ねこ猫ヒカル
第2部
【6話 大切だからこそ】
「負けました・・。」
アキラの相手が投了して、ようやく仕事から解放された。アキラはさっさと石を片づけて早く帰宅したい一心だった。
手合いの部屋から一歩外に出ると、なにやら廊下の一角が騒がしい。ふと目をやると、そこには女性の棋士を中心に人垣ができていた。
「かわいいわねぇ。」
「キミ、院生?」
「ここで何してるの?」
アキラはなんだろうとは思いつつも、自分には関係ない事だ、早く帰らなきゃとエレベーターへ急いだ。エレベーターが到着してドアが開くと、そこには見慣れた人物が乗っている。
「緒方さん、こんにちは。あ、ボク帰るので・・失礼します。」
そういって入れ替わりに乗り込もうとするアキラの肩を、緒方はぐっと引き戻す。
「?!」
せっかく待っていたエレベーターが音もなく閉まって行ってしまう。アキラは緒方を軽く睨んだ。
「なんですか?何か用でも?」
「アキラ君、一人で帰っちゃまずいだろ。」
緒方の意味不明な言葉にアキラは眉をひそめる。
「待ってただろ?キミのことを・・。」
「え?誰がですか?」
「進藤君だよ。」
「え?」
緒方の口から発せられる思いもかけない言葉にアキラは驚く。途端、さっき廊下で人だかりができていたことを思い出した。
「おい、アキラ君。」
アキラは、血相を変えて対局室の方へ駆け戻る。そして、人垣ができている一角に急ぐ。さっきよりももっと人が多くなっていた。
「オレは、塔矢を待ってるの!ねぇ、塔矢まだ?」
「塔矢君ならさっき終わってたよ。」
「それより、キミ囲碁は打つの?お姉さんが教えてあげよっか。」
間違いない。この人垣の中心にはヒカルがいる。アキラはあわてて人を押しのけて中に入り込もうとする。
「すみません。通してください。」
アキラの声にヒカルはいち早く反応する。かけていた長いすから立ちあがる。
「塔矢の声がした!」
周りを囲んでいた女性陣や人垣に誘われてきた野次馬が邪魔で、アキラがどこにいるのかがわからない。ヒカルは、きょろきょろとアキラの光を見つけようと見回した。
「塔矢ぁ!」
ヒカルがアキラの名を呼ぶと、人と人の間からにゅっと腕が伸びてくる。その腕は素早くヒカルを掴んで引き寄せた。
「わっ。」
ヒカルを掴んだ手は、そのままぐいぐいと無理矢理に人でできた壁の中をすり抜ける。ようやく人から抜け出ることができて、ヒカルは掴んでいた手が塔矢だったとわかった。
「塔矢!」
ヒカルは嬉しかったが、アキラはヒカルの方など見ないで、ひたすらに走る。ヒカルは耳を隠すための帽子が落ちそうになるのを必死に空いている方の手で押さえながら走った。どんどん周りの人の数が減っていき、金属のドアを開け、普段あまり使われていない階段へ逃げ込む。はぁはぁと息をつく間もなく、アキラは冷たく固い壁にヒカルの背中を押しつけた。
「キミは!なんでここに!!」
アキラの声がグワングワンと人気のない非常階段で響く。ヒカルは怖い顔のアキラに驚いた。
「塔矢・・怒ってるの?」
「来ちゃいけないって言っただろ?まさか一人で来た訳じゃないだろうし・・一体誰と・・。」
そこまで言って、アキラの脳裏に、ヒカルに関して一番近づいて欲しくない人物の顔がよぎる。アキラの顔から血の気が引く。
「ま・・まさか・・。」
アキラの真剣な顔が非常階段の暗い照明も手伝って、ヒカルにアキラがちっとも喜んでいないことを知らせる。ヒカルは泣きそうな気分になった。
「緒方さんか?!緒方さんに連れてきてもらったのか?!キミは!」
