ねこ猫ヒカル
第2部
【1話 お願い】
塔矢アキラは忙しかった。
高段者との手合いが増えてきて、出張も増えた。泊まりの仕事の時もあり、帰りが遅くなる日も多かった。仕事がない日は学校だし、なかなかヒカルと一緒にいてやれる時間がなかった。
ヒカルは寂しいに違いなかったが、そんな態度はアキラの前で見せなかった。アキラが帰ると、ヒカルは、いつも玄関まで走ってきて出迎えた。
「おかえり!塔矢!」
「ただいま。」
ここのところ、アキラの帰りが遅いので、ヒカルは先に一人でお風呂に入る事が多くなっていた。
「もう、風呂の入り方わかったから平気だよ!」
そういうヒカルにアキラは、本当は寂しい気持ちを隠しているのに、そんな事を言っているのではないのかと思ったりもした。でも実際一緒に風呂に入れなくて寂しいのはアキラの方で、静かに湯船に使っているとなんだかいたたまれなくて、自然と風呂の時間が短くなっていった。
「もう出たの?早いね。塔矢。」
「うん。一人だと落ち着かなくて・・。」
「・・前は一人で入ってたでしょ?」
「そうだけど。」
アキラは困ったように笑った。
「キミこそ、ちゃんと洗えてるのか?一緒に入ってた時、一度自分で洗うと言って洗った事があったけど、全然ちゃんと洗えてなかったじゃないか。」
「塔矢こそ、そんなに早く上がって、大丈夫なの?オレはちゃんと・・塔矢に言われたように百数えて湯船に入ってるし、ちゃんと耳の後ろだって洗ってるもん。」
ほら、見てみろよというように、ヒカルはアキラの方に猫耳を傾ける。アキラはそっと猫耳の生え際を覗き込んだ。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「うん。確かに。」
「オレ、一人で髪洗うとさ・・耳に水が入ったりして大変。でもようやくコツつかんできたんだ。」
ヒカルは自慢げに笑った。
「へぇ・・。」
アキラはなんだか複雑な思いで、ヒカルを見た。洗い髪もすっかり乾いている。ヒカルが人間の世界にも慣れ、一人でなんでもできるようになってくれば、アキラも世話を焼く事が少なくなる。そう思うと、心の中に風がすり抜ける。
「もう少し待っていてくれれば、一緒に入るのに・・。今日は何時に入ったの?」
「8時半。」
「随分早いね。一緒に入っていた頃は9時半とかだったろ?」
「うん・・ま、ね。」
ヒカルはもごもごと言いよどんだ。
本当のところ、アキラが遅いから先にヒカル一人で入るというのは口実で、この頃ヒカルは自分の裸をアキラに見られるのが恥ずかしくなってきていて、それでわざと頑張って自分一人で入っているのだ。アキラと入りたいかといえば、本当は一緒に入りたい。その方が楽しいし、幸せな気分になれた。でも自分の裸を見られるのが妙に恥ずかしい。それに、アキラの服を脱ぐ仕草や、ヒカルに触れる指先にもドキドキしっぱなしになってしまう。
『意識しすぎだ。オレ・・。塔矢と・・恋してるってわかったって言っても・・。恋してるからって今までと変わりないはずなのに。』
実際アキラはお互いに気持ちを確かめ合って、誰よりも好きだと・・これは恋だとわかってからも変わりはない。なのに自分ばかりが、初めての『恋』にとまどうばかりで、それがまたヒカルは恥ずかしかった。
『塔矢は・・ドキドキしてないみたいに見えるけど・・本当はドキドキしてるのかな?オレのどういうところ見てドキドキするんだろう・・。』
そう思うと、ますます鼓動が早くなり、どうしていいのかわからなくなる。もっと一緒にくっついていたいのに、くっつくと恥ずかしくて離れてしまう・・そんな矛盾だらけの気持ちの中で、ヒカルは手探りで進んでいた。そんな事をずっと考えていると、アキラのいない時間もすぐに過ぎてしまっていた。
「あ。」
アキラの洗いたての髪からぽたりと水滴が畳に落ちる。あわてて、アキラは首にかけていたタオルでぬぐった。
「あわてて出てきたから・・。ちゃんと髪が拭けてないみたいだな。進藤の事、言えないな。これじゃあ。」
