冬物語II 〜夏〜

 白い部屋だった。
 壁も、床も、天井も、カーテンも、すべてが白い。
 くすんだ白は灰色がかった印象を与え、むしろ沈鬱に思えるものだが、今、その部屋は暖かく穏やかな雰囲気に満ちていた。それは、開け放した窓から差し込む、初冬の柔らかい光のおかげだったのかもしれない。――いや。
 その白い部屋に、同じく白いベッドがあった。白いシーツ、白い掛け布団。そこに上体を起こして座り、窓の外を眺めている、白い肌の女性。
 彼女は実際には、もうじき四十に届こうという年齢である。だが、かすかに微笑んで青空を見つめているその横顔は、少女のような無垢さを湛え、とても年若く見えた。
 この部屋の穏やかな空気は、やはりこの女性の存在故なのではないか。そんな風に思えるほど。
 彼女はもう長いこと、飽きもせず冬の空を見上げている。
 その空が徐々に黄昏の青さに染まろうとする頃、ノックの音が響いた。

「……はい」

 そこにドアがあったことをやっと思い出したように、彼女は面を向けた。そして、ドアを開けて入ってきた二人の黒髪の少女を認め、再び穏やかに微笑んだ。

「真冬。……鷹乃ちゃんも、来てくれたのね。ありがとう」

 その言葉に真冬はニッと笑みを返し、鷹乃は深々とお辞儀をした。

「こんにちは。お久しぶりです」

「うん」

「お母さん、起きてたのね。大丈夫?」

 云いながら、真冬は彼女のそばに近づいた。
 そう、その女性の名は藤村千尋――真冬の母だった。

「平気よ。今日は天気もよくて、暖かかったから」

「そう、よかった。……あ」

 開け放した窓に気づいて、慌てて真冬は駆け寄って窓を閉めた。カーテンを引きながら、千尋を軽く睨む。

「だからって、こんな時間まで窓開けっぱなしにしてちゃダメじゃない。体が冷えたらどうするの」

「……だって、もうじき星が見えるのに」

「ダ・メ・で・す」

 じろっと真冬に睨まれ、千尋は首をすくめつつも、頬を膨らませて見せた。
 そんな子供っぽい仕草が、とても似合っている。真冬とどちらが親かわからない――そう考えて、鷹乃は思わずクスッと笑ってしまった。

「――ほら、また鷹乃に笑われちゃったじゃない」

「あ……ご、ごめんなさい」

「真冬の小言が多いからよねー、鷹乃ちゃん」

 その言葉に、鷹乃はまた笑ってしまいそうになる。だが、真冬のきつい視線を受けて、慌てて表情を強ばらせた。

「鷹乃もそう思ってるの?」

「い、いえ、とんでもないです」

「怖い先輩ねー」

「……もう、お母さんったら!」

 怒った顔を作ろうとしたが、我慢できず、真冬も吹き出してしまった。
 白い部屋に、三人の女性の笑い声が響いた。
 ここだけは冬を通り越して春が来たような、そんな暖かさに満ちていた。



 鷹乃は今、出てきた建物を振り仰いだ。
 冬の陽は短く、すでに辺りには夜の帳が落ちている。その闇の中に屹立する白いビルは、何か不吉なものを思わせた。
 なぜだろう、あの部屋の白さは、とても暖かで穏やかだったのに――。

「どうしたの、鷹乃」

「あ……いえ」

 足を止めてしまった鷹乃に気づき、真冬が振り向いた。鷹乃の視線を辿り、同じように白いビルを見上げる。その瞳にふと翳りが差した。

「こういう云い方はよくないけど……」

「……」

「病院の雰囲気って、好きにはなれないね」

「……はい」

 二人が見上げているビルは、総合病院だった。
 千尋はもうずっと長い間、そこに入院している。いつからなのか、真冬でさえすぐには答えられないほど。
 生まれたときから母と二人きりで暮らしていた。そして、自分で覚悟していたよりずっと早く、一人きりで暮らすことになった。
 そんな過去を思い出しているのか、わずかに唇を噛みしめる真冬の横顔に、鷹乃はそっと視線を向けた。

