冬物語III 〜秋〜

−後編−


     5

 視線を外したのは、真冬のほうからだった。
 彼女は立ち上がり、キッチンに入った。そして、珈琲のお代わりを入れて戻ってきた。

「もう遅いから、それを飲んだら、お帰りなさい」

「え……」

 信が顔を上げると、真冬は、ニッ、と唇の端だけで笑って見せた。
 いつもと同じ、猫のような印象を与える、その笑み。
 今日のことなど、何もなかったかのように。
 実際、真冬はそう思っていた。きっと何も変わらない、だから、何もなかったのと同じ。
 だから。信にも、いつもと同じように、笑ってほしかった。
 だが信は、肩を震わせて面を伏せてしまった。真冬は軽く眉をひそめながら、ソファに座り直した。

「その……俺、なんて云っていいか……」

「何も云わなくていい。……云ってほしくない」

 声を震わせながら、一所懸命、言葉を紡ごうとする信。そんな彼を、真冬は乱暴に遮った。
 信が顔を上げて、真冬を見る。涙に濡れた瞳を、どうしても真冬は正視できなかった。

「どうせみんな、同じことしか云わない。私も、同じ答えしか返せない。飽きたわ」

「先輩……」

 自分でも不思議なくらい、真冬は苛々していた。もうこんなことは慣れっこだったはずなのに。
 誰もが、自分の境遇に同情してくれる。そして自分の態度に、眉をひそめる。
 それでもまだ気を遣う人は、「強い娘だ」と云い、そうでない人は「かわいげがない」と云う。どちらも大きなお世話だった。

「淋しくなんかなかった、なんて強がりを云う気はないわ。母が入院して、しばらくは淋しかった。でも、もう慣れたわ。見てのとおり、生活には困ってないし。お金はあるのよ、事情があってね」

「……」

「だから、何も気にしないで。……もう、慣れてるから」

「……」

 信は答えない。ただ潤んだ瞳で、まっすぐに真冬を見つめていた。
 真冬は信から視線をそらしたまま、強く唇を噛んだ。
 どうして、どうしてこんなに苛々するんだろう。
 彼が口にする言葉を、どうして、私はこんなに恐れているのだろう――!
 耐えられず、真冬は信にもう帰るよう促そうとした。
 そのとき、信が小さな声で、呟いた。

「……ダメだよ」

「……え?」

 思わず、真冬はその顔を信に向けた。そのまま、信から目を背けられなくなる。それほど信の瞳は真剣だった。

「ダメだよ、慣れただなんて云っちゃ」

「稲穂くん……」

「そんなの、慣れるもんじゃないよ。……そんなこと、云うなよ」

「……」

 真冬は茫然と、信を見つめ返していた。
 同情ではなく。憐憫でもなく。
 ただ彼は、私が選んだ生き方を、自分の痛みとするのだろうか。
 真冬の胸を、押さえようのない、激しく熱い感情が支配した。

「……だったら……どうしろって云うの……」

「先輩……」

「淋しいって、泣いてすがれば満足なの? ひとりでこの家にいる現実に、慣れる以外、どうすることができたって云うのよ!?」

 激情が込み上げ、涙がこぼれそうになる。真冬は目を強く閉じて、それをこらえた。
 涙なんて、絶対に見せたくなかった。――そう、信にだけは。

「……帰って」

「……」

「帰ってよ!」

 目を閉じたまま、真冬は面を伏せて叫んだ。世界のすべてを拒むかのように。
 やがてどれだけの時間が経った頃か、人が静かに立ち上がり、去っていく気配があった。
 ドアが閉まる音を確認して、真冬は顔を上げた。そのまま体を横にして、ソファに倒れ込んでいく。
 真冬は部屋の隅をじっと見つめ続けた。その瞳に涙はなく、光さえなかった。
 何も映さない瞳を、ただ真冬は見開いて夜を過ごした。

     6

 そして、すべてが元通りに戻った。
 真冬と信が、あの公園で出逢う以前の姿に。
 真冬はもう放課後、信を待つことなく帰宅する。昼間、学校で信と顔を合わせることがあっても、見知らぬ人のように振る舞っていた。痛ましげに自分を見つめる視線を、完璧に無視して。
 家に戻り、誰もいない部屋でぽつんと座る。さっき入れた珈琲が冷めるのを待ちながら、真冬は考えた。
 これでよかったのだ、と。
 信のことが気になったのは事実だ。放っておけない、そう思った。
 でも、自分のような人間には、そんな気持ちは似合わない。
 彼だって、もう自分がついていなくても大丈夫だろう。……あるいはもっと、ふさわしいひとが。
 真冬はカップに手を伸ばし、口をつけた。

