ねこ猫ヒカル
第2部

【3話 切りとった時間】

「ヒカルちゃん、じっとして。」
 塔矢家の母はそう言って、椅子に座るヒカルの後ろに回った。
「あらあら。しっぽの毛も大変。」
 母はブラシを軽くしっぽに当てる。ヒカルは敏感で弱いしっぽにブラシが当たるのをヒヤヒヤしながら座っていた。
「お母さん、そっとね。そっとしてね。」
「はいはい。」
 母は細心の注意を払って、ブラシを浮かせ気味に毛の流れに沿って滑らせた。
 季節は初夏。ネコは毛抜けの時期である。冬毛から夏毛に変わるので、全部の毛が入れ替わっているのではという勢いで抜けはじめる。油断すると塔矢家の廊下や階段がネコの毛だらけになるので、母も人ごとではない。ただでさえ広い家で掃除が大変なのに、ヒカルの落とす毛のせいで、倍の回数掃除機を動かさなければならないのだ。
「どれくらいまで、毛が抜けているの?」
 母は細い柔らかなヒカルの毛をブラシからはがしながら聞いた。
「うーんと・・どうかなぁ・・。7月までくらいかな?でも、今が一番抜けるけど、あとは少なくなるよ。もうだいぶ抜けたしね。」
 ヒカルは、解放されたしっぽをうにゃうにゃと揺らせた。毛が抜けて少し軽くなった。
「あとは頭かなぁ・・・。頭は毛が多いから・・もうしばらく抜けるかも。」
「そう。今日はアキラさんが帰ってくるのを待ってお風呂に一緒に入ったら?アキラさんにとことんシャンプーしてもらって抜ける毛をとっちゃいなさい。」
 それを聞いて、ヒカルはびくっとする。
「うーん。塔矢・・今日早いかなぁ・・。」
 ヒカルはなんとか良い言い訳を考えて、自分一人で入る理由をつけようと思った。もちろん、ここのところ、一人で風呂に入りたがるヒカルの変化に気づいていない母ではない。
「どうしてこの頃アキラさんとお風呂に入らないの?前は一緒じゃなきゃいやだって言ってたのに。」
 母は、もう一度ヒカルの猫耳の後ろにブラシをかけ始めながら言った。ヒカルは、本当の理由を悟られないように、もごもごと、
「・・だって、普通はお風呂って一人で入るんでしょ?オレだって一人では入れるもん。最初はさ・・一人で入った事なかったから・・塔矢と一緒に入ってたけど。」
「あら、ヒカルちゃん。うちでそんな事気にしなくて良いのよ。普通がどうだって、別に関係ないじゃないの。アキラさんも最近一人で入るのが寂しいみたいだし。」
「うん・・・。」
「それに、ヒカルちゃん、本当はアキラさんとたくさん時間を過ごしたいんでしょ?今朝も随分玄関でもめてたみたいだし。」
 ヒカルは、今朝の事を思い出して、しゅんとなった。
「そうだけど・・。塔矢はオレの事嫌いなのかな・・。あんなに来ちゃダメって言うなんて・・。」
「まぁ。そんな事ないでしょ?アキラさん、あんなにヒカルちゃんの事大事にしているじゃないの。それにアキラさんはお仕事だったからよ。ヒカルちゃん。」
「違うよ。塔矢はオレほどオレと一緒にいたくないのかな?ってこと。」
「なら、ヒカルちゃんもここのところ、アキラさんと避けているでしょ?アキラさん気にしてたようよ。」
 母は、話しながらも、手を休める事はない。できるだけヒカルの冬毛をとってしまおうと耳の付け根や細かいところを丹念にブラッシングする。
「・・・だから仕事場に行きたかったのに・・。」
「どういうこと?」
「遠くから見てるのなら平気なんだもん。仕事してる塔矢ならオレが見てるだけですむし、思う存分じっと見ていられると思ったのに・・。近くにいると・・なんかどうしていいのかわかんなくなっちゃうんだ・・。」
「どうしていいのかわからない??」
 ヒカルの不可解な言葉に母は手を止める。そして、不思議そうにヒカルの顔を覗き込んだ。ヒカルは眉間にしわを寄せて困ったような顔をしている。
「塔矢にじっと見られると・・オレ、落ち着かなくて・・。でも自分はじっと見ていたいし・・。」
「・・・。」
「だから目が合わないようにじっと見るようにしたいんだけど、結構難しくて・・・。塔矢、勘がいいからさ、オレがじっと見てるとすぐに気づいちゃうの。そうすると目があってオレ、気まずくなる。」
「あらあら。ヒカルちゃんはアキラの事が好きなのねぇ。」
 くすくすと笑いながら母は言った。ヒカルは、その言葉にかぁっと赤くなる。
「す、好きじゃいけない?」
「いけなくないわよ。きっとアキラさんが聞いたらすごく喜ぶわ。ヒカルちゃん。思ってる事をアキラさんにちゃんと言った方がいいわ。あの子、ちょっとそういうところ鈍感だからヒカルちゃんがいろいろ考えて行動してるって事わかってないかも。ほんと、かわいいわね。ヒカルちゃんは。お母さんがいい物あげる。」
 そう言って母は奥の部屋からなにやら持ってきた。
「何これ?」
 ヒカルは母の持ってきた分厚い本のようなものと、ついたてのような物を覗き込んだ。
「猫の国にはないかしら。写真よ。こっちは写真立て。」
「しゃ・・しん?」
「見ればわかるわ。ほら。
 母が表紙をめくると、中には塔矢アキラがいっぱいだった。
「塔矢だ!」
 ヒカルは驚きの声を上げてアルバムを自分の方へ引き寄せて凝視する。そこにはいろいろな格好でいろいろなところにいるアキラの姿がいくつもいくつも並んでいる。ページをめくってもめくってもアキラだらけだった。
「塔矢がいっぱいいる・・・。あ、ちっちゃい塔矢もいる!これ、塔矢だよね。」
「そうよ。これは小学生の頃かしら。5年くらい前。」
「へぇー。なんでこんなに塔矢が閉じこめてあるの?魔法?」
「写真っていうものは、その時間を切り取れるものなのよ。今度ヒカルちゃんもとってあげる。アキラと。」
「え?!オレも閉じこめられるの?」
 ヒカルは複雑な思いがした。時間を切り取られて閉じこめられる気持ちなんて想像できなかったが、こうしてアキラと一緒に閉じこめられるのは嬉しいと思った。
「これだったら、アキラさんがいない時でもアキラさんを眺めていられるでしょ?ヒカルちゃん、どのアキラさんが好き?」
「えっと・・。」
 ヒカルは目を走らせる。ある写真に目がとまった。それは真剣な顔で碁盤に向かうアキラの勇姿だった。
「これ。この塔矢、かっこいい。」
「ああ、新初段シリーズの時の・・。」
 母はその写真を丁寧にゆっくり台紙からはがす。そして、写真立てから今まで入っていた写真を抜いて、アキラの写真を入れ、ヒカルに手渡した。
「これで、いつもアキラさんを見られるわよ。ヒカルちゃん。」
 木枠の中にアキラのきりっとした顔が良く映える。ヒカルは写真のアキラにみとれた。そしてものすごく嬉しくなって写真立てを抱きしめた。
「ありがとう!お母さん!」


