね」
「怖いって?」
「信じることが」
その優しさを信じて手を伸ばして、本当にいいのだろうか。
憐れみなら、いくらでも与えられる。
だけど、手放しの信頼に応えるのは、誰にでもできることじゃない。
重荷だと思われれば、手を振り払われるかもしれない。
だから。怖い。
「……」
信は束の間、言葉を失って、真冬の横顔を見つめた。だがすぐに、いつもの人懐こい笑顔を浮かべた。
「あの猫が、そんなことまで考えてるはずないですよ」
「……そうね」
真冬も苦笑して、信を見上げた。信は微笑んだままだった。
その笑顔にほっとさせられると同時に、真冬は、自分でも説明できない胸騒ぎを覚えていた。
――そう、怖いから。
「じゃあね、また明日」
「はい、お疲れさまです」
笑顔で手を振って、信は少し駆け足で去っていった。
真冬はその背を見送りながら、軽くため息をつく。
それが日常。あの雨の日から始まった日常。
そして、その日常が崩れるのも、やはり、雨の日だった。
その日、真冬は下校するのがいつもより遅くなった。夏の大会について、顧問と打ち合わせがあったからだ。
さらに悪いことに、夕方から急に雨が降り始めていた。折り畳みを置いてあったおかげで、雨に打たれる心配はなかったが、どんよりと曇った空を憂鬱げに真冬は見上げた。
(遅くなったから……もう、帰ったかな。突然雨になって、大丈夫かしら)
憂鬱になったのは、雨のせいではなかったかもしれない。真冬はまだそのことに、気づいていなかったけれど。
白い傘を揺らして、いつもの公園までやってくる。中を覗いてみたが、少年も、猫の姿もなかった。
真冬は小さくため息をついて、公園を出た。
まだ帰ったばかりだろうか。真冬のその想像は、当たっていた。そのまましばらく歩いたところで、真冬は、立ち尽くす信を見つけた。しかし。
(……?)
明らかに、様子がおかしかった。
信は雨の中、傘も差さず、ただそこに佇んでいるのだ。鞄が地面に転がり、水たまりに浸っている。信は何かを腕に抱えているように見えた。
「稲穂くん、どうし……」
真冬はそう云いながら、信に駆け寄った。そして、振り向いた信の姿に、言葉をなくして動けなくなった。
信は、泣いていた。雨でびしょ濡れになった頬を、それでも雨とは違うとわかる熱い雫が、とめどなく流れていた。
そして、信の腕の中には。赤い血に染まった猫が、抱かれていた。
「……」
真冬は震える足取りで、ゆっくりと信に近づいていった。おずおずと手を伸ばして、猫に触れる。それはもう、冷たくなっていた。
「……俺の……せいなんです……」
地の底から響くような声だった。
真冬は視線をあげ、信の顔を見た。信は固く目をつむり、それでもまだ涙はあふれ続けた。
「いつものように……公園にいて……、雨が……降ってきたから……、傘を買ってこようと思って……走って……」
「……」
「そしたら……こいつ……ついてきて……、俺……気がつかなくて……、振り向いたら……車が……!」
信の体が震える。動かなくなった猫を、強く胸に抱いた。血が、信の制服に赤い染みを作っていった。
真冬の体も、震えていた。信と同じように、大粒の涙が、切れ長の瞳から流れていた。
「俺の……せいです……」
「違う……」
「俺と……会わなければ……こいつ……死ななかった……。俺が……」
「違う……!」
傘が、地に落ちた。降りしきる雨の中、くるくると白い傘が回った。
真冬は、信を抱きしめていた。
いつも屈託なく笑い、なんのてらいもなく、素直に自分の気持ちを口にする少年。そんな彼の涙が、真冬の胸を突いた。
崩れ落ちる信の心を、強く抱くことで、押しとどめようとするように。
真冬は強く強く、信の体を抱いた。
信は真冬の腕の中で、声を放って泣いた。
降り続く、雨――。
*
「……」
なにも云えず、鷹乃は真冬の横顔を見ていた。
真冬の目に、今は涙はない。ただ変わらず、空の一点を見つめ続けていた。
その姿が、鷹乃にはつらかった。いっそ慟哭してくれれば、かけられる言葉もあるだろうに。
けれど、やはり真冬はいつもと同じく、静かに微笑むだけだった。
「だから……鷹乃の云うとおりだと思う」
「真冬先輩……」
「だけど……だけどね。あの雨の日の涙を、忘れることなんてできない」
「……」
「できないのよ……」
そう繰り返したとき、初めて、真冬の頬を涙が流れた。一雫だけ。
鷹乃は耐えられず、強く目を閉じて面をそらした。
真冬はただ空を見つめていた。あの日のことが夢のように思える、蒼く澄んだ空を。
2001.11.15
あとがき
真冬過去編その1です。
書き始めてから気づいたんですが、私、悲恋ものって書いたことないじゃん。大丈夫かな(^^ゞ。
この頃の真冬って可愛いかも……と自分で考えたりするバカ者ですが、よろしくおつきあいいただけると嬉しいです。まったりした更新ペースになりそうですが……。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。