ねこ猫ヒカル
第2部

【5話 外の塔矢】

 塔矢アキラは一人棋院の控え室でお茶を飲んでいた。アキラは対局途中の昼食はいつも食べない。周りの人は皆、店屋物などを食べていた。
『今日は早く終われそうだし・・指導碁や余分な仕事も入っていない。なるべく早く家に帰ろう。』
 アキラは朝、棋院に来てからずっとヒカルのことを考えていた。
 アキラはここのところ忙しくしていて帰りが遅く、土日も仕事に行っていた。それでもヒカルは何も言わなかった。以前は寂しさからネコに戻ってしまったりしていたが、最近はそれもない。ヒカルは強くなったのだと思っていた。
 でもそれは違ったと今朝感じた。ヒカルが突然言いだしたわがまま。ヒカルの押さえている寂しい気持ちがピークに来ている証拠だろう。
 実はアキラは、ヒカルが職場についていきたいというほどに「寂しい」と感じていることがわかって正直嬉しかった。いつも寂しいと感じているのは自分だけなのではという不安をアキラは心の奥底に押し込めていた。
 家では前のように抱きついたり、頬を舐めたりなんてしてくれなくなったヒカル・・。お互いにお互いを大事に思い、その思いは特別な物だと気づいた二人。気づいた瞬間、お互いのその気持ちを確認し会った瞬間、アキラは天にも昇るような気持ちだった。
 でも「恋」をしているという自覚は、反面、以前よりもアキラに寂しさを与え続けた。一緒にいたいのにいられないジレンマ、もっと触れたいのに衝動的に抱きしめようとすれば困った顔をして拒否するヒカル・・大事にしたいと願うのに大事にできない自分のふがいなさ。一緒にいる時間が少なければ少ないほど募る寂しさだけならまだしも、一緒にいて離れた時のせつなさは何ともいえなかった。
 自分だけがこんな思いを抱えているのかと思うこともあった。夜、安らかに寝息を立てているヒカルの横で、アキラは何度も眠れずにヒカルのことをぼんやりと眺めていた。ヒカルは無防備に安らかな寝息を立てながら、瞳を閉じて、少しだけ唇が開き、そして、手は布団の上に投げ出されている。
 本当はその手を繋いで唇を重ね、侵入し、ヒカルの奥底まで触れたいと思っている自分を月明かりが醜く照らす。ヒカルのことが好きになれば好きになるほど・・その気持ちが宝石のように輝いて宝物のように大事にしたい物になればなるほど、気持ちの美しさとは裏腹にどろどろとしたものが湧き出てくる。
 かわいいヒカルを一人占めしたい想い・・誰にも触れさせたくない想い・・そして誰よりもヒカルのことを知りたい気持ち・・人が「嫉妬」とか「欲望」とか呼ぶ魔物がアキラの心を蝕んでいく。
 ヒカルも同じように自分のことを欲しているかどうかは疑問だった。「好きだよ。一番大事だよ。」と言ってくれたヒカルではあるが、アキラと同じような自分の心を焼き焦がす欲求があるとは思えない。純真で子供っぽいヒカルにそんな気持ちが隠されていると想像する方が無理がある。
 以前、お互いの気持ちが通じ合った日、首筋や背中にキスを落とした時のヒカルの艶っぽい声や表情が忘れられない。もっと知らないヒカルを引き出したいとアキラは思った。
『でも、進藤はあれ以来、ボクのことをさけている。本当はいやだった?ボクはもっともっと進藤の事を知りたいのに・・。』
 ヒカルがアキラの仕事場に行きたいと言いだしたのは、ヒカルがもっと自分の事を知りたくなってきたのだと、うぬぼれてもいいのだろうか。これは前進なのだろうか。アキラは帰ったらヒカルに直接聞いてみようと思った。早く帰れば一緒に風呂も入れる。風呂で聞けば、ヒカルは逃げ場がなく、答えるしかないだろう。
『もしかしたら、これがきっかけで進藤とも一歩進むことができるかもしれない。』
 アキラは期待に胸が躍った。早く手合いを終わらせて帰りたかった。
 時計を見ると、午後の手合いの開始5分前だった。アキラは、ぐっと拳を握りしめ、対局場へ向かった。


「静かにしないとダメだぞ。」
 緒方は小声でヒカルに言った。部屋の中からはぴりぴりとした雰囲気が流れてくる。そっと覗くと、中にはたくさんの人がそれぞれに碁盤を挟んで碁を打っていた。
「うわ・・。」
 こんなにたくさんの人が集まっているのを見てヒカルは息をのむ。その中でひときわ目を引く輝く人物がいる。
「塔矢・・。」
 ヒカルの目にはアキラだけがぽうっと光っているように見えた。だからたくさん人がいてもすぐにアキラの居場所を見つける。
『他の人は全然光ってないし、格好良くない・・みんな同じに見えるのに・・塔矢だけは全然違う。スゲーかっこいい。』
 ヒカルはぽーっと見とれた。家に置いてきたが今日お母さんにもらった写真と同じようにきりっとした表情で碁盤に向かうアキラ。凛々しくて厳しい目で碁盤を見つめ、石を打つたびにサラサラと髪が動く。静の中の動・・アキラは冷静で涼やかな顔なのに、その後ろには戦いに挑む炎が見える。家でヒカルと碁を打つときでもあんな様子はない。
『かっこいい・・塔矢・・。』
 ヒカルはいっぺんにアキラに対する「好き」という気持ちが熱くなるのを感じた。ウズウズするほどアキラのことが好きで好きでたまらない。やっぱり来て良かったとヒカルは思った。
『写真の塔矢もかっこいいけど、やっぱり生の塔矢はもっとかっこいい。ずっと塔矢を見ていたいけど・・なんだかすごく抱きつきたい。でも今抱きついたら叱られるし・・早く対局終わらないかな?』
 ヒカルは緒方の袖を引っぱった。
「ん?もういいのか?」
「うん。終わるまで待ってる。」
 ヒカルはドキドキしている胸を緒方に悟られないようにうつむきがちに部屋をあとにした。

      

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