「ほんとだよ!」
アキラがタオルで髪を拭いていると、ヒカルは寝ころんでじっと本の続きを読み出した。
ヒカルは、アキラのいない時間、部屋で本を読んでいる事が多くなった。
2階のアキラの部屋の3つ隣の部屋は書庫になっていて、詰め碁集や難しい碁の論文系の書物はもちろん、アキラの子供の頃の本から、母の趣味の本まで幅広く並んでいる。しかし、乱雑にはならず、きちんと種類別に分けられ、整頓されていた。ヒカルは、その部屋から本を持ってきていろいろ読んでいるようだった。
お気に入りは絵のたくさんあるアキラの子供の頃の本だったが、碁が好きなヒカルは詰め碁集を見たり、棋譜を並べたりしている事もしばしばだった。
「何を読んでいるの?」
「『魔法のランプ』・・・ねぇ、塔矢。魔法のランプって本当にあるの?」
ヒカルは、ランプがあやしい煙を出しているシーンの絵を開いてアキラに見せる。
「さぁ・・。今はないかもしれないね。昔々はあったかも。」
「3つのお願いきいてもらえるとしたら・・塔矢だったら何を頼む?」
「お願い?」
アキラの脳裏にとっさに浮かぶ願い。それはヒカルの笑顔だった。
『もっと一緒にいて・・もっと笑わせて・・もっと進藤を幸せにしたい。ボクに気をつかって寂しさを見せない進藤・・。寂しくても猫に戻らなくなったのは・・進藤が強くなったせい?』
アキラは、そう思ったが口には出さなかった。代わりにヒカルの手に手を重ねてぎゅっと握った。
「進藤のお願いは何?そういえば、以前ボクに囲碁で勝ったらお願い事をするって言ってたね。」
アキラは急にヒカルが来たばかりの頃を思い出した。
『あの後・・初めて進藤にキスしたんだよな・・。結局進藤のお願い事はわからないまま・・。』
アキラはほんの数ヶ月前の事なのに懐かしく思った。あの時はまだお互いの心は通じ合っていなかった。でも一緒にいる事は今よりはできた。
今はあの時よりも上手にヒカルを大事にできると思う。でもそれを実行する時間がない。ヒカルが喜ぶような事をしてやりたかった。ヒカルはいつも家か母についてスーパーや商店街に出掛けるくらいの行動範囲しかない。アキラはもっとヒカルが驚きそうな遊園地とか海とかそういうところにも連れて行ってやりたいと思った。
「あの時の・・碁に勝ったらするっていうお願いは・・もう叶ったからいいんだ。」
そう言ってヒカルはごろっとあお向けになる。そして、アキラをじっと見ながら、
「塔矢と・・ずっと一緒にいたいって・・いう願いは、もう叶ってるもん。今。」
と言ってはにかんで笑った。頬にほんのり薔薇色が差している。
「進藤・・。」
アキラはヒカルに覆い被さるように、ヒカルの顔の両側に手をついた。
「キスして・・いい?」
このところ、急に抱きついたりキスしたりすると、びっくりして突き飛ばす癖がついてしまったヒカルに、アキラはこうしていつも確認する。
「いいよ。」
ヒカルが承諾の言葉を終わらせるか終わらせないかのうちに、アキラはそっと唇を重ねた。
唇を離すと、ヒカルは笑いながら、
「えへへ。久しぶり・・かも・・。」
と言って、アキラの首の後ろに腕を回して、キュッと引き寄せた。そして、ヒカルの方からぺろりと舌を出してアキラの唇を舐める。
「し、進藤・・。」
アキラは目を見開いた。
「キミ・・今日のおやつは羊羹だっただろ・・。」
「へ?」
「キミの口・・小豆と栗の味がする・・。さっき、ボクが風呂から上がってきた時、座布団の下に隠したの・・まさか・・。」
そこまで言ってアキラはハッとする。そしてあわてて座布団をあげる。そこには半分つぶれた羊羹が転がっていた。
「進藤!」
「うわぁ。つぶれちゃった・・。もったいねー。」
「あれほど、夜遅くに甘い物を食べちゃいけないって言ってるのに!」
「もー。座布団に塔矢が座るからいけないんだ!」
「あーあ、座布団にも畳にも羊羹が付いて・・。お母さんに叱られるぞ!」
「お母さんは叱らないもん!」
ぎゃあぎゃあと二人で騒ぎながら、にぎやかに初夏の夜は過ぎていくのだった。