ねこ猫ヒカル
第2部
【8話 隠された気持ち】
家に帰ってからもアキラはむっとしたままだった。
よっぽど車内で緒方とヒカルが意気投合して、
「ほら、進藤君。ビルとビルの間にもうすぐ見えるから。」
「うわぁ、すごい綺麗!」
とか会話し、光るネオンやキラキラの街の灯りの海にヒカルが歓声を上げていたのが気に入らないらしい。緒方はヒカルを喜ばせるために、わざわざ遠回りして夜景の綺麗な場所を選んで通行していて、それもアキラの心に嫉妬の渦を渦巻かせた。
『さすがに、女の人を百人だましているだけある。緒方さんは喜ばせるツボを知り尽くしてる・・。』
アキラがどんなにヒカルを大事に思っても、十五歳の身では車に乗せてドライブなんかしてやれないし、普段仕事と学校で忙しくてどこかヒカルを喜ばせるために連れて行くということもできない。それにどこかに連れて出かけるにしても、自分は今まで人を喜ばせようと努力したことがないから、気の利いたことができないし、連れて行ってやりたいと思っても、外で他の人がヒカルの魅力に気づき、近づき話しかけるのを想像するだけで耐えられないと思うから家で二人っきりでいたいと最終的に結論づける。結局思考は堂々巡りだった。
ヒカルは夕ご飯を食べながら、むっつりとした表情のアキラの横顔をちらちらと見て、自分も悲しい気持ちになった。
『塔矢・・まだ怒ってんのかな・・。』
アキラは帰ってきてからちっとも口をきかない。ヒカルはどうしたらいいのかわからなくて、夕飯後もいつもならアキラと二階の部屋に上がるところだが、じっと食堂にとどまった。アキラは日課の学校の勉強をしに上に上がってしまった。
風呂の時間になった。アキラはヒカルと一緒に入ろうと言いに来ないでさっさと自分だけで入ってしまった。ヒカルはしょぼんと食堂のテーブルで、今朝母にもらったアキラの写真を眺めた。
『塔矢・・オレのこと誘わずに風呂に行っちゃった・・。・・オレも勝手だ。オレが塔矢と風呂に入りたくないって言ってたのに、塔矢が一人で入っちゃったら寂しいだなんて・・・。』
写真のアキラは厳しい顔をしている。視線は碁盤に注がれているけれど、ヒカルは自分を責めているようにも見えた。自分はアキラの本当の気持ちをわかっていないのかも知れない・・アキラの事が『大好きだ』と思っても、それだけじゃダメなのだ。でも、実際ヒカルはどうしたらいいのかわからない。
『前・・塔矢と遠くで泊まった時・・・あの時すっごく同じ気持ちになった気持ちがした・・すごく通じ合ってドキドキすることだって心地よかった。でも反面怖くなった。幸せすぎて・・。あの時オレが怖くなったりしなければ、こんな風に気持ちがわからなくなったりしなかったのかな?』
ヒカルは、ほんの何週間か前のことを何年も昔のことのように思えた。
『笑った顔見たい・・。塔矢・・この頃前みたいに笑ってくれてない・・。オレ、何かいけないのかな?最近の塔矢・・笑顔って言える顔になった時でも、どこか寂しそうな感じがする・・。』
アキラは一緒にいても嬉しくないのだろうかとちょっとヒカルは不安になる。
一緒にいれば寂しくないと思ってた。一緒にいればどんなに幸せか、どんな困難も幸せの前にはかたなしだと思っていた。でもそれはなんだか違うのかもしれないと、ヒカルは思い始めていた。
『一緒にいても・・寂しいことがある。その寂しいっていう気持ちは、一人でいる時の「寂しい」よりももっともっと寂しいんだ・・。』
ヒカルはアキラの写真を見ながら涙が出そうになった。
「あら、ヒカルちゃん、アキラと一緒にお風呂に行かなかったの?」
母が、たたんだ洗濯物を片づける途中で食堂のヒカルに気づいて足を止めた。
「うん・・。」
「そう。・・じゃあ、アキラさんが出たら、次入りなさいね。」
「そうする。」
ヒカルは母に気づかれないように写真立てで顔を隠しながらそう言った。多分目元には涙がたまっている。