アキラは怒りにまかせて、ヒカルの肩を掴み、ぐらぐらと揺さぶった。ひんやりと壁がヒカルの心までを冷やす。ヒカルは絞り出すように、
「でも・・緒方さんっていう人・・そんなに怖くなかったんだもん・・。」
と、つぶやいた。実際、車の中でもヒカルを楽しませようといろいろ話をしてくれて、正直すっかりうち解けてやってきたのだ。ヒカルにはこれほどアキラが怒る理由がわからなかった。
アキラは、
「キミはあんな事をされたのに、緒方さんを怖くなかっただって?!本当は何かされたんじゃないのか?!キミは自分がどれだけ危険なのか、ちっともわかっていない!」
と、怒鳴った。アキラの手の中で震えるヒカルの肩を、緒方に脅されて怖がって震えているのではと思った。
「なんにもされてないよ。お父さんとお母さんと緒方さんとでお昼ご飯を食べて・・その後棋院に連れてきてくれたの・・。赤いタガメのくる・・まだっけ?に乗せてくれて・・。」
ヒカルは、必死にアキラにわかってもらおうとした。誤解が解ければきっとアキラは自分が来た事を喜んでくれるはずだとまだ信じていた。
「車に乗ったって?・・・キミは・・ボクの言ったことを聞いてなかったのか・・?あれほど近づくなと言ったのに!・・帰ったらお父さんやお母さんにもきつく言っておかなくては・・・。キミにあの人を近づけさせないように。」
「どうして塔矢は緒方さんに近づいちゃいけないって言うの?そりゃあ、最初はいじわるされたけど、今日はとっても優しかったよ。きっと最初はオレがネコだったから驚いてからかっただけだよ・・。」
「キミは緒方さんの肩を持つのか?!」
アキラはカッとなった。
「あんな事をされて・・。緒方さんには、もう君の弱点がしっぽだって事もばれてるんだ。ぎゅっと握られて気絶させられてどうにかされたらどうするんだ!ボクがこんなに心配しているのに、キミは・・キミは・・。」
アキラは、おびえたようなヒカルの顔を見てたまらなくなった。自分がヒカルをすごくすごく大事に思っていて、人の恋人を奪う事もあるという危険な緒方から守りたいと思っている自分の気持ちが空回りしている気がした。
アキラは言葉にならない思いを抱えて、いたたまれなくなり、ヒカルのことを突然ぎゅっと抱きしめる。
「と・・や?」
ヒカルは怒りに歪んだアキラの顔が、一瞬悲しみに満ち、そして急に抱きしめられ、驚く反面アキラの心が流れ込んでくるような感じがして、胸がキュッとなる。アキラはただ怒っているわけではない。ヒカルはそう感じた。
「塔矢・・痛いよ・・・。」
ヒカルは今までないような力で抱きしめられて、そうつぶやいた。
「塔矢は・・心配性だね。オレ、本当に大丈夫だよ。怖い人か怖くない人かくらいわかるもん・・。」
ヒカルは、アキラの肩に顔をうずめながら言った。アキラの香りがヒカルの気持ちを落ちつかせる。久しぶりに感じる心地よさだった。この頃いつも触られると突き飛ばしてしまうのが嘘のように、ヒカルはアキラの暖かさを受け入れた。
非常階段の途中で、そんなアキラとヒカルをこっそりと見ている人物がいた。緒方だ。
すごい勢いでヒカルを連れて行くアキラを追ったものの、近寄ることができずに盗み聞きする形になった。いや、その方がおもしろそうだと判断したのは緒方自身だったのだが。
『ふ〜ん。普段冷静なアキラ君があんなに表情を崩すとはな・・。』
緒方はにやりと不敵な笑いを浮かべた。
『おもしろいな・・。』
緒方はそうっと足音を立てないように、抱き合う二人をちらりと見てから、その場をあとにした。