鷹とダイアモンド

−前編−

     1

「お、鷹乃ちゃんじゃん。おっはよ。元気だった?」

「……おはよう」

 朝凪荘の玄関で、鷹乃はちょうど出てきた信に出会った。笑顔で手を振る信に微笑み返すこともなく、そのまま横を素通りして、朝凪荘に入ろうとする。信はその後ろ姿に声をかけた。

「イナケンならいないぜ?」

「知ってるわ。今日は朝から予備校でしょ」

「だったら?」

「洗濯物とか、ためてるから、きっと」

「……はあ〜、うらやましいことで。すっかり世話女房だね、鷹乃ちゃん」

「そんなんじゃないわ」

 靴を脱いで上がろうとしたところで、鷹乃は振り向いた。きつい視線で信を睨む。信は思わず数歩後ずさった。

「前にも云ったと思うけど、私はあなたにそんな風に呼ばれる筋合いないから」

「……そ、そうね、ごめんよ、寿々奈さん」

 信がそう答えたときには、鷹乃はもう背を向けて、階段を上っていた。信は肩をすくめてため息をつく。
 両親へのわだかまりも解け、健とつきあい始めて、鷹乃は幾分人当たりがよくはなった。しかし、幼少から通してきた「男嫌い」が、そう簡単に直るものでもない。相手が男だと、つい悪い面が先に目に付いてしまう。そして、信のような一見軽そうなタイプは、鷹乃とは相性が悪かった。
 もっとも、信のほうはそれを特に不快に思うでもなく、自然に話そうと努力しているのだったが。健がいくら鷹乃に信のいいところを話そうとも、「虫が好かない」というのはなかなか理屈では変えがたいものだった。
 鷹乃は郵便受けから取ってきた新聞やチラシ、手紙の束を小脇に抱えて、健の部屋の鍵を開けた。そのとき、手紙が一枚、ふわりと廊下に落ちた。

「……あ」

 拾い上げようと伸ばした手が、止まった。
 たとえ恋人であっても、他人の手紙を勝手に読むようなことは、鷹乃の趣味ではない。それでも思わず目が引きつけられたのは、そこに自分の名前が書かれていたからだ。
 そこには、こう書かれていた。

『鷹乃ちゃんとお幸せに』

 ――ほたるからの手紙だった。

     *

 全開にした窓から、北風が吹き込んできた。
 今は十二月半ば。風はすでに身を切るような寒さを含んでいる。空気を入れ換えるにしては、もうずいぶん長い間、窓は開け放たれていた。
 鷹乃は、頭を冷やして考えたかったのだ。
 床にぼんやりと座り、鷹乃は健の机を見つめていた。そこには、さっき拾った、ウィーンにいるほたるからの手紙が置かれている。
 絵はがきだった。近況が簡単に書かれていて、その最後には――。

『もうすぐクリスマスだね。
 クリスマスが近づくと、ほたるはあの橋のことを思い出します。
 ……ごめんね、もうこんな話、しちゃいけないんだけど。
 でも、ほたるにとっては、大事な想い出だから。
 健ちゃんも、これから大事な想い出、いっぱい作ってください。
 鷹乃ちゃんとお幸せに』

「……」

 窓から空を見上げて、鷹乃はため息をついた。
 あの橋って、なんのことだろう。やっぱり登波離橋だろうか。
 鷹乃の知らない、ほたると健との想い出。それに少し嫉妬を感じなかったと云えば、嘘になる。
 しかし、鷹乃の心にいちばんしこりとなっていたのは、ほたるがどんな想いでこの手紙を書いたのだろう、ということだった。
 鷹乃はずっと、自分を捨てた母を恨んでいた。母の傷心につけ込んだ男も、許せないと思っていた。
 だけど、自分は同じことをしたのだろうか。自分がいなければ、ほたるは健と幸せに暮らすことができたのか。

