ねこ猫ヒカル
【11話 赤い輪】


 塔矢家ではもうすぐ夕飯時だった。
 台所での妻の刻む音を、食堂のテーブルに腰掛けて聞きながら、塔矢父は夕刊に目を通していた。
 時間はもうすぐ7時。いつもはもっと早い塔矢家の夕食もこのところ遅くなりがちだった。
「アキラは・・また今日も遅いな・・。」
 父は新聞から目を離さないでつぶやくように言った。母は、箸を並べながら、
「アキラさん・・ヒカルちゃんをずっと探し歩いてるのよ・・。最初にあった場所で・・呼んでるらしいわ。きっとその辺りが猫の国と繋がってるんじゃないかって・・。」
「・・・朝、碁を私を打つ時も、窓の外ばかり気にしている。・・別のことを考えていてもいい碁を打つのは、我が息子ながらあっぱれだと思うが・・。」
 父は、新聞を畳んで、テーブルに置いた。母が、すぐさまその置いた新聞に目を向ける。
「あなた!もうお夕食なんですから、新聞はテーブルに置かないでくださいな。」
 にっこり笑っているが、声にはすごみがあった。父は黙って、新聞をテーブルからどけた。
「アキラが帰ってこないとな・・。」
「そうね。お夕飯にしようにも・・。」
 部屋の中に廊下に駆けてある柱時計のボーンボーンという古くさい音が響く。
「ネコがいないと・・ほんと静かだな・・我が家は・・。」
「ほんと。時計の音がうるさいくらいね。」
 父と母もまた、ヒカルがいなくなったことをがっかりしていた。
 アキラは「猫の国へヒカルは連れ戻された。」とだけ言って、詳しいことは教えてくれなかった。ただ、ヒカルの「塔矢!」という叫ぶ声を聞きつけて、父と母が駆けつけた時、窓が開いていて、風に乗って香のような香りがした。猫の国の者の残り香だろうか。
 そして、アキラが負けたという碁盤を見た時、父は愕然とした。アキラは、名人である自分に定先の腕前だ。そのアキラがこてんぱんに負けているその碁盤の様子を息をのんで見た。不謹慎にも「碁バカ」の父は、この相手になった猫の国の者と打ってみたいと正直少し胸が躍っていた。ヒカルが帰ってこれば、その碁の強い猫の国の者と打つことも可能かもしれない。そんなことも思った。実に、純粋にヒカルがいなくなってへこんでいるアキラに対して、申し訳ない不謹慎な考えだが・・・。
 まぁ、それ以上にヒカルがいたことで静かな我が家に彩りができたのはもちろんだった。母はヒカルをそれこそ「ネコっかわいがり」だったし、毎日うきうきしていたものだ。アキラは実に子供らしくない子供だったので、子供らしいヒカルが新鮮でしょうがないらしかった。しかし、その楽しみも夢のように5日で終わってしまった。母はもう毎日ヒカルの好きな魚のメニューにしなくてもいいのに、いなくなってからも魚料理を作り続けた。
「だって、いつ帰ってくるかわからないじゃないの。」
 こういう時、女の強さという物を実感する。アキラもその母の言葉を聞いて、少し希望を持つことができたようだった。


