真紅の絆  第二章 涙

−中編−


     4

 薙が目を覚ましたとき、すでに沙夜はベッドにいなかった。
 寝ぼけ眼をこすりながら、薙は起き上がって隣の部屋に行く。朝食の準備をしていた沙夜が振り返って、いつもと同じ笑顔を見せた。

「おはよう、薙」

「……おはよ」

 その笑顔が嬉しかったから、薙もまた何もなかったように微笑む。そして大きく延びをした。

「早起きね、さやっち」

「もう日も高いわよ。居候なんだから。顔、洗ってらっしゃい」

「はーい」

 洗面所はないので、沙夜が倒れていたあの川まで行かなければならない。ドアを開けて外へ出ると、ちょうど水を汲んできた将士と鉢合わせした。

「……」

「……」

 激しく視線がぶつかる。沙夜が心配げに振り向いたが、

「……おはよ」

 仏頂面のままとはいえ、薙が挨拶をした。苦笑交じりの安堵のため息をついて、沙夜は調理の手を再開する。
 将士は両手に持っていたバケツの一方を、薙に差し出した。

「顔を洗うなら使え」

 薙が受け取ると、返事も待たずに部屋に入ってしまう。
 バケツの水で顔を洗うことに薙は少し躊躇したが、どうせ同じ水だ、と考えて使わせてもらうことにした。
 冷たい水を手のひらにすくい、やや乱暴なほどの手つきで顔を洗う。
 そしてバケツのふちに手をかけ、水面に映る自分を見つめた。

「……しっかりしなきゃ」

 バケツを手に部屋に戻ると、朝食の準備は完了していた。キッチンにバケツを置いて、テーブルにつく。

「いただきます」

「いただきまーす」

「……」

「あんた、行儀悪いのね」

「……いただきます」

 それきり、やはり沈黙したままで食事の時間が続いた。けれど沙夜はどこか嬉しそうだ。こうして誰かと食卓を囲むのも悪くない、薙もそう思った。
 将士はどうなのか?と考えて薙は何度か将士の表情を盗み見たが、特に感情を表すでもない。つまんない男。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさま」

 その言葉を、薙は将士の顔をじろっと眺めながら云った。
 ややうつむき加減に将士が答える。

「ごちそうさま」

 その様子に、沙夜でさえ思わず吹き出してしまう。薙もくっくっくっと喉で笑った。
 将士は憮然とした表情で立ち上がり、キッチンに向かった。何をするかと思えば、珈琲を入れてくれているらしい。
 やがて、カップを3つ持って戻った将士は、何も云わずに沙夜と薙の前にカップを置いた。

「ありがと」

「変なもん入ってないでしょうね?」

「……」

「薙!」

「うそうそ。ありがとー」

 カップを取って、口をつけてみる。薙にとっては癪に障ることだったが、その珈琲は非常においしかった。

「おいしい珈琲が入れられるのって、素敵な才能よね」

 沙夜のその言葉に、将士はまた黙って横を向いた。
 こいつ、照れてるのかしら?
 その将士の横顔と、その横顔に向けられた沙夜の微笑とを面白くなさそうに眺めながら、薙は考えた。

