冬物語III 〜秋〜

−前編−


     1

 気がつけば秋もだいぶ深まり、夕暮れ時ともなると、吹く風に肌寒さを覚えるようになっていた。
 だが、その程度の気候のほうが、スポーツをするには心地よい。今日もグラウンドでは陸上部を始め、様々な運動部が練習をしている。
 真冬は教室の窓辺の席に座り、ぼんやりとその光景を眺めていた。
 三年生である真冬は、夏の大会で陸上部を引退した。
 つい最近まで自分もあの中で汗を流していたのに、と思うと、ふと淋しくなる――そんな感傷に、真冬は囚われているわけではなかった。
 真冬は、一人の少年を目で追っていた。
 年下の恋人。
 そう、恋人……と云っていいのだと思う。だけど、何度自分でそう考えても、なにかくすぐったいような違和感があって、つい苦笑してしまうのだった。
 教室にはもう誰もいない。高校受験を控え、級友たちは皆、この時間は、塾か、図書館か、自宅で勉強しているだろう。
 真冬はただ一人、午後の日だまりの中、飽きもせず練習する陸上部を眺めていた。それは本人は認めたがらないにしても、日向ぼっこをしている猫のようであった。
 と、そのとき。教室のドアが、静かに開いた。真冬は軽く首をひねってドアのほうに視線を向け、眼鏡をかけたショートヘアの女の子が入ってくるのを見た。
 少女は真冬を見つけて、驚きに目を丸くした。

「……藤村さん? まだいたんだ」

「ええ。ちょっとね」

 軽く答えただけで、、真冬はまた校庭に視線を戻した。
 その少女の名は、新堂環といった。真冬のクラスメイトだが、特に親しいというわけではない。特に仲が悪いわけでもないが。
 真冬の交際範囲はけして広くない。さらに、「同じクラスだから仲良くしよう」と考えるほど、人当たりがよくもない。
 だから、真冬には環と会話を楽しむという発想はなかった。
 だが、環のほうは少し違う意図を持っていたようだ。彼女はそのまま窓際まで歩いてきて、真冬の側に立った。

「……?」

 真冬が不審そうに首を傾げて、環を見上げる。環はどこか掴み所のない笑みを浮かべていた。

「何してたの?」

「……別に」

「ふうん」

 云いながら、環は窓から校庭を見下ろした。まるで、何を見ていたか知っている、と云わんばかりに。真冬はほんの少し眉をひそめたが、何も云わなかった。

「さすが、余裕だね。みんな受験で頭いっぱいだってのに」

「……そんなんじゃないけど」

「藤村さんはどこ受けるの?」

「……浜咲。近いから」

「近いって理由だけで、あんな進学校を選べちゃう辺りが、やっぱ余裕なのよねえ」

 芝居がかった仕草で、環は肩をすくめて見せた。
 真冬は今度ははっきりわかるほど眉をひそめ、不機嫌に視線を逸らした。
 もともと面差しのキツい真冬は、そんな表情をすると、なかなかおっかない印象を与える。
 しかし、環はまったく動じた風もなく、相変わらず薄く微笑んだままだった。

「あのさ、訊いていい? 藤村さんって、さ」

「……なに?」

 不機嫌さが露骨に声に表れていた。それでも環は、屈託なく笑っていた。
 その屈託のなさは、信のそれとは正反対に、真冬を落ち着かない気分にさせた。

「陸上部の後輩の男の子とつきあってるって、ホント?」

「……それが?」

「へー、ほんとなんだ。びっくり。藤村さんが年下趣味だなんて」

「年下だからとか、そういうのは関係ないでしょう」

 それまで環の顔を見ずに答えていた真冬だったが、思わずキッと顔を上げて、環を睨んだ。
 そのきつい視線を受けて、けれどやはり、環は微笑んでいた。
 そこでようやく真冬は、戸惑いを覚えた。
 このひとはいったい、なんなんだろう?