「……熱っ」

 まだ十分冷めていなかった珈琲を一息に飲もうとして、舌を火傷してしまった。
 かすかににじんだ涙を、真冬はその痛みのせいにした。

     *

「あ……」

 ホームルームが終わるや、いつもどおりすぐ帰途につこうとした真冬は、ふと窓の外を見て呟きを漏らした。
 暗い曇天から、ぱらぱらと雨が降り始めている。
 帰宅時間を狙い澄ましたかのようなその雨に、クラスメイトたちが口々に文句をこぼす中、真冬は硬い表情で立ち尽くしていた。
 考えまいとしたこと、忘れようとしたことを、雨は思い出させる。雨はあまりに、彼との想い出と結びつきすぎていたから。
 気がつけば、教室にはもう誰もいなかった。
 真冬は大きくため息をつくと、机の中から折り畳みの傘を取りだした。それを見て、もう一度ため息をつく。あの日と同じ傘だから。
 こんなときのために学校に置いてある傘なのだが、明日からは違うものを持ってこよう。そう考えながら、真冬はその傘を持って教室を出た。
 人気のほとんどない廊下を歩き、昇降口に出る。そして、靴に履き替えようとしたとき、後ろから声をかけられた。

「藤村先輩」

 誰も気づかないほど小さく、だが確かに、真冬は体をすくませた。全く違う声だと、わかっていたけれど。
 真冬がゆっくり振り向くと、陸上部の一年後輩の男子が立っていた。すでにジャージに着替え終わっている。雨が降り出したから、屋内トレーニングのため、体育館に向かうところなのだろう。

「お久しぶりです」

 少年は少し緊張した面持ちで、頭を下げた。真冬は軽く頷いて、それに答えた。

「ん……。なに?」

「えっと……藤村先輩って、稲穂とつきあってましたよね?」

「……」

 わざわざ否定したり、説明したりするのも面倒だった。真冬は何も云わず、首を傾げて話の続きを促した。
 少年は、真冬のその仕草に、慌てて視線をさまよわせた。

「あ、す、すいません、なんか失礼なことを」

「……で、なに?」

「えっと、その、稲穂の奴、最近、練習に出てこないんですよ」

「……え?」

「何度云っても、『大事な用事がある』とか云うばっかりで……。顧問も怒ってるんで、それで、藤村先輩なら何か知ってるかと思って……」

「……」

 真冬の瞳が、すっと細くなった。そのままわずかな時間考え込み、あることを想像して、小さく息を飲んだ。

「……まさか……」

「え?」

 不審そうに顔を向けた少年に、なんと答えたか真冬は覚えていない。靴を履くのももどかしく、校舎から走り出ていた。
 傘を差すことさえせず、真冬は勢いを増し始めた雨の中を走った。

     7

 果たして、そこに彼はいた。
 あの日と同じ公園に。あの日と同じ木の下で。あの日と同じ雨の中。
 だが、ひとつだけ、あの日と違う点があった。彼は、ひとりではなかったのだ。

「今日も、ここでずっと待ってる気なの?」

「……」

「いつまでこんなバカなこと続ける気なの!」

「……」

 信に詰め寄る女性は、環だった。真冬に見せた表情とは別人のように、頬を激情で赤くしている。
 それに対して、信は何も答えず、ただ悲しげに眼をそらすだけだった。
 二人とも、真冬には気づいていない。真冬も声をかけられず、白い息をつきながら立ち尽くしていた。

「いくら待ったって、あの女は来ないわよ! あの女はね、自分ひとりだけいればいいの。ひとりだけで生きていける、そう思ってるんだから!」

「……」

 環の言葉は、真冬にはなんの動揺も与えなかった。
 そのとおりだったから。ずっとそう思って生きてきた。
 ……だけど。だったら、なぜ、私は今、ここにいるんだろう?

「わかってるんでしょう!? あの女は、誰も必要としていない。あなたが必要なのは、あの女じゃなくて――」

「――わかってる」

 小さく、信が呟いた。悲しい色の瞳をした少年を、真冬と環は、息を飲んで見つめていた。

「藤村先輩が必要としているのは、確かに、俺じゃないかも知れない。だけど、今、彼女のそばにいてあげられるのが俺だけなら、そうしてあげたい」

「信くん……」

「彼女を、ひとりになんか、できないよ」

 そう云って、信は笑った。
 その笑顔に、環の面は血の気を失い、真冬は茫然と言葉を失った。

「……なによ、それ」

 かろうじて、そんな言葉を呟く。
 自分こそが、彼を見守っていたはずだ。あの雨の日に見せた、優しさの裏にある脆さ。それを知ってしまったから、放っておけない、そう思っていた。
 それなのに。彼もまた、同じことを考えていたというのだろうか。
 我知らず、真冬は公園に足を踏み入れていた。泥をはねる足音に、信と環が同時に振り向く。

