真紅の絆  第二章 涙

−前編−


     1

 男は、いつもどおり水を汲むために川へ向かっていた。
 人が足を踏み入れることのない山奥。そこに小さな小屋を建てて、男は暮らしていた。ひとりきりで、もうずっと長い間。
 だが、彼のいつもの水汲み場には、今日は先客がいた。
 若い女が、倒れている。
 体は半ば水の中に浸っている。どこかで川に落ちて、流れ着いたのだろうか?
 そこで男はふと顔を上げた。すぐそばにはかなり大きな滝があり、激しい水しぶきをあげている。
 もしあそこから落ちたのなら、助かるまい――そう考えながら、女の体を川から引き上げた。
 上体を抱きかかえ、水に濡れた長い髪を払って顔を覗き込む。
 その肌は白磁のように白く美しかったが、死を思わせる蒼白さはなかった。
 息はある。
 かすかに驚きを込めて、男はその美貌をしばし見つめた。

「ん……」

 女が身じろぎをし、眉をひそめる。

「武……さん……、薙……」

 うわ言に人の名前を呼んだが、意識を取り戻しはしなかった。
 男は彼女を腕に抱いて、立ち上がった。

     *

(深雪……深雪……深雪……)

 遠くで、名前を呼ぶ声がする。

(――誰? 私は……)

(深雪……深雪……深雪……)

 答えはなく、ただその名を呼び続ける。
 胸が切り裂かれるような叫び。
 悲しみが、流れ込んでくる。

(誰なの? 誰を呼んでいるの? 私は――)

 還らぬもの、手に入らぬものを呼ばわる声。それは私の悲しみを呼び覚ます。
 だからやめて。そんな風に嘆くのは。
 私は――。

「…………!」

 突然の意識の覚醒に、刺すような頭痛が伴った。
 沙夜はゆっくりと周りを見回す。粗末なログハウス風の部屋の中にしつらえられたベッド。そこに寝かされているようだった。
 体を起こそうとして、一糸まとわぬ姿であることに気づく。シーツを胸元で押さえながら、上半身を起こした。

「ここは……私……?」

 まだ痛みの残る頭に片手を当て、記憶を呼び覚まそうとする。
 しかし、目覚める前の不思議な夢と意識が混濁して、状況把握ができなかった。
 そのとき、ドアが開いて、男が入ってきた。反射的に身構えて、誰かをかばおうとする――誰を?

「……気がついたか」

 男は沙夜の様子になど特に関心のない風情だった。
 年の頃は20歳前後だろうか。もっと若いようにも見えるし、逆に老成したところが垣間見えるようでもあった。
 不思議と、警戒心は沸かなかった。沙夜はやや緊張を解きながら、男に話し掛けた。

「ここは……? 私……どうして?」

「川岸に打ち上げられていた。おそらく滝から落ちたのだろう。よく生きていたものだ」

 ぶっきらぼうに男が答える。
 その言葉で、少しずつ意識を失う前のことが沙夜の脳裏に浮かんできた。

「滝から……落ちて……」

 そうだ、あのとき――。
 魔物と戦いになったとき、女の子が現れて……とっさに守ろうとした私と、薙が……、――薙!

「薙! 薙は?」

「……?」

「藍色の髪をした、ショートカットの女の子……私と一緒だったはずの……」

「知らん。俺が見たのはあんただけだ」

「……そう……」

 川辺に倒れていたときより、さらに蒼白な顔でうつむく沙夜を、男はやはり無表情に眺めていた。そして手にしたものを沙夜の枕もとに置くと、

「着替えだ」

 一言言い残し、部屋から出て行った。
 男が置いていったものを、沙夜は手に取った。男物のTシャツとズボン。どちらもぶかぶかだったが、そのままの格好でいるわけにもいかないので、袖を通した。ズボンのすそをまくり、ウエストはベルトをきつく締めることでどうにかずり落ちるのを防いだ。
 ドアを開けて、外へ出る。隣の部屋には机があり、男は腰掛けて珈琲を飲んでいた。
 向かいの席には、湯気を立てるカップが置かれている。
 沙夜は男のそばに立ち、頭を下げた。