「そっかー、そうだよね。恋しちゃったら、年なんか関係ないよね」

「……恋」

 その言葉に、真冬は不意をつかれた想いがした。
 自分自身、感じていた違和感。人から云われると、それがいっそう強くなる。
 恋、というのだろうか。この気持ちは。
 信のことを、放っておけないと思った。そばにいてあげたい……そう思った。
 だけど、今の私は――。

「好きなんでしょう、彼のこと?」

 環の声の調子が、ほんの少し、変わった。
 しかし、真冬はそのことに気づくことができず、苦笑を浮かべて軽く首を振るだけだった。

「そう……ね。ええ、そうなんだと思う」

「……」

「なんか危なっかしくて、ほっとけないのよね。だから、私らしくないことばかりしてしまうんだわ、きっと」

 そう。私らしくない。こんな風に、誰かに激しく心を揺さぶられることは。
「恋人」という言葉に、喜びより、戸惑いを感じてしまう私には。
 しかし。

「らしくない……か。そう、思い込んでるだけなんじゃないの?」

「え……?」

「それが、本当のあなたなのかも知れないじゃない? 彼には、そういう不思議な力があるわ。相手を無防備なほど素直にさせてしまう。……ちょっと怖いぐらいに、ね」

「新堂さん……?」

 思わず、真冬は立ち上がっていた。
 このひとは、信のことを知っている!

「どうして……」

「じゃあ、あたし、帰るから。またね」

 真冬の言葉を遮り、環は満面の笑顔でそう云った。すぐに身を翻して、ドアに向かう。去り際に振り返り、ばいばい、と真冬に手を振って見せた。
 真冬は引き留めることもできず茫然と見送っていたが、ほう、と大きなため息をついて、椅子に座り直した。
 そのとき、真冬はやっと気づいた。ずっと感じていた居心地の悪さの理由を。
 彼女は――環は。最初から最後まで、笑顔を浮かべていたけれど。
 眼鏡の奥のその目は、一度も、笑っていなかったのだ。

     2

 どれぐらいの時間、茫然とそこに座っていたのだろうか。
 再びドアを開ける音が響いて、真冬はびくっと体を震わせて振り向いた。

「あ、ここにいたんだ。探したよ、先輩」

「……稲穂くん」

 その名と同時に、真冬は深い安堵の吐息をついた。文字通り脱力し、思わず机に肘をついてしまう。
 教室に入ってきた信は、真冬のそんな様子には気づかず、ただいつもどおりにこやかな笑顔だった。

「練習、終わったよ。帰ろ」

「……あ、もう、そんな時間だったんだ」

 慌てて立ち上がりながら、真冬は窓の外を見た。云われたとおり、夕闇が迫り、グラウンドにはもう誰もいない。

「いつも終わる頃に降りてきてくれるのに、いないからさ。帰っちゃったかと思ったよ」

「ごめん。考え事してて……気づかなかった」

「考え事?」

「ん……」

 瞬間、真冬は迷った。環のことを話すべきかどうか。
 目の前で、不思議そうに首を傾げている少年に、やましい隠し事があるなんて、まったく思えなかったけれど。

「行こ。……歩きながら、話す」

「オッケー」

 何がそんなに嬉しいのか、真冬の言葉に対して、信はいちいち顔中を笑顔にして答える。真冬は苦笑しつつも、環の言葉を思い出してしまっていた。

(無防備なほど素直にさせる……怖いぐらい)