「ただいま・・・。」
 アキラがようやく帰ってきた。母は、急いで玄関に顔を出す。
「アキラさん、おかえりなさい。さ、すぐにご飯にしますよ。着替えていらっしゃい。」
 母の笑顔に、アキラは疲れた様子で薄く微笑む。
「すみません。遅くなりました。」
「いいのよ。さ、お父さんもお待ちかねよ。」
 アキラは階段を上がって自分の部屋に着替えに行った。
 アキラの部屋は、綺麗に片づいている。しかし、部屋の隅にはヒカル用の布団が片づけずにそのまま畳んで置いてあった。
 アキラはその積まれた布団をちらりと見て、ふうとため息をつく。
 ヒカルがいなくなってから・・アキラの中では時が止まったようだった。なるべくヒカルのいた時のままにしておきたかった。でも、このままずっと戻ってこなかったら、思い出を思いおこさせる「ヒカルがいた時の状態」というのは生き地獄な気もした。
 学校帰りに、ヒカルを拾った公園のそばをうろつく。迎えに行こうにも猫の国がどこかさえわからない。誰に聞いてもわからない。アキラは捜したところで見つからないと思いつつも、学校が終わると足は出会った公園に向いているのだった。
「・・・進藤・・。」
 小さく独り言のようにヒカルの名を呼ぶ。しかし、そこで
「なに?塔矢ぁ。」
とすり寄ってくるヒカルはいない。いないと言うことの悲しみ。
 アキラの発したヒカルを呼ぶ声は、小さな氷の剣になって、アキラの心をチクチクと苦しめた。
    ガタガタッ
 窓が揺れる音がして、アキラははっとなる。古い家なので、風が強いと窓ががたつくのはいつものことなのに、ヒカルがいなくなってからというもの、外からの音に敏感になっている。
「ふ・・風だ・・。ボクはいつも何から何まで進藤のことに結びつけて・・期待して・・。」
 アキラは自嘲気味に笑った。脱いだ制服をハンガーにかける。
   ガタガタッ
 もう一度音がした。アキラはじっと窓の方を見た。・・・おかしい、今日はそんなに風が強かったろうか。
 疑問に思う心が、「まさか!」とドキッとするよりも早く、アキラは勢いよく障子を開けていた。
 そこには、あの見慣れた男。
「・・・猫の・・国の・・確か・・佐為?!」
 ヒカルを連れ戻しに来たあの男だ。佐為は、ヒカルを連れ去りに来た時と同じように、挑むようなきつい目でアキラを射抜く。しかし、その顔色は少し青白く、それがより表情をきつく見せていた。
 アキラは、窓の鍵をはずして、開けた。佐為はすーっと浮かんでいるかのように部屋の中に入ってきた。続いて、2人の男も入ってくる。初めて見る男達だが、黒に少しだけ白が入った耳と、焦げ茶のトラ柄の耳がついていたので、アキラはすぐにあの時猫の姿でやってきてヒカルに抱かれていたおつきの者だと気づく。今日は人型をとっていて、佐為と同じような着物とフウセンカズラのような袴を着ていた。
「・・・人間よ・・。確か塔矢・・といいましたね。」
 佐為は威圧的に見下して、アキラに問いかけた。アキラは、こくんとうなづく。
「今日はなんですか?!言っておきますが、進藤は戻ってきていませんよ・・。それとも、ボクに進藤を帰してくれる気にでもなったんですか?」
 アキラは、渾身の嫌味をこめてそう言った。しかし、その言葉に佐為は悲しそうに微笑んだ。予想外の反応にアキラは、面食らった。
「塔矢よ・・。誰にも、もうどうにもできないことを・・あなたはどうにかできるでしょうか・・。万が一の望みにかけて、私たちはあなたの所に来たのです。」
 佐為の言葉は殊勝なものだった。しかし、目は以前きつい光を帯びたままだ。アキラを信じていない目。アキラを敵としてみている目だった。
「・・どういうことですか?」
 後ろに控えていたおつきの二人が、二人で持っていた籠をアキラの前にさしだした。その籠はちょうど赤ちゃんを入れるような柔らかい籐のようなもので編んだゆりかごだった。アキラは、その籠の中を覗いて、思わず声を上げた。
「し、進藤?!」
 それは拾った時のような猫の姿のヒカルだった。しかし、アキラの声を聞いてもぴくりともしない。
「・・眠っているのか?」
 アキラは、触れようと近づいた。すると、佐為が、とっさにアキラの手をつかんだ。
「佐為の君!」
 黒い耳の方が叫ぶ。佐為は、苦しそうに顔を歪ませて、アキラの腕を制した手を小刻みに震えさせ、そして離した。
『この男・・佐為は・・ボクに進藤を触れさせたくないんだ・・。なら、なぜ、自ら連れてきた?』
「もうこの者に託すしかないのですよ・・。佐為の君・・。我々ではもう何ともならないのですから・・。」
 黒い耳の男は、そっと籠により、ヒカルにかけてあった薄手の毛布をそっとはずした。
「あなたは・・。」
 アキラは、その男は自分に友好的な気がして、名を聞いた。
「伊角ともうします。ヒカルの君の第一近衛の隊長です。さぁ、どうぞ。塔矢さん。ヒカルの君を抱いてさしあげてください。ヒカルの君は弱り切って、もういつ消えるともわからぬ状態なのです。」
 伊角は、アキラに深々と頭を下げた。その顔には悲しみがにじんでいた。アキラはただならぬ感じを悟り、佐為を見た。佐為も悲しげに瞳を伏せている。
 ヒカルは、じっと眠っている。しかし息が少し荒い。まるで病気のようだった。アキラは、ごくっと息を飲み込んだ。
 かざす手のひら。とまどいながら、ヒカルの体の下に手のひらを回り込ませ、持ち上げる。ヒカルは自分の体も支えられぬように、だらんと手足を伸ばしていた。
「し・・進藤・・・。」
 あの元気いっぱいなヒカルの面影もない。アキラは腕の中でヒカルを仰向けにして、赤ん坊を抱くように抱きしめた。