「藤村先輩……」

 一言云って、信はまた笑った。真冬にはずっと不思議だったその笑顔。何がそんなに、嬉しいんだろう――。

「……」

 一方、環は、血がにじむほど唇を噛みしめて、真冬を睨みつけた。
 真冬はその二つの視線を受けて、どんな顔をすればいいのか、本当にわからなかった。自分がなぜ、ここに立っているのかも。
 だから、真冬は表情のない顔で、雨に打たれるまま二人を見返した。
 信が真冬に駆け寄ろうとする。それを制そうとするかのように、環が足早に真冬に近づいた。
 眼鏡の奥の瞳に、涙が浮かんでいる。真冬はやはり感情を表さず、ぼんやりとその目を見つめていた。

「……絶対、後悔するわよ」

 吐き捨てて、環は走り去った。真冬は振り返り、その後ろ姿を茫然と見送った。
 信がゆっくり真冬に近づいてくる。背を向けたままの真冬の手から折り畳み傘を取り、それを開いた。

「ほら、どうしたんだよ、先輩。傘も差さずにさ」

「……」

「ま、俺も傘持ってなかったから、ラッキーだったけど。早く帰ろ。そのままじゃ風邪引いちゃうよ」

「……」

 真冬は答えない。ただ信に促されると、人形のようにゆっくりと歩き始めた。
 信はためらいがちに腕を伸ばし、真冬の肩を抱いた。真冬はやはり反応しない。信も何も云わず、ふたりは沈黙したまま、寄り添って歩いた。

     8

「ついたよ、先輩」

「……」

 結局、真冬の家に辿り着くまで、ふたりは無言のままだった。
 門の前に立っても、真冬は動こうとしない。信は真冬の肩から腕を外し、門を開けてやった。
 そのとき、真冬はぶるっと体を震わし、自分の肩を抱くようにした。

「寒い? 早く風呂入って、体あっためて……」

「――私の名前」

「……え?」

 真冬はゆっくりと顔を上げて、心配そうに覗き込んでいる信の瞳を見つめた。
 先日ともまた違う真冬のその表情に、信の胸は切なく痛んだ。そう、今の彼女はまるで幼い子供のようで――。

「私の名前……『真冬』なんて、寒そうな名前でしょ?」

「先輩……?」

「母がつけてくれた名前だけど……あんまり、好きじゃなかった。母はね、冬の厳しさに負けない、凛とした強さを持てるように……そんな願いを込めたって、云ってた。自分には……ないものだからって……」

「……」

 淡々と、独り言のように真冬は呟く。けれど、その視線はまっすぐ信に向けられ、そらされることはなかった。そして、信もまた、その瞳をまっすぐに見つめていた。

「寂しさは……母の体まで、蝕んだ。だから、私には強く育ってほしかったのかも知れない。……そう、新堂さんが云ったとおり……私は……ひとりでも生きていける……」

「先輩……」

「……でも、そんなの、可愛くないよね」

 そう云って、真冬は微笑んだ。
 自嘲ではなかった。強がりでもなかった。
 ただ信に、思った通りのことを、聞いてほしかった。
 信はそんな真冬の笑顔をしばし見つめ、やがてぽつりと呟いた。

「強いだけじゃ……冬は、越せないと思う」

「……え……?」

 軽く眉をひそめる真冬。信は真剣な面持ちで、言葉を続けた。

「寒い冬にはさ、ぬくもりが必要だよ。どんなに強くたって、あったかいもんがないと、凍えちまう。お母さんが云いたかったのは、そういうことじゃないのかな」

「稲穂くん……」

 考えてもみないことだった。目を丸くした真冬の表情が珍しかったのか、信は満面の笑顔を浮かべた。本当に、嬉しそうな笑顔。
 だが、すぐ真剣な表情を取り戻して、真冬の瞳を覗き込んだ。

「俺は……『真冬』って名前、好きだな」

「……」

「俺は……真冬が好きだ」

「……」

 真冬は、唇の端だけで笑おうとした。いつもと同じ、猫のような印象を与える笑顔。
 けれど、どうしても失敗してしまい、瞳から涙がこぼれた。

「……生意気よ……信……」

「ごめん」

 云いながら、信は真冬の体を抱き寄せた。真冬は目を閉じて、まだぎこちない彼の口づけに身を任せた。
 このとき手に入れたものが、永遠だとは、真冬も思っていなかった。
 ――しかし、訪れた穏やかな時間は、真冬の想像を遙かに超えて、あまりに短いものだった。