「……さて、と。そろそろお暇する、さやっち?」

 飲み終えたカップを机に置きながら、薙は云った。
 ちょっと意地悪してやりたい気持ちがあったのは確かだったが、いつまでもくつろいでいられないのは本当のことなのだ。

「そう……ね。将士にはずいぶん迷惑かけちゃったし……」

「……行くのか?」

「寂しいの?」

「薙ったら」

 とりあえず将士は薙を無視することに決めたようだ。もう動揺を見せることもなく、沙夜のほうだけを見て話を続ける。

「また倒れないようにすることだな」

「ありがとう。でも一晩休ませてもらったから、もう大丈夫。それに……まだ、カタがついてないんでしょ?」

 最後の台詞は、薙に向けられたものだ。薙が頷きつつ答える。

「ごめん。ほんとヘマね、今度の私」

「あの状況じゃしょうがないわよ」

「……魔物のことか?」

「そう。止めないと。だから、もう行かなきゃいけないの。……ほんとにありがとう、将士」

「……」

 沙夜のまっすぐな視線から、つい将士は目をそらしてしまう。そのことを少し寂しく思いながら、沙夜は立ち上がろうとした。

「待て。魔物のことを、聞かせてほしい」

「……え?」

「この辺りは、魔物が出るようなところじゃなかった。あんたたちが見た魔物ってのは、どんな奴だったんだ?」

 沙夜と薙は目を見交わした。考えながら、沙夜が説明する。

「どんな……って云えばいいのか……、気の塊のような魔物だったわ」

「気の塊?」

「そう……邪鬼や餓鬼みたいな、そういうわかりやすい実体がなくて、とらえどころのないモノ……。それで、どう対処したものか、とっさに判断がつかなくて……」

「……」

「多分『霊』に近いものだと思うんだけど……明確な意思のようなものも感じられなくて……正直、よくわからないわ」

「……そうか」

 沙夜と薙が見たその魔物は、1カ月ほど前から姿を現し、森に入った人々を襲うようになっていた。その噂を耳にして、ふたりはこの山に入ったのだった。

「だんだん、そいつの出現場所が人里に近くなってるの。そのうち、村を襲うかもしれない。だから、ゆっくりはしてられないのよ」

 立ち上がりながら、薙が云う。その言葉には、沙夜を促す意味も込められていた。
 頷いて、沙夜も立ち上がる。そして将士に深々と頭を下げた。

「ほんとにありがとう、将士。……さようなら」

 将士は答えない。ただ無言で立ち上がって、ドアを開けた。
 そのドアを抜けて、沙夜と薙は表へ出た。もう一度沙夜が将士に頭を下げて、歩き始める。
 その後姿に、ふと将士が声をかけた。

「殺すのか?」

 沙夜が足を止めて、振り返る。瞳に深い哀切を込めて。

「殺したくはないわ」

 それだけを答えて、沙夜はまた歩き出した。二度と振り返らずに。
 薙が将士に向かってあかんべをして、沙夜のあとを追った。
 ふたりの姿をしばらく見送っていた将士は、部屋に戻ると、椅子に座って深いため息をついた。
 椅子の背にもたれて天井を見上げ、何かをじっと考え続ける。
 一度目を閉じ、開いた。
 そして立ち上がり、小屋を出て行った。

     5

「ねー、さやっち、ほんとによかったの?」

「何が?」

「すっとぼけちゃってさー。まんざらでもなかったんじゃないの? しょ・う・じ・く・ん」

 小走りに沙夜の前へ出て、やや上目遣いに沙夜の顔を覗き込みながら、薙は云った。いつものからかうような口調だが、目の色がどこか真剣だった。

「……なーに云ってんのよ」

 肩をすくめて、沙夜はまた薙を追い越して足早に歩く。薙はそのあとを追った。

「ほんとに?」

「ほんとよ」

「ほんとにほんとー?」

「……もう」

 沙夜が急に立ち止まったので、薙はその背中にぶつかってしまった。そのまま顔を上げると、背中越しに振り返る沙夜と目が合った。

「報われない恋の告白を聞きたいの? 知ってるくせに」

「……」

 無言で沙夜の瞳を見つめたあと、薙はうつむいて額を沙夜の背中に乗せた。目を閉じて呟く。


「ごめん」

「どうしたのよ。らしくないわね」

「だね」

 顔を上げると、薙は小さく笑って歩き出した。

「あいつ、ちょっといい男だったからさー」

 またおどけた様子で薙が云う。それが空元気だとわかったからこそ、沙夜はその話に乗ることにした。

「……ふーん?」

 いたずらっぽく笑って、薙のほうを見る。薙が不審げに振り返った。

「なーによ?」

「そゆこと?」

「だから、なーに?」

「薙のほうが、まんざらでもなかったんじゃないの?」

「なっ……」

 思いがけない逆襲に、薙は耳まで真っ赤になってしまった。いつもからかわれることが多い沙夜は、嬉しそうに笑う。

「あ、赤くなってる。図星?」

「バカ云ってんじゃないわよ、もう」

 ぷい、と前を向いて、そのまま歩き出す薙。さっきとは逆に、その後ろを沙夜がついていく形になった。

「だいたい、神剣が恋なんて、笑えない冗談だわ」

「そんなことないわよ。神剣である前に女の子でしょ、薙は」

「……」

「薙?」

「……それは違うよ」

 足を止めた薙は、暗い面持ちでうつむいた。唇を噛み締めて、思いつめた表情を浮かべる。

「私は女の子である前に神剣だから……だから、パパは私を天に戻したの。そうでしょ?」

「薙……」

 悪ふざけで薙の痛みに触れてしまった。沙夜は己の発言を後悔しながら、どう言葉をかけたものか迷った。立ち止まったままの薙の後ろに歩みより、背中からそっと腕を回して薙を抱きしめる。