「あなたが助けてくださったのね。ありがとう。さっきは混乱していて……ごめんなさい」

「……」

 男は何も言わず、向かいの席を指した。
 沙夜はその席に腰掛け、目の前のカップを取った。カップにはホットミルクが注がれていた。両手でカップを包み込むように持ち、そっと口につける。
 ミルクの温もりが、体の隅々まで満たしていくようだった。

「……おいしい」

 宝石のような笑顔がこぼれる。
 その笑顔を、男がじっと見つめていることに気づいて、沙夜は微笑みながら首をかしげた。すると、男はややばつが悪そうに視線をそらした。

「?」

 見とれていたのだ、とは沙夜は気づかなかった。
 ミルクを飲み干し、カップを机に置くと、沙夜はもう一度男に頭を下げた。

「ごちそうさま。温まったわ。……えっと……」

 少し顔を赤らめて、言いよどむ沙夜。男がやはり無言のまま視線を戻した。

「私の服はどこかしら?」

 今度は、男がかすかに赤面したようだったが――動揺を表に出すほどではなかった。

「まだ乾いていない」

「そっか……。何から何まで、ほんとにごめんなさい」

 屈託なく微笑んで、3度目の礼を述べた。目の前の男が、意識のない女に何かするわけがない。理由はないが沙夜はそう確信していた。

「じゃあ、この服、少しお借りしていいかしら? 私、行かなきゃ――」

 そう云って、立ち上がる沙夜。男もまた思わず腰を浮かしていた。

「まだ出歩ける状態じゃない」

 その言葉に、当の男自身が驚いていた。出て行くというなら止める筋合いはないはずなのに。俺はこの女を心配している?
 そんな男の当惑に気づくはずもなく、沙夜はまた笑顔で礼を云った。

「ありがとう。でも、私、あの子を探さなきゃ。きっと心配してる」

 その笑顔が心に染みたのは、いつか見た笑顔に似ていたからなのか――。
 男は言葉を失い、ただ沙夜の姿を見つめた。
 だが、沙夜がバランスを失って倒れそうになると、即座に動いてその体を支えた。

「あ……ご、ごめんなさい」

「云わんこっちゃない。そんな体で何をしようって云うんだ」

「だけど……あ!」

 それでも薙を探しにいこうとする沙夜を、男は強引に抱き上げた。そのまま先ほどの部屋に戻り、ベッドに沙夜を降ろす。

「あんたが行き倒れたら、その子は喜ぶのか」

「……」

 男の真摯な瞳の色に、沙夜は反論することができなかった。
 張り詰めていた気持ちが緩んで、つい涙がこぼれてしまう。

「……ごめんなさい。ありがとう」

「……」

 男がそっと手を伸ばし、沙夜の頬に触れる。そして流れる涙を、ぬぐった。

「……あの……?」

「……!」

 その優しい仕草に心を温められながらも、なぜ彼がそうまでしてくれるのかわからず、沙夜は不思議そうに男を見つめた。初めてこの部屋で会ったときには、彼は行きがかり上助けただけで、無関心な風だったではないか。
 沙夜の疑問に気づき、慌てて男は手を引っ込めた。隠しようもなく狼狽してしまった彼は、そのまま何も云わずに部屋を出ようとして――、ふと、何かに気づいて足を止めた。

「……探す手間が、省けたようだな」

「え? ……どういうこと?」

「寝ていろ」

 沙夜の問いに答えず、男は後ろ手にドアを閉めた。そして玄関――というほどの作りではなかったが――のドアを開け、外に出た。
 そこには、藍色の髪の少女が立っていた。

     2

 男と、少女――薙は、しばらくの間、無言で向き合っていた。
 ふたりの間に張り詰めた気が漂う。――というか、薙が男に向けて放つ敵意がどんどん激しくなっていく。
 その殺気と呼んでもいい激しい気の流れを感じて、男は外に出たのだった。
 ややあって、男をきつく睨み据えたまま、薙が口を開いた。