じきに、アキラがお風呂からあがってきた。ヒカルはあわてて肩口で涙をぎゅっとぬぐって、アキラの写真を自分の席の椅子の座布団の下に隠した。ちょうど隠し終えた頃、アキラがばつ悪そうな顔で食堂に入ってくる。
「・・お風呂、あいたよ・・。」
アキラはヒカル目をあわそうとしなかった。ヒカルは黙ったまま、アキラの横をすり抜けた。すごく近いのに二人の間には冷たい風が抜けていく。
廊下を駆けていくヒカルの足音を聞きながら、アキラははぁとため息をついた。落ちつかない気持ちをもてあまして、冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップになみなみに注いでぐいっと一気に飲み干す。コップを持つ手に伝わる冷たさはアキラ心にしみいるようだった。
「アキラさん。」
母が食堂に入ってきた。
「お風呂でたのね。」
「・・・。」
「ヒカルちゃんは入りに行った?」
「ええ・・。」
「そう。アキラさん、そっちにお座りなさい。」
母はアキラにアキラの指席に座るように促した。アキラは「?」と思いながら、おとなしく座る。母はアキラの向かいの席に着いた。
「アキラさん、どうしてヒカルちゃんとお風呂に入らなかったの?一人で入ったりして・・。」
母は単刀直入に切り出した。アキラは、
「それは、進藤が・・ボクとは入りたくないと言うので・・。それにもう進藤は一人で入れますし、ボクが一緒に入る必要がありません。」
と、口では強く言うものの、視線はテーブルの上を落ちつきなくうろうろしている。
「ヒカルちゃん、今毛が抜ける時期なの。あなたが一緒に入って髪を洗ってあげないとなかなか完全に毛が生え替わらないのよ。」
「え?」
アキラは母の言葉にきょとんとなる。そういえば、ヒカルは猫だった。人間にはないが、猫には夏毛と冬毛が季節によって生え替わると本で読んだことがあった。
「アキラさん、気がつかなかった?このところ、私、毎朝ヒカルちゃんの髪をブラッシングして余分な毛をとっているのよ。廊下とかにたくさん毛が舞うから・・掃除が大変なの。」
「そうですか。」
「あなたが一番近くにいるんだから、なんでも気づいてあげないとダメよ。アキラさん。毛抜けの時期とかそういう事だけじゃなくて、ヒカルちゃんの本当の気持ちもね。・・ヒカルちゃんの席の座布団をよけてごらんなさい。」
アキラは言われるままにヒカルの座っていた席の座布団をあげてみる。そこには小さな額縁状のものが置いてある。
「?」
アキラは手に取ってみる。
「写真立て・・ボクの写真が・・。」
アキラは思いもかけないものがでてきて目を見開いた。
「今朝から、ヒカルちゃんの宝物よ。アキラさんの写真。さっきも見てたみたい。」
「進藤・・・。」
アキラはじんわりと気持ちがこみ上げてきた。自分の写真を見ているヒカルの姿を想像するとぎゅっと胸をわしづかみにされる。そしてヒカルの隠された気持ちを知ったようで甘い感情が湧き上がる。
「アキラさんも変な意地はらないで、ヒカルちゃんのこと、もっと見てあげて。見えない部分もね。どんなに仲良くても言わなきゃわからないこともあるのよ。」
アキラは、自分の浅はかさを知った。ヒカルが他の人と関わることを恐れたのは、好きだから嫉妬していたという単純なものではなく、本当は他人と自分を比べられる事・・アキラが他の人とはあきらかに違う「激しい思い」を抱いているということを気づかれるのを恐れていたのだ。アキラと触れ合う事よりも精神的な安息を「愛」をヒカルは求めているのに対して、アキラは精神的な安息をヒカルに触れることで得ようとしている。自分の欲求ばかりをヒカルに押しつけてもダメだとわかっていたつもりでも、本当は全然わかっていなかったとアキラは思った。
「なんだか目が覚めました。進藤のこと・・もっと大事にします。」
アキラは目を輝かせて、宣言した。母は
『アキラさんが元気になれば、ヒカルちゃんも元気になる。ヒカルちゃんはやっぱり笑ってる顔がかわいいもの。』
と、満足そうに微笑んだ。