「ん、なに? なんかついてる?」

 じっと自分の顔を見つめられ、信は慌てて手で顔を拭った。顔は洗ってきたんだけど……と云う信に、もう一度苦笑しながら、真冬は歩き出した。

「なんでもない。さ、早く帰ろ」

「あ、ちょっと待ってよ、先輩!」

     *

「環姉さん?」

「ねえさん?」

 二人はほぼ同時に驚きの声を上げ、互いに目を丸くして見つめ合った。
 信はやや表情を曇らせて、目をそらす。真冬はすっと瞳を細めて、信の視線を追った。

「そっか。先輩と同じクラスだったんだ……」

「ねえさんって……どういうこと?」

「あ、うん、昔そう呼んでたから、つい……」

 照れくさそうに、信は頭をかいた。夕日に赤く染まるその横顔に、真冬はまだ少しきつめの視線を送っていた。
 帰り道。真冬が部活を引退してからも、さっき信が云ったように、練習が終わるまで真冬が待っていて、一緒に帰ることにしていた。特にどちらかがそうしようと云ったわけでもなく、約束をしていたわけでもなかったが。あの公園で、約束もなしに互いを待っていたあの頃と同じように。

「知り合い、なんだ、やっぱり」

「うん。……家が、近所でね。ガキの頃は、遊んでもらったりしたよ。そんときの癖だな」

「幼馴染みってことか」

「そんないいもんじゃないよ。ほんと、ちっちゃい頃だけだしさ、一緒に遊んだのなんて。同じ学校だってことも、忘れてたよ」

「……でも、そういう小さい頃の絆ほど、大切なものなんじゃないの?」

「だから、違うって……」

 困ったように、信は顔をしかめた。だが、ふと何かに気づいた様子で、嬉しげな笑顔を浮かべて真冬の顔を覗き込んだ。

「もしかして、先輩、妬いてる?」

「……」

 こんなとき、赤面して言葉に詰まったりできれば、かわいげもあるんだろうけど。
 真冬は信の言葉より、自分自身のそんな考え方に苦笑するしかなかった。

「そうね。そういうことにしておいてあげる」

「……ちぇっ」

 舌打ちしながら、それでも信は楽しそうに破顔した。
 その笑顔を見ていると、環との会話で生まれた胸のしこりが、自然と解けていく。それが真冬には不思議だった。

「でもほんと、環姉さんとは、最近は全然つきあいないよ。……ていうか……もともと、苦手だったしな」

「……へえ?」

 意外な言葉に、真冬は信を見上げた。信は珍しく、苦笑いに似た表情を作っていた。

「稲穂くんにも、苦手な人がいるんだ」

「どういう意味さ。……まあ、苦手っていうか……なんかちょっと、怖いんだよね」

「怖い……?」

 真冬の瞳が、またすっと細くなった。何かを不審に思うときの、彼女の癖だった。

「うん……うまく云えないけど」

「……」

 黙り込んでしまった真冬に対して、信は申し訳なさそうに笑顔を向けた。

「ごめん、変な話して」

「……ううん、なんとなくわかる……」

 教室での環の様子を、真冬は思い出していた。
 心の内を、決して覗かせないあの微笑。
 彼女はいったい何のつもりで、自分に声をかけたのか――。
 そんなことを考えている内に、二人は真冬の家の前までやってきていた。

「それじゃ……先輩」

「あ、うん」

 物思いに沈んでいた真冬は、信に声をかけられ、はっと顔を上げた。
 信は名残惜しそうに、真冬を見つめている。
 信が真冬を送って帰るのは日課のようになっていたが、未だ家に上げてもらったことはなかった。そのことが不満でなかったはずはないが、信はいつも何も云わず、笑顔で手を振った。