「ここに髪の長い女の人がいるでしょう? 返してもらうわよ」

「それが人にものを尋ねる態度か?」

 すでに物理的な圧力に近い薙の殺気を正面から受けながら、男は平然と答えた。
 唇を噛み、薙が身構える。酒呑と相対したときと同等か、それ以上に彼女は緊張していた。

「素直に返さないなら、腕ずくで取り返す」

「できるのか?」

「――やってみせるわ! それが私の約束だもの」

 緊張感が限界まで高まる。先手必勝。渾身の一撃を薙が放とうとした、そのとき。

「――薙!」

 沙夜の明るい声が響いた。薙が男の背後に目を向けると、ドアを開けて沙夜が姿を現すところだった。

「さやっち、ダメ、今、出てきたら――!」

 このまま攻撃すれば、沙夜にまで当たる。とっさに薙は気を放つのをとどめた。しかし、状況はより悪くなっている。このまま沙夜を盾にされたら、どうしようもない――。
 だが、沙夜はためらわずに小屋を飛び出した。そのまま男の脇を走り抜け、薙に抱きついてくる。

「……え?」

 男がその隙に攻撃するどころか、何も邪魔しようとさえしなかったことに薙は驚いた。
 茫然と立つ薙の首に腕を回し、沙夜が涙を流す。

「よかった……。無事だったのね……」

「さやっち……」

 沙夜の体にどこも怪我などないことを見て取り、薙は安堵の息をついた。
 そして男に視線を戻すと、男はただ肩をすくめて見せた。
 お前の勘違いだ、わかったか? そう云われたような気がして、薙は少し鼻白んだ。
 まだわかったもんじゃないわよ。ぷいっと横を向いて、薙はそう伝えた。

「さやっち、この男は……?」

 安心して気が抜けたのか、また倒れそうになった沙夜を支えながら、薙が訊いた。沙夜は微笑みながら、

「私が倒れていたところを、助けてくれたの。えっと……」

 そこまで云って、沙夜は気づいた。自己紹介さえしていない。

「あ、ごめんなさい、名乗ってもいなかったわね。常磐沙夜です。この子が……」

「御門薙。あなたは?」

 相変わらず警戒心を剥き出しに、薙が云う。どうしてそんな態度を取るのか、いぶかしげに沙夜は薙の顔を見た。

「伊達将士」

 一言言い捨てると、男――将士は背を向けて小屋に戻った。ドアを閉めなかったのは、入れ、という意思表示だろうか。

「どうしたの、薙? 私のこと、心配してくれてたのはわかるけど、あの人は信用できると思うわよ」

「さやっち……」

 やれやれ、という風に薙は頭を振った。そして真剣な面持ちで、沙夜の鼻先に指を押し付けた。

「もっと鼻が利くようになってくれないと、命がいくつあっても足りないわよ。自分が闇の者にとってどれだけ価値があるか、知ってるはずでしょ?」

「それはそうだけど……、……! じゃあ、あの人……?」

「間違いないわ。それも……最強の一族……!」

 将士が消えたドアを見据えて、薙が呟いた。
 しかし沙夜はその薙の言葉と、さっき頬に触れた手の優しさとの溝が埋められず、茫然と立ち尽くすばかりだった。

     3

 重苦しい沈黙が降りていた。
 薙は本当はこれ以上将士に関わらず、ここを去りたかったのだが、消耗している沙夜を休ませる必要があった。そのため、やむなく沙夜の勧めに従って、将士の小屋に身を寄せていたが、不本意であるということを思いっきり面に出して押し黙っていた。
 将士のほうもふたりを拒むでもないが、何を云うでもなく、ただ黙って座っている。
 そんな両者の間で、沙夜もまた途方に暮れて言葉を失っていた。

「あ、あの……」

 どうにかこの状況を打開しようと、沙夜が口を開く。

「伊達さんは……」

「将士でいい」

「将士……は、どうしてここに……?」

「……」

「あ、ごめんなさい、立ち入ったことを……」

「どーせ人目を避けなきゃいけないようなことしたんでしょー」

「……薙!」

「……」

 再び沈黙。沙夜は頭を抱えてため息をついた。
 ほかに話題はないものかと考えて――滝から落ちる前のことを、思い出した。

「そうだ。あの女の子は……? 大丈夫だった?」

「うん、大丈夫。ちゃんと守ったよ」

「よかった……」

 胸をなでおろす沙夜とは対照的に、薙は申し訳なさそうに表情を暗くした。

「でも、そのせいでさやっちへのフォローが遅れちゃった。それでこんなことになって……ごめんね。その子を村まで送っていかなきゃいけなかったから、すぐ探しにも来れなくて……」