「……」

 傲慢な考えだ、と気づいて、鷹乃はもう一度ため息をついた。
 これはほたると健の問題だ。だけど……。
 唇を噛んで、鷹乃は視線を空から下ろした。すると、庭でメリッサに水をやっている信が目に入った。

「……」

 自分でも、鷹乃はその行動の理由がよくわからなかった。ただ気がつくと立ち上がって、階下へ降り、庭へ回っていた。

     2

 足音を聞いて、信が鷹乃を振り返り、屈託なく笑った。

「よう。もう帰るの?」

「……あなたが庭の手入れなんてしているとは、思わなかったわ」

「ああ、こいつは特別かな。南先生に頼まれたから」

「南先生? ……ああ、夏休みの講習に臨時で来てた……」

「そう。今はどこで何してるのか知らないけど、不思議な人だったよな〜」

「……」

 鷹乃は庭に置かれている長椅子に腰掛けて、信がメリッサの手入れをするのを見ていた。
 信は一度、不思議そうに鷹乃を振り返ったが、そのまま作業を続けた。そして、用具をしまうと、何も云わず自分も長椅子に腰掛けた。

「……」

「……」

 そうしてぼんやりと座っているには寒い季節だったが、しばらく二人は口を利かなかった。

「……ねえ」

「ん?」

「稲穂君は、白河さんとも仲良かったんでしょ」

「たるたる?」

 鷹乃の口からその名前が出たことに、信は少なからず驚いて、鷹乃のほうを見た。鷹乃はまっすぐ前を見つめている。信はその横顔を見ながら話を続けた。

「……んー、まあ、そうだな。トモヤのこと、可愛がってくれてたし」

「そんな、無理に理由考えなくていいのよ」

 苦笑する鷹乃。笑みを浮かべると、別人のように柔らかい表情になる。信も苦笑を返した。

「そっか。そうだな。うん、イナケンとのつきあいがあったから、三人で遊ぶこともあったよ」

「……どうして、別れちゃったのかしら、あの二人は」

「ええ!?」

 今度こそ心底驚いて、信は半ば腰を浮かした。鷹乃はやはり前を向いたままだった。

「健が、私を好きになったから?」

「それは……」

 言いよどむ信のほうに、鷹乃はようやく面を向けた。自分が何を云おうとしているのか戸惑っているようなその表情は、意外なほど幼く、心細げに見えて、信は理由もなくどぎまぎした。

「どうして、人の気持ちって、変わってしまうのかしら」

「寿々奈さん……」

「……あなたなら、わかるのかと思って」

 一瞬前のはかなげな様子が嘘のように、鷹乃はいつもの挑発的な調子を取り戻していた。信には苦笑するしかない。

「きっついなあ」

「そう?」

 信は黙って肩をすくめた。そして、真顔になって、鷹乃の目を覗き込んだ。

「……イナケンのこと、信じられなくなったのか?」

「……」

 鷹乃は束の間、信の視線をまっすぐに見つめ返した。けれど、ため息をつくと同時に、目をそらしてしまった。

「そうじゃない。……そういう訳じゃ、ないと思う」

「……」

「ただ、わからないだけ。白河さんの健に対する気持ちに、嘘はなかったし、健だって、そんないい加減な気持ちだった訳じゃないと思う。それなのに、どうして、私なんだろう。私の気持ちも、白河さんの気持ちも本当なら、どうして、どちらかを選んだりできるの?」

「寿々奈さん……」

 信はやや途方に暮れた様子で、眉をひそめた。そうして、鷹乃の真剣な横顔を眺めながら、つい苦笑してしまった。

「それは、寿々奈さんが考えることじゃないよ。イナケンが悩むべきことだろ」

「わかってるけど、そう割り切れることじゃないわ」

「うーん……」

 信は立ち上がり、大きく伸びをした。そのまま空を見上げて、考えながら言葉を続ける。鷹乃はやや上目遣いに、そんな信の背中を見ていた。

「確かにさ、これが自分にとって運命の人だ、なんてわからないよな。恋に落ちたときは、いつでもそう考えるのかもしれないけど、結局、一年と経たずに別れちゃったりして」

「……」

「ずっとずっと長いつきあいで、そのまま結婚しちゃうカップルもいるけど……それだって、ただなんとなくそうなっただけかもしれない。機会に恵まれなかっただけで、本当はどこか自分の知らない場所に、運命の人がいるかもしれない。そんな風に考えることもできるよ」