「ごめんね、薙」

「……ううん、いいの。ごめん、変なこと云って」

 小さな声で囁く薙。沙夜は抱きしめる腕に力を込めた。

「もし……もし薙が望まないなら、もう二度と剣になんかさせないから」

「さやっち……」

 薙は沙夜の腕から離れると、笑顔で沙夜の目を見つめた。その笑顔はけして作り笑いではなかったが、どこか悲しげな様子があり、沙夜の胸は痛んだ。

「それも違うよ。私は、私の意志で、さやっちを助けたいと思ってるの。私が望んで、さやっちの振るう剣になるんだよ」

「薙……」

「よろしくね、マスター」

 今度はいつもの少しからかうような笑顔を浮かべると、薙は振り向いて走り出した。

「え、それってどういう……」

 沙夜も走ってそのあとを追おうとした、そのとき――。
 突風が一瞬吹きすぎ、――魔の匂いを、運んだ。

「薙……これ……」

「お出ましのようね」

 緊張に顔を引き締めて、薙が頷く。
 ふたりは足を速め、気配のするほうへ向かった。

     6

 断崖からは、村の景色が見下ろせた。もうここからなら、歩いて1時間もあればたどり着けるだろう。

「こんな近くに……」

「今度こそ止めないと、まずいことになるわね」

 薙の言葉に、沙夜が頷いた。
 同時に、将士の最後の言葉が思い出される。

「殺すのか?」

 殺したくはない。けれど、ここで止められなければ、今度こそ人里が襲われて大きな被害が出る。それはなんとしても避けなければ。

(結局、人を守るためには闇の者を犠牲にせねばならんのではないか)

 今度は、酒呑の声が聞こえたような気がした。
 酒呑は時を与えてくれたが、まだ彼を納得させられる答えを、自分は得ていない――。沙夜は唇をかんでうつむいた。

「さやっち、来るよ!」

 薙の言葉が、沙夜の意識を現実に引き戻す。
 とりあえず、やれることをやるだけだわ。
 そう決意して面を上げた沙夜の前に、黒いモノが現れていた。

     *

 それは、黒い「モノ」としか表現しようがなかった。淀んだ気が凝り固まったものと云えばいいのだろうか。実体もなく、ただそこに「ある」という気配のみが感じられた。
 意識さえあるのかどうかわからない。だが無差別に破壊を繰り返すのではなく、人に対してのみ害をなすことから、何らかの意志が働いているのは確かだった。
 意志があるのなら、会話をすることもできるかもしれない。そう考えて、沙夜は一歩それに対して歩み出したのだが、

「危ない、さやっち!」

 問答無用で、それは攻撃を仕掛けてきた。黒々とした気配の一部が、触手のように何本も伸びてくる。
 薙は沙夜をかばいつつその攻撃を手刀で受けた。

「あ……!」

 霊力自体はたいしたことがなかったが、それに触れたことで体に流れ込んでくる負の想念に、薙は身震いした。思わず膝をついてしまった薙を、沙夜が抱え起こしながら後方へ下がる。

「大丈夫、薙?」

「うん……でも、おかげでわかったわ、こいつがなんなのか」

 自分を抱くようにしながら立ち上がり、薙はそれを見据えた。まだ体の震えが収まらない。なんていう――なんていう深い憎しみ。
 それはまさに闇そのものだった。ぽっかりと開いた穴に、憎しみだけが淀んでいる。

「これは……御霊だわ」

「御霊って……恨みを呑んで死んだ人の、荒ぶる御魂?」

「そう……だけど、これは人の御霊じゃない。動物霊や自然の精霊……そういった低級霊の集合体だわ」

「どういうこと?」

「多分、人間に殺された動物や、破壊された草木……それらの人間への憎しみが、ひとつに凝り固まったもの……。だからこれは、人への悪意のみで動いているのよ」

「そんな……」

 薙の神気を受けて一時ひるんでいた御霊が、再び迫り来る。だが薙が張った結界に触れて、慌ててまた触手を引っ込めた。

「鎮める方法はないの……?」

 苦悶しているかのようにうごめく黒い気配を見つめつつ、沙夜が呟いた。
 ここにもまた、人の罪の証がある。それを消し去るしか、自分にはできないのか。

「わからない。……どちらにしても、時間がないわ」

 沙夜の気持ちを察しながらも、決断を促すように薙が答えた。
 このまま対峙していたら、御霊はふたりを避けて村へ向かうだけだろう。それを看過することはできない。しかし。