「いいのよ、そんなの。それに薙がとっさに結界を張ってくれたから、私も怪我をせずにすんだんでしょう?」

「さやっち……」

 そんなふたりのやり取りを、将士が不思議そうに眺めていた。
 その視線に気がついた薙が、沙夜の耳元で――将士に聞こえるように――囁いた。

「見て見て、妬いてる妬いてる」

「……薙ったら」

「……」

 これには将士も思わず苦笑をもらした。
 座りなおし、薙のほうをまっすぐに見る。射るような強い視線。薙もまた正面から睨み返した。
 ふたりの間で、またしても緊張感が高まっていく。

「お前……叢雲、だな? 何を企んでいる?」

「企む……?」

「剣であるお前が、主を求めるのは当然の性だ……。だが、自分より霊格の低い相手を主に選ぶことはあるまい。沙夜……と云ったな、彼女を利用して何を為そうというんだ?」

「な……」

 将士の言葉に、薙は毛ほどの動揺も見せない。むしろ沙夜のほうが、驚いて思わず腰を浮かしていた。
 利用? 薙が、私を?

「何を云っているの? それに……私は薙の主じゃないわ。薙にとっての、剣の主はほかにいる……。彼女はその主の命で、私を守ってくれているのよ」

 確かに沙夜は「叢雲」を使いこなした。しかしそれもまた、薙や武が一時、自分に力を貸してくれただけだと、沙夜は思っていた。

「そうは見えなかったな。それに……」

 一度沙夜のほうに視線を走らせたが、またすぐに将士は薙を見据えた。薙は変わらず冷静に、将士の視線を受け止めている。

「剣がその身を預けること……そのことを、軽く考えすぎていないか? 剣の民にとって、その本来の姿を委ねるということは――」

「意外におしゃべりね」

 将士の言葉を、薙が遮った。表情を押し殺し、挑発的な台詞を叩きつける。

「こんなところで世捨て人を気取ってるくせに、その正体は噂好きなミーハーってこと? 一族の誇りが泣くわよ」

「薙。やめなさい」

 強い口調で、沙夜が云う。薙は肩をすくめて、口をつぐんだ。

「……お前が何を考えようが、俺には関係ない」

「将士、あなたももう――」

「だが、俺はお前が気に食わん。友さえも欺き、何かを為せると思うのか?」

「……」

「――答えろ」

 静かな一言だった。だが同時に、将士から発せられる気が、桁違いに膨れ上がった。
 沙夜はほとんど金縛りに近い状態になって、声を出すこともできない。

(なんて……霊格……。薙の云ったとおりだわ……)

 その気を、薙は真正面から受け止めた。必然的に、薙の全身からも気が吹き上がる。
 激しい気のぶつかり合いは、小さな地鳴りさえ起こした。机がカタカタと揺れ、窓ガラスにひびが入る。
 ついに限界を迎え、気の奔流が爆発を引き起こそうとしたとき――。
 薙が、ニッ、と笑った。
 途端に、気の流れが変わった。激しくぶつかっていた気を、薙はすべて受け流してしまう。流れに浮かぶ木の葉のように。
 それは、戦意のなさを示すと同時に、薙の実力を示してもいた。

「……」

 軽くため息をついて、将士が気の放出をやめた。
 瞬時に静寂が訪れる。ようやくまともに息ができるようになって、ふぅっと沙夜が長い息をついた。

「……食えん奴だ」

「ふふん」

 Vサインを出して見せる薙。完全に間を外された。
 将士は頭を振りながら立ち上がった。

「飯にするか」

「さんせーい。もうお腹ぺっこぺこ」

 明るい声を上げる薙を軽く睨みながら、将士は簡易キッチンに立った。

「あ……手伝うわ」

「いい。休んでろ」

 そう云われたが、沙夜は将士と並んで立ち、食事の準備を始めた。将士は沙夜の横顔をちらっと眺めたものの、何も云わず、作業を進めた。
 しばしの間、何も会話はなく、ただ食事の準備をする音だけが響いていた。