「じゃあ……どうやって、誰かを選ぶの?」

「勘……かな」

 振り返ってそう云い、信は笑った。しかし、鷹乃にじろっと睨まれて、慌てて首を振った。

「おいおい、ふざけてる訳じゃないぜ?」

「訊いた私が間違っていたわね」

「だーかーらーさー」

 信は大げさにため息をついて見せた。

「もっといい人がいるかも、なんて考えられる内は、本気じゃないんじゃないの?ってことだよ。先のことはわかんないけど、今この瞬間は、そのひとのことしか考えられない。恋ってそういうもんだろ?」

「……」

「寿々奈さんは、イナケンを選んでよかったのかなーって迷ってるの?」

「そんなこと……!」

 鷹乃は思わず声を大きくしそうになり、顔を赤くした。信が少し意地悪く微笑んでいたからだ。

「だったら、自分の気持ち、信じてやればいいんじゃないの。誰に遠慮することでもないよ」

「……」

「人の気持ちは変わるよ。悲しいけどね。でもだからこそ、今の気持ちを、大事にするべきなんじゃないのかな」

「……」

 黙り込んでうつむいた鷹乃を、信はしばし微笑んで見守っていた。だが、ふと腕時計を見て、驚いた表情になった。

「うわ、やべ、もうバイト行かなきゃ」

「あ……」

「ごめんな。じゃあ、また、なんかあったら云ってよ」

「……がとう」

「え? なに?」

「なんでもないわ」

「ん。じゃ」

 手を振りつつ、信は玄関のほうに歩いていった。鷹乃は少しその背を見送ったあと、またメリッサの繁る庭をぼんやりと眺めた。

(誰に遠慮することでもない……か)

 遠慮、だったのだろうか。この釈然としない戸惑いは。
 正直なところ、あのほたるの手紙を見てしまうまで、鷹乃は健とほたるのつきあいがどの程度のものだったのか、あまり深く考えたことがなかった。健の「ほたるに恋をしたことがない」という告白を聞いていたせいもあったかもしれない。

(だけど、白河さんから見れば、私の立場はきっと……)

 そう考えたとき、庭草を踏む足音がした。
 まだ信がいたのだろうか。鷹乃は何気なく顔を上げてそちらを見た。

「なあに、まだいたの? バイト、だいじょう……」

 鷹乃は言葉を詰まらせ、表情を凍らせた。
 そこに立っていたのは、信ではなかった。
 長い髪を二本に分けて縛り、大きなボストンバッグを脇に置いた少女が、いた。
 鷹乃を見つめる彼女は少し困ったような表情をしていたけれど、瞳には、何かを決意した強い光があるように思えた。
 鷹乃はゆっくりと立ち上がりながら、彼女の名前を呼んだ。

「白河……さん……」

     3

 部屋の真ん中に座布団を敷き、鷹乃はそこにぽつんと座っていた。
 健は窓辺に腰掛け、夜空にかかる月を見ている。
 ほたると別れた夜と同じ構図だと気づいて、健は居心地の悪い思いを強めた。

「……どうするの?」

 小さな呟きに、健は視線を室内に戻した。鷹乃がまっすぐに健を見つめていた。

「白河さんのこと、どうするの」

 健から目をそらさず、鷹乃はもう一度繰り返した。
 その視線にも口調にも、健を責めるものはなかった。けれど、健は何か痛々しさを感じて、窓辺から離れ、鷹乃の前に腰を下ろした。
 健は鷹乃に微笑みかけようとした。だが、鷹乃の真剣な表情の前では、そんな曖昧な表情をつくることはできなかった。