「進藤!進藤!」
 名を呼ぶが反応がない。
「・・・あなたでも・・駄目ですか・・。私たちのかいかぶりでしたね。」
 佐為の言葉に、アキラは睨み返した。
「あなたは・・進藤を連れ帰った・・。それは、こんな仕打ちをするためですか。進藤に何をしたんです。こんな・・数日で、こんなに弱るなんて・・・。」
 アキラの怒りのこもった言葉に、佐為はぐっと黙った。アキラはヒカルに目を移す。猫のヒカルの頬には涙のあとだろうか、少し湿っているようできらきらした。アキラは、口づけをして泣かせた時のことを思い出した。
 愛らしいヒカル・・・甘えるヒカル・・いたずらをするヒカル・・囲碁に負けて怒るヒカル・・ふくれるヒカル・・そして泣くヒカル・・次々にアキラの中でヒカルの顔が思い出される。
「進藤・・・。」
 アキラは、そっとヒカルの毛を撫でて、頬の涙の跡に唇を寄せた。涙の冷たい感触とさらさらの毛の感触・・。アキラのおかっぱの髪がさらりと前に流れて、ヒカルとアキラの顔を隠した。
「進藤・・。進藤・・。」
 ヒカルに聞こえるだけの小さな小さな声でアキラはつぶやく。そうして、唇を鼻の下の猫ヒゲの生えているぷにぷにした辺りに這わせる。ヒカルの寝息がアキラの鼻をくすぐる。
 そうしてアキラは、そのままヒカルの小さく開いた苦しげな口に唇を当てた。
      ぽんっ
 急に腕の中に重みがかかる。
「進藤!」
 ヒカルは猫の姿から人間の姿に戻った。
「ヒカルの君!!」
「ヒカル!」
 猫の国の者達も驚きの声を上げた。伊角が手に持っていた薄手の毛布をとっさに裸のヒカルに掛ける。
 アキラの腕の中で、ヒカルはゆっくりと目を開けた。
「と・・とう・・や・・。」
 たどたどしく、しかし、猫の鳴き声でなく、ヒカルはアキラの名前を呼んだ。
「オレ・・もう・・消えちゃったの・・・かな・・。心だけ・・塔矢の・・ところへ・・飛べたのかな・・。」
 ヒカルは、薄く微笑んで、塔矢をじいっと見ながら言った。
「消えてなんかいない。君は・・今、ボクの腕の中にいるんだ・・。」
 塔矢が、ヒカルの手を握り、そして、自分の頬にその手を当てた。ヒカルの冷たい手がアキラの体温で暖まっていく。
「ね?進藤。ボクはここにいるだろう?」
 ヒカルはアキラの頬に持っていった手で、アキラの顔を確認するように触った。
「ほんとだ・・。ほんとなの?」
「本当だよ。」
「佐為は?・・・佐為が連れてきてくれたの?」
 ヒカルは、体に力が入らず、顔を少しだけ動かして周りを確認する。目に入った佐為は、ポロポロと人目をはばからずに涙をこぼしていた。
「ああ、佐為が君をボクの所に連れてきてくれた・・。」
 アキラは、優しくそう言った。ヒカルは、佐為に目を向けたまま、
「佐為・・。ありがとう・・。」
と、礼を言った。それを聞いて、佐為はますます涙をこぼす。
「ああ、奇跡です。・・・こんな事が・・こんな事が人間の手によって起こるなんて・・。」
 佐為は、うっうっと嗚咽した。和谷が佐為に手ぬぐいをさしだして、
「佐為の君。もう『人間』なんて呼ばないでさ。ヒカルの君の命の恩人なんっすよ。『塔矢様』って呼ばないと。」
と、にかっと笑っていった。 
「そうですね。じゃあ、塔矢。」
「『様』はないっすか?!」
 和谷のつっこみに、佐為涙をぬぐいながら、
「人間に『様』なんてつけられますか。・・しかし、私に名前を呼ばさせるなど、あっぱれな人間です。」
 佐為は、そういうと、きちんと座って三つ指をつき、アキラに深々と頭を下げた。
「ありがとう・・ありがとう、塔矢。ヒカルを救ってくれて・・。」
 そして、佐為は頭を上げてヒカルを見て、
「あっ。」
と、声を上げた。
「赤い輪が!」
 伊角と和谷が、同時にヒカルを見る。
「赤い輪?」
 アキラもなんのことかわからずに腕の中のヒカルを見た。ヒカルの首の辺りで何かきらきらと赤く光っている。光は次第に集まり、ヒカルの首に首輪のような赤い輪がかかって、ふわふわと浮いていた。
「赤い輪だ!伝説の!」
 和谷が興奮気味に言った。
 幻想的に輪は太さを変えながらくるくると回っている。まるで宇宙の銀河のようだった。どんどんヒカルの顔色が良くなり、体にも力が戻ってくる。
「オレ・・オレ・・なんだか・・元気になったみたい・・。」
 ヒカルは、アキラの腕に頼らなくても、自分の力で体を支えられるようになった。ヒカルが普通の状態に戻っていくと、赤い輪はまた光が拡散し、霞のように消えていった。
「赤い輪が・・現れた・・。それほどまでにあなた達は強い結びつきを持っているのですね・・。」
 佐為は、ヒカルの元に近寄った。
「ヒカル、あなたはいい人間と巡り会いましたね。赤い輪を手に入れるとは・・。この先、あなた達に幾多の困難が襲おうとも、二人で超えていきなさい。赤い輪を手に入れたとはいえ、まだあなた方の赤い輪は歴史が浅く、先程見たように不確かなものです。これから、もっと確かなものにしていきなさい。」
 佐為は、優しく笑って、ヒカルに諭すように言った。ヒカルも、にっこりといつも通りの元気な笑顔で笑い返す。
「あったりまえさ。オレと塔矢ならできるよ、きっと。」



--  一旦 END  --

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--web版・第一部完--
                                                      

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