ねこ猫ヒカル
【10話 消滅】
「伊角さん!」
人間界に偵察に行っていた伊角が宮廷に戻るやいなや、和谷が息せき切ってやってきた。。
「和谷。」
「人間界どうだった?」
「それが、あの人間・・・塔矢っていったっけ?あいつ、なんだか、道をうろついて探してるんだ。ヒカルの君の名を呼びながら・・。オレ、何か、人間見直したかも・・。」
「ふーん。ま、いいや。それより、早く早くこっち来てよ。」
和谷は、伊角の手を引いて、廊下を駆けた。
「和谷ぁ。いつも廊下は走るなって佐為の君に叱られてるだろ?」
伊角は気にして、早歩きにしてみたり、足をなるべくすって移動した。
「大丈夫。佐為の君は今、ヒカルの君の所だから。」
和谷はどたどたと走りながら言った。
「え?ヒカルの君の所?またいじめてるの?佐為の君は・・。もう充分ヒカルの君も反省したろうに・・。」
伊角はヒカルを哀れに思って、ため息をついた。もうすぐ土牢に着く。和谷は急に立ち止まった。
「ここからは静かに・・。」
和谷が唇に人差し指を立てて、しーっとする。伊角は黙ってうなずいた。
二人でひんやりしている土牢の表の頑丈な木の扉を開け、進むと、そこには佐為の君が壁にもたれて、いるのが見えた。肝心のヒカルの姿は見えない。
「?。和谷。ヒカルの君がいないけど・・。」
「佐為の君の手の所・・よーく見て。」
和谷の指示通り、伊角は角度を変えて、暗い土牢を覗き込んだ。
佐為の手元には小さな縞猫が抱かれている。
「え?!」
伊角は思わず、大きな声を出した。和谷が
「わー、伊角さん。バカっ!」
と、あわてて伊角の口を手で押さえたが、遅かった。佐為が力無くゆっくりと伊角の方を見る。その目はうつろで生気がない。
「・・・伊角ですか・・。」
佐為は、そう言うと、また目をうつろに戻した。伊角は意を決して、その信じられない光景の理由を聞いた。しかしその問いには佐為は答えず、和谷が答えた。
「伊角さんが出てった3日前の昼頃かな。オレが、ヒカルの君を見に行ったらさ・・。」
伊角が3日前に人間界に2度目の偵察に出かけたあと、ヒカルの身に異変が起こった。佐為からアキラの人間界での嘘の様子を教えられた次の日だった。
差し入れに和谷が訪れると、ヒカルは顔色が悪かった。和谷を目にすると、少し笑って土牢の隅から柵に近づいた。ヒカルは和谷に差し入れの礼を言おうとした。すると、口から出たのは、
「にゃー。」
という猫の声だった。
猫の国の者は人間界に行くと人型を保てなくて猫の姿になる。その時こそ「にゃーにゃー」としか発せられなくなるのだが、猫の国では決してそのようなことがない。
和谷も、ヒカルも愕然とした。ヒカルには特にショックだったようで、差し入れのお菓子も手をつけずに、土牢の奥で小さく声を出しては泣いていたらしい。
もちろんその異常事態は佐為にすぐに伝えられた。
「言葉が出ないですって?」
佐為は青ざめた。言葉を話せなくなる・・それは猫の国では非常にまずい状態であった。まさにそれは死にも値するような。猫の国の中では何らかの要因で消滅してしまう事がある。死んだ場合はすぐに転生できるとされているが、消滅は転生できないとされていた。ヒカルの状態は消滅への歩み。きわめて危険だと言えた。
佐為は、土牢に駆けつけたが、ヒカルは佐為を拒んだ。佐為が無理矢理土牢からだそうとしてもヒカルはなぜか抵抗した。
「あれほど外に出たがっていたではありませんか。」
佐為がヒカルを抱きかかえて、土牢からだそうとしてもヒカルは腕に噛みついたり、必死の抵抗をした。
「もう、オレなんか消えちゃったっていいんだ。」
ヒカルの見すえた目は、そう言っているようだった。ヒカルは土牢で消滅するまで待つつもりなのかと、佐為は愕然とした。
「・・・ヒカルの君がこのような事態になってしまった事が、他の王子達の耳にはいるのはまずい。和谷、この事は内密に・・。私がなんとかしますから。」
佐為は、自分がヒカルをなんとしても消滅から救おうと決心した。そして、ヒカルを消滅に向かわせている「絶望」を取り除くために、それからずっと土牢の中でヒカルと向き合った。
「ヒカル。昨日の・・人間の事は嘘ですよ。あの人間はヒカルがいなくなって寂しい思いをしているのですよ。」
佐為は、ヒカルを引き戻すために、本当のアキラの様子を教えたが、ヒカルは信じなかった。佐為がその場限りの取り繕いのために言っているのだと思った。
ヒカルは、膝を抱えて、ずっとうつむいていた。
次にはっと気がつくと、ヒカルは佐為に抱きしめられていた。よく見れば、自分は声だけでなく、姿まで猫の形になっていた。消滅が近い証拠だった。