「……あのまま続ければ、巻き添えを食ってあんたも無事ではすまなかっただろう」

 独り言のように、将士が呟く。
 沙夜は黙って手を止め、将士の顔を見た。

「奴があんたを守ろうとしているのは本気だろう。――だが、それには何か目的がある。あんたに隠した目的がな。気を許すのは危険だ」

「……」

 沙夜は微笑みを浮かべて、料理を再開した。鍋のシチューをゆっくりと混ぜながら、同じく独り言のように呟く。

「ありがとう、心配してくれて」

「俺は、別に――」

「でも、大丈夫。私は、薙を信じてるから」

「……」

「今は云えないことがあっても、時がくれば話してくれるわ。それでいいじゃない」

「……なぜだ?」

 沙夜の横顔を食い入るように見つめながら、将士が訊いた。
 なぜ、そんな風に云える。なぜ、そこまで人を許せる。
 その、すがるようでさえある視線に、少し戸惑った笑顔を浮かべながら、沙夜は答えた。

「理由が……いるのかな」

「……」

「人を信じるのに、理由がいる?」

「……」

 将士は答えず、ただじっと沙夜を見つめ続けた。
 沙夜は皿を取り出し、シチューをよそう。そうしながら、言葉を続けた。

「私は知ってる。ひとつの約束を、千年かけて貫いたひとを。だから、信じられるわ」

 そこで将士に向き直り、微笑みながら、シチューをよそった皿を差し出した。

「持っていってくれる?」

 将士は半ば茫然とその皿を受け取り、テーブルへと持っていった。
 沙夜の笑顔が、心の深いところに沈めた何かに触れた。
 そう、あの笑顔を俺は知っている。傷つき、迷い、それでもなお自分に向けられた笑顔。
 それを守るためなら、どんなことでもできると思った。
 ――しかし、そのことに気づいたのは、喪失の瞬間だったのだ。
 降り積もる雪の中、腕の中のぬくもりが次第に失われて……。

「――将士?」

 ふと腕に触れた感触に、はっと我に返った。
 目の前に、気遣わしげな瞳がある。

「どうしたの? 気分でも悪いの?」

「いや……なんでもない……」

 故意に沙夜と目を合わせないようにして、将士は椅子に腰をおろした。
 沙夜もそれ以上は問いかけようとせず、薙と自分の分の皿を持ってきて腰掛ける。
 将士はそのあと何もしゃべらず、何かをじっと考える風だった。薙はそんな将士を観察するように見据えながら、スプーンを取る。
 はじめと同じように、沈黙が降りたまま食事の時間は過ぎた。けれどその沈黙に、さきほどのような居心地の悪さはないように、沙夜には思えた。

     *

 灯りを消してから、どれくらい時間が経っただろうか。
 衰弱しているはずだが、妙に寝付かれず、沙夜はベッドの中で寝返りを打った。
 すぐ隣には、薙が寝ている。こちらに背を向けている姿をしばし見つめたあと、沙夜は手を伸ばしてその髪を撫でた。

(よかった……無事で……)

 だがそのとき、沙夜は薙の肩が小さく震えていることに気づいた。
 泣いている?

「薙……?」

 沙夜が体を起こして、薙の顔を覗き込もうとすると、薙はシーツを頭までかぶってしまった。嗚咽はやむことがない。

「どうしたの、薙」

「ごめん……ごめんね、さやっち……」

「薙……」

 沙夜は優しく微笑むと、薙の体を包み込むように抱いた。シーツ越しに頭を撫でながら、囁く。

「どうして謝るの? 薙が私を守ってくれたんでしょう?」

「違う……違うよ……。わかってるんでしょ? 私は……」

「うん、わかってる……。薙は、私のそばにいてくれたわ……」

「……」

「今はそれだけでいいの。ありがとう、薙」

「さやっち……」

 言葉を詰まらせる薙を、沙夜は強く抱いた。安心させるように、薙の手を握る。
 薙は子供のようにその手を握り返した。
 やがて嗚咽がやみ、薙が小さく寝息を立て始めたのを確認してから、沙夜は手を離して横になった。
 暗闇を見つめる瞳から、一筋、涙が流れた。



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