「お母様は……その……まだ……」

「……うん」

 ため息混じりに、真冬は頷いた。そのまま踵を返して歩き出す真冬のあとを、鷹乃は追った。

「最近は、だいぶ調子いいみたいだけど……それでも、油断できないから……」

 歩きながら、淡々と真冬は呟いた。
 鷹乃もまた暗い面持ちでうつむいていたが、そんな気持ちを振り切るように、無理矢理弾んだ声を出した。

「でも、ほんと、素敵なお母様ですよね」

「……そう?」

 苦笑を浮かべて、真冬は首を傾げた。鷹乃の気遣いをありがたく思いつつ、いつもの調子を取り戻した。

「いい年して、いつまでも子供みたいなんだから」

「そこがいいんじゃないですか。お母様の笑顔は、見ているだけでこっちまで幸せになれるみたいで……本当に素敵です」

「……そう、だね」

 ぽつりと呟いて、真冬は足を止めた。
 鷹乃が怪訝そうに振り返ると、真冬は小さく微笑んでいた。
 その笑みはどこか切なく悲しげで――、そして、どこか千尋の微笑に似ていた。

「真冬先輩……?」

「母がどうしてあんな風に笑えるのか……、私には、ずっとわからなかった。だけど、今なら……少しだけわかる気がする……」

「え……?」

「……」

     *

 夏が近づいていた。
 練習を終えても陽は高く、明るい。まだ今は夕方になると涼しいが、もうじきむせかえる熱気に満たされるようになるだろう。
 真冬は軽く目を細めて、澄んだ青空を見上げた。

「部長、お先に失礼しまーす」

「あ……、うん、お疲れさま」

 真冬の横を、部員たちが挨拶をしながら通り過ぎていく。
 その中にある少年を見つけて、真冬は誰にもわからないほどわずかに、頬を強ばらせた。
 少年もまたその視線に気づいた。だが、彼はなんの屈託もない様子で、真冬に笑顔を向けた。

「お先です、藤村先輩」

「……お疲れさま、稲穂くん」

 信は軽く頭を下げて、友達と談笑しながら帰っていった。
 その後ろ姿が見えなくなってから、真冬は初めて軽くため息をついた。

「……バカみたい、私」

 呟いて、部室の鍵を閉める。そのままうつむき加減で、真冬は歩き出した。
 ……あの雨の日。
 冷たくなった猫を抱いて立ち尽くす信を、思わず真冬は抱きしめていた。そうしなければ、彼の心さえも、崩れていくように思えた。
 けれど、そのあと。信は真冬が拍子抜けするほど、何も変わらなかった。さすがに翌日は照れ臭そうに頭を下げたものの、あとはやはりいつもどおり笑い、いつもどおり生活していた。
 特に真冬を避けるわけでも、逆に馴れ馴れしくしてくるわけでもない。部活の先輩と後輩として、ごく普通の態度をとり続けていた。

「当たり前よね……先輩と後輩だもの」

 もうやめよう、と真冬は考えた。心配するほどのことではなかった、それだけだ。何となく胸がもやもやするのは、あれだけ大騒ぎして、すぐにケロッとしてるのが癪に障るだけ。そう、それだけ。
 真冬は校門をくぐり、家路を辿り始めた。だが、無意識に選びかけた道筋ではっと足を止め、踵を返した。
 そう、ひとつだけ変わったことがあった。
 真冬の通学路。
 あの事故の現場を通るのがつらくて、真冬は遠回りして学校へ通っていた。
 公園に行く理由もない。信との接点も……すでにない。
 自分でも気づかない内に、真冬は再度ため息をついていた。



 そしてまた、雨の日がやってくる。
 練習が終わるまではかろうじてもっていたが、真冬が部室の鍵を閉める頃には、空を埋め尽くす暗雲から、ぽつぽつと雨の滴がこぼれ始めた。

「また……雨、か」

 真冬は教室へ置き傘を取りに戻った。あの日と同じ白い折り畳み傘。それを取って出てきたときには、雨はもう本降りになっていた。
 傘を差した真冬はいつものように遠回りしようとして――、ふと、足を止めた。
 あの公園に行ってみよう。突然、そんな考えが浮かんだ。
 あの日と同じ雨の中、もう誰もいない公園をその目で確認すれば、もう終わったことだと気持ちを整理できるかもしれない。私ひとりがいつまでもこだわっているのは嫌だ。
 硬い表情で、真冬は公園へ向かった。
 十分足らずで、目的の場所へは到着してしまう。
 真冬は傘で顔を隠すようにしながら、おずおずと公園の中を覗き込んだ。
 公園には、やはり誰もいない。そのはずだった。なのに。