「どうするって……どうしようもないよ」

「……」

「そりゃ驚いたけど、でも、結局は年末年始の休みを利用した帰省でしょ? 予定よりちょっと早く帰って来ちゃったみたいだけど……」

「本気でそう思ってるの?」

 健の言葉を、鷹乃は強い口調で遮った。瞳に、初めて健を非難する色が浮かぶ。健は思わず目をそらしてしまった。

「白河さんは、あなたに逢いたくて帰ってきたのよ。そんな真剣な想いを、どうしてそんな風に誤魔化してしまえるの? またすぐにウィーンに戻るから、いいの? そんなの、あんまりよ……」

「……」

     *

 ――あのあと。ほたるは硬直した鷹乃に微笑んで、頭を下げた。

「こんにちは。久しぶり、鷹乃ちゃん」

「……」

「……ごめんね、ほたるはもう、ここには来ちゃいけないんだって、わかってたけど、だけど……」

「……」

 笑顔を浮かべたままで、ほたるの瞳に涙がにじんでいく。涙よりその笑顔が、鷹乃の胸に鋭い痛みをもたらした。

「遠く離れてみて、やっとわかったんだぁ。ほたる、あのとき、逃げ出しちゃったの。健ちゃんの気持ちが離れていくのが怖くて。だからもう、そばにはいられないって、そう云っちゃった」

「……」

「でも、それは間違いだった。気持ちの整理をつけたつもりで、健ちゃんに手紙を書いたんだけど……、そしたら、どんどん、健ちゃんに逢いたくなって……」

「……」

 手紙。『鷹乃ちゃんとお幸せに』そう書いてあった手紙。
 本心であるはずがない。そんなことはわかっていたはずだった。だけど。

「ほんとにごめんね、鷹乃ちゃん。嫌な思いさせて。ほたるは……ほたるは、健ちゃんに一目逢いたかっただけだから」

「……」

「今日は健ちゃんいないみたいだから、帰るね。しばらく家にいるから……また、連絡する」

 涙をぬぐいつつ、ほたるはもう一度笑顔を作った。そして鷹乃に頭を下げて、大きなボストンバッグを抱えて、帰っていった。
 鷹乃は結局、ほたるに何も云うことができなかった。ただ去っていく姿を、茫然と見送っていた。

     *

 ほたるは一言も鷹乃を責めなかった。
 もちろん、責められる筋合いもない。何度も考えたように、これは健とほたるの問題だ。
 けれど、もしほたるが自分をなじってくれたなら、こんな風に考えなくてすんだかもしれない。――鷹乃のそんな物思いを、健の呟きが遮った。

「だったら……ほかにどんな方法があるっていうの」

 鷹乃から面を背けたまま、健は震える声でそう云った。
 鷹乃もまた、その答えは持っていなかった。

「それは……」

「僕が好きなのは、鷹乃なんだよ」

 健は鷹乃を振り向いた。真摯なその瞳は、確かに信じるに値するものだと、鷹乃は思った。
 しかしそれでも、鷹乃は目をそらしてしまっていた。

「ほたるには、本当にひどいことをしたって、わかってる。そんな僕を鷹乃が許せないと云うなら、それも仕方がない」

「……」

「だけど、だからこそ、これ以上、ほたるに中途半端に優しくなんかできないよ。そんなの優しさじゃないって……今ならわかるから……」

「……」

「鷹乃……」

 健が手を伸ばして、そっと鷹乃の肩に触れた。鷹乃はびくっと体を震わせて、思わずその手を振り払ってしまった。

「……鷹乃」

「……ごめん……。少し、一人で考えさせて」

 云いながら、鷹乃は立ち上がって玄関へ向かった。
 健は引き留めず、ただ少し悲しげに見送っていた。鷹乃は健の表情を見ないよう努力しつつ、ドアを閉めた。


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