「また明日」

「うん……あ、そうだ」

 真冬もまたいつもどおり、軽く頷いて信に答えようとして、ふと明日の予定を思い出した。

「私、明日は用事があるから、先に帰るね。ごめん」

「そうなんだ。……用事って?」

「うん……母の……誕生日だから」

 母という言葉を口にするとき、そこにほんの少し込められた憂い。それに信が気づくはずもなく、彼はただ笑顔のまま、話を続けた。

「へえ、お母さんの。親孝行なんだね、先輩」

「……」

「でも、先輩のお母さんなら、きっと美人なんだろうなあ。是非会ってみたいよ。あ、俺もお祝い持って参上するってのはどうかな?」

「……」

 信にしてみれば、家に招待してもらえる口実になるかも、という淡い期待を込めた、軽い一言だった。
 しかし、真冬は動きを止めた。文字通り、凍り付いていたと云ってもいい。
 そして、恐ろしく真剣な表情で、じっと信の顔を見ていた。
 その瞳の色に、信は狼狽した。
 理由はわからない。けれど、なぜか真冬が泣き出しそうに思えて。
 為す術のない信は、おどけてみせるしかできなかった。

「ごめんごめん、そういうときは、やっぱ、親子水入らずだよね。つまんないこと云って――」

「……いいわよ」

「……え……?」

 ただ一言、そう答えた真冬の真意がわからず、信は戸惑いを深めるばかりだった。
 そして、真冬も。なぜそう答えたのか自分でさえ理解できず、ただ茫然と、信の顔を見つめていた。

     3

 信は落ち着かない様子で、辺りをきょろきょろと見回していた。手には大きな花束を抱えている。
 真冬は前だけを見たまま、まっすぐ歩いていた。もともと表情を変えることの少ない彼女だが、今日の面は仮面のように硬く、蒼白だった。
 二人の前で、自動ドアが静かに開く。屋内に足を踏み入れながら、困惑顔で信は真冬を覗き込んだ。

「えっと……お母さんは、ここに……?」

「そうよ」

 そっけなく、信のほうを見ようともしないで答えた真冬は、顔見知りの看護婦に気づいて会釈をした。
 真冬と信は、病院を訪れていた。
 街の少し外れにある、規模の大きな総合病院だ。大病や怪我を煩ったことのない信には、これまで無縁の場所だった。
 一緒に学校を出たあと、真冬は信に何も説明することなく、ただここへ連れてきたのだった。
 広い病院の中を、真冬は迷いのない足取りで歩いていく。先ほどと同じように、時折、顔見知りの医師や看護婦に挨拶をしながら。
 そのことは、彼女がここに通い慣れていることを示していた。
 信ももうそれ以上言葉をかけられず、真冬のあとをついていく。
 やがて真冬は、ある病室の前で足を止めた。
 信は病室の名札に目を向けた。「藤村千尋」そう記されていた。
 真冬がゆっくりと腕を上げ、ドアをノックする。少し間をおいて、静かな返事があった。

「はい。……どうぞ」

 その声に、真冬の表情がふっと緩んだ。
 そこにいるのは自分の知らない真冬に思えて、信は驚いてその横顔を見つめた。
 真冬はやはり信のほうを見ようとしないまま、病室のドアを開けた。そして、中に入ろうとしたところで、おずおずとあとに続こうとしていた信を振り返った。

「ちょっと待ってて」

「あ、う、うん」

 後ろ手でドアを閉めながら、真冬は軽くため息をついた。
 信を連れてくることは、事前に母に知らせていなかった。病床の女性の前に、いきなり見知らぬ人間を引き出すわけにはいかない。
 それに、まだ。真冬は、自分がなぜこんなことをしているのか、わかっていなかった。

「……どうしたの、真冬?」

 静かな声に、真冬は顔を上げた。
 ベッドで上体を起こして座っている母、藤村千尋は、いつものように穏やかに微笑んでいた。
 その笑顔が子供の頃から大好きだったはずなのに、同じく子供の頃から、その笑顔を見ると泣きたくなるような気持ちに襲われた。
 どうして、そんな風に――。