 ヒカルはそれから自分が行くところ行くところ写真を持って歩いた。
「ヒカルちゃん、ご飯よ。」
「はぁい。」
 もちろん昼食の時間にも写真立てを持参する。ウキウキと食堂に向かうと、食堂からは父でも母でもない声が聞こえた。
 ヒカルはあわてて髪の間に隠して、しっぽを腰に巻き付けてシャツで隠した。アキラから家族以外の人間には注意しろと口すっぱく言われていた。
『誰??』
 ヒカルはおそるおそる食堂を覗き込む。するとそこには見た事のある人物がいた。その人物はすぐにヒカルの事に気づいた。
「やぁ、進藤君・・だったかな?」
 白いスーツのあの男。以前ヒカルをからかって猫耳やしっぽを引っぱって、ヒカルを困らせたあの男「緒方」である。なぜか、この男はたびたび塔矢家にやってきていた。そして、アキラはヒカルに
「緒方さんには特に近寄っちゃいけない。絶対だ。またしっぽをつかまれて気絶させられたらどうするんだ。」
と怒りながら注意された事を思い出す。
 ヒカルは何も言わずに、後ずさりした。
「ヒカルちゃん、緒方さんも今日は一緒にお昼ご飯を食べる事になったの。緒方さんはヒカルちゃんの事ネコだって知ってるから平気よ?」
 母がお茶を入れながら優しくそう言ったが、あのヘビのような目で笑っている男の隣に座るのはなんだか危険な気がした。実際本当にヘビだったらネコパンチでいたぶれるのだが・・。
「オ、オレ、ご飯はあとで食べる・・。」
 ヒカルはそう言って食堂をでて、急いで2階へ戻ろうとした。するとがしっと後ろから腕をつかまれる。いつの間にか緒方がそこにいた。
「さ、一緒に食べればいいだろ?遠慮してるのか?オレがいるから。」
 そう言って、緒方はヒカルの腕を引く。
「は、離せよ!」
 ヒカルは取り返そうと渾身の力を込めるが緒方はびくともしなかった。それどころか、緒方はひょいっとヒカルを肩に担ぎ上げる。
「うわぁ!!」
 ヒカルは緒方の手によって、食堂に引き戻され、一緒に食事をする事になったのだった。

      

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