     *

 雨は夜が更けるに連れて、どんどん激しくなっていった。
 真冬は窓辺に寄り、カーテンを少しめくって外を眺めた。打ち付ける豪雨。
 真冬は一瞬眉をひそめたが、不意に浮かんだ不安を打ち消すように、苦笑を浮かべた。

(……もう、とっくに帰ってるはずの時間だものね)

 あのあと、信は自分自身の言動に照れたのか、顔を赤くして走って帰った。傘を持っていくように真冬は云ったのだが、

「このぐらい平気だって。すぐやむよ。帰ったら電話するから!」

 そう叫んで、信は雨の中走っていってしまった。
 真冬はその姿を苦笑しながら見送り、家に入って、シャワーで体を温めた。そして、普段どおり自分で準備した食事を終え、食後の珈琲を楽しみ、それなりの時間、読書をしたりしていたのだったが――。
 信からは、まだ電話はなかった。
 自分のほうからかけてみようか、と考えたときには、少し気の引ける時間になってしまっていた。もっと早く気づけばよかった、と真冬は後悔した。
 これまで真冬から信の家に電話をしたことはなかったので、ちょっと気後れがあった。それに、電話を待っている時間、というのも、意外に心地よいものだったのだ。
 だが、それにしても遅すぎる。自分は一人暮らしだから、何時にかかってきても確かに平気だけど――。
 思い切って真冬は立ち上がり、電話のそばに立った。そして、受話器に手を伸ばした瞬間。
 玄関のベルが、鳴った。
 こんな時間に、なんだろう。真冬は玄関に向かいながら、そう考えた。
 普段なら、こんな時間の来訪者に応対することはない。なんと云っても、女の一人暮らしなのだ。
 だが、真冬は言い知れぬ不安を感じ、ドアの前に立った。

「どちら様ですか?」

 返事はない。真冬はひとつ深呼吸をすると、鍵を開けて、ドアノブを回した。
 危険だと、わかっていた。けれど、どうしてもそのままにはできなかった。
 そうして、真冬は見た。雨に打たれるまま、門の前で立ち尽くす一人の少年を。
 その瞬間、真冬は自分も雨に濡れることなど構わず、飛び出していた。

「信……! どうしたの、こんな時間に、そんな格好で!」

 うなだれ、自分のほうを見ようともしない信の元へ、真冬は走った。
 しかし、信は答えず、真冬の腕を振り払いさえした。

「信……?」

 信の体は、小刻みに震えていた。それは雨に濡れた冷たさのせいではなく、何かを恐れていることが、その表情からわかった。
 そのとき、真冬は思い出した。あの雨の日、猫を抱いて泣いていた信の姿を。
 真冬は濡れて頬に張り付く髪をかき分けながら、信に笑顔を向けた。
 なにがあったかはわからない。しかし、あのときと同じように壊れかけている信を、少しでも安心させてあげたかった。
 ゆっくり手を伸ばし、あのときと同じく、信を抱きしめようとする。だが、気がついたときには、真冬のほうが信に強く抱きしめられていた。

「真冬……俺は……俺は……!」

 信は真冬の胸にすがりつくようにして、泣き叫んでいた。
 真冬もまた信の背に腕を回し、強く抱いた。冷えた体を温めるように、何度もその背をさすりながら、呼びかけ続けた。

「信、どうしたの? 何があったの? 信――」

 冷たい晩秋の雨が、固く抱き合うふたりの上に、容赦なく降り注いでいた。


to be continued...



2002.1.28


あとがき

真冬ぶっ壊れ編です。佳境としてふさわしい展開になっているでしょうか。
「Can You Keep A Secret ?」とシチュエーション的に似ている部分があるのは、わざとやっています。……ホントだってば(^^ゞ。
新キャラの環は、真冬と信の二人芝居だと話が広がらないので、登場願いました。最初は真冬の中学時代の親友、という設定だったんですが、この頃の真冬には「親友」と呼べる相手はおらんだろーと思い直して、真冬に敵愾心を燃やす女の子になりました。その辺の事情はまた追々……。眼鏡っ子なのは、単にキャラのバリエーションを考えた結果です(^^ゞ。今回はあんまり上手に使えなかったのが残念ですが(-.-)、彼女は今後もちょこちょこ出てくる予定なので、よろしくお願いします。
しかし、ほんとにぎりぎり月イチ連載を守れました。悲しいお話は執筆のテンションを保つのが難しいです。いよいよ次は最終話ですが、ほんとに書けるんだろうか……。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。

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