「ううん、その、今日は人を連れてきたんだけど……」

「まあ」

 一瞬、千尋は驚いた表情になった。それは思いがけない喜びであったからこそなのだが、真冬はうつむいて唇を噛んだ。

「ごめんね、勝手なことして。嫌なら、帰ってもらうから」

「何云ってるの。真冬がお友達を連れてくるなんて、珍しいじゃない。私も会いたいわ」

「……」

 真冬は無言で頷き、振り向いてドアを開けた。
 促され、信が室内に入ってくる。その姿を見て、千尋はもう一度、驚きで目を丸くした。男の子だとは思わなかったのだ。

「は、はじめましてっ。稲穂信、と申しますっ」

 信は激しい勢いで、しかも深々とお辞儀をした。腕に持った花束がばさばさと揺れる。あれではせっかくの花が散ってしまうのでは、と真冬は眉をひそめた。
 千尋は、微笑んで会釈を返した。

「はじめまして。真冬の母です。いつも娘がお世話になっています。――こんな格好で、ごめんなさいね」

「い、いえっ、とんでもありませんっ」

 声が完全に裏返っている。緊張でガチガチになったその姿に、真冬は頭を抱え、千尋は変わらず笑みを浮かべていた。

「真冬のクラスメイト?」

「……ううん、部活の後輩」

「……まあ」

 三度、千尋は驚くことになった。年下の男の子とは。
 真冬は怒ったように、面をそらす。わずかに赤くなった頬に、千尋は楽しげな視線を送った。

「あ……あの、これ、どうぞ」

 母子の微妙なやり取りに気づかず、緊張したままの信は、機械的な動作で花束を差し出した。
 蘭を中心にした艶やかな花束だ。真冬のイメージから選んだが、千尋には百合などの清楚な花のほうが似合ったかも知れない。信はそう考えた。
 しかし、千尋は心からの笑顔で、その花束を受け取った。

「ありがとう、素敵なお見舞い」

「――いえっ」

「……え?」

 真冬と千尋は、同時に声をあげて、信のほうを見た。
 信は赤面しながら、また深々と頭を下げた。

「お祝い、です! お誕生日、おめでとうございます!」

「……」

「……」

 短い、沈黙。
 二人の女性は目を点にし、一人の少年は顔を赤くして頭を下げたままで。
 その空気を破ったのは、真冬の苦笑だった。

「もう、先に云わないでよ。――誕生日おめでとう、お母さん」

「あ……そっか……。忘れてたわ」

「やっぱり」

「うふ……ありがとう、二人とも」

「い……いえっ」

 ようやく顔を上げた信は、じっと自分を見つめている千尋と眼があった。
 千尋の瞳には、涙が浮かんでいた。
 大切そうに花束を抱きしめて微笑むその姿は、あまりに美しく、儚かった。
 その姿に、信よりも真冬のほうが、激しく動揺していた。そう、その笑顔はいつも、真冬を戸惑わせる。どうして、そんな風に笑えるのか、と。

「男の人から花を贈られるなんて、久しぶり。本当にありがとう、稲穂くん」

「とんでもないっ。俺なんかでよければ、毎日だって持ってきますよ!」

「ほんと? 期待しちゃうわよ」

「え……えっと、毎日ってのは、言葉の綾で……」

 信の緊張もやっとほぐれてきたようで、だんだんいつもの調子に戻っていた。真冬の動揺には、二人とも気づいてはいない。――少なくとも、そう見えた。
 真冬は誰にも聞こえないよう吐息を漏らし、談笑の輪に加わった。

「ほんと、調子いいんだから」

「あ、ひっどいなあ、先輩。俺はいつだって真剣だよ」

 少し拗ねた口調で、けれど笑顔のままの信の言葉を、真冬は「ふうん」と軽く流してしまう。むくれる信と、喉を鳴らして笑う千尋。
 穏やかな空気の中で。真冬は心地よい安息と、拭いがたい孤独とを、同時に感じていた。