『もし・・消滅したら・・この心だけでも塔矢の元に飛んでいけるだろうか・・。』
ヒカルはそんなことを考えながら、もうだるくて重い体を佐為の腕にあずけるしかなかった。
佐為はヒカルに生きる希望を思い出させようと、いろいろと楽しかったヒカルとの思い出やヒカルが興味を持ちそうなことをひっきりなしに話していた。ヒカルの意識がとぎれるのを恐れているのだろう。
「ヒカル・・ヒカル・・。」
佐為は時々しくしくと泣いて、ヒカルの体を抱きしめた。
「どうしてこんなことに・・。どうして・・。」
佐為の涙がヒカルの背中の毛を濡らした。でもそんなことも、もうちっともヒカルの心には響かなかった。うつろで、目を開けているのさえ重い。
「私じゃ駄目なのですか?ヒカル。15年間育ててきた私より・・5日間過ごしただけの人間の方がいいのですか?ヒカル。ああ、どうして人間界になど行ったのでしょう・・。こんな事なら人間界に行ける木の洞の話など、しなければ良かった・・。」
ヒカルは佐為の言葉を遠くに聞きながら、頭の中でぼんやりと
「・・オレ、人間界に行って良かったと思ってる・・・。こんな事になっても・・塔矢に出会えただけで・・オレ・・人生の幸せの全部を使い切っちゃったんだ・・。塔矢といると全身があったかい気持ちに包まれて幸せにまどろむ・・。あの幸せを味わえただけで、オレは・・ここで消えても構わない・・。」
と、考えていた。
猫の姿になってから、ヒカルは、塔矢が自分の唇に唇を寄せたあの時のことを、何度も繰り返して夢に見ていた。
口と口を合わせるなんて事は、ヒカルは「眠っている人を起こすための」行動だと思っていた。昔話ではいつもそうだ。しかし、アキラは眠ってもいないヒカルに唇を寄せた。
『眠っている時に寄せないと本当は駄目なんだ。だって、起きていたら、その暖かさを・・感触をめいっぱい感じてしまうもの・・。塔矢はどうして、オレにあんな事を?』
唇を離した時のアキラの瞳が忘れられない。うっとりとしながらも、ヒカルを射抜くあの瞳。触れ合った唇から、ヒカルはアキラがより深くヒカルの心の中に入り込んだのに気づいていた。二人の意識が溶け合うような・・そんな快感をあの時感じていた。
ヒカルの中で、わけのわからない気持ちが爆発した。心の中で狂ったように「塔矢が好き!」という思いがめちゃくちゃに暴れている。なぜ、唇を触れただけでそんな事になったのかわからなかった。そして、心の奥底で、「もっと・・もっと触れて!」という気持ちが鎌首をあげる。しかし、そんなことも言えるはずもない。
アキラは困った顔をしていた。ヒカルはどうコントロールしていいのかわからず、涙があふれるばかりだった。
『でも・・塔矢は泣いてしまったオレを嫌ったわけじゃない。だって、あの後、連れ戻しに来た佐為と戦ってくれたもの・・。』
ヒカルは、佐為に碁で勝負を挑んだアキラを無謀だと思いながらも、本当はアキラが自分のためにいつも以上の実力を発揮して、佐為から正々堂々と自分を手に入れてくれることを望んでいた。そうすれば、誰にも文句を言われずにずっとアキラと一緒にいられる・・。
『オレは卑怯だ。だからこんなバチが当たったんだ。塔矢にばっかり頼って、塔矢に甘えっぱなしだったんだ。ずっと温室育ちで自分で何も決めなくても人生が回っていた。でも塔矢に出会って初めて自分で人生は決めたいって思ったんだ。でも結局自分でなんにも変えようとなんかしなかった。こんなんじゃ赤い輪だって無理だ。佐為の言うとおり・・。』
ヒカルは少し目を開けた。首をもたげるのもふるふると震え、自分がいかに弱っているかがわかった。
自分を抱く佐為は眠っているようだった。いつも綺麗にしている几帳面な佐為が、髪もほつれ毛が多く、やつれきっている。
『ごめん・・。佐為。』
ヒカルは、心の中でつぶやいた。
和谷の話を聞いた伊角は、自分がいなかった間に起こったただならぬ事態に目を見開いた。
「どうして、人間界に知らせに来てくれなかったんだ。和谷!」
「だって・・オレだってヒカルの君のことが心配で・・ここを離れたくなかったし・・他の者に伊角さんを呼んでもらおうにも、ヒカルの君のことは下の者には内緒だし・・。」
伊角は、下唇を噛んで、意を決したように土牢の扉をかがんでくぐった。
そして佐為の前に言って、片膝を着いて座り、こう言った。
「佐為の君、このままではヒカルの君は・・。我々ができることはただ一つではありませんか。どうか、ご決断を・・。ヒカルの君のために・・。」