「……うそ」

 刹那、真冬は目を見開き、息を飲んだ。
 公園の真ん中にある、大きな樹。その陰で雨宿りをしながら佇んでいる少年が、いた。
 いつも屈託のない笑みが浮かんでいる表情には、今はほんの少し憂いがあった。
 視線は、まっすぐ一脚のベンチに向けられている。少年と真冬と、あの猫との約束の場所だったベンチに。
 真冬は声をかけることも、公園の中に入ることさえできず、ただそこに立ち尽くして少年を見つめていた。
 やがて、少年は軽くため息をつき、立ち去ろうと公園の入口を振り向いた。そして、そこに立つ白い傘と、その下の黒い髪に気づき、先ほどの真冬と同じように目を丸くした。

「……藤村先輩」

「……」

 真冬は、答えられない。どんな表情をすればいいのかも、わからなかった。ただじっと、少年――信の目を見つめ返した。
 それに対して信は、やはり、いつもの笑顔だった。

「どうしたんですか、こんなところで?」

 初めてここで会ったときと同じ台詞を、同じ笑顔で、信は云う。
 そのことが嬉しいのか腹立たしいのか、それも真冬にはわからなかった。ただその言葉で、笑顔で呪縛が解けたように、ゆっくり公園の中に踏み込み、信の前に立った。

「稲穂くんこそ。何してるの」

 真冬も、あのときと同じ台詞で答えた。
 そのことに気づいているのか、信は言葉を返さず、ふと目をそらして、またあのベンチを見つめた。
 真冬もそのベンチを一瞥し、そしてすぐ信の横顔に視線を戻した。
 信は小さく微笑んでいる。けれど、それは真冬が見知った屈託のない笑顔とは、違っていた。
 真冬は、さっきまでここにひとり立っていたときの信の様子を思い出した。

「……まだ、自分を責めてるの?」

「え……」

 真冬の言葉に、信が振り向いた。
 真冬は信の瞳を、まっすぐに見つめた。
 あのあとも、ずっとこのひとはここに来ていたのだろうか。ただひとりここに佇み、自分を責め続けていたのか。
 その想像は、真冬の胸を貫く痛みとなった。
 しかし、信は。微笑んで、首を横に振った。
 いつもと同じ、屈託のない笑顔で。

「そんなんじゃないですよ」

「……」

「ちょっと、思い出してただけです」

「……そう」

 私は、忘れようとしたのに。なかったこと、終わったことにしようとしたのに。
 このひとは、覚えていようとするんだ。痛みも、罪の記憶も抱いて。
 だけど、そうして生きていくには、あなたはあまりに――。

「……それと、もうひとつ」

「――え?」

 物思いに沈みかけた真冬は、はっと我に返って信を見上げた。
 信はすこしはにかんだ様子で、けれど、真剣な色を瞳に映して、真冬を見つめていた。

「ここにいれば、藤村先輩に逢えるような気がして」

「稲穂くん……」

「偶然かもしれないけど、来てくれて、嬉しいっす」

 頭をかきながら、信が破顔する。
 その笑顔。あの日の涙。
 そう、このひとはあまりに――。

「……私は、猫の代わりじゃないわよ」

 ニッ、と、真冬は唇の端だけで笑って見せた。言葉とは裏腹に、猫のような印象を与えてしまう微笑。

「い、いや、そういうんじゃなくて……」

 慌てて信は言い訳をしようとする。
 真冬は手を伸ばして信の胸倉を掴んだ。

「せ、先輩?」

 狼狽する信を無視し、真冬はそのまま信の体を引き寄せる。そして、強引に、唇を重ねた。

「――!」

 心底驚いて、信は目を大きく見開いた。だが、それも一瞬のことで、信もまた目を閉じると、真冬を強く抱きしめた。
 真冬の手から、傘が落ちる。白い傘が、雨を弾きながらくるくると回った。
 信の腕の中で熱い口づけを交わしながら、薄目を開けて、真冬はそっと信を盗み見た。
 そう、このひとはあまりにも――。


to be continued...



2001.12.20


あとがき

ほんとにまったりした更新になってしまいましたm(__)m。せめて月イチ連載ペースは守りたいなあ……と思ってはいるんですが。
それはさておき。当初の予定では、「夏」編はもっと長いお話だったんですが、全体の構成を考え直して、後半のエピソードは「秋」編に持っていきました。
ということで、次回はいよいよ佳境です。縮まる二人の距離。変わる呼び名。そして運命の日。乞うご期待……と云える内容になるといいな……つーか、頑張ります、はい。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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