     4

 薄闇の中、真冬と信は、今日も真冬の家の前に立っていた。
 病院を出たあと、いつもどおり信が真冬を送って帰ったのだ。
 なぜか、今日の真冬はそれを辞退しようとしていたけれど。帰り道も、真冬は言葉少なにうつむいていた。
 千尋の病室から出るなり、うってかわったその態度に、信は途方に暮れながらここまでやってきた。
 何か気に障ることでもしただろうか、と道々考えてきたが、結局わからなかった。信は力無く、真冬に笑顔を向けた。

「じゃあ、また明日」

「……」

 真冬は顔を上げて、信を見つめた。病院を出て以来、初めて。
 その視線は別れを惜しむと云うより、突き刺すような激しい光があった。
 信はひるみつつも、目をそらさず、じっと見つめ返した。

「……上がっていけば」

「……え……?」

 昨晩、この同じ場所で交わした言葉のように。あまりに思いがけない申し出を受けて、やはり今夜も信は、ぽかんと口を開けていた。
 真冬は苛立たしげに視線をそらし、門をくぐった。信も慌ててついてくる。
 信とは違い、真冬にはわかっていた。なぜそんなことを云ったのか。
 けれど、わからない振りをしていたかった。

     *

「珈琲でよかった?」

「あ、うん」

 頷く信の前に、真冬が珈琲カップを置いた。
 二人は客間にいる。十分ベッド代わりになりそうなソファに座り、信は居心地悪そうだった。真冬は自分のカップを手に、彼の向かいに腰掛けた。

「外から見てても思ってたけど……立派な家だね……」

 カップを口に運びながら、信は室内を見回した。家具の善し悪しなどわかるはずがないが、自分が今持っているカップも含めて、高級なものばかりであることはわかった。
 しかし、信は感心すると同時に、奇妙な寒々しさも感じていた。あまり生活感がないのだ。だだっ広いショールームを連想させた。
 信のそんな感想に気づいているのか、真冬は相づちを打つこともせず、珈琲を冷まし冷まし飲んでいた。彼女は猫舌なのだ。
 信は視線を真冬に戻した。真冬はうつむいて、カップの中の波紋を見つめている。
 何を話せばいいのか。何を話したかったのか。
 互いにそれを探るような沈黙が続いた。
 やがて、信のほうが飲み終えたカップを机に置いて、口を開いた。

「その……今日は、ごめん」

「なにが」

 カップを見つめたまま、短く真冬が答える。彼女はゆっくり飲んでいるので、まだ半分以上珈琲は残っていた。
 カップを揺らすたびに生じる、茶色の波紋。それだけを、真冬は見ている。

「その……突然、押し掛けたりしてさ。やっぱ、失礼だったよな」

「そのことなら、いいわ。連れていったのは私だし、母も、喜んでくれたから」

「そう……なら、いいんだけど」

 再び沈黙。所在なげに信は視線をさまよわせ、真冬は一点を見つめ続けた。
 実のところ、信より真冬のほうが遙かに大きな戸惑いと、焦燥の中にいた。
 私は、何をしているのだろう。いったい何を期待しているというのだろうか。

「えっと……お母さんは……いつから……?」

「忘れたわ。もうずっとずっと前から」

「そんなに……?」

「ええ」

 感情のこもらない声で、真冬は信の問いかけに答えていく。淡々と、そう、その問いが発せられるまでは。

「じゃあ、ずっとここにお父さんと二人で暮らしてるんだ……?」

 言葉の意味を咀嚼するような、静かな時間が流れる。
 真冬は伏せていた目をゆっくり上げて、信をまっすぐに見据えた。
 信は、軽く息を飲んだ。
 さっき門の前で見せた、挑むような、責めるような、拒むような、――泣き出しそうな、瞳。

「父は、いないわ」

「……え……?」

「私、私生児だもの」

「……」

 空気が凍ったと、信は考えた。
 何かが崩れたと、真冬は直感した。
 だから、そこにあるのは、沈黙だけだった。
 張りつめた気配の中、二人は瞬きもせず、ただじっと互いの瞳を覗き込んでいた。


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