「やってみる」

 一言呟くと、沙夜は立ち上がった。そのまま結界から出ようとする沙夜の腕をつかみ、薙が引き止める。

「何をする気? 奴の力自体はたいしたことないけど、とんでもない瘴気を持ってるわ。そばに寄ればただじゃすまないわよ」

「わかってる。でも、私のほうが薙よりまだ耐性があるはずでしょ」

「そういう問題じゃないよ! 何をしようって云うの? 奴にはもう人への憎しみしかないのよ。説得とか通じる相手じゃない」

「それもわかってる。……だけど、ね」

 自分の腕をきつくつかんだ薙の手をそっと振りほどきながら、沙夜は言葉を続けた。

「私は確かめたい。私がやろうとしていることに、本当に意味があるのか。だから、彼らと向き合うことなしに答えを出すことはできないの」

 薙の手を握り、その目を見つめながら、沙夜が云う。
 その瞳にあった深い悲しみと、同時に何かを為そうとする強い意志。その瞳にこそ、薙は賭ける気になったのだったが――。

「無茶だよ、さやっち……」

 呟きながらも、止められない、と薙はわかっていた。ならば何があっても自分が沙夜を守るまでだ。
 そうした薙の決意を知ってか知らずか、沙夜は静かに振り返り、一歩一歩御霊に近づいていった。
 結界を、出た。
 たちまち、黒い触手が踊りかかり、沙夜の体を包む。

「さやっち……!」

 とっさに動こうとした薙を、沙夜が一瞥して制した。まだ、ダメ。
 沙夜を信じるしかない、と知りながらも、薙は焦燥に唇をかんだ。

     *

 全身にまとわりつく黒い触手から、薙が感じたのと同じ負の想念が流れ込んでくる。
 いや、むしろ薙より沙夜のほうがそれに近い存在であるだけに、よりダイレクトに彼らの慟哭が沙夜の心には聞こえていた。

(憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い)

(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い)

(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない)

「ああ……」

 思わずうめき声がもれる。瘴気の毒のせいだけではない。沙夜の中のまつろわぬものの血が、彼らの叫びに反応していた。
 酒呑の言葉が、胸によみがえる。

(我らまつろわぬものは、服従か死かを迫られた。いや、服従さえ許されず、ただ無意味な殺戮の対象とされたことも数知れぬ。血と憎悪、我らと人との間にあるのはそれだけだ)

「そう、そうよ……」

 あのときも、その言葉を完全に否定することはできなかった。
 そして今は、それが正しいことのように思える。なぜなら自分もそうして、踏みにじられてきたからだ。
 何度生まれを呪ったことか。望んで異形に生まれてきたわけではないのに、ただそれだけを理由に忌み嫌われた。
 そしてその呪いは、やがて他者に向けられた。自分に何の罪がある。なぜ自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか。これが世の中の理なら、そんな世界は壊れてしまえばいい!
 沙夜は血の涙を流しながら、そう考えた。
 ――けれど。もしこの世界が壊れてしまったら。あのひとも、いなくなってしまう。
 沙夜は思い出した。苦しむ自分に、血を分け与えてくれた少年を。ひとりきり涙を流す自分の頬を、優しく包んでくれた彼を。
 次々思い出していく。ようやく出会えた、心分かち合える仲間。そして今も、自分を案じてくれる少女がそばに。
 負の想念が、自らの内から消えていくのがわかった。
 体を包んでいた触手が、戸惑ったように離れ、うごめく。
 沙夜は自ら手を伸ばし、触手の一本をつかんだ。

「闇にだけ目を向けないで……。きっと、逢えるよ……」

 御霊が、動揺したように震える。
 そのとき、沙夜は見えたような気がした。憎しみの向こうにあるものが。彼らを憎悪に縛り付けるもの。
 真実をつかもうと、さらに一歩踏み出した瞬間――。
 闇に、堕ちた。
 何も見えず、何も感じられない。ただ闇だけが周囲に広がっている。絶対的な孤独。そして、次に。
 体中を引き裂かれる痛みに襲われ、沙夜は悲鳴をあげた。

「ああっ……こ……こんな……」

 沙夜は御霊にシンクロしすぎていた。撃たれ、裂かれ、焼かれ、潰され、食らわれたものたちの痛みが、沙夜の精神こころ肉体からだを苛んでいく。恨みと憎しみにすべて塗りつぶされ、沙夜自身が御霊の一部と化そうとしていた。
 そのとき――。

「瞑れ、兄弟」

 聞き覚えのある声とともに、視界が真っ白になった。
 衝撃に弾き飛ばされた沙夜を、薙が支える。
 沙夜が目を開けたとき、御霊の姿は消えていた。
 そしてそこに立つ、ひとりの男。

「将士……?」



後編へ